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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

死とは神の高等なジョークなのか?

2019年10月21日 | キリスト教
【祝福された者の上昇(天国への上昇)】ヒエロニムス・ボス


「臨死体験」のウィキぺディアのページには、<臨死体験のパターンと経験者の変化>というところに、臨死体験のパターンとして、次のように書かれています。


   臨死体験のパターン

 臨死体験には個人差がある。ただ、そこに一定のパターンがあることは否定できない。

・死の宣告が聞こえる

 心臓の停止を医師が宣告したことが聞こえる。この段階では既に、病室を正確に描写できるなど意識が覚醒していることが多い。

・心の安らぎと静けさ

 言いようのない心の安堵感がする。

・耳障りな音

 ブーンというような音がする。

・暗いトンネル

 トンネルのような筒状の中を通る。

・物理的肉体を離れる

 体外離脱をする。

・他者との出会い

 死んだ親族やその他の人物に出会う。

・光の生命

 光の生命に出会う。神や自然光など。

・省察

 自分の過去の人生が走馬灯のように見える。人生回顧(ライフレビュー)の体験。

・境界あるいは限界

 死後の世界との境目を見る。

・蘇生

 生き返る。



 ……正直、一般的にいってこのことを完全に否定する、否定できるという方は少ないのではないでしょうか(^^;)

 時々、「世界びっくりナントカ☆」系の番組などで、こうした臨死体験を扱った再現映像を放映することがありますが、わたしもこうしたことは実際あるだろうと思っています。

 そして今回のタイトルは、「死とは神の高等なジョークなのか?」なわけですが、こうしたことがもし事実であれば、人は科学的な意味で<死>というものを恐れる必要はなくなるのではないでしょうか。

 だって、そうですよね?「神のみぞ知る」のところでも書きましたが、こうした理論でいくと、たとえばわたしが交通事故に遭って脳に酸素のいかない状態が4分以上も続いたとすれば――続く約1時間の間にどの程度の蘇生活動が敏速に行われるかが、わたしの命が助かるか、それとも死ぬのか、あるいは助かった場合、どの程度の後遺症が残るかは、事故後1時間にかかってくるところがとても大きいと思います。

 そしてわたしがもし、救命センターのお医者さんの努力も虚しく死んだといった場合……この<死>というのは、たとえて言うなら突然ブツッとブレーカーが落ちてあたりが暗くなり、何がなんだかわからなくなった、といった感じのものではないでしょうか。

 つまり、わたしは<死そのもの>を意識することなく死ぬに至ったということであり、もし<死>というものがそのようなものであるなら、わたしたちは死に至る前の苦痛については「どの程度苦しまねばならないか」、「痛みを感じなくてはならないか」と不安になり心配もしますが、実は<死そのもの>については恐れる必要がないかもしれないのです。

 また、この過程で「死ぬのではないかと思われたところから甦ってきた」場合、上記の臨死体験的な経験をされる方がいるというのも、統計的な意味で本当のことでないかと思います。

 ところで、「脳外科医マーシュの告白」という素晴らしい本があるのですが、個人的に思うに、病院の全診療科目中、内科や消化器外科といったお医者さん以上に、一番神のことなど信じられない、神などいないと確信するのは、脳外科の先生ではないかという気がしています(^^;)

 何故かというと、手術中、自分の手元がほんの1ミリ狂っただけで……その際、ついうっかり正常な神経を傷つけてしまったとしたら、術後、患者さんの意識が戻ってこなかったり、植物状態になったり、あるいは体のどこかに麻痺がでるなど、そうした後遺症が出てしまうわけですから。

 本の中には、マーシュ先生がベテランになる前に、どのような失敗をして一人前の専門医になったのか、またベテランになってからも、脳外科の難しい手術の場合には当然失敗する可能性もあるということなど、日本のお医者さんであれば決して語ることはないであろう脳外科医の仕事についてかなりのところ赤裸々に語られています。

 それで、マーシュ先生は無神論なのです。死後が無の暗闇でも、そのことになんの問題があるだろう……という死生観と思うのですが、これは科学的な意味で、先ほど書いた<死>とは突然ブツッとブレーカーが落ちて、何がなんだかわからなくなるといったようなことであり、あるいは寝ている間に脳卒中で死の苦痛や恐怖を感じずに突然死ぬ、あるいは心臓発作でぽっくり死ぬ――というのがマーシュ先生にとっての理想の死ということでした。


 >>神経科学は、魂なるものがありそうにないと、わたしたちに告げている。わたしたちが考えていること、感じていることはなにもかも、ニューロンの電気化学的なお喋りにすぎない。「自分」という認識や、感情、思考、他者への愛情、希望、野心、憎悪、恐怖といったものはすべて、脳が死ぬと同時に消えてなくなる。

 ところが、こうした考え方に強い憤りを覚える人は多い。そんなふうに考えれば、必然的に死後の世界に行く権利が剥奪されてしまううえ、思考そのものがただの電気化学的現象にすぎないことになってしまうし、人間自体がたんなる自動人形、すなわち機械に格下げされてしまうからだ。だが、憤る人たちは大きな誤解をしている。というのも実際には、たんなる物質にすぎない脳がはてしなく神秘的で理解できないものに格上げされているからだ。

 ヒトの脳には、約千億個ものニューロンがある。はたして、そのひとつひとつに意識のかけらがあるのだろうか?意識をもったり、痛みを感じたりするためには、いったいいくつのニューロンがあればいいのだろう?それとも意識や思考は、千億個ものニューロンをつなげる電気化学的なインパルスのなかにあるのだろうか?カタツムリにも意識はあるのだろうか?あなたに踏まれると、カタツムリは痛みを感じるのだろうか?答えは、だれにもわからない。

(「脳外科医マーシュの告白」ヘンリー・マーシュ先生著、栗木さつきさん訳/NHK出版より)


 さて、わたしも「確かテレビでそんなことやってたよーな☆」くらいのうろ覚えで申し訳ないのですが(汗)、上記の臨死体験といったことについても、科学的に説明は可能だそうです。

 つまり、人はその肉体が極度に傷ついたり、死に瀕しているといった場合――心身が防衛反応をとって、痛みをまったく感じなくなったり、脳が快楽物質をだすことさえして、心身を守ろうとすることがあるそうです。そして、そのような脳内物質が放出されたことにより、わたしたちは脳内で「ここはなんていう綺麗な場所だろう」、「あ、虹の向こうから何年も昔に亡くなったはずのお母さんがやって来る」……といったような、そうした共通の体験をすることがあるのではないか、ということでした。

 こうした不思議な体験をして戻ってきた方は、そうしたお話を家族や身近な方にされることがあるでしょうし、またそのままお亡くなりになったような場合でも――その方が虹を越えて向こうへ行かれたような場合、その方の<死>そのものはいいものであったと言えはしないでしょうか。。。

 ただし、こうした問題についてはとにかく「確かめようがない」というのが何より問題なわけですよね(^^;)そしてわたしはイエスさまの十字架の死とその三日後の復活、死からの甦りを信じている者であり、死後にはイエスさまの治めておられる天国へ行くことを当たり前のように信じています。

 もちろん、こんなことを言っても信じない方もおられるでしょう。けれども、今回のトップ画のヒエロニムス・ボスの絵を見てください。天国へ行ける方は極少数であり、それ以外の人々は悪魔に邪魔されて光り輝くイエスさまのおられるほうへ行くのを阻まれています。

 わたしたちの今ある意識が死に、物質的な縛りから解放され、次の段階へと進みゆこうとする時……もしこのようなことが起きるとしたら、とても恐ろしいことだと個人的にはそのように感じてしまいます。

 人間の脳にはゴッドスポットと呼ばれる未知の領域があるそうですが、脳の機能についてかなりのところわかってきていながらも、まだ謎に包まれている領域内にこのゴッドスポットという場所も含まれるそうです。簡単にいうとすれば、ここは<神を感じる回路>のようなところであり、たとえば「神からの語りかけを受けた」といった、そうした人の神秘体験にはこの領域が関わっているらしいのです。

 何故そのような場所が脳の中にはあるのか――まだその理由などについては、はっきりしたことはわからないにしても、あくまで科学的根拠のまったくない個人的な私見としては、人が臨死体験を経験するといった場合、こうした普段あまり人が意識して使っていない領域についてもレベルが最大限に上がったことにより、色々と不思議な体験をする可能性というのがあるのではないでしょうか。

 じゃあ、聖書のイザヤやエレミヤの脳もおそらくは、神からの語りかけを受けた時、脳のその領域が非常に活発に活動していたということなんだろうね……という、わたしが言いたいのはそうしたことではなく、どうやらわたしたちの脳にはトンネルのような抜け道があるのではないかということなのです。

 脳という、重さにして約1.5キログラム程度の、それだけを取りだしてみれば非常に脆弱な物質に、わたしたちにとって非常に貴重で大切に思われる思考という非物質的なものが宿っているという不思議――わたしたちは死ぬ時には霊となり、物質的な束縛という壁をとうとう越えます。けれども、ある別の考え方によれば、「最初から壁などない」ということでもあるのではないでしょうか。

 ただし、この<死>という最後の壁を越えようかという時……足を引っ張るような邪悪な存在がいたとしたらと思うと、個人的には非常にゾッとします。わたしたちが死んだあと、目の前には光り輝くばかりの神の光だけがあった――というならいいのですが、なんとなくわたし、それと同時にというのか、自分がもしイエスさまの恵みに浴してなかったらどうなっていたかという、別の道も示されるかもしれない……と思ったりもするのです(^^;)

 つまり、それが今回のトップ画のヒエロニムス・ボスの絵で、わたしの魂がイエスさまのおられる光あふれる世界へ抜け出す前に、悪魔たちがやって来て、無の暗闇よりも悪い世界へ引きずり落とそうとするのを、そのあと天使が来て助けてくれるといったようなことです。


 >>狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

(マタイの福音書、第7章13~14節)


 この狭い門というのは、イエスさまへと至る天国に続く門のことであり、滅びに至る門というのは、サタンたちのいる地獄へと続く門のことです。

 あえて比較的婉曲な言い方を致しますと、科学的事実が示唆するとおり、実は魂などなく、人の死後は無の暗闇であったとして――けれども、その中に極少数、天国へ行く人々がいたとしたらどうでしょうか。

 しかも、天国へ行くにはわたしたちの生前の善行ではなく、必要なのはただ<イエス・キリストは神の御子である>と信じているという通行手形、基本的にはそれだけなのです。

 逆に言うとしたら、「たったそれだけのもの」がないというだけで、「おまえの魂はこっちだ」と悪魔たちに暗闇の世界、地獄へと連れていかれるのだとしたら……これほど恐ろしいことはない気がします。また、キリスト教では生まれ変わりを認めていませんが、仮に天国へ行けなかった人々の魂は生まれ変わるのだとしてみましょう。

 また、そのような死生観によって生き、死ぬ間際に「また人は生まれ変わるから」ということが、死への恐怖との妥協点であり、そのことに安らぎを感じつつお亡くなりになる方もいらっしゃると思います。わたしもそのことを否定したいわけではないのですが、でも正直、「生まれ変わる」ということが何故救いになるのか、わたしにはよくわからないのです(^^;)

 つまり、「また生まれ変わりたい」ということは、その方の人生がとても満ち足りていて幸せなものだったらそう感じられるかもしれませんが……次の世ではもっと条件の悪い中で生まれるかもしれませんし、比較的条件よく生まれ、幸せであれば耐え忍べたことも、最悪の条件の中、その上何故か不幸なことばかりが続いた……といった人生を与えられた方にとっては、その後苦労の末、束の間幸福を得た――といった場合でも、その方が果たして「生まれ変わりたい」と感じられるかどうかというのは謎ではないでしょうか。

 個人的な意見ですが、そうした意味で輪廻転生というのは、究極的な人間の魂の救いではないという気がするのです。もちろん、日本人の死生観としては、キリスト教のような「人は死後、天国か地獄へ行く」という教義よりも、輪廻転生、生まれ変わりといった考え方のほうが馴染みやすいものではあるでしょう。

 こうして考えていった場合……個人的にはやはり、キリスト教の天国へ行けるのが一番最善のような気がします。そもそもこの<天国>という言葉自体、キリスト教に固有の言葉であり、仏教では天国に近いものは極楽浄土ということなのではないでしょうか(^^;)

「天国保険に入りませんか?」のところでも書きましたが、個人的に思いますのに、イエス・キリスト、イエスさまのことを信じておいて損をするということだけは絶対ない気がします。何故といって、イエスさまのことを信じる信仰告白をした時点で、悔い改めた罪についてはすべて赦していただける、また、死後には天国へ行けることまで約束されるのですし、こう言葉や教義だけで人が信じられないとわかっていればこそ、神さまはイエスさまを信じる人々に、その保証として聖霊さままで送ってくださったのですから!


 >>聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちない者によみがえり、私たちは変えられるのです。

 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。
 死よ。おまえのとげはどこにあるのか」

 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

(コリント人への手紙第一、第15章51~57節)


 >>死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

(コリント人への手紙第一、第42~44節)


 >>主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

(ローマ人への手紙、第4章25節)


 >>キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

(エペソ人への手紙、第2章14~16節)


 生と死を隔てる、わたしたちの目の前にある壁さえも、神さま、イエスさまによってすでに取り除かれています。また、イエスさまはそのためにこそ、十字架にかかってわたしたちの罪のために血を流し、宥めの供えもの、生贄となってくださいました。

 こうして、死の棘がすべて十字架上で抜かれたことにより、イエスさまを信じる者にとって死とは、恐れるべき敵ではなくなったのです。死んだあとは無の暗闇だなんて、昔自分でそうずっと信じていただけに、それよりも上の神の光の御心に目を留めるほうが――より豊かな生を生きられるのではないかと、今わたしはそんなふうにすっかり考え方が変えられてしまいました。

 そして、神さま、イエスさまの素晴らしい御業というのは――信じられない者を信じる者へと変えてくださるという、そうした領域にまで及んでいるのですから!

 それではまた~!!






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