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弘前読書人倶楽部

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名歌・名句 と わたし   第126回       佐 藤 き む (サトウキン)

2025年09月04日 | 随筆

元句 月光や耳だけとなる琵琶法師  坂本 幽弦 (陸奥新報「日々燦句」2025・8・31)

もじり句 月光や目だけは今日もいきいきと

 琵琶法師というと、多くの人の頭に浮かぶのは、小泉八雲の『耳なし芳一』の物語だろうと思います。
  源平最後の戦いで、安徳天皇はじめ壇の浦の藻屑と消えた平家一門の供養のた めに建てられた寺に、芳一という盲人の琵琶法師がいた。
  ある夜、芳一は、高貴な屋敷へ連れていかれて、壇の浦合戦の曲を演奏させら れた。そこに居た群臣たちは涙を流して聞き入り、毎晩聞かせてほしいと依頼さ れる。芳一の毎晩出掛けるのを怪しんだ寺の人たちが後をつけると、芳一は、安 徳天皇の墓の前で雨に濡れながら琵琶をかきならしていて、周りには人魂(ひとだま)が浮い ていた。これは平家の亡霊に違いないと芳一を連れ帰り、全身に経文を書き込ん で「今夜迎えが来ても返事をしてはいけない」と芳一に言い聞かせた。
  その夜迎えにきた亡霊の目に映ったのは、芳一の耳だけだった。耳にだけ経文 が書かれていなかったのである。亡霊たちは、その耳を切り取って持ち帰った。
 芳一はその後も琵琶の修練に励み、耳なし芳一と呼ばれ琵琶の名人と崇(あが)められた。 実在の琵琶の奏者には、昔は目の見えない人が多かったそうで、「琵琶法師」という言葉が「琵琶を弾く盲人」を意味して使われてもいたようです。
 私はここ数年、心身のあらゆる機能が急速に低下していく状況を気にもせず、のんびりと暮らしているのですが、目だけは若い時とほとんど変わりなく働いてくれています。それは、中学生の時からお世話になっている近眼鏡に加えて、読み書き専用、遠近両用、パソコン用と、4種類の眼鏡のおかげです。
 視力が弱くなっても、耳が研ぎ澄まされて月の光を美しく伝えてくれるという坂本氏の俳句と、耳を失った後も、ますます精進して琵琶の名手となった耳なし芳一の物語を読んで、文明の利器に寄り掛かって安直に生きる我が身を振り返ってみたことでした。


名歌・名句 と わたし   第124回     佐 藤 き む (サトウキン)

2025年08月20日 | 随筆

 俳句 汗をふくなんと淋しい乳房かな    齋藤 修子


 初学のころ柱信子の〈ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき〉を知って途惑ったことがある。それに似た感じが掲句にある。あっけらかんとした詠み、生きている人間のつぶやきだ。(選者・敦賀恵子)    陸奥新報「日々燦句」2025・7・17

 もじり句 汗をふく行方不明の乳房かな

 何歳の時の高校同期会であったか忘れてしまいましたが、「私たちの今昔物語」というテーマでの川柳を作って福引きをしたことがありました。参会者に配付した昔の川柳の1番札は「青春の胸のふくらみお椀型」、景品のお椀に付いた今の川柳は「おっぱいもお役目済んでつらら型」でした。でも、その頃はつらら型であれ、胸は豊かに膨らんでいました。今はつららも融け果てて、胸のあたりのシャツは常にダブついています。
 選者の敦賀氏が引用されている
 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき のもじり句も作ってみました。
もじり句 ふところに乳房ある憂さ勤務中
     産休を終えて乳房のある憂い
  
 痛む乳房に耐えきれず、乳を搾って捨てようにも搾る場所もないというのが、現在の憲法下でも多くの職場で長い間続きました。女性が子育てをしながら男性に伍して働くということには、休暇や給付金のように明記されていること以外に、解決しなければならない問題がいろいろとあるように思います。


名歌・名句 と わたし   第124回     佐 藤 き む (サトウキン)

2025年07月30日 | 随筆

俳句 汗をふくなんと淋しい乳房かな    齋藤 修子
初学のころ柱信子の〈ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき〉を知って途惑ったことがある。それに似た感じが掲句にある。あっけらかんとした詠み、生きている人間のつぶやきだ。(選者・敦賀恵子)        陸奥新報「日々燦句」2025・7・17

もじり句 汗をふく行方不明の乳房かな

 何歳の時の高校同期会であったか忘れてしまいましたが、「私たちの今昔物語」というテーマでの川柳を作って福引きをしたことがありました。参会者に配付した昔の川柳の1番札は「青春の胸のふくらみお椀型」、景品のお椀に付いた今の川柳は「おっぱいもお役目済んでつらら型」でした。でも、その頃はつらら型であれ、胸は豊かに膨らんでいました。今はつららも融け果てて、胸のあたりのシャツは常にダブついています。
 選者の敦賀氏が引用されている
 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき のもじり句も作ってみました。
もじり句 ふところに乳房ある憂さ勤務中
     産休を終えて乳房のある憂い
  
 痛む乳房に耐えきれず、乳を搾って捨てようにも搾る場所もないというのが、現在の憲法下でも多くの職場で長い間続きました。女性が子育てをしながら男性に伍して働くということには、休暇や給付金のように明記されていること以外に、解決しなければならない問題がいろいろとあるように思います。


 名歌・名句 と わたし   122回       佐 藤 き む( サトウキン)

2025年06月18日 | 随筆

元歌 軍服を染めかへし君とそのままに装ふわれと教壇に立つ  千葉 修
                                      ( 『昭和萬葉集 巻九 昭和25年~26年』)
もじり歌 カーキ色を染めかえた友とそのままを装うわれとがブラウスを縫う

 元歌の作者千葉氏は1911年生まれだそうですから、この歌を作ったのは30代の終わりでした。朝鮮動乱の勃発したのが1950(昭和25)年6月25日、戦後5年を過ぎたその頃の日本は、敗戦の痛手から抜け出せず、衣食住すべてにわたって苦しい生活が続いていました。衣服の色彩も国防色と称したカーキ色がまだ蔓延していて、軍隊で終戦を迎えた男性たちには軍服をそのまま平常着にしている人も少なくありませんでした。
 私のもじり歌の「カーキ色」は、兵士たちのシャツを作る布地だった物です。戦時中、県内の青森市と弘前市の県立高等女学校が2校、陸軍被服廠の縫製工場の仕事を担当することとなり、3・4年生が全く授業なしで毎日軍隊のシャツとズボン下の縫製に従事することになりました。終戦の時、裁断して送られてきたままの生地が校内にどっさりあって、生徒たちに配分してくれたのです。我が家は、青森市の空襲で何もかも失っていましたので大助かりでした。もじり歌は、終戦後、弘前高女に転校して間もなく家庭科の授業でブラウスを作った時のことです。カーキ色のまま染めることさえしなかったのは、先祖が残してくれた小さな住宅に、東京から疎開してきた親戚と2世帯がひしめきあっての暮らしで、狭い台所で染物をするような状態ではおそらくなかったのでしょう。
 私は長生きをしたおかげで、空襲の夢からも、国防色の色彩からも、いつの頃からか解放されて穏やかな人生を過ごすことができました。元歌の最初に「軍服」という言葉が出てきますから、作者は30代半ばまで戦時中きっと軍隊でご苦労なさったのだろうと思います。『昭和萬葉集』をひもとくごとに痛感するのは、私にできることは、軍隊を必要としない地球の平和を祈ることのみだということです。


名歌・名句 と わたし   第121回       佐 藤 き む (サトウキン)

2025年06月12日 | 随筆

元歌 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山       持 統 天 皇
もじり歌 春過ぎて夏が来ました白妙の制服揺らす6月の風

 中学校に勤めていた頃、私は6月1日という日が大好きでした。
 なぜかと言うと、制服が冬服から夏服へと衣替えする日だったからです。冬服に替わる時と違って、校内が一斉に明るく輝いているように感じられました。退職後も、夏の衣替えの日の朝には、登校途中の中学生や高校生の夏服姿を見るのが毎年の楽しみでした。
 私が制服に対して特別の感慨を抱いているのは、少女時代の制服への強いあこがれが、心の底に今も変わらず蓄積されているのだろうと思います。私は、生涯、制服というものを着たことがないままに過ごしてしまいました。日本の社会は、ほとんどの中学校・高等学校が制服を着用するのが長年の風習でしたし、今は、保育園・幼稚園も制服があるようですし、制服のある職業も多いので、制服着用の経験がないという人は珍しいのではないかと思います。
 私が旧制の高等女学校に入学したのは1945(昭和20)年4月、敗戦4か月前のどん底の時代でした。新品の制服を着ている人は皆無。姉などのお下がりの伝統のセーラー服を着ている人もごく少数。大部分の人は、着物をほどいて作ったモンペと和服風の上着の、当時奨励した標準服スタイルでした。入学して間もなく、全国の女学校共通の制服が、1学級10人にも満たない数だったと思うのですが配給がありました。冬は紺、夏は白色のへちま襟で、冬服には白の替え襟が付いています。
私はくじ運に恵まれて半袖の夏服を手に入れたのですが、農作業のない日に2・3度着たきりで、洗濯したらちりちりに縮んでしまって着用不能になりました。
 今は、昔の記念写真などにしか見られない全国共通の制服ですが、写真に残っているのが冬服に限られているのは、多分全国の夏服が私のと同じ運命に会ったのでしょう。私の母校の弘前中央高校の現在の制服が制定されたのは、1950年、私たちの卒業の年で、新しい制服を着ることのできたのは、ほんの一部分の人でした