神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

アダムとエヴァの報い。

2018年09月10日 | キリスト教
【アベルの死を嘆くアダムとイヴ】ウィリアム・アドルフ・ブグロー


 旧約聖書のアダムとエヴァ(イヴ)の失楽園のお話はあまりに有名なので、たぶん説明の必要はないと思います(^^;)

 ということで話を進めさせていただきますと、失楽園したあと、アダムは汗水流して働く必要があり、エヴァは生みの苦しみにうめきながら子を産むということになり……。

 いえ、たまーに、「アダムの奴がさあ、神さまの言いつけ守って善悪の知識の木の実さえ食ってなきゃ、俺たち今も労働なんかしなくてよかったんじゃね?」とか「エヴァがヘビの奴に言いくるめられてなかったら、こんなに長く男性優位の社会が続くこともなかったんだろーにねー」といった意見があるかと思います。。。

 もちろん、ふたりが罪を犯したからこそ、人類は増え広がったわけですし、そのことを神さまは見越しておられたのではないかとか、設定的にそうなるっていうの、わかりきってて何故そういう環境に神が神ならアダムとエヴァを置いたのかとか、色々議論はあると思います(^^;)

 でも、ちょっと今回わたしが書きたいのはそうしたことではなくて、失楽園したあとのアダムとエヴァって、心の中ではどう思ってたのかなとか、彼らが心の中で本当は何をどういうふうに感じてたのかっていうのが、実はよくわからないんですよね

 失楽園する前のアダムというのは、神さまが連れてきた動物に名前をつけたりとか、あるいはエデンにいて、日がな一日美しい花や緑に囲まれ、動物たちと楽しく遊んでいましたとさ♪といった感じだったんでしょうし……それで、神さまが自分のそばにエヴァという美しい女性を置いてくださったことも、きっと喜んでいたんじゃないでしょうか。。。


 >>神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形作られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。

 人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

(創世記、第2章19~22節)


 でも、その完璧な世界を追んだされてからは、汗水流してえっさほいさ、日がな一日畑を耕し、エヴァはエヴァで夫の手伝いをしたり、それまでする必要のなかった(と思われる)家事仕事にも精をだし、息子のカインとアベルが生まれてからは、忙しく子育てに追われ。。。

 ただ、このカインとアベルに関しても、長男が次男を殺すという悲劇があり、アダムとエヴァにとって、これほど悲しいことはなかったと思うんですよね

 そして、長男のカインは、心の正しい実の弟を殺すという罪を犯したにも関わらず、神さまの温情により、彼に復讐しようとする者は七倍の罰を受けるというしるしを受け――彼は彼で、別の新天地で生き、子孫を残していくということになります。


 >>カインは主に申し上げた。

「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。

 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。

 それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」

 主は彼に仰せられた。

「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」

 そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

(創世記、第4章13~16節)


 けれども、神さまがお選びになったのは、このカインではなく、アダムとエヴァの間には彼らの次に三男のセツが生まれて、このセツがイエスさまの御先祖さまということになるんですよね(^^;)

 そして、このセツの系図に続く者の中で有名なのが、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモン……他にも間に御先祖さまがいて、イエスさまの誕生ということになるわけです。。。

 新約聖書の一番最初の書は、マタイの福音書であり、マタイの福音書の第一章は、イエス・キリストの系図からはじまるのですが、初めて新約聖書を読もうとする時、多くの方が思うのが、この系図を見て「なんだ、こりゃ」と感じるということなのではないでしょうか。

 でも、とりあえずよくわからないことは放っぽっておいて、マリアさまの処女降誕にはじまるイエスさまの生涯について読み、それから新約聖書のすべて、次に旧約聖書のすべてを読んだあと、このマタイの福音書の第一章に戻ってくると……何かとても感慨深いものがあります

 アダムとエヴァとは、初めて生んだ長男によって次男が殺されるという悲劇を経験し、その長兄もまた自分たちの元を去っていった時……きっと、三男のセツのことをとても可愛がったのではないかと想像します。

 やっぱり、思うんですよ。元は何不自由のないパラダイスにいて何ひとつ欠けたものがなくて幸福だったのに――そこから追いだされたら、常に完璧な比較対象のあるその後の人生ってつらすぎじゃないかなって。。。

 しかもアダム、気持ちはわかりますけど、エヴァが自分をそそのかしたからこんなことに……とかって、エヴァひとりに責任を押しつけようとしたりしてて、それでアダムとエヴァって失楽園したのち、夫婦としてしっくりうまくいったのかなって思ったりもしますよね(^^;)

 でも、勝手ながら想像するに、やっぱり「あの時、あんなことさえなかったら」みたいな、お互いの間にあるぎくしゃくしたものを除き去ったのは、カインという息子の誕生が大きかったのではないかという気がします。

 しかも、聖書読むと殺されたほうの次男のアベルってすげーいい子ですし(笑)、そのものすごくいい子の優等生を長男のちょっと邪まなとこのあるカインが殺してしまって――でも、その次に三男のセツが生まれたことによって、アダムとエヴァにとってはこのことが物凄く救いになったのではないでしょうか。

 そして、その子が人類の始祖であるアダムに次ぐ、イエスさまの御先祖さまでもあるって、何かとても強い神さまの摂理すら感じてしまうのは、わたしだけでしょうか(^^;)

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« すべての人が幸せに。。。 | トップ | ロバが口を聞く。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事