神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

ショートケーキのおいしい食べ方。

2022年05月30日 | キリスト教

 これは、よく言われることですよね

 ショートケーキの上のイチゴを最初に食べてしまうか、それとも最後まで残しておいて食べるのか……転じて、ある種の人生論というのでしょうか。先にてっぺんのイチゴを食べてしまったら、あとのお楽しみはずっとおんなじことになるよ。でも、最後までイチゴを残しておいた場合、「これを最後の楽しみとして食べるんだ!」という喜びとワクワクがずっと続く――でも、最後の楽しみとして残しておいたがゆえに、「いらないの?じゃ、もらっちゃうね!」ということで、図々しい人に横から奪われてしまう可能性もあるという(^^;)

 先日、某ドラマの中の会話で、大体次のようなことが言われてました。確か、大体5~6歳くらいか7~8歳くらいの子を対象に、マシュマロを1個ずつ配る。そして、15分じっと待ってたら、またもう1個マシュマロをもらえる……この時、マシュマロをすぐに食べてしまわず、15分待てた子たちを、その後20年くらいして追跡調査したところ(よくやるなあ・笑)、マシュマロをすぐ食べてしまった子は、自己満足度の低い生活を送っており、でも15分待てた子は充実した豊かな自己満足度の高い生活を送っていた――とかいう話。

 まあ、自分的には対象がマシュマロっていうのが微妙だなと思ったり。これが、「マシュマロが三度のメシより大好き」という子ばかり集めて……とかなら、もう少し説得力あったと思うので、自分的にちょっと変えてみるのはどうだろうと思ったのです。「ショートケーキのイチゴ、15分食べるの待ったら、もう1個もらえるよ」というふうに。でもわたし、これだったら絶対我慢すると思います。なんでって、ショートケーキを半分くらい食べた時にイチゴを1個食べ、そして最後のほうにももう1個食べられるという期待と喜びとともに残りの部分を食べていく……もう、最高ですね!(笑)

 小さな頃、「いつか大きくなったら1ホールごと、ケーキを買って全部自分で食べられたらどんなにいいだろう」と思った経験は、おそらく誰でもあると思います。でも、これもよく言われるように……実際に大きくなってみると、結局のところみんなで1つの大きなケーキを食べられるほうが幸せだ……みたいになっていくわけですから、不思議なものです(^^;)

 また、これも似た経験のある方多いと思うのですが、ほんの時々、親戚のおばさんや近所のおじさん、あるいは両親などが、ケーキその他のお菓子を「もうひとつ食べたいなあ」と思い、その小さな子がどことなくソワソワしているのを見て――「おばさんのをあげる」とか、「おじさんのをあげる」、「お母さんのをあげる」と言われ、「えっ、ほんとにいいの!?」となった経験って、たぶん、誰しもあると思います。

 わたしも、ケーキだったか何かをそんな形で譲ってもらった時……その方のことが聖人のように見えてきたというのは流石に大袈裟ですが(笑)、でも、子供ながらにすごく不思議だったのです。「自分がもし自分の食べる分のショートケーキを他の人にあげろと言われたら、果たして出来るだろうか。他の人はみんな、ひとり1個ずつ美味しそうに食べているのに、自分の分だけがないだなんて、きっととても耐えられないだろう」という、この気持ち。何故か小さい時にこうした経験をすると、いつまでも覚えていて忘れないというのは不思議なことです。


 >>さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

(ルカの福音書、第6章37~38節)


 イエスさまの言葉にケチをつけるつもりはありませんが(笑)、「押しつけ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」?そんなの、本当でしょうか。むしろ、せっかく与えたにも関わらず、相手からは何ひとつ返ってこなかったとか、「あいつ、ショートケーキ食ってると、絶対自分の分のイチゴくれるんだぜ。馬鹿じゃね?」なんていう噂がすっかり広まり、以来、誰からもイチゴを奪われるようになり、最後には「あげる」と許可してもいないのに、人が横から奪っていくようになった――なんていうことも、今の世知辛い世の中ではありえそうです。

 でも、『星の金貨』ではありませんが、神さま的価値観としては、「与えない者、譲らない者」こそが真に貧しい者ということなのでしょうし、それこそ、こうした人こそが「天に宝を積んでいる」ということなのでしょう。


 >>自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

(マタイの福音書、第6章19~21節)


 もちろんわたし、今はもう大人なので、小さな子が「もう1個ケーキを食べられたらどんなにいいだろう」というソワソワした顔をしてたら、喜んで譲ってあげることは簡単です。むしろ、そうすることでいつかその子が大人になった時、「あのおばさん、なんでケーキ譲ってくれたんだろ」という思い出としてぼんやり残り、彼or彼女が同じように近所の子にした時、ふとそのことを思い出す――といった、こちらの「お金では買えない記憶」のほうが、より大切ということなのではないでしょうか。


 >>あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。

 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。

(マルコの福音書、第4章24~25節)


 この箇所は、この部分だけを読んだ字義通りということではなく、前後のイエスさまの御言葉とも合わせて考えると、「神の国に対する霊的理解力」のことであり、神さまのことに熱心な方はさらにその理解力が増し加えられるが、その逆の生き方(神さまが望むのとは真逆の生き方)をしている人は、持っているものまでも取り上げられる……といった意味なのかなと思いますが(マタイやルカの福音書にも同じ御言葉がありますが、他の意味としても解釈可能です)、わたし、最初にこの御言葉と出会った時、「???」と思ったものでした。

 いえ、字義通りに読んだ場合、「金持ちはさらに与えられて金持ちになり、貧乏な人は持っているものまでも取り上げられるであろう」といったように、読めなくもないですよね(^^;)

 そして、このことを祈りに転用した場合――確かに、ようやく買ったたった1個のショートケーキに、何故か10個とか20個、あるいは50個、同じ値段で別のパックで一緒についてくる……ということは、実は十分ありえます。イエスさまがたとえで弟子たちによく話されたように、これももちろんたとえなわけですけど(笑)。

 わたしたちは何かのことで我慢に我慢して、忍耐に忍耐を重ね、そして時々ほんのぽっちりその褒賞をもらえるといったような、ストレスの多い生活を送っている場合が多いと思うんですよね。さらには、自分のショートケーキの上にある、ただひとつのイチゴだけは誰にも奪われてなるまいぞ!という感じで、怒り肩で生きてるとか……ところが、コメディ映画風にいえば、わたしたちが週6日働いたのち、日曜日にも礼拝を守って、そのあと食べようと思ってたショートケーキが――紅茶を淹れてる間にネズミがテーブルの上から持ってったとか、隣人が突然どかどか入ってきて、何故かショートケーキのイチゴだけ「うまそうだな」と言って食べてったとか、さらには窓から戦車が飛び込んできて、銃を構えた軍人が「それを渡せ!」と言って持っていくなど……今はもうテレビではやんなさそうないかにもコントですが(笑)、とにかくなんらかの理由によってわたしたちの「人生のとっときのお楽しみ」は奪われる運命にあるということです。

 でも、祈ると確かに、こうした脅威からイチゴのショートケーキが守られるだけでなく、むしろ@ドラえもんの秘密道具「バイバイン」でもふりかけたのかというくらい……イチゴは増えるか、もしなくなっても、今度は一度ショートケーキを奪っていった軍人が「あの時は助かった!ありがとう」とか言って、お礼にその十倍のものがやって来るとか……確かにあると思うわけです。

 何より、「人からいつこの大切なものを奪われるか」という人生の緊張感が薄まったり、逆にいくらでもあるので他の人にもたくさん分けてあげて、むしろ感謝されることでしょう。

 聖書には「盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい」という言葉が箴言にありますが、確かに、誰か人が大切にしているケーキを奪うことも出来ます。でも、そんなことばかりしていると、その時は一時的に満足しても、すぐにあらゆる意味で貧しくなってしまいます。前にもどこかに書いた気がしますが、「三尺三寸箸」というお話。あの世では、約1メートルの箸でしか食事することが出来ないのですが、地獄においてはその1メートルの箸でお互いを刺し合って食事を奪いあい、天国ではその長い箸を使い、互いに互いを食べさせあっているという……このお話、ほんと世界中にもっと広まって欲しい。そして、戦争したいと考える人たちは、このお話を聞いてからよく考えて欲しいと思うのです。。。

 それではまた~!!






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