神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神を喜ぶことは、あなたがたの力だから。-【5】-

2015年12月04日 | キリスト教
【キリストの磔刑】ディエゴ・ベラスケス


 わたしは小さい頃から祈ることが好きだったのですが、物心ついた時からずっと夜眠る前に布団の中で祈ってきました。

 といっても、わたしがイエスさまのことを信じたのは確か、二十三歳頃だったと思いますから、その前までは自己流に自分が神さまだと思うものに対して祈ってきたということになるかと思います。

 日本は基本的に仏教の国なので、わたしも最初は手を拝むような形にして布団の中で祈っていたんですよね。でもその後、キリスト教のこともなんとなく伝え聞き、両手を組み合わせて祈ることもあれば、また別の日には拝むような形にして……と交互に繰り返してみたりと(笑)、結局小さな子供の信仰としては、誰が本当の神さまなのか、また神さまというのはたくさんいらっしゃるに違いないから、そのひとりひとりに祈っていこうとか、自己流に神を信じるというのは、ようするにそんな感じのことなんですよね(^^;)

 あと、子供ながらにすべてのものに神は宿るとも信じていましたから、ひとつひとつのものの名前を挙げて祈るというように次第になっていったというか。山の神さま、海の神さま、川の神さま、森の神さま……といったように自然を司る神さまの名前が大体のところ全部挙がると、今度は衣服の神さま、タンスの神さま、住居の神さま、電子炊飯ジャーの神さま……といったように、どんどん神さまが増えていきました。

 何分、すべてのものに神さまが宿っているわけですから、出来るだけ多くの神さまに祈ったほうがご利益があると、子供なりにそう信じていたのでしょう(笑)

 けれどもあんまりたくさん神さまがいっぱいいすぎて、次第に神さまの名前を途中まで言っている間に寝てしまうつまり、これらの神さまに自分の願いごとを述べる前に眠ってしまい、翌朝目が覚める……ということを、一体何度繰り返したことかと思います(^^;)

 でもこれはあくまで、小さな頃の話であって、次第にまた別の方面から知恵がついてきますと、わたしの自己流の神さまに対する信仰は早くも危機を迎えました。簡単に言ったとすれば、「学年が上がったら○○ちゃんとまた同じクラスになりたいです。よろしくお願いします」とか「クラスの△△ちゃんと仲良くしたいです。神さま、よろしくお願いします」といったような願いごとが聞かれないのです。

 それでも、こうした願いごとを神さまにした小学生の時、まだわたしは本当の意味での信仰の危機を迎えたわけではありませんでした。というのも、○○ちゃんと同じクラスになれなくてその時は残念でも、他に別の友達ができたり、同じクラスの△△ちゃんとは仲良くなれなかったけど、むしろそれで良かった。かわりに□□ちゃんと親友になったから……という範囲内で収まっているうちは、神さまが実際は祈りを聞いてくださらなくても「ま、いっか☆」で済んでいたのです。

 けれどもわたしの場合、十代の後半頃から次第に死ぬとか自殺するといったことをかなり深刻に考えるようになりましたし、その状態というのは社会人になってからも続きました。そして実際自殺未遂的なこともしてみたのですが、結局その時に「人間はそんなに簡単に死ねるものではないな~☆」と思い、死ねない以上は生きるしかない……ということで、まあ自分の力でどうにかしていこう、いや、どうにかする以外に道はない――ということに結論が出ました。

 そしてそう思ってから最初に就職したのが、某デパート店内にある本屋さんでした。もともと本が好きだったので、ちょうどいいかなと思い、面接したところパート店員での募集でしたから、割とあっさり採用になりました。でも、あまり広くないスペースに本をたくさん並べてる感じの本屋さんでしたので、その後、大型店で店員さんを募集していた時にそちらへ移ることにしたというか。

 でもその本屋さんで働いていた時に、ちょっと病気になってしまい、毎日熱が出て起きるのも大変だ――という状態が二週間くらい続きました。この時のことは少し記憶がおぼろげなんですけど、内科にいって薬を飲んでも治らないし、なんだろうなということで、わたしもともとアレルギー性鼻炎なので、風邪に似た症状が出て治らない時には耳鼻科へ行くんですよね。

 そしたらそこの先生に、目と鼻と頬の間だったかどこかに膿が溜まっていると言われ、軽く麻酔かけて取りましょうということになりました。いや、最初は「出来そうだったら麻酔なしで☆」ということだったのですが、鼻から管がうまく入らなくて「無理そうだね☆」ということで、麻酔して取ってもらったという。。。

 いえ、もうそのあとすっきりして完全に治ったんですよ。そして二週間以上休んだことで、なんとなく出勤するのが気まずくなり……そこの本屋さんは辞めてしまったんですよね(^^;)

 そんなわけで、「じゃあまあ職探しだー☆」と思い、某病院の看護助手の面接を受けにいったというか。実をいうとこの時わたし、まだキリスト教徒ではなかったのですが、神さまがこちらに導いておられたのではないかというのは、あとになってそう強く感じたかもしれません。というのも、割と大型の本屋さんに移る前に、別の看護助手の面接を受けにいっていて、そこは受かったのですけれども、通勤におそらく一時間はかかりそうでした。職員を乗せるバスが出ているという場所があるのですが(その時は車を持っていなかったので)、うちから毎日そこまで行って、仕事して疲れてまたそこから歩いて帰る……というのもかなり大変だと思ったのがお断りした理由でした。

 でもそこは割と精神病の方が多く入院されている場所だったので、何かそうした理由で断ったのだろう――と、電話をかけて来た職員の方は思ったかもしれません(なんとなくそういう雰囲気を感じたというか^^;)。でもわたし自身はもともと精神病的なことに相当関心が高いというか、自分でも自殺することを考えていた間はカウンセリングに通っていましたし、そうした理由もあって面接を受けにいってはいたのです。

 けれども、本屋さんのほうを辞めることになってしまった時、ふと思ったんですよね。看護助手とかそうした仕事に就くために、もしかして自分は病気になってしまったのではないだろうか……って。そして次に面接を受けにいったのが、家から歩いて十分くらいのところにある脳神経外科病院でした。

 正職員でしたので、国語と英語と何かもうひとつ一教科(忘れました・笑)のテスト、それに小論文というのは大袈裟ですが、何かテーマを与えられて(介護関係のテーマだったと思います)作文を書き、さらに面接を受けててようやく合格したといった記憶があります。その時受けに来ていた方が十人くらいいて、そのうち3人くらいが採用になったと、あとから知りました。

 なんにしても、人間関係的なことで問題はあったかもしれませんが、その病院はわたし的にとても面白い職場だったと思います。寝たきりの方とか半身麻痺の方が多かったため、内容的にはハードだったにしても、他の病院を知りませんから(笑)、他と比べて特にキツいと思うこともなく、「こんな自分でも人の役に立つことが出来る」と感じることが出来たというのは、わたしにとってとても良いことだったと今も思います。

 そして、この病院で働いていた時に、寝たきりの意識不明の方を介護していて、「これは宗教の力が必要なのではないか」と感じたことが漠然とありました。というのも、中にはすでにこの状態で十年以上になる方もいる……ということでしたので、こうした方の意識の状態っていうのは、本当はどういうことなんだろうと感じたというか。

 色々な状態の方がおられるので、なんとも言えないのですが、意識ははっきりしているのに首から下が動かないといった方が3名ほどおられて、他に完全に意識がない状態の方、表面上はそう見えても本当は聞こえていてわかっているのかどうか……という患者さんなど、左半身麻痺・右半身麻痺という方の介護であればまだしも楽――といった病棟だったため、のちに他の病院に行ってみたところ、確かにもしかしたら脳下が体力的に一番キツイかなあ……と思ったりしたものでした。

 でもそこに勤めていた看護師さんが「脳下に一年もいれば、他のどの科の病棟いっても通用するし、楽だと思えていい」みたいに言っていたのですが、これは看護師さんにとっても本当にそうらしいんですよね(^^;)

 なんにしても、いわゆる植物状態で、人口呼吸器を抜いたらお亡くなりになってしまうという患者さんもいらっしゃって、こうした方の意識は『本当はどうなっているのか』っていうのがあると思ったんですよね。すでに意識だけは天国にいってるのか、それとも魂だけ天国の門にいるペテロのところまで行ったんだけど、「あんたまだ生きてるから入れないよ」などといけず(?)にも言われて、立ち往生しているのか……他に、小さいながらもICUのある病棟だったので、交通事故とか脳梗塞などで人が運ばれてくるのですが、そこで起きる悲喜こもごもというのでしょうか。「あの人もう助からないんじゃないかな」という人でも突然甦ってきたり、また、家族の方の献身的な介護が報われたり報われなかったり……色々な人間ドラマ、人生ドラマがあったように思います。

 そうしたものと接しているうちに、漠然と「宗教の力」が必要なように思って、まず仏教とキリスト教とイスラム教について調べてみようと思いました。そして世界の三大宗教と言われるものの中で、わたしが一番知りたかったのがキリスト教のことでした。というのも、もともと海外の本の訳されたものを読むのが好きで、すると欧米の方っていうのは特になんの注釈もなしに「知識として知っていて当たり前☆」という感じで聖書を引用されることが結構あるんですよね。

 そういう時、よく「いい言葉だなあ」と思ったりしていて、わたしが最初に思ったことというのが「キリスト教徒になるつもりはまったくないんだけど、聖書を文学的に読んで詳しく知りたい」ということだったかもしれません。そしてキリスト教についてある程度大枠で理解できるようになったとしたら、次は仏教について調べて、最後にイスラム教についても出来れば調べよう……何かそんなふうに思っていたと思います。

 ところがこの聖書……その昔もまったく同じことを思って読みはじめたことがあるのですが、すぐ挫折した記憶があり、今度はかなり詳細な注解付きのものを図書館で借りてみたのですが、さっぱり意味がわかりません(笑)

 そんなわけで、「これは教会へ行く必要があるなあ」と思い、まずわたしがしたことというのが、「電話帳で教会の電話番号を調べる」ということでした。もちろん、町の中を歩いていれば、それまでにも十字架がてっぺんにある建物というのには何度も遭遇してはいました。でも結局キリスト教に関して知識がありませんから、突然訪ねていっていいものなのかどうかもわかりません。

 そこでまあ、まず最初に電話で聞いてみようと思ったのです。そしたら、わたしがちょうど休みの日に礼拝があったので、早速行ってみるということにしました。いえ、この時もわたし、電話をかける前に神さまに祈ったことを今も覚えています。「神さま、どこの教会に行ったらいいのかさっぱりわかりませんが、カルト宗教やおかしな金銭を要求してくる団体などと関わるのは嫌です。またもしあなたが本当の神であるならば、正しい教えの場所に連れていってください。それと、もしそこの教会にどこかおかしなところがあったら、わたしは二度とキリスト教の神は神でないとして信じないことにしようと思います」……といったように。

 というのも、電話帳を見てみると、教会って本当にたくさんあるんですよね(@_@;)

 そしてその中でわたしが真っ先に排除したのがエ○バとモ○モン教でした(笑)このふたつの宗教については、割と身近に信仰されてる方がいたり、あるいは勧誘される方が来られたことがあって、個人的に非常に不信感を抱いていたというのがその理由です。

 でもこのふたつを除いても、教会っていうのは本当にたくさんあります。福音派、ルーテル派、バプティスト派、メソジスト派などなど……今は大体のところある程度、同じプロテスタントでも「そういうことなんだな☆」とわかっていることが当時はまったくわかりませんので、とにかく神さまに祈ってからそこに電話して決めたのでした。

 何分、「なんか変な集まりだったら速攻帰ってこよう」という頭があるため、ただ教会へ行ってみるということはそんなに大変なことでなかったような気がします。「先日、電話した者ですが……」という感じで会場になってる場所に入っていって他の4~5名おられる方が礼拝を守る様子をただ黙って見ていました。

 けれども、あとになってみればそれが「聖霊さまの働き」ということだったと思うのですが、この時にわたし、まったく全然意味がわからないながらもイエスさまの受け容れをして信じたのです。とにかく、その場所にいる牧師さんや信徒の方というのが「本当に心から神を信じている」っていう神聖な空気のようなものがあって、礼拝の間中何をやってるのかさっぱりわからないんですけど(牧師さんのメッセージも、今ではまったく記憶にありません・笑)、「あ、これは本当だ」みたいなことが直感的にすぐわかったというか。

 でもあとになってみると、自分は本当にただラッキーだっただけなんじゃないかなと、そう思ったりしました。その後、引越ししたりなんだりといったこともあって、同じプロテスタントの別の教会などにも通ってみたのですが――わたし自身の感じた印象としては、最初の教会以外の場所では自分は救われることは絶対なかったな~とそう思ったので

 なんにしても、もともと本を読むこと自体は好きなほうなので、早速聖書を購入して読みはじめました。牧師さん御夫妻が「まずは新約聖書から読みはじめるといいよ☆」とか「よくわからないと思ったら、そういう時は最初は読み飛ばすくらいでいいから☆」とおっしゃっていたのですが、まあわたし、一字一句律儀に読んでいきました(笑)

 そしたら、自分ひとりで読もうと思った時にはまったくわからなかったことが次々に開かれていったという、そんな感じだったと思います。そして新約聖書を読み終わる頃には、「こんな分厚いものを読まなきゃ信徒になれないだなんて、おかしいじゃないか」と前から思っていたことや「第一、知的障害者の方などはどうするのだ」といった疑問も解けましたし、この時にそれまで蓄えていたキリスト教関係の知識といったことが初めてすべて生きるようになったといっていいと思います。

 わたしの場合、おそらく<この時>でなければまず間違いなく神さまを信じるとか、イエスさまのことを受け容れるということはなかったような気がします。何故といって、凄く悩んでいて自殺することを考えているような時にこそ、神さまはその人の前に現われて救うべきではないか……と思いますが、わたしの場合、その時に神さまのこと、イエスさまのことを誰に語られても信じることはなかったと思います。何分、「もし神さまがいるのなら、△△みたいなことがどうして起きるんだ」といった頑なな心を持ってる時には、どんなに理路整然と神さまのことを語られても、それがどんな素晴らしい神でも信じるのは困難だ、とでもいうのでしょうか(^^;)

 けれど、そういうところも越えてしまうと、今度は心が少し柔らかくなっていて、信じる余地が出てきます。わたしの場合は、たまたま「人の役に立つ」ためにも、宗教の力が必要だと思ったのが良かったのかもしれません。でもキリスト教徒、クリスチャンっていうのは、日本の文化の中では完璧アウェーということが多いのではないかと今も思うんですよね(^^;)

 なので、神さまの御心によって建てられた病院のような場所があって、職員の方も全員キリスト教的理念で一致しており、最先端医療も施す傍ら、熱心に相手の方の回復のためにも祈る――といった病院がもし仮にあったとしたら、どれほどの奇跡がその中で起きてくることだろう……というのは、イエスさまを信じた時からわたしが漠然と感じ続けていることかもしれません。

 なんにしてもわたしの場合は、1.自分なりに仏教・自然的な神さま・八百万の神さま的なものを信じる、というところから信仰の道がはじまって、その後祈りが聞かれないことをはっきりと悟り、2.無神論になって死ぬことを考える、でもその後どうにか自力で回復し、3.キリスト教の神さまであるイエスさまを信じるに至った……ということだったと思います。

 それでは、この続きについてはまた次回ということにしますねm(_ _)m

 ではまた~!!





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