【光の帝国】ルネ・マグリット(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
旅は進みました
足はほとんど着きました
あの存在の道の奇妙な分岐点
「永遠」という名の所に――
すると急に歩調が畏れを抱きはじめ
足はいやいや先に立ちました――
前方に街並みがありましたが
死者の森の中でした
後戻りは望めませんでしたし
うしろはもう鎖ざされた道
前には「永遠」の白い旗が――
そして神さまが一軒ごと扉の前にいらっしゃいました
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊)
エミリー・ディキンスンの詩には<死>を扱ったものがとても多いのですが、この詩は「死への旅立ち」を描いたもののようです。
わたしはキリスト教徒になる前、基本的に八百万の神――ありとあらゆるもの、万物に神さまは宿るといったように――信じていたのですが、それと同時に何故か「神さまがもし本当にいらっしゃるのなら、その方はただおひとりのはずだ」といったようにも信じていたと思います。
つまり、世に<神さま>と呼ばれる存在はたくさんいるのだけれども、それらの神をすべて束ねる、上なるただひとりにして唯一の<神>という存在がいるのではないかと、漠然と想像していました。
だから、そのような方がもし<神さま>で、地球を含めた宇宙全体を創造し、支配しておられるのならば、たとえば、地球以外にも知的生命体の存在する星というのがどこかにあって、そこにも今仮に70億くらい人口があるのだとしたら、それらひとりひとりのことにまで目をかけたり、困った時に手を差しのべたりすることはまずもって無理だろう……と思い、人生のある一時期、まったくの無神論だったことがあります(笑)
つまり、もし神が仮に宇宙の彼方とやらに存在しているにしても、人間に積極的に関わりを持たないのであれば、いてもいなくても関係なくね?という、何かそんなふうに感じていたというか(^^;)
でも、クリスチャンになって結構驚いたのは、「もし<神>というものが存在しうるとしたら、こういう形以外ありえない」ということだったかもしれません。また、わたしは小さい頃から割と自分なりの方法で祈る子だったのですが、それでもたぶん中学か高校生になるくらいの頃には――いくら祈ったとしても、六十億飛んで二十八番目とか、そのくらい長い行列のあとに自分が並んで、ようやく神さまか天使のような存在に願いを叶えてもらう……といったようなイメージに負けて、祈らなくなっていきました。
こうした無神論的な考えに陥っていて、祈ることもすっかりやめていた頃、わたしは死ぬとか自殺するといったことをずっと考えていましたし、精神的に同じ状態になった方というのはおそらく、同じように<死ぬ・自殺する>ということと平行して<神>ということを考える一時期が間違いなくあると思います。
まず、この苦しみや悩みには何か意味があるのか、価値があるのか、いつかずっと先の未来には乗り越えているものなのかどうか……わたしが死ぬことを考えていた時には、「この苦しみや悩みというのは、死ぬその瞬間までつきまとうものであり、それなら長く苦しむよりも今この悩みを終わらせたい。だから死のう」ということでした。
けれど、そういう暗い時期を越えてキリスト教徒になった時、キリスト教の教える<神という概念>には結構驚かされたと思います。
ええと、わたしはイエス・キリストを自分の主と信じているので、神さまというのは単なる概念上の存在ではないのですが、もしノンクリスチャンの方や無神論の方がいらしたとして、その場合は<キリスト教の教える神という概念>ということになるのかな、と思ったものですから(^^;)
イエス・キリストというか、キリスト教の教える三位一体の神である、父なる神・子なる神(イエス・キリスト)・聖霊なる神というのは、「あそこにもここにも、どこにでもいらっしゃる」という意味で<偏在している>ということなんですよね。
以前、『嵐を静められたイエス』という記事のところで、ユビキタス社会のことについて書きました。
その時と同じく、三省堂の辞書サイトである「10分でわかる「ユビキタス」の意味と使い方」から引用させていただくと、
>>ユビキタス(ubiquitous)は「同時にどこにでも存在する」ことを意味する英語の形容詞です。
>>元来ユビキタスは近代ラテン語に登場する神学(キリスト教)の概念で「イエス・キリストが、時間や空間を超越して遍在(あらゆるところに存在)すること」をさす概念です。ですからこの語のもともとの意味は「同時にどこにでも存在する」というよりは「何時でもどこでも存在する」という意味だったということになります。
この考え方こそが<イエス・キリストの偏在>ということなのですが、この「イエス・キリストが、時間や空間を超越して遍在(あらゆるところに存在)すること」というのは、具体的にどういうことなのでしょうか。
わたしの持っている聖書の欄外注には、
・永遠=時間的秩序を超越していることを指すことばで、時間に関する神の無限性を意味する。神は永遠に存在される神であり、神の王国は永遠の王国である。神は永遠の計画によって、永遠の契約を結び、永遠の福音を示された。神のさばきの刑罰も永遠のものである。
とあります。
そして、話は少し飛びますが、キリスト教信者がイエス・キリストを自身の主であるとして受け容れた時、三位一体の神の第三位格である聖霊さまが与えられるのですが、キリスト教信者というのは、この聖霊さまを通して祈ります。
つまり、簡単に言ったとすれば、個々の信者に与えられている聖霊さまによって祈る時、その祈りというのはイエス・キリストに届きます(信じられない方は、とりあえずキリスト教ではそう言われていると考えてください)。カトリックではマリアさまにとりなしを祈りマリアさまがイエス・キリストにその祈りを届けてくださる……ということになっているかもしれませんが、プロテスタントでは聖霊さまを通して直接イエス・キリストに祈ります。
わたしはキリスト教徒になる前から祈ることの好きな子だったのですが、ある時からいくら祈ったとしても、神さまに祈りを叶えてもらうための、長い祈りの行列の最後のほうにいるだけという感覚があって、だんだん祈らなくなっていきました。
けれど、このキリスト教の教える祈りであれば、継続してずっと祈り続けることが出来るのです。
何故なら――これもたとえとして正しくない気がしますが、仮に神さまという存在が、人間の作りだしたスーパーコンピューターをも超える情報処理能力を有していたとしたらどうでしょうか。キリスト教信者の個々人が今この瞬間も地球上のどこかで祈りを捧げておられると思いますが、神さまは<聖霊さま>という携帯かパソコンのような端末から上がってきた情報を精査なさいます。
そして瞬く間に未来のことまでを見抜き、あるお祈りに関しては「残念だがこの祈りは応えられない。当座はそれでよくても、将来的には悪いことだから」といったように判断し、またある祈りに関しては「いずれ叶えられるが今ではない」として保留にされたり、「この祈りには即座に応えなくては」といったように、即座に助けを送られる……キリスト教における祈りのシステムというのは、もし未信者の方にわかりやすく説明することしたら、こんな感じのことかな、という気がします(^^;)
もちろん神さま(イエス・キリスト)は、コンピューターのように無機質な方ではあられませんし、ご自身を主と信じる信者ひとりびとりと近くあられる、わたしにとっても他のクリスチャンの方全員にとっても慕わしい方だと思います。
また、聖霊さまを通して祈ると、その時に啓示というか、あるいは啓示に近いようなものが与えられ、自分の祈り方が間違っている場合はそう教えられたり、また、「面倒くさくて祈りたくないな☆」という時にも、継続して祈る力が与えられたりといったことがあるので、本当にこの方が信者のひとりびとりに霊として与えられているというのは素晴らしいことだと思います。
わたしがイエス・キリストを自分の主と信じて祈るようになった時――まず、聖霊さまによって教えられたのがそのことでした。つまり、「自分の力だけに頼って」神さまに祈ろうとすると、せいぜいが三日坊主で祈れなくなっていくのですが、聖霊さまに「わたしは弱くて継続して祈る力がありません。ですから、その祈る力をお与えください」と祈ったとするなら、聖霊さまから力を受けることによって必ず祈れるようになっていきます。
もちろん、最初のうちはある種の義務感があるかもしれませんし、「こんなことをしてなんになるのだろう」といったようにも思うかもしれません。けれど、祈りというのは結局、<神さまとの対話>ですので、その祈りが聞かれる・聞かれない以前に聖霊さまを通してイエスさまとお話していくのがだんだんに楽しくなっていく……という、その過程といってもいいかもしれません。
こう書いていくとおそらく、ノンクリスチャンの方には、「聖霊ねえ。大丈夫か、こいつ」という感じでしょうけれども、日本ではこうしたキリスト教の概念というか、考え方がほとんど知られていないというだけであって、欧米の聖霊さまに導かれている教会に属しているキリスト教信者の方にとっては、こうしたことというのはほとんど<当たり前>にも近いもののような気がします(^^;)
またこの聖霊さまというのは、とても楽しい方です。神さまの喜びに満ち満ちた霊である彼(彼女?)は、すべての喜びの源泉である神さまから、生ける神の水を引いてきてくださって、信者の霊的必要をいつでも満たしてくださいます。
ある時、わたしはなんとなく気分的に落ち込んでいたのですが、そんな時にハッと右を向くと「感謝ァッ!!」という霊的な声がし、左を向くと「賛美ィッ!!」と言われて、次の瞬間に大笑いしてしまったということがありました。
わたしはその言い方が『ジョ○゛ョの奇妙な冒険』を連想させるものだったのでおかしかったのですが、もちろん聖霊さまというのは、そのようにわたしたちの神さまへの賛美と感謝の霊的筋肉をマックスにまで鍛え上げる厳しい教官のような方ではありません(いえ、そういう部分もあるにはあるにしても・笑)。
ただ、神さまの喜びの霊に満ち満ちておられのと同時に、とても自由な方でもあられるので、その時々に応じてわたしのことを笑わせたり、真面目に導いてくださったりと、本当になんでも良くしてくださいます。
もっとも、同じキリスト教徒の方でも、この聖霊さまを与えられるという経験をせずにキリスト教徒として洗礼を受けた……という方もいらっしゃるとお聞きしたことがあるので、もしキリスト教信者の方で、「そんな経験はしたことがない」という方がおられましたら、今日からでも神さまに聖霊さまを与えてくださいとお祈りしてみましょう。
前回のわたしの『ダビデとゴリアテ』の記事だと、ダビデやこの時のイスラエルの陣営くらいの危機に陥っている時や、あるいは神とまったく心がひとつにでもなっていない限り、祈りというものは応えられない……という印象があったらいけないと思ったので、少し補足してみました(^^;)
祈りというのは、そもそもそれが叶えられるか叶えられないかというより、祈ることによって神さまと対話し、そうすることによって日々喜びに満ち、平安な幸せな気持ちでいられるという、そうしたもののような気がします。そして、実際に叶えられた祈りというのも数多く、叶えられなかった祈りについては、そもそも動機が悪かったといったことなどが、その後五年とか十年してからようやくわかる……ということがあったものでした。。。
では、次回もまた、エミリー・ディキンスンの詩より、何か書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
旅は進みました
足はほとんど着きました
あの存在の道の奇妙な分岐点
「永遠」という名の所に――
すると急に歩調が畏れを抱きはじめ
足はいやいや先に立ちました――
前方に街並みがありましたが
死者の森の中でした
後戻りは望めませんでしたし
うしろはもう鎖ざされた道
前には「永遠」の白い旗が――
そして神さまが一軒ごと扉の前にいらっしゃいました
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊)
エミリー・ディキンスンの詩には<死>を扱ったものがとても多いのですが、この詩は「死への旅立ち」を描いたもののようです。
わたしはキリスト教徒になる前、基本的に八百万の神――ありとあらゆるもの、万物に神さまは宿るといったように――信じていたのですが、それと同時に何故か「神さまがもし本当にいらっしゃるのなら、その方はただおひとりのはずだ」といったようにも信じていたと思います。
つまり、世に<神さま>と呼ばれる存在はたくさんいるのだけれども、それらの神をすべて束ねる、上なるただひとりにして唯一の<神>という存在がいるのではないかと、漠然と想像していました。
だから、そのような方がもし<神さま>で、地球を含めた宇宙全体を創造し、支配しておられるのならば、たとえば、地球以外にも知的生命体の存在する星というのがどこかにあって、そこにも今仮に70億くらい人口があるのだとしたら、それらひとりひとりのことにまで目をかけたり、困った時に手を差しのべたりすることはまずもって無理だろう……と思い、人生のある一時期、まったくの無神論だったことがあります(笑)
つまり、もし神が仮に宇宙の彼方とやらに存在しているにしても、人間に積極的に関わりを持たないのであれば、いてもいなくても関係なくね?という、何かそんなふうに感じていたというか(^^;)
でも、クリスチャンになって結構驚いたのは、「もし<神>というものが存在しうるとしたら、こういう形以外ありえない」ということだったかもしれません。また、わたしは小さい頃から割と自分なりの方法で祈る子だったのですが、それでもたぶん中学か高校生になるくらいの頃には――いくら祈ったとしても、六十億飛んで二十八番目とか、そのくらい長い行列のあとに自分が並んで、ようやく神さまか天使のような存在に願いを叶えてもらう……といったようなイメージに負けて、祈らなくなっていきました。
こうした無神論的な考えに陥っていて、祈ることもすっかりやめていた頃、わたしは死ぬとか自殺するといったことをずっと考えていましたし、精神的に同じ状態になった方というのはおそらく、同じように<死ぬ・自殺する>ということと平行して<神>ということを考える一時期が間違いなくあると思います。
まず、この苦しみや悩みには何か意味があるのか、価値があるのか、いつかずっと先の未来には乗り越えているものなのかどうか……わたしが死ぬことを考えていた時には、「この苦しみや悩みというのは、死ぬその瞬間までつきまとうものであり、それなら長く苦しむよりも今この悩みを終わらせたい。だから死のう」ということでした。
けれど、そういう暗い時期を越えてキリスト教徒になった時、キリスト教の教える<神という概念>には結構驚かされたと思います。
ええと、わたしはイエス・キリストを自分の主と信じているので、神さまというのは単なる概念上の存在ではないのですが、もしノンクリスチャンの方や無神論の方がいらしたとして、その場合は<キリスト教の教える神という概念>ということになるのかな、と思ったものですから(^^;)
イエス・キリストというか、キリスト教の教える三位一体の神である、父なる神・子なる神(イエス・キリスト)・聖霊なる神というのは、「あそこにもここにも、どこにでもいらっしゃる」という意味で<偏在している>ということなんですよね。
以前、『嵐を静められたイエス』という記事のところで、ユビキタス社会のことについて書きました。
その時と同じく、三省堂の辞書サイトである「10分でわかる「ユビキタス」の意味と使い方」から引用させていただくと、
>>ユビキタス(ubiquitous)は「同時にどこにでも存在する」ことを意味する英語の形容詞です。
>>元来ユビキタスは近代ラテン語に登場する神学(キリスト教)の概念で「イエス・キリストが、時間や空間を超越して遍在(あらゆるところに存在)すること」をさす概念です。ですからこの語のもともとの意味は「同時にどこにでも存在する」というよりは「何時でもどこでも存在する」という意味だったということになります。
この考え方こそが<イエス・キリストの偏在>ということなのですが、この「イエス・キリストが、時間や空間を超越して遍在(あらゆるところに存在)すること」というのは、具体的にどういうことなのでしょうか。
わたしの持っている聖書の欄外注には、
・永遠=時間的秩序を超越していることを指すことばで、時間に関する神の無限性を意味する。神は永遠に存在される神であり、神の王国は永遠の王国である。神は永遠の計画によって、永遠の契約を結び、永遠の福音を示された。神のさばきの刑罰も永遠のものである。
とあります。
そして、話は少し飛びますが、キリスト教信者がイエス・キリストを自身の主であるとして受け容れた時、三位一体の神の第三位格である聖霊さまが与えられるのですが、キリスト教信者というのは、この聖霊さまを通して祈ります。
つまり、簡単に言ったとすれば、個々の信者に与えられている聖霊さまによって祈る時、その祈りというのはイエス・キリストに届きます(信じられない方は、とりあえずキリスト教ではそう言われていると考えてください)。カトリックではマリアさまにとりなしを祈りマリアさまがイエス・キリストにその祈りを届けてくださる……ということになっているかもしれませんが、プロテスタントでは聖霊さまを通して直接イエス・キリストに祈ります。
わたしはキリスト教徒になる前から祈ることの好きな子だったのですが、ある時からいくら祈ったとしても、神さまに祈りを叶えてもらうための、長い祈りの行列の最後のほうにいるだけという感覚があって、だんだん祈らなくなっていきました。
けれど、このキリスト教の教える祈りであれば、継続してずっと祈り続けることが出来るのです。
何故なら――これもたとえとして正しくない気がしますが、仮に神さまという存在が、人間の作りだしたスーパーコンピューターをも超える情報処理能力を有していたとしたらどうでしょうか。キリスト教信者の個々人が今この瞬間も地球上のどこかで祈りを捧げておられると思いますが、神さまは<聖霊さま>という携帯かパソコンのような端末から上がってきた情報を精査なさいます。
そして瞬く間に未来のことまでを見抜き、あるお祈りに関しては「残念だがこの祈りは応えられない。当座はそれでよくても、将来的には悪いことだから」といったように判断し、またある祈りに関しては「いずれ叶えられるが今ではない」として保留にされたり、「この祈りには即座に応えなくては」といったように、即座に助けを送られる……キリスト教における祈りのシステムというのは、もし未信者の方にわかりやすく説明することしたら、こんな感じのことかな、という気がします(^^;)
もちろん神さま(イエス・キリスト)は、コンピューターのように無機質な方ではあられませんし、ご自身を主と信じる信者ひとりびとりと近くあられる、わたしにとっても他のクリスチャンの方全員にとっても慕わしい方だと思います。
また、聖霊さまを通して祈ると、その時に啓示というか、あるいは啓示に近いようなものが与えられ、自分の祈り方が間違っている場合はそう教えられたり、また、「面倒くさくて祈りたくないな☆」という時にも、継続して祈る力が与えられたりといったことがあるので、本当にこの方が信者のひとりびとりに霊として与えられているというのは素晴らしいことだと思います。
わたしがイエス・キリストを自分の主と信じて祈るようになった時――まず、聖霊さまによって教えられたのがそのことでした。つまり、「自分の力だけに頼って」神さまに祈ろうとすると、せいぜいが三日坊主で祈れなくなっていくのですが、聖霊さまに「わたしは弱くて継続して祈る力がありません。ですから、その祈る力をお与えください」と祈ったとするなら、聖霊さまから力を受けることによって必ず祈れるようになっていきます。
もちろん、最初のうちはある種の義務感があるかもしれませんし、「こんなことをしてなんになるのだろう」といったようにも思うかもしれません。けれど、祈りというのは結局、<神さまとの対話>ですので、その祈りが聞かれる・聞かれない以前に聖霊さまを通してイエスさまとお話していくのがだんだんに楽しくなっていく……という、その過程といってもいいかもしれません。
こう書いていくとおそらく、ノンクリスチャンの方には、「聖霊ねえ。大丈夫か、こいつ」という感じでしょうけれども、日本ではこうしたキリスト教の概念というか、考え方がほとんど知られていないというだけであって、欧米の聖霊さまに導かれている教会に属しているキリスト教信者の方にとっては、こうしたことというのはほとんど<当たり前>にも近いもののような気がします(^^;)
またこの聖霊さまというのは、とても楽しい方です。神さまの喜びに満ち満ちた霊である彼(彼女?)は、すべての喜びの源泉である神さまから、生ける神の水を引いてきてくださって、信者の霊的必要をいつでも満たしてくださいます。
ある時、わたしはなんとなく気分的に落ち込んでいたのですが、そんな時にハッと右を向くと「感謝ァッ!!」という霊的な声がし、左を向くと「賛美ィッ!!」と言われて、次の瞬間に大笑いしてしまったということがありました。
わたしはその言い方が『ジョ○゛ョの奇妙な冒険』を連想させるものだったのでおかしかったのですが、もちろん聖霊さまというのは、そのようにわたしたちの神さまへの賛美と感謝の霊的筋肉をマックスにまで鍛え上げる厳しい教官のような方ではありません(いえ、そういう部分もあるにはあるにしても・笑)。
ただ、神さまの喜びの霊に満ち満ちておられのと同時に、とても自由な方でもあられるので、その時々に応じてわたしのことを笑わせたり、真面目に導いてくださったりと、本当になんでも良くしてくださいます。
もっとも、同じキリスト教徒の方でも、この聖霊さまを与えられるという経験をせずにキリスト教徒として洗礼を受けた……という方もいらっしゃるとお聞きしたことがあるので、もしキリスト教信者の方で、「そんな経験はしたことがない」という方がおられましたら、今日からでも神さまに聖霊さまを与えてくださいとお祈りしてみましょう。
前回のわたしの『ダビデとゴリアテ』の記事だと、ダビデやこの時のイスラエルの陣営くらいの危機に陥っている時や、あるいは神とまったく心がひとつにでもなっていない限り、祈りというものは応えられない……という印象があったらいけないと思ったので、少し補足してみました(^^;)
祈りというのは、そもそもそれが叶えられるか叶えられないかというより、祈ることによって神さまと対話し、そうすることによって日々喜びに満ち、平安な幸せな気持ちでいられるという、そうしたもののような気がします。そして、実際に叶えられた祈りというのも数多く、叶えられなかった祈りについては、そもそも動機が悪かったといったことなどが、その後五年とか十年してからようやくわかる……ということがあったものでした。。。
では、次回もまた、エミリー・ディキンスンの詩より、何か書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!