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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしは何のために生きているのか?

2021年09月27日 | キリスト教

 >>というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙、第11章36節)


 クリスチャンの方にとって、おそらくこの答えはそんなに難しいものでないと思います。

「神さまのため、イエスさまのため、そして聖霊さまの喜びのために生きているのです」


 >>私たちは目に見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。というのは、見えるものはいつかなくなりますが、見えないものは永遠に残るからです。

(コリント人への手紙第二、第4章18節)


 また、この世で起きるすべてのことはいずれすべて過ぎ去ります。そして、そうした「神さまの視座」に立った場合……人間にとって一番重要なことは、神さまの永遠の計画の一部として生き、そして死んでからのちは不滅の魂を得、その永遠の中へ入っていくことが出来るということです。

 もっとも、もし仮にノンクリスチャンの方がこう聞かされたとしたら――「へえ。それがあんたらキリスト教徒さんの考え方かね」くらいなものではないでしょうか。

 それに、クリスチャンの方であっても、「教義として『いずれそうなる』ことはわかっているにせよ、それは死んでからのちのことであって、オレは今現在自分の実人生で重い悩みを抱えてるんだっつうの!」という場合というのは、ままありうる……というよりたぶん、よくあることなのではないかという気がします。

 そうした人生上の悩みに関し、わたしはすべて答えられる叡智というものをまったく持ち合わせてないにしても――同じように「教義としては~~ということらしい」という言い方をあえてするならば、この世で起きることのすべては、「神さまのテスト」だということらしいのです。

 これは、わたしが読んだキリスト教関係の本に書いてあったことで、わたし自身は同じクリスチャンとしてその答えに深く同意することが出来るとはいえ……一方、この答えに承服しかねる人々の気持ちというのも、実によくわかるわけです。

 たとえば、なんらかの災害で自分の家族や家を失った場合、ヨブ記のヨブではありませんが(彼もまた、そのような過酷な試練に合った人でした)、「わたしは裸で生まれてきた。だから裸でかしこへと帰ろう」とは、とても言えないものです。また、昨今人類を悩ませ続けている新型コロナウイルスに関していえば、「神さまって、なんて意地悪なんだろう」と思うのが普通と思うのです。

 もちろん、その本に照らしていえば、「人生は一時的な務め」であって、この世、この世界、わたしたちが現在住んでいる場所、住居も――あくまで仮の住まいであって、わたしたちの故郷である天国にこそ、わたしたちの家、住むべき場所、わたしたちの属すべき本当にして本物の世界があるということなのでしょう。

 けれども、わたしはクリスチャンになって以降、結構長い間、こんなふうに考えていた気がします。「この世における安逸や安楽を貪るような生活でも、神さまからどうにかお目こぼしいただいて、出来る限りそんな人生を送りたい。そして、あとは心になんの咎めも感じることなく、死んだあとはエスカレーターにでも乗るみたいにして、天国へ行きたいな。行けたらいいのにな」と。

 言うまでもなく、現実の世界には日々戦いや葛藤があり、そんなうまいこといくものではありません(笑)。わたしにはわたしの、わたしにとっての負うべき十字架があり、それは他のどんな人にとっても、大なり小なりそうでしょう。

 では、キリスト教徒とノンクリスチャンとで、何がどう違うのかというと……わたしにとってはこの十字架というものが、神からの祝福であるとわかっている点です。普通、十字架というと、自分の重い罪を背負うであるとか、なんらかの不幸の十字架を負うという、そのようなイメージではないでしょうか。

 ところが、マーリン・キャロザース先生の「神さまへの感謝と賛美」という生活を実践していると、最初はこの触りたくもなければ見たくもない、「なんでオレがこんなもん背負わなきゃなんねーんだ!」、「オレが一体人生でどんだけ悪いことしたってんだよ!」という十字架が――確かに変わってくるのです。むしろ、自分からキスして愛撫してもいいくらいのものに……もっとも、十字架の見た目は変わりません。他の人から見た場合も、「あの人も可哀想にね。あんなものを背負わされることになってさ」という、何かそんな感じでしょう。

 けれども、わたしと神、イエス・キリストと聖霊さまにはわかっているわけです。この十字架があればこそ、わたしの人生に対する傲慢にして高慢な態度、あるいは人を押しのけででも自分が得をしたいと感じる欲望や、そうした善なる徳といったものとは真逆のものとは縁を切り、神との正しい関係において人が幸福になるとはどういうことか、そのことが本当の意味でわかってくる、という意味において。

 確かに、神、イエス・キリストと正しい関係になくても、この世界に幸福な人はたくさんいるかもしれません。また、イエス・キリストの十字架を通して聖化されるという経験を経なくても、人間として善なる徳を積むような、そのような生活態度の方もおられると思います。

 でも、個人的にキリスト教の偉大と思うところは――神の目から見ればわたしのようなゴミ、チリに等しい存在についても、目を留め、心に留めてくださるというその点です(実際のところ、そんなことをしたところで神さまにはなんの得にもならないわけですが、ゴミやチリのような存在さえも大切にしてくださる……ということにこそ、神さまの愛があるのでしょう)。


 >>今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

(コリント人への手紙第一、第4章13節)


 >>私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

(ピリピ人への手紙、第3章8節)


 >>わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。

(イザヤ書、第43章4節)


 さて、リピート、アフターミーなどとは言いませんが(笑)、「わたしはなんのために生きているのか?」、それは神、イエス・キリストのためです。

 ただし、他の方もそうかもしれませんが、これから先、人生が実際に終わり、魂が天国へと向かうその日まで――この世界では色々なこと、様々な事件があるに違いありません。

 SF小説などでは、「その惑星の人類は細菌によって滅びた。その顛末はこうである」という設定というのは、珍しいものでもなんでもないと思います。けれども、新型コロナウイルスによって、如実にそのことが突然にして現実味を帯びたように……これからもきっと「まさか、そんなことが起きるなんて!?」ということがきっとあるのだと思います。

 でも、クリスチャンの生活というのは、そうした中にあっても永遠にして不変です。ただ、人生の表面を流れる部分や盤面に変化があるにしても、核の部分、魂の部分においては、なんら変わりがないと言いますか(^^;)

 先日、「コロナ後の世界は、コロナ前と同じであってはならない」という言葉をラジオで聞いたのですが、本当にそのとおりだと思いました。「コロナ後の世界は前以上に必ずきっとよくなる」……そう信じて、祈る者とされたいと願っています

 それではまた~!!






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