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弘前読書人倶楽部

弘前読書人倶楽部のオフィシャルBlogです。
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新寄贈書案内

2013年10月10日 | インポート
 本日会員Kさんより2冊の詩集の寄贈がありました。

①「子どもが育つ魔法の言葉」   ドロシー・ロー・ノルト作

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨(うらや)んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない

誉(ほ)めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば、

子どもは、この世はいいところだと思えるようになる


② 「お花だったら」     金子みすゞ童謡集より

もしもわたしがお花なら、
とてもいい子になれるだろ。

ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。

だけど、だれかがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐにおこってしぼむだろ。

もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。


 とても心に響く詩集で説明なんか必要ないですね。

このように余裕を持って子供を育てられていたら…… と反省している私ですが、孫には後悔の無い様、 優しくしてあげよう。


 

千客万来

2013年10月09日 | インポート
 平日(8日)というのに、弘前読書人?楽部は、大賑わいの一日であった。
 午後3時に、肢体不自由児者父母の会のMさんと、?楽部で待ち合わせをしていた。Mさんは親子でいらっしゃった。パソコンのことで聞きたいことがあるという。僕にパソコンのことを尋ねられても、生粋の江戸っ子が津軽弁のことを尋ねられたようなもので(例えが相応しいかどうかは疑問だが)、甚だ心もとない限りだ。でも、Mさん親子と椅子を並べて、一緒にパソコンのディスプレーを見ながら試行錯誤を繰り返し、、どうにか疑問点の解消までは到達できたようにも思う。
 その最中に、弘前文学学校のSさんがいらっしゃった。パソコンと格闘中だったので、ゆっくり応対ができなかったが、静かに本を読んでおられた。
 同級生のMさんも、久しぶりに訪ねて来てくれた。13日の僕のブックトークにも出席してくれるという。嬉しい反面、もの凄く照れくさい気もする。
 ペンクラブのTさんは、太宰治まなびの家のことでいらっしゃった。イベントのこと、解説マニュアルのことなどお話になった。Tさんが美味しそうにビールを飲むので、僕も、思わず、まだ明るいうちからワインを飲んでしまった。
 Tさんと学びの家のことで話をしていたら、太宰治まなびの家常勤解説員のM君もやってきた。M君もイベントの件等で相談に来たのだ。M君は車で来たので、僕らの酒席には加わらず、指示を仰ぐとすぐに帰って言った。
 県民カレッジ事務局のM君(今日はやたらイニシャルMの人が多い)と、常連のKさんも来た。彼らとは、もともと今日の夜、飲みに行く約束をしていたのだ。その時間を待ち切れなかったのか、?楽部を訪ねて来た。勿論、その後に、約束通り近くの居酒屋に行った。
 その間にも、電話が数件入り、こちらからも電話を入れた。ペンクラブのこと、太宰治まなびの家のこと、そして市政に関することなどである。七戸町のMさん(おっ、またMだ)から、寄贈して下さるという本も届いた。
 今日のように、読書人倶楽部にたくさんの人が来てくださると、本当に嬉しい。「読書人?楽部とは私設図書室のようなものだ」と、問われれば答えてはいるが、図書室機能もさることながら、むしろ、人が集う場所を創りたいという思いもあった。それが、徐々にではあるが、実現されていっているという手ごたえは、何にも増して大きな喜びである。
 喜び過ぎて、ついアルコールの量が上がってしまった。明後日はガン検診&糖尿の検査だというのに・・・。
 

ハイネ詩

2013年10月08日 | インポート
 「ローレライ」 

かなしみに胸ふたぐ
ゆえこそは知らねども
ただそぞろうかびくる
ふるき世のものがたり

夕されば風ひえて
ラインいま音もなし
しずむ陽に山のみね
くれないにかがやきて

見よ 岩にすわりたる
うるわしきこのおとめ
こんじきの飾り映え
こがねなす髪を梳く

金の櫛うごかしつ
かのおとめの歌うたう
うたごえのあやしくも
心ゆするそのしらべ

小舟やるふなびとは
聞きほれてなやましく
岩のうえをあおぐのみ
舟路をきわめえで

ああ 波にのまれなん
舟もそのふなびとも
げに 歌のちからもて
魔の岩(ローレライ)のなすわざぞ


《訳》
どうしてこんなに悲しいのか わたしはわけがわからない
遠いむかしの語りぐさ 胸からいつも離れない
風はつめたく暗くなり しずかに流れるライン河
しずむ夕陽にあかあかと 山のいただき照りはえて

かなたの岩にえもいえぬ きれいな乙女が腰おろし
金のかざりをかがやかせ 黄金の髪を梳いている
黄金の櫛で梳きながら 乙女は歌をくちずさむ
その旋律(メロディ)はすばらしい ふしぎな力をただよわす

小舟あやつる舟人は 心をたちまち乱されて
流れの暗礁(いわ)も目に入らず ただ上ばかり仰ぎみる
ついには舟も舟人も 波に呑まれてしまうだろう
それこそ妖しく歌うたう ローレライの魔のしわざ


 ローレライの “lore” は女名で水の妖精、“ley” はライン地方の方言で岩なので、「妖精の岩」 を意味し、「ローレライ」 の名を持つ、ドイツ西部のライン河中流ヒンゲンとコブレンツ間の右岸に切り立つ高さ120mの大きな岩があるあたりは、 ライン河の難所として知られ、たくさんの船乗りが命を落としたといわれています。
「ローレライ」 とは、その岩山をしめすと同時に、この岩の妖精、あるいはセイレーンの一種でもあり、ドイツの伝承に由来する、 多くの伝説群にしばしば結びつけられています。
後期ロマン派のクレメンス・フォン・ブレンターノ(1778-1824) の18番にも及ぶ詩「魔女のロレ・ライ」(Lore Lay die Zauberin)から生まれた、 昔、この岩の上に憩うひとりの美しい水の精が、いつも黄金の櫛で金髪をときながら不思議な歌を歌っていた。
ライン河を下って航行する舟人がその歌声に聞きほれ、舵を取るのも忘れ、岩に舟を打ちつけて淵に沈んでしまうという伝説には、 いくつかの形があり、多くの話に共通するものとしては、ローレライとは不実な恋人に絶望してライン河に身を投げた乙女であり、 水の精となった彼女の声は漁師を誘惑し、破滅へと導くというものです。
ローレライの伝説は、ハイネの詩により有名になりましたが、ヒットラー時代のドイツではハイネがユダヤ人だったために歌唱が禁止されていました。

 これが、かの有名なハイネの「ローレライ」です。あまり詳しくなかったので、少し勉強してみました。

 寄贈して下さった関様は、本当に幅広く本を愛しているんですね。

吾亦紅のおもい

2013年10月05日 | インポート
 
秋ゆえに美しき花よ吾亦紅  音譜のごとき花宿らせて  
 

  花は、自分が一番美しく見える季節を知っているかのようだ。吾亦紅の控えめな美しさは、秋という季節を選んだ。景色がモノトーンになってゆくなか、吾亦紅の深く落ち着いた色が、ときにハットするほど迫ってくる。音に敏感になる秋。花に向き合うときでさえ、色よりも、そのものが奏でようとしている音楽を、心は意識しているような気がする。  
   
    俵 万智  「花束のように抱かれてみたく」  より

 お店の花屋さんに吾亦紅が並ぶ季節になった。名前の由来はいろいろあるが、神様が赤い花を呼び集める時、この花を加えるのを忘れたので、花が自ら、「吾もまた紅なり」と申し出た言葉が短縮されたとする説が、私は一番好きである。

人間社会にも通じるように、「私はここにいるよ、私も一緒に仲間にいれて!」 と叫んでいるのが聞こえてきそうな気がする。

 

 

向上心

2013年10月04日 | インポート
 本日図書館に来た会員Fさんが、「卓球をやっているんですね、新聞見ましたよ」と声をかけてくれた。実は8月25日の試合結果が各部の優勝者の顔写真入りで新聞に出てしまったのだ。参加者100人位の比較的高齢者の小さな試合だ。まずは6人のブロックごとに分け、その中で、リーグ戦をやり1、2位は一部、3、4位は二部、5,6位は三部とし、そこから各部の決勝トーナメントをやり、私はその三部で優勝したのだ。そもそも、自身としては、三部になることが不本意だった。せめて二部でやりたかったので、それで優勝したからと言って、さして嬉しくは無かったのだ.(全く可愛くない) それでも、新聞を見た人達がけっこういたらしく、「優勝したんだね、すごいね!」と言われると、この人たちは何にもわかっていない、そんなすごいことではないんだよと思いながらも、やっぱり喜んでいる。(すごく矛盾している)

 9月28日は土曜日にもかかわらず、お休みをいただいて青森の大会にも出た。(そこは代表たちの優しさであろう、融通をきかせてくれる)その時は、二部で優勝した。そしたら、どうせなら一部で戦いたかったと、またまた、それ以上のことを望んでいる。(実に生意気だ)
 実際、楽な試合をするよりは、負けてもいいから、緊張した試合をした方が充実感がある。楽な試合だと動きも少なく、汗もかかない、スポーツをした気がしない。やはり、色々考え、相手に向かっていく試合は充実感がある。
 そのためには強くならなければ、さらに練習しなくては (かなり負けず嫌いだね)となる。これの繰り返しだ。

 何をするにしてもこの向上心が無くては、成功も無いのだ。私の場合、今は卓球が一番の楽しみであるが、若い頃、この情熱をもっと違う方面にも向けていたら、こんな幼稚な文章は書かなかっただろうになぁ……。

 「あまい、あまい、 それでもやっぱり、あなたは今のまんまだよ」と、思っている自分がここにいる。