goo blog サービス終了のお知らせ 

弘前読書人倶楽部

弘前読書人倶楽部のオフィシャルBlogです。
「イベント情報」などを発信します☆

名歌・名句 と わたし   第123回     佐 藤 き む (サトウキン)

2025年07月04日 | 日記

元歌 夏の夜はまだよひながら明けぬるを雲のいづくに月やどるらむ 清原(きよはらの) 深養父(ふかやぶ) (『古今集・巻十七』)

もじり歌 初夏の夜はまだ宵(よい)のうちに明けました 懐かしい夢の宿る間もなく

 毎日暑い日が続いています。
 昔は6月は夏とは言っても、日本列島の大方の地域は合着(あいぎ)の季節です。私が幼かった頃、母と姉は6月1日の衣替えの日、箪笥の入れ替えが終わると袷(あわせ)からセルの単衣に替えて6月中は感触の爽やかな毛織物のセルが普段着でした。今はセルの和服など見かけることもなくなりましたが、洋服の合服も着る機会が少なくなりました。ここ数年、春秋の季節がなくて冬から直ぐ夏という感じです。季節が「四季」ではなくて「二季」になったのだとか。
 今年は特に雪が消えた途端に寒さが去って爽やかなもので、もともと夜型の私は、ついつい夜更かしをして、気が付いたら外が明るくなっていたということもありました。私が独り暮らしをするようになって23年、昼の居眠りをなしにして夜は早く寝ろと言う人も居ないのを幸いと、全くでたらめな生活リズムの毎日です。深夜何をしているかというと、生産的な仕事はゼロ。ほとんどがパズルと「読書もどき」です。
 なぜ「読書」ではなくて「読書もどき」なのかと言いますと、「読書」とはおこがましくて言えない幼稚な本ばかり読んでいるからです。例えば、最近読んだ(見た?)のは講談社の絵本の『桃太郎』(2001年発行の復刻版)です。「講談社の絵本」の創刊は1936年、『桃太郎』はその1冊目でした。絵は、当時一流の日本画家の齋藤五百枝。子供の時には全く気付かなかった、時代や装束の念入りな考証のもとでの繊細な描写に驚嘆しました。例えば、表紙は鬼が島に向かう船上の桃太郎の凛々しい姿が描かれていて、同じような場面のページもあるのですが、海上の風に吹かれている髪の毛一本々々のなびき方がそれぞれ違うのです。「読書もどき」も老人に新しい感動を与えてくれます。


名歌・名句 と わたし   第117回     佐 藤 き む 「サトウキン」

2025年04月23日 | 日記

元歌 金の卵とはやされて児ら巣立ちゆく過剰激励黙しききをり  川久保かね代

もじり歌 金の卵ともてはやされて巣立ちたる子らは何思う古稀を迎えて

 4月13日、「大阪・関西万博」が開幕されました。20年前の「愛知万博」のことなどすっかり忘れてしまって、私の頭に残っているのは、55年前の1970年、大阪府吹田市で開催された「日本万国博覧会」です。私は行けませんでしたが、アメリカ館の月の石やアポロ11号の実物模型などが人気を集めているテレビや新聞の報道を、おぼろげながら記憶しています。                                 当時、私は38歳、教職に就いて16年目、中学校3年生を担任していました。いったい、あの頃の教育現場はどんな状況だったのだろうと、『昭和萬葉集』の昭和45年の巻を開いてみました。そして、「仕事の歌」の「教師」の項目に見つけたのが、冒頭の元歌です。作者は師範学校を卒業後、小、中学校に勤務、この歌を詠まれた時は79歳でした。
 昭和の万博の1970年は、日米安保条約の期限満了の年にあたっていましたが、総額2,000億円以上という万博費用の金額と、「あと××日で万博」という数年前からの掛け声とに呑み込まれて、安保阻止も成田空港反対闘争も、一般の人々の関心は低調になっていました。けれども、高度成長の陰には、「金の卵」と言われた少年少女がその頃まだ大勢いたのです。
  1970(昭和45)年に中学校3年生だった人たちは、今年は古稀を迎えます。高度成長の社会を支えて、15歳の時からひたすら働いてきたかつての金の卵たちは、自分たちの労働力が土台にある今回の「大阪・関西万博」を、どうご覧になっているのでしょうか。私たち教師は、駅頭に金の卵を見送らずにすむようになって安堵したのですが、送られた側は、そんな単純なことではないはずです。かつての金の卵の方々の、物心共に豊かに過ごされますことを、心から祈ります。


名歌・名句 と わたし   第115回         佐 藤 き む (サトウキン)

2025年04月03日 | 日記

   俳句 仰向けに木の根を晒す春の山    森下 睦子  
                      (「陸奥新報」日々燦句 2025・3・31)
 もじり句 仰向けに老体晒す春の日々

 「どうぞ雪様お降りください」と、出入口のほかは雪の降るのに任せて、冬の間かまくら御殿で暮らした我が家にも、春が訪れました。
 雪囲いだけは頑丈にしてあるので、昼間も照明を点けっぱなしで毎年左程不自由なく冬を越しているのですが、ここ数年、書斎だけは暖房の排気口が雪に埋もれて使用不可能の状態が続いていて、私の冬の暮らしが他の季節と最も異なる状態になっていました。
 というと、私が現役時代と変わりなく書斎で真面目に仕事をしているように聞こえますが、とんでもない。私が書斎に滞在する時間の大部分は、長椅子に寝そべっている状態です。我が家で長椅子のあるのは、ここだけなのです。ここで寝転んで読書というのが、私の最も好きな時間なのですが、積雪の間はできませんでした。
 4月1日、暖房スイッチを入れてみました。懐かしいぬくもりが変わりなく、ほんわかと流れ出てきました。生きる力の年々衰えていくのを感じながらも、今年もまたここで本が読めると、春の喜びを実感しました。
 今春の読書始めは、NHK大河ドラマ『べらぼう』の原作『蔦屋』です。NHKのドラマは毎週見ているのですが、私の全く知らない世界が次から次へと展開されて驚いています。私の吉原についての知識は、高校生の時に読んだ『たけくらべ』程度で、吉原の近くに住んで生業を営んでいる人についても、遠回りせずに跳ね橋を渡って製品を届ける仕立て屋さんぐらいしか頭になかったのですが、今回のドラマで、吉原に寄生する人の数が莫大であることを知っただけでも、びっくりです。
 本はテレビと違って、自分の能力に合ったスピードで読めるので便利です。長椅子と本のおかげで、今年も楽しく生きていけそうです。


 名歌・名句 と わたし   第111回      佐 藤 き む (サトウキン)

2025年03月09日 | 日記

元歌 はつ雪にみんなの足のかたついてそれぞれサイズたくさんあるね 横田絢音   (第22回東奥少年少女文芸大会 小学校1~3年の部地位入賞 十和田市三本木小学校3年)

もじり歌 雪の朝みんなの足のかたついてゴム長わら靴いろいろあるね

 もじり歌の「足のかた」は、わたしの年代が子供だった頃の「足のかた」です。現在の「足のかた」は、みんな暖かい雪靴の足跡で、底に付いている滑り止めの模様とサイズがいろいろなだけですが、昔の冬の履物の種類は様々でした。わら靴も、子供たちが通学や雪遊びに履くのはゴム長と同じような形でしたが、浅い雪の所や土間を歩くのには、「くず」というスリッパを角型に大きくしたようなものを大人も子供も履いていました。そのほか、雪を踏み固めるのに、底を丈夫に編んだ俵2個を縄でつなぎ、両足をそれぞれの俵に入れて縄を引っ張り上げながら歩くという雪踏みもありましたし、子供にはさほど関係ありませんが、「雪下駄」というものもありました。
 というように、昔の雪用の履物には種類が多かったのですけれども、昔のゴム長の滑り止めの模様は、全部波型で厚さもあまりなかったうえに大抵の人は擦り減ってしまったのを履いていましたし、わら製品の履き物も、足跡を雪の上にくっきりとは残してくれませんでした。
 2月20日の「東奥日報」紙上に載っていた横田絢音さんの作品を読んで、昔の雪の朝のことを懐かしく思い出しました。昔は近所一帯に子供がたくさん居て、雪の降った朝は、雪掻きする親の手伝いをしながら、子供同士雪玉を投げ合ったりして楽しんだものでしたが、足跡の面白さにまで気の付いた人は、多分いなかったでしょう。今の子供たちに比べて勉強も遊びも雑だった私たちの世代ですが、手伝いの中でも年齢相応の雪掻きだけは真面目な子供が多かったなと、幼友達の誰彼の顔を思い浮かべています。


名歌・名句 と わたし 第85回 佐 藤 き む (サトウキン)

2024年04月02日 | 日記
 元歌 朝早く わき水のんで うまかった ばあちゃんのいる 弘前の夏
        五十嵐 悠木 
もじり歌 熱々の御飯にバッケ味噌うまかった 老いの朝餉も うららかな春

 元歌の作者は、千葉県習志野市の小学校4年生。お祖父様が弘前市出身なのですが、大学卒業後弘前には帰らずに首都圏で仕事をされて、それ以来、悠木さんのご家族はずっと千葉県にお住まいでした。 そのお祖父様が退職なさった10数年前、ご夫婦で弘前市に移住されて、たまたまご縁があって、私は悠木さんの「ばあちゃん」であるYさんとお付合いさせてもらうようになりました。
 Yさんは都会の中で生まれ育ったにもかかわらず弘前にすぐ馴染まれて、3年ほど前にご夫君が亡くなられた後も弘前で独り住まいをしておられます。ほとんど外出しない私にとって、社会情勢やテレビのお薦め番組など、いろいろ解説して私の脳力衰退速度をいくらかでもゆるめようと、月に一度は訪ねてきてくださるという貴重な方です。私の家までは徒歩20分ほどかかるのですが、移動の方法は、天候やスケジュールに合わせて、自家用車だったり、自転車だったり、徒歩だったり、時には気分にも合わせて自由自在、常に溌剌としてお元気です。
 悠木さんにとっても、夏休み弘前へ行くたびに、津軽平野をドライブしたり、岩木山麓をサイクリングしたり、近くの岩木川の川縁を早朝散歩したりしながら、大自然の空気と知識を満喫させてくれた「ばあちゃん」の思い出は、少年時代の心のアルバムに生涯あたたかく記録されるだろうと思います。
 私のもじり歌の「バッケ」は「蕗の薹」の津軽弁です。亡くなって半世紀近くになる姑が晩年裏の空き地に植えたのが、今も毎年ほんのわずかですが、春の味覚を楽しませてくれています。私の調理法はいたって簡単。刻んだバッケを油でいためて砂糖と味噌で味付けしただけのもの。自然の風味が豊かだと自己満足しています。