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弘前読書人倶楽部

弘前読書人倶楽部のオフィシャルBlogです。
「イベント情報」などを発信します☆

伊勢熊野 稲荷も地蔵も 絹の道

2013年05月21日 | インポート
今朝は、6時の花火の音で、目が覚めた。6時半にも、どこか遠くで鳴っていた。何か、市内のどこかで、行事があったのであろう。
 我が弘前読書人倶楽部でも、今日、イベントが行なわれた。読書人倶楽部を開設したSさんのお友達の廣田さんによる講話を聴く会だ。廣田さんは、ヨット、山歩き、川柳等、実に趣味の広い方だ。その広い趣味の一つに、社寺仏閣巡りがある。実際に国内の著名な神社や、名刹を、ほうぼう訪れていらっしゃる。
 今回が、初めての来弘だったそうだ。弘前公園や八甲田山を堪能いただくという合間を縫って、岩木山神社や高照神社まで足を伸ばされたそうだ。お天気にも恵まれて、さぞや素晴らしい弘前の春を、ご体験いただけたと思う、
 さて、今日の話だが、「伊勢熊野 稲荷も地蔵も 絹の道」と題して行なわれた。日廣田さんによれば、日本の神社も、古くからの習俗も、地名も苗字も、ユダヤ人の」影響を」強く受けている、というものだった。実例を上げて、日本とヘブライ語、神道とユダヤ教の類似点を説明いただいた。僕らが、普段、何の気なしに使っている言葉にも、ユダヤの影が色濃く残されているということを、お話されていた。
 ユダヤと言えば、友人の高校教師F君の専門分野だ。F君にも、声をかけておけばよかった

講話のあとは、いつものお定まりの懇親会。講師を囲んで、和気あいあいの団欒の時を過ごした。20人も腰かければ満席という狭いスペースだが、今日も大勢の会員の方に、ご参加いただいた。
 来月は、当倶楽部の総会も行なわれる。総会の席でも、どなたかに講話をお願いしたいと考えている。終わった後は、勿論、宴会だ。
 講話が主か宴会が主かなのかは曖昧だが、できるだけたくさん、交流の機会を設けたいと考えている。
 次の機会には、このブログの読者の皆さまも、是非どうぞ。
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最近の読書人倶楽部

2013年05月10日 | インポート
 ようやく桜も満開になり、いくらか春らしい気候になり、ホットしています。
さて、最近の読書人倶楽部内ですが、弘前ペンクラブ、「太宰治まなびの家」の事務局のお手伝いをさせていただいている折、それぞれの会員様たちの出入りで賑わうようになり、それにつれ、会員も少しずつ増え喜ばしい限りです。
 明日は弘前市民劇場の会合も予定されていて、このようにいろんな分野の方々が利用して下さることは、とても喜ばしく、これを機に、交流の輪がどんどん拡がっていければいいなと思っています。本に囲まれて沢山の人達と語り合えるのは嬉しいことです。

 以前このブログにも書きましたが、最近このように飲みのもを片手に、語り合う図書館が増えつつあると新聞、ニュースなどで取り上げられています。
 この様な場所を提供して下さり、そして応援して下さる関周様、一生懸命に盛り上げようと努力している、代表の方たちの時代を先取りする目に、感謝と敬意を表したいと思います。
 そのオーナーである関様が16日から5日間、奥様、ご友人を伴って、久しぶりに来弘することになった。今からお目にかかれる日を指折り数えている私である。


神社 読書人倶楽部 ラーメン(三題噺のようなもの)

2013年05月03日 | インポート
5月19日、弘前読書人倶楽部で講話の会を開催する。時間は14時半から。会費は1000円。場所は弘前読書人倶楽部。
 講師は、読書人倶楽部に本を寄贈下さった関周さんのご友人の、廣田昌義さんだ。 廣田さんは、社寺仏閣巡りを趣味とされていて、伊勢神宮、熊野三社、橿原神社、長野善光寺、金剛峯寺等々、日本全国を参拝して廻られている。今回も「伊勢熊野 稲荷も地蔵も 絹の道」と題したお話をいただけることになった。
 このタイトルを読んで、何かお気づきにならないだろうか? そう、5・7(字余り)・5になっている。川柳も嗜まれているとのことだ。その他にも、丘歩き、ゴルフ、楽器いじりなど、多才な趣味をお持ちの方だ。
  関さんによれば。「歴史と宗教と民俗学を組み合わせた漫談調の講話」とのこと。何でも、この講話のために、新たに約20冊もの本を購入されたそうだ。一体どんなお話になるのか、今から興味津々だ。
 読書人倶楽部の会員には、おそらく今日明日には、案内の葉書が届くことと思う。会員以外で、このブログを読んで興味をもたれた方がいらっしゃれば、是非ご連絡いただきたい。大歓迎である。ついでに会員になっていただければ、さらに熱烈大歓迎だ。
 例によって、講話の後の懇親会も予定している。お飲み物と軽いおつまみ程度のものを用意してお待ちしている。 
 さて、ご案内のように、弘前読書人倶楽部では、先月、柳家小きん師匠をお招きして、会員との懇談会を行なった。その時の話や、弘前滞在中にみつけた美味しいお店の話などを、小きん師匠がご自身のブログに書いている。
 中に、ラーメンの話がよく出る。特に、高橋のラーメンがいたくお気に入りのようだ。僕も大好きなのだが、糖質制限を宣言している手前、もう何か月も食べていなかった。でも、師匠のブログを読んでいるうちに、無性に食べたくなって、とうとう今日、行ってしまった。僕が行った11時50分頃には既に4~5人ほどの席まちの行列が出来ていて、食べ終えて外に出る時刻(12時15分)には、その列は10人をゆうに超していた。すごい人気である。
 ラーメンを食べたりして、血糖は大丈夫か?って。大丈夫、大丈夫。今日の午前中、月に一度の大学病院での検診が終わったばかりだ。取り敢えず今日一日はたがをゆるめて、又、明日から、糖質制限に励めばいい・・・。
 こんな調子じゃ、いつまでたっても、血糖値はさがりそうもない。

弘前読書人倶楽部 二題

2013年04月09日 | インポート
 昨年7月に引き続き、柳家小きん師匠がまた読書人倶楽部にやって来る。昨年は大好評だった。参加した方々から、是非来年も呼んでくれというリクエストが、多数寄せられた。僕らが呼んだわけではなく、師匠の方から来て下さるという連絡をいただいたのだが、結果として皆様の声にお応えすることができる。有難いお話だ。
 4月20日(土)、午後4時から。会費2000円で、飲み放題喋り放題。読書人倶楽部の会員になってさえいただければ、どなたもご参加いただける。真打を囲んで、楽しい時間を過ごすことができればと思う。

 ところで、「読書人倶楽部」、皆さんはなんて読んでいらっしゃるだろう。「どくしょじん」? それとも「どくしょにん」?
 僕らは、「どくしょじんくらぶ」と、さして気にかけることもなく、読み続けていた。ところがある日、会員の一人から、「どくしょにん」なのではと、問題提起を受けた。「にん」の方が格式張らずに、柔らかい印象を与えるというのだ。
 さぁ、悩んだ悩んだ、考えた。いくつもの「〇〇人」を紙に書き出し、「じん」と「にん」とに分類した。運転しながらも、その分類の根拠を考え続けた。
 その結果、自分なりの答えは出た。
 例えば、「じん」。日本人、外国人、宇宙人、財界人、文化人、芸能人・・・。これらは、その人の所属や立ち位置を表している。「〇〇の人」「〇〇に身を置く人」といった感じだ。
 対して、「にん」。管理人、精算人、仕掛け人、行商人、通行人、相続人・・・。こちらの方は、行為や行動をする人という使われ方のように思う。上に記した「〇〇人」はすべて、「〇〇する人」と読みかえることが出来る。
 勿論、素人の僕が勝手に考え出したものでしかない。誰か正解を教えてはもらえないだろうか?
 だけど、僕の思いついた法則に従えば、読書人倶楽部は、読書をする人の倶楽部だから、「どくしょにんくらぶ」になってしまう。今さら「どくしょにん」だと言われても、もう2年間も「どくしょじん」と呼び続けてきている。うーん、困った。どうしたらいいだろう?

桜の花のように

2013年04月06日 | インポート
 今日は4月6日、小学校、中学校、高等学校、大学などと入学式も多かったに違いない。先月までは山のようにあった雪もすっかり解けてしまい、桜の話題も聞こえるようになった。
 まだ小さかった頃、弘前の観桜会に家族皆で来るのが恒例だった。天守閣の所にござを敷き、お料理を広げ、父たちはお酒を飲んでいた。その頃は家の弟子たちも6、7人おり、、当時の写真をみると結構な人数だったと思う。桜の花にはそれほど興味も無かったと思うが、バナナを食べ(その頃は高価だった)、お化け屋敷の前で入りたいけど怖いやらで迷ったり、あとは沢山の出店を回ってみるのも楽しみの一つだった。今思えばとても懐かしく、幸せな時代だったと思う。
 父が亡くなったのは昭和63年7月、あれから25年も経った。父は元気だった姿だけを私たちに残し、まるで桜の花のごとく、私たちの前からいなくなった。自分の趣味である旅行中に亡くなったのだ。その年の4月までは、両親とこどもたちを連れ、毎年夜桜を見物に来たものだ。その頃になると、ただ純粋に桜の花を見たくて、又見せたくて来たように思う。あれから、一人減り、又一人減り、そして、子供たちもそれぞれ家庭を持ち、遠くに離れて行ってしまった。私の周りはこんなに変化しているのに、桜だけは何も変わらず、毎年見事な花で私たちを楽しませてくれている。
 
 先日、高齢者を対象に、「自分の死に方」についての希望がテレビに入っていた。60パーセントぐらいの方は、自分が倒れたら、誰の為でもなく自分の為に、延命治療などをせずに静かに逝かせてほしいと願っていた。自分らしく生きてこそ輝くのであって、自由も無く、ただ寝たきりだけの生は望んでいないと。

 人は、桜のように綺麗に、豪華に、パット咲き、そして、パット散りたいと願っていると思う。人間散りぎわが肝心という。ほんの一瞬でも輝く事ができたら、それはそれで、幸せなのでは。

 桜の季節になるとそんなことを考えてしまう。やはり歳なのかな?