神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

カラマーゾフの兄弟。-【2】-(そんな時にも山は動かない!何故だ~!!の巻☆)

2022年04月16日 | キリスト教

 ええと、前回ボルゾイ犬のことに関して確認のために『カラマーゾフの兄弟』をぱらぱら読み返してみたところ……ちょっと面白い(?)ページが目に入ってきたので、ちょっと引用してみたいと思いますm(_ _)m


 >>「かりにそのときわたしが、信仰の手本みたいに、本当に信仰していながら、自分の信仰のために迫害を受けることをせず、いまわしいマホメット教にでも転向したとすれば、たしかに罪深いでしょうよ。でも、そういう場合なら、迫害を受けるまでにいたりもしないはずです。なぜって、わたしがその瞬間に山に向かって、動け、この迫害者を押しつぶしてくれ、と言いさえすれば、山が動きだして、たちどころに迫害者を油虫みたいに押しつぶしてくれるでしょうし、わたしは何事もなかったように、神をたたえ崇めながら帰ってこられるはずですからね。でも、もしわたしが、まさしくそうした瞬間にあらゆることを試みた末、もはや山に向かって、この迫害者どもを押しつぶしてくれと、わざわざ頼んでも、山が押しつぶしてくれなかったとしたら、どうしてその場合に疑をいだかずにいられるでしょう、それも死というたいへんな恐怖を前にした恐ろしいときに、ですよ?それでなくたってわたしは、天上の王国にはとうてい行きつけないことを承知しているのに(なにしろ、わたしの言葉で山は動かなかったんですからね、つまり、わたしの信仰なんぞ天国ではあまり信用してもらえないんだし、あの世でわたしを待っている褒美もたいしたものじゃなさそうですからね)、いったい何のために、そのうえ、何の得にもならないのに、皮を剥がれなけりゃならないんですか?だいたい、背中の皮をすでに半分もひん剥かれたとしても、そのときになったってわたしの言葉や叫びでは山は動きゃしないでしょうからね。そんな時になれば、疑いを起こしかねぬどころか、恐ろしさのあまり分別そのものまで失くすかもしれないんです、そうすりゃ判断なんぞ全然できやしませんよ。とすれば、あの世にもこの世にも自分の利益や褒美が見あたらないために、せめて自分の皮くらい守ろうとしたからといって、なぜわたしが特に罪深いことになるんですか?だから、わたしは神さまのお慈悲を大いに当てにして、すっかり赦していただけるだろうという希望をいだいているんですよ……」

(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著、原卓也先生訳/新潮文庫)


 このセリフを口にしたのは、スメルジャコフ(笑)という名前の若い男性で、聞いてるまわりの人たちも「なんという屁理屈男だろう」的なことはみんなわかってて聞いてる雰囲気です(^^;)

 そしてこのお話の前提として、


 >>ところが、このバラムの驢馬(スメルジャコフのこと)がふいに口をききはじめたのである。たまたま奇妙な話題になった。今朝早くグリゴーリイがルキヤーノフの店に買出しに行って、そこでさるロシアの兵士の話をきいてきたのだが、その兵士はどこか遠い国境で、アジヤ人の捕虜になり、ただちに虐殺すると脅迫されながら、キリスト教を棄てて回教に改宗することを迫られたのに、信仰を裏切るのをいさぎよしとせずに苦難を甘んじて受け、皮を剥がれ、キリストを讃美したたえながら死んでいったという――この英雄的な行為はちょうどこの日配達された新聞にものっていた。

(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著、原卓也先生訳/新潮文庫)


 ということがありまして、お話の背景としてはマタイの福音書などの、「もしからし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば、移るのです」(マタイの福音書、第17章20節)というイエスさまのお言葉のことがあるわけです。つまりこの場合、信仰を捨てろと脅されて仮に信仰を捨てたとしても、決して罪には当たらないはずだ、何故なら神さまはそのくらい慈悲深いお方なはずだから……ということの他に、イエスさまはからし種(穀粒と訳されています)ほどの小さな信仰心でもあれば、山をも動かせるとおっしゃっておられる……ところが、皮をひん剥かれるくらいの窮地にあってさえ、山は動かなかった。実際に神さまのために皮をひん剥かれるくらいの信仰心があったということは、それは間違いなく穀粒以上の信仰があったということだ、にも関わらずこの時、山が動きだして皮をひん剥こうとする連中を油虫の如く潰すことがなかったということは――そもそも、神の言った言葉自体に間違いがあるか、あるいはそもそも神など存在しはしないのだ……という、そうした議論についてスメルジャコフは述べているわけです。

 ドストエフスキーはそもそも、こうした諧謔的ジョークが好きらしく、以前別の記事で紹介したことのある、「悪魔がいて、あいつらは三叉の矛を持ってる。てことは何か?地獄には工場みたいな場所があって、悪魔どもはそこで自分の三叉の矛を作っておるのか?悪魔の奴がそんな形でも汗水流して地獄で労働しておるとは……(意訳☆)」みたいなことも、ドストエフスキーお好みの諧謔的ジョークなのではないかと思います(笑)。

 ええと、繰り返しになりますが、こんなことを小説に書いてはいても、ドストエフスキーは敬虔なクリスチャンでした。ただ、自然科学の発展などとともに、そうしたところを突いてくるイワンのような無信論者がいるともわかっていて――そのような人々をも最終的に論破出来るものを、入念に仕上げている……と言っていいのではないかと思うんですよね。

 それで、「からし種ほどの信仰心でもあれば、山も動いて海に入る」という箇所については、色々な解釈があると思いますので、今回はそのことには触れません(教会の牧師さんにでも質問しましょう!笑)。ただ、今回スメルジャコフの言っていることにも一理ある……みたいに、ちょっとだけ思ったりもしたわけです(不信仰といったことではなく、あくまでもある種の可能性として)。

 前に……というか、確か大体新型コロナウイルスというものが出はじめた頃のことだったと思います。あるワイドショーに出ていたコメンテーターの方が「これで神はいないことが証明されたのではないですか」と、軽く冗談めかしておっしゃっていたことがあります。つまり、これはキリスト教批判といったことではなく、キリスト教の神だけでなく、イスラム教の神も、その他この地上で<神>と呼ばれるどんな存在も新型コロナウイルスを撲滅できるほどの力を持っていない――と、そうおっしゃりたかったのだと思います(あ、会話のノリとしては本当に軽いもので、そう深刻なことではなく^^;)。

 そのですね、教会という場所でも感染者の方が出たりすることがあるわけですけど……わたし的に思うのに、実はこの理論でいくと、キリスト教徒は誰も、新型コロナウイルスにかかることもなければ、風邪やインフルエンザになることもなく、偏頭痛に悩まされることもなければ、脳梗塞や心臓発作、ましてやガンになどかかるはずがない――何故といって、神を信じていて、その神は「からし種ほどの信仰もあれば山でさえ動いて海に入る」と言っているのだから、仮に病気になったとしても、そのほんのぽっちりの種粒ほどの信仰心で必ず治るはずだ……という、そうしたことになりますよね?(自分でも書いてて、物凄い屁理屈だなと思いますけど・笑)。

 そして、この論理を押し進めていくと、「神はいるのか/いないのか」、「天国(死後の生)など本当にあるのか」といったことに究極的には行き着くと思うわけです。急に話が飛躍するように感じられると思うんですけど、(一般的に言えば)人はどんな人でも必ずいずれ死にます。ここからスメルジャコフの屁理屈を真似て、わたしもさらに屁理屈的思考実験を展開させたいと思うのですが(笑)、人の一生というのを、1000億階あるビルにたとえ、その屋上から飛び下りた瞬間がわたしの生のはじまりであり、最後、地上に真っ逆様に落ちて頭が卵のようにグシャッ!と潰れるのが、わたしの人生の終わりであるとします。

 ところが、1000億階もあると、その途中って結構のんびり(?)も出来たりして、自分の最後が卵のようにグシャッ!と潰れて終わりだなどとは、わたし自身にはまったく信じられなかったりするわけです。そして、同じように落下中の人々も大体似たようなことを言ってます。「いつまでもこの落下状態が続くばかりなのだから、自分はもしかしたら永久に死なないのではないか」と感じている人もいれば、「いや、いつかは地上で頭がグシャッ!と潰れて終わるんなら、飲めや食えやの好きな一生を送ったほうがいい」と考える人もおり、「いやいや、我々の最後はそんな悲惨なものではない。神さまがおられて、最後の最後は天使さまが来られ、わたしたちの肉体も精神も魂も、そのすべてを守ってくださるのだ」という方もいます。

 さて、この場合問題は、いざ自分の死ぬ段がやって来ないと、天使さまがやって来て助けてくださるのかどうか誰にもわからないという点です(笑)。ですから、その<死>という瞬間のことを思って、生きている間どんな悲惨に見舞われようとも、神さまを信じ続ける方もおられれば、逆にこの世界で起きるありとあらゆる悲惨を思って、イワンのような虚無主義というか、無神論に陥ってしまう方もいると思うわけです。


 >>千人が、あなたのかたわらに、
 万人が、あなたの右手に倒れても、
 それはあなたには、近づかない。

 あなたはただ、それを目にし、
 悪者への報いを見るだけである。
 それはあなたが私の避け所である主を、
 いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

 わざわいは、あなたにふりかからず、
 えやみも、あなたの天幕に近づかない。
 まことに主は、
 あなたのために、御使いたちに命じて、
 すべての道で、あなたを守るようにされる。

 彼らは、その手で、あなたをささえ、
 あなたの足が
 石に打ち当たることのないようにする。
 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、
 若獅子と蛇とを踏みにじろう。

(詩篇91編、第7~13節)


 この聖書箇所を使って、悪魔がイエスさまを誘惑したのが何故か、なんとなくわかる気がするんですよね。>>「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」(マタイの福音書、第4章6節)、この時イエスさまは、「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」と言って、悪魔のことを退けました。悪魔がイエスさまを誘惑したのは、食べ物のこと、この世の支配者として富や権力を得ることなどでしたが、最後、イエスさまが悪魔のことを完全に退けたのは、「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」という聖書の御言葉によってだったのです。

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」……自分的には、すべてはここにかかってくるのではないかという気がします。いつか来る「頭グシャッ!」の瞬間に備え、せいぜい神のことでも信じるがいい。天使など存在しないし、存在してもおまえのことなど助けには来ないだろう。「頭グシャッ!」は人類共通の結末なのに、まったく神などといういもしない存在を信じ続ける、哀れなゴミ虫どもよ……イワンの考えによると、神も悪魔も存在しないのですが、仮にもしわたしの結末が「頭グシャッ!」的なものであっても――のちの日に立たれる方(イエス・キリスト)は、ゴミの灰の山からでさえも、そのひとりひとりを判別し、自身と同じ甦りに与らせてくださる方なのです

 それではまた~!!






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