>>神に見捨てられたと感じることがあっても、
その感情に左右されずに神を信じ続けるとき、
あなたは最も深いレベルで礼拝しているのです。
この言葉はわたしが考えついたものではなく、『祈りの日記~人生を導く5つの目的~40日の心の旅~』(リック・ウォレンさん著/パーパス・ドリブン・ジャパン刊)という本の中に書いてあることだったりしますm(_ _)m
この本の中で、リック・ウォレンさんは「人生は目的を持った旅」であると述べておられます。
宗教的なことを抜きにしたとしても、このことに同意される方はとても多いでしょう。
また、大抵の本屋さんでは、キリスト教や仏教、イスラム教などの棚の近くに、スピリチュアル系の本やいわゆる自己啓発本的なものが置いてあるものですが(笑)、こうした自己啓発系の本の中では、人生の旅の目的=自己実現といったように書いてある場合が多いのではないでしょうか。
いえ、わたしはこうした自己啓発本なども結構好きですし、「あなたの夢を叶えるための20のレッスン」的な、そうした本の中にはいいことが書いてあったりもして、特にベストセラーになっているものなどは、「ベストセラーになるだけのことはある」と感じることが書いてあったりして、実人生の参考にもなるものだと思います。
ただ、クリスチャンにとっての人生の旅の究極の目的は神、また、神さまにある人生を求めること、死後の人生、天国へ行くことが究極の人生の目的なのであって、それ以外のことはすべて過ぎ去っていく一時的なものだ……といった視点から自分の人生を俯瞰して見る、ということになると思うんですよね(^^;)
「わたしは一体なんのために日々あくせくして生きているのか」といったことは、旧約聖書のヨブ記や伝道者の書などにも言及のあることですが、神さまの視点から見た場合、すべての人は「神さまの喜びのために造られた、永遠に生きる存在」ということなんですよね。
でもこうしたことについては、言葉としてそう聞かされても、「なんかキリスト教においてはそうらしいよ」といったことであって、「そのことを実感する」ためには、教会でイエスさまのことを信じる告白をし、聖霊のバプテスマを受ける必要があり……その時点で、多くの方にとっては「ん?なんだそりゃ?」的なことになるかもしれません。
また、「神さまの喜びのために造られた」っていうけど、クリスチャン・ノンクリスチャンの別なく、今回の新型コロナ・ウイルスのように降りかかる人生上の災難などには、大きさや小ささの差こそあれ、大して違いなどないのでは……との疑問もあることでしょう。
けれども、キリスト教においては、もし簡単にたとえるとしたなら――
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
の、このイロハの部分ですね。
これがわたしたちの地上で生きる人生であって――死後に天国へ行って神さま、イエスさまと過ごす永遠の時間というのが、「にほへと~ゑひもせす」の部分に相当するというわけです。
ゆえに、この部分に目を留めた場合……地上でどんな悲惨や恥辱を経験しようとも、「にほへと~ゑひもせす」の永遠を思って、「いろは」の部分についてはいかようにしてでも耐え忍ぼうという、キリスト教においては死後の人生について(ざっくり☆言ったとすれば)そのように教えていると言っていいと思います。
また、イエスさまが十字架上でわたしたち全人類のために罪のための血の贖いをしてくださったことを思えば、いかようにしてでも耐え忍ぶための力を聖霊さまを通して与えていただけることであり――すべてのクリスチャンはそうした殉教者的なことを心の中で捉えているものだと思います。
でも、いつでもそんなに重々しいことばかり考えているかといえば、やはり実人生といったものに対応して生きている部分も大きいですから、基本的には「神さまにある喜びの、祝福された人生」について思いを馳せ、自分を取り巻く環境がどうあれ喜びや幸福に包まれていることのほうが多い、とは思います(^^;)
ただ、今度の新型コロナ・ウイルスのように……究極、世界の物流がもし仮に長期に渡って遮断されたとしたら、色々と難しい問題というか、「絶望のどん底」と呼ばれるところへ精神的・肉体的・経済的に落ち込まざるをえないという側面があって、「その時我々はどうするのか」という問題は、今も色濃く残っていると思うんですよね。
まず、世界の物流が長期に渡って遮断せざるをえなかった場合、まず日本は食糧自給率が40%くらいなので困ることになるし、またエネルギーのほうも自国だけでは賄えなくなる問題があると聞きました
この場合、アメリカやロシアやフランスなど、食料自給率が100%を越えている国は暫くなんとかなる、だが、自国の将来的なことも考えて、こうした国が輸出のほうも控えるようになると……日本のように輸入に頼っている国は非常に困ることになるだろう、という話。
国策として、これからこうしたことも考えていかなくてはならないだろうということなのですが、自分的に思ったのがやっぱり、旧約聖書の創世記にあるヨセフの話だったりします(^^;)
ちょっとこの話を続けると長くなるので飛ばしますが、とにかく、マスクやティッシュペーパーやトイレットペーパーがないというだけでも……というより、マスクは別として「なくなるかもれしない」というだけで、これだけの混乱が起きるということは、食料がなくなったり、その他今まで当たり前のようにたくさんあった生活用品がなくなったとすれば――ほんと、隣人愛などという言葉は即座に吹き飛ぶのではないかと思いますし、そうした状況下でも神さまに感謝し賛美し祈り続けることが出来るかどうか……ここは本当に信仰の分かれ道、もっとも信仰の試されるところではないかという気がします
それではまた~!!
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