
【聖パウロの回心】カラヴァッジョ
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。
「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか」
こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは彼らに言われた。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。
(マルコの福音書、第6章1~6節)
イエスさまは他の箇所で、「自分が神の子であると信じられなくとも、業を信じなさい」とおっしゃっているわけですけど、実際多くの方がイエスさまのなされた<力ある業>によって彼のことを神の子、神の遣わされた方、力ある預言者、エリヤの再来……といったように信じていたわけですよね。
ところがイエスの出身地の方々は、「おいおい。小さい時から知ってるヨセフの長男が突然自分のことを<神の子>だのと言いだしたらしいぞ。ちょっくらからかってやるべ☆」という感じで(いえ、実際はわかりませんけど^^;)、とてもイエスさまのことを信じられなかったわけです。
ここでもやはり、人間にとっての理屈が勝ったことにより、それが真理を覆う目隠しの役割を果たしてしまったのでしょう。彼らがもし人々の重い患いでさえも癒すことの出来る力をただ信じてさえいたら――イエスさまはご自分の郷里でこそ、もっとも大きな業をなさってくださったかもしれません。
でももちろん、このナザレの人々の気持ちはわからなくもないですよね(^^;)
たとえば、わたしの兄が突然「わたしは神の子です
」とか言い出したら、「お、お兄ちゃん大丈夫?
」ってなったでしょうし、仮に近所のとても評判のいい三十歳くらいの男性が同じことを言ったとしても、「
」、「
」、「
」、「
」、「
」……という、絵文字で表わすとしたらこんな感じのことのような気がします。
イエスさまの兄弟たちも最初は信じてなかったわけですが、のちに信じて信仰の道に入った……というのは、実際すごいことのような気がします。いえ、身近な人間であればこそ、信じるのが難しいっていうのはすごくわかるんですよね。聖パウロは、最初はイエスさまの迫害者だったわけですが、「目からうろこのようなものが落ちる」ことによって、最初は迫害していたイエスさまのことを受け容れたと言います。
きっとイエスさまの兄弟・姉妹・親類縁者などにも、そうした<目からうろこが落ちてはっきりと神さまのことが見えるようになる>瞬間があったに違いありません。
けれどこの<うろこのようなもの>が心の目を覆って塞いでいる間は、イエスさまのことを人は「はっきりと見る」ことが出来ないというか、彼の歩んだその後ろに続く真理の道が見えないままで終わってしまうのかな、というか(^^;)
わたしも小さい頃から祈ることが好きな子だったのに、その後成長する過程で苦しいことやつらいことがあり、「神さまなんていないし、祈っても結局無駄なんだ」と思うに至ったわけですけど、<神さまを信じるためにある程度心の状態が整った時>に、イエスさまのことを信じることが出来て、本当に良かったと思います。
たとえば、わたしの場合<苦しくてつらい時期>に死ぬことも考えていたのですが、その時にもし誰かがわたしにイエスさまのことを語ったり、福音の原理について宣べ伝えてくださったとしても、おそらく無駄だったと思うんですよね。普通に考えた場合、「そのような時にこそ神さまは現れて、何がどうでも信じる道へ連れていってくださるべきではないか」と人間的には思うわけですけど、あの時のわたしが教会へ行ったりしても、「キリスト教っていうのはこんなものか。ふうん☆」で、終わっていたかもしれません
でもそうではなく、介護の仕事を通して「誰か人のために自分にも出来ることがあるんだ」とわかった時に、宗教について色々調べてみようと思ったのです。というのも、脳卒中や交通事故によって意識不明状態の方のいた病棟だったため、この方々の<意識>は今どうなっているのか、またそうした方々の介護を続けるには、宗教の力が絶対に必要だと直感的に思ったというのがあります。
といっても、あんまり介護が大変で、自分の心も体も弱りきり、宗教に頼ろうと思った……というのとは全然違いました。世界の三大宗教と言われるキリスト教・仏教・イスラム教など、そのうちのどれも本当の神とはわたしは思わないが、また他にどこかに神がいるとも思わない……いや、でももしかしたらやっぱりいるかも……という、精神的には大体そんな感じだったと思います。
あと、日本人がおそらく一番好むのは、仏教+アミニズムの神だと思うのですが、わたし、北海道出身のせいか、そうした自然神に惹かれる気持ちは物凄くよくわかります。というのも、わたし自身が死ぬことや自殺することを考えていた時、奥深い自然の中に入っていくことで、物凄く心が癒されたからなんですよね。
と同時に、その時にいくらか神秘的な体験をして、この「自然が魂に直接訴えかける濃密な感覚」のようなものをもしわたしが正確に言語化できたとしたら、新しい宗教の開祖になれそうだと思ったほどでした(笑)
けれど、自然は人の心の奥深いところで魂を癒し救ってくれはするけれども、かなりのところ人の力に対しては無力という気がします(^^;)人から悪意を受けた時に落ち込んだ心を癒してはくれるけれども、もう少し能動的に働きかけて、その<人間の悪意そのもの>にまて働きかけて何か状態を変えてくれるとか、そうした存在ではないというか。
ただ、個人的にそうした力に<精霊>と名づけて祀ったりといった、古来より続く人間の思想については物凄く理解できるというのはあって、わたし自身今も<彼ら>は何者なのだろうと思っていたりもします。けれど、聖書の詩篇には「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」とありますから、それを<知る>ということはおそらくわたしが生きている間は決してないでしょう。
それはさておき、海外の小説を読んでいるとよく聖書の句の引用などがあって、昔からそれらを素敵だなと思っていたこともあり、わたしがまず一番最初に知りたかったのは、キリスト教のことでした。ようするに、「信じる気はないんだけれど、聖書を文学的に読んで理解できるようになりたい」と思ったんですよね。
でも、注釈付き聖書を読んでもさっぱり理解できず、「お手上げ☆」と思い、まずは教会へ行って教えを受けることにしようと思いました。他に、個人的に悩んでいることもありましたし、まあ不当に金銭をそれとなく要求されるであるとか、変なことがあったらすぐ逃げればいい……そんな気持ちで一度教会へ行ってみることにしたのです。
いえ、なんというかもう、一度信じるとなったらあっさり信じた……みたいな、わたしの場合そんな感じだったような気がします(^^;)
べつに変に洗脳されたというのでもなく、今にして思えばそれもまた聖霊さまの助けだったと思うのですが、最初は「人間的な力」によって理解しようとした聖書も、すぐにすらすらと理解できるようになりました。
よくホテルにギデオン協会さん配布の聖書が置いてあったりするのですが、あれをどこかのホテルに泊まった時にパラパラ見てみた……という方は多いと思います。でもわたし同様「え?なんでこれが神のことばなんだ?」みたいに、理解できずに「やっぱキリスト教ってちょっとおかしいんだな☆」で終わってる方は多いのではないでしょうか(^^;)
でも教会で教えてもらったりして、自分でも家で読んでみると、「あ、そういうことなんだ!」という理解の力が与えられて、そうして初めて神さまの道が心の中に開かれていく……わたしにとってキリスト教を信じる、イエスさまを信じるということは、そんなような感じのことだったと思います。
さて、イエスさまの郷里の方々も、兄弟たちも、この時点では心の目に分厚いうろこがついている状態だったと思うのですが、兄弟たちについてはのちに、このうろこが落ちてお兄さんのことを「神から遣われた方」であると信じたんですよね。
そして、神さまに対していかに不信仰かというのは、このうろこの厚さにかかっているような気がします(^^;)
たとえば、イエスさまを神さまとして受け容れる前段階として、神さまに対するこの心の目のうろこが分厚いような生活をずっと送っていた場合――もしかしたら物凄い拒絶反応を起こす方がいらっしゃるかもしれません。それを<真理である>として認めてしまうと、それまでのこの世的快楽に浸された自分の生活が危機に瀕するために、そんなものは到底受け容れられない……といったような場合です。
ただ、仮にそうした生活を送っていたとしても、神さまのことを求める心というのは誰にもあるもので、うろこが分厚かったからこそ、すぐにポロッとそれが落ちて、イエスさまのことをすぐに受け容れられた……そんなこともあるかもしれません。
逆に、うろこが薄くはあるんだけれど、それであればこそぴったりフィット(笑)しすぎていて、それが剥がれ落ちることがない――そんなこともあるのかもしれません。
何を言いたいかというと、神さまを信じるためにはそれぞれ<時と機会>があるということでした。
もちろん、一生の間イエスさまの福音に接する機会が一度もなく過ぎてしまう方もあるでしょう。また熱心に語られたにも関らず、むしろ熱心に語られたからこそ、拒絶反応を起こす人もあるに違いありません。わたしも、自分が実際にクリスチャンになってみるまでは、「キリスト教って変だな」と思うことのうちに、神さまが「ある人を選んである人を選ばず、そしてご自分が選んだ人だけを救うらしい」というのがありました。
このあたりの説明はとても難しいのですが、でも一度キリスト教について知ってみると、「ああ、そういうことだったんだ」ということが少しずつわかってきます。なんにしても、イエスさまが直に来られた時には信じることが出来なかったナザレの人々も、のちには主の兄弟ヤコブやユダらの熱心な布教によって信じた、信じることが出来るようになった……ということだったらいいなと思ったり(聖書には直接言及はありませんけれども^^;)
それでは次回は、マルコの福音書の第6章6節から始めたいと思いますm(_ _)m
ではまた~!!
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。
「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか」
こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは彼らに言われた。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。
(マルコの福音書、第6章1~6節)
イエスさまは他の箇所で、「自分が神の子であると信じられなくとも、業を信じなさい」とおっしゃっているわけですけど、実際多くの方がイエスさまのなされた<力ある業>によって彼のことを神の子、神の遣わされた方、力ある預言者、エリヤの再来……といったように信じていたわけですよね。
ところがイエスの出身地の方々は、「おいおい。小さい時から知ってるヨセフの長男が突然自分のことを<神の子>だのと言いだしたらしいぞ。ちょっくらからかってやるべ☆」という感じで(いえ、実際はわかりませんけど^^;)、とてもイエスさまのことを信じられなかったわけです。
ここでもやはり、人間にとっての理屈が勝ったことにより、それが真理を覆う目隠しの役割を果たしてしまったのでしょう。彼らがもし人々の重い患いでさえも癒すことの出来る力をただ信じてさえいたら――イエスさまはご自分の郷里でこそ、もっとも大きな業をなさってくださったかもしれません。
でももちろん、このナザレの人々の気持ちはわからなくもないですよね(^^;)
たとえば、わたしの兄が突然「わたしは神の子です







イエスさまの兄弟たちも最初は信じてなかったわけですが、のちに信じて信仰の道に入った……というのは、実際すごいことのような気がします。いえ、身近な人間であればこそ、信じるのが難しいっていうのはすごくわかるんですよね。聖パウロは、最初はイエスさまの迫害者だったわけですが、「目からうろこのようなものが落ちる」ことによって、最初は迫害していたイエスさまのことを受け容れたと言います。
きっとイエスさまの兄弟・姉妹・親類縁者などにも、そうした<目からうろこが落ちてはっきりと神さまのことが見えるようになる>瞬間があったに違いありません。
けれどこの<うろこのようなもの>が心の目を覆って塞いでいる間は、イエスさまのことを人は「はっきりと見る」ことが出来ないというか、彼の歩んだその後ろに続く真理の道が見えないままで終わってしまうのかな、というか(^^;)
わたしも小さい頃から祈ることが好きな子だったのに、その後成長する過程で苦しいことやつらいことがあり、「神さまなんていないし、祈っても結局無駄なんだ」と思うに至ったわけですけど、<神さまを信じるためにある程度心の状態が整った時>に、イエスさまのことを信じることが出来て、本当に良かったと思います。
たとえば、わたしの場合<苦しくてつらい時期>に死ぬことも考えていたのですが、その時にもし誰かがわたしにイエスさまのことを語ったり、福音の原理について宣べ伝えてくださったとしても、おそらく無駄だったと思うんですよね。普通に考えた場合、「そのような時にこそ神さまは現れて、何がどうでも信じる道へ連れていってくださるべきではないか」と人間的には思うわけですけど、あの時のわたしが教会へ行ったりしても、「キリスト教っていうのはこんなものか。ふうん☆」で、終わっていたかもしれません

でもそうではなく、介護の仕事を通して「誰か人のために自分にも出来ることがあるんだ」とわかった時に、宗教について色々調べてみようと思ったのです。というのも、脳卒中や交通事故によって意識不明状態の方のいた病棟だったため、この方々の<意識>は今どうなっているのか、またそうした方々の介護を続けるには、宗教の力が絶対に必要だと直感的に思ったというのがあります。
といっても、あんまり介護が大変で、自分の心も体も弱りきり、宗教に頼ろうと思った……というのとは全然違いました。世界の三大宗教と言われるキリスト教・仏教・イスラム教など、そのうちのどれも本当の神とはわたしは思わないが、また他にどこかに神がいるとも思わない……いや、でももしかしたらやっぱりいるかも……という、精神的には大体そんな感じだったと思います。
あと、日本人がおそらく一番好むのは、仏教+アミニズムの神だと思うのですが、わたし、北海道出身のせいか、そうした自然神に惹かれる気持ちは物凄くよくわかります。というのも、わたし自身が死ぬことや自殺することを考えていた時、奥深い自然の中に入っていくことで、物凄く心が癒されたからなんですよね。
と同時に、その時にいくらか神秘的な体験をして、この「自然が魂に直接訴えかける濃密な感覚」のようなものをもしわたしが正確に言語化できたとしたら、新しい宗教の開祖になれそうだと思ったほどでした(笑)
けれど、自然は人の心の奥深いところで魂を癒し救ってくれはするけれども、かなりのところ人の力に対しては無力という気がします(^^;)人から悪意を受けた時に落ち込んだ心を癒してはくれるけれども、もう少し能動的に働きかけて、その<人間の悪意そのもの>にまて働きかけて何か状態を変えてくれるとか、そうした存在ではないというか。
ただ、個人的にそうした力に<精霊>と名づけて祀ったりといった、古来より続く人間の思想については物凄く理解できるというのはあって、わたし自身今も<彼ら>は何者なのだろうと思っていたりもします。けれど、聖書の詩篇には「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」とありますから、それを<知る>ということはおそらくわたしが生きている間は決してないでしょう。
それはさておき、海外の小説を読んでいるとよく聖書の句の引用などがあって、昔からそれらを素敵だなと思っていたこともあり、わたしがまず一番最初に知りたかったのは、キリスト教のことでした。ようするに、「信じる気はないんだけれど、聖書を文学的に読んで理解できるようになりたい」と思ったんですよね。
でも、注釈付き聖書を読んでもさっぱり理解できず、「お手上げ☆」と思い、まずは教会へ行って教えを受けることにしようと思いました。他に、個人的に悩んでいることもありましたし、まあ不当に金銭をそれとなく要求されるであるとか、変なことがあったらすぐ逃げればいい……そんな気持ちで一度教会へ行ってみることにしたのです。
いえ、なんというかもう、一度信じるとなったらあっさり信じた……みたいな、わたしの場合そんな感じだったような気がします(^^;)
べつに変に洗脳されたというのでもなく、今にして思えばそれもまた聖霊さまの助けだったと思うのですが、最初は「人間的な力」によって理解しようとした聖書も、すぐにすらすらと理解できるようになりました。
よくホテルにギデオン協会さん配布の聖書が置いてあったりするのですが、あれをどこかのホテルに泊まった時にパラパラ見てみた……という方は多いと思います。でもわたし同様「え?なんでこれが神のことばなんだ?」みたいに、理解できずに「やっぱキリスト教ってちょっとおかしいんだな☆」で終わってる方は多いのではないでしょうか(^^;)
でも教会で教えてもらったりして、自分でも家で読んでみると、「あ、そういうことなんだ!」という理解の力が与えられて、そうして初めて神さまの道が心の中に開かれていく……わたしにとってキリスト教を信じる、イエスさまを信じるということは、そんなような感じのことだったと思います。
さて、イエスさまの郷里の方々も、兄弟たちも、この時点では心の目に分厚いうろこがついている状態だったと思うのですが、兄弟たちについてはのちに、このうろこが落ちてお兄さんのことを「神から遣われた方」であると信じたんですよね。
そして、神さまに対していかに不信仰かというのは、このうろこの厚さにかかっているような気がします(^^;)
たとえば、イエスさまを神さまとして受け容れる前段階として、神さまに対するこの心の目のうろこが分厚いような生活をずっと送っていた場合――もしかしたら物凄い拒絶反応を起こす方がいらっしゃるかもしれません。それを<真理である>として認めてしまうと、それまでのこの世的快楽に浸された自分の生活が危機に瀕するために、そんなものは到底受け容れられない……といったような場合です。
ただ、仮にそうした生活を送っていたとしても、神さまのことを求める心というのは誰にもあるもので、うろこが分厚かったからこそ、すぐにポロッとそれが落ちて、イエスさまのことをすぐに受け容れられた……そんなこともあるかもしれません。
逆に、うろこが薄くはあるんだけれど、それであればこそぴったりフィット(笑)しすぎていて、それが剥がれ落ちることがない――そんなこともあるのかもしれません。
何を言いたいかというと、神さまを信じるためにはそれぞれ<時と機会>があるということでした。
もちろん、一生の間イエスさまの福音に接する機会が一度もなく過ぎてしまう方もあるでしょう。また熱心に語られたにも関らず、むしろ熱心に語られたからこそ、拒絶反応を起こす人もあるに違いありません。わたしも、自分が実際にクリスチャンになってみるまでは、「キリスト教って変だな」と思うことのうちに、神さまが「ある人を選んである人を選ばず、そしてご自分が選んだ人だけを救うらしい」というのがありました。
このあたりの説明はとても難しいのですが、でも一度キリスト教について知ってみると、「ああ、そういうことだったんだ」ということが少しずつわかってきます。なんにしても、イエスさまが直に来られた時には信じることが出来なかったナザレの人々も、のちには主の兄弟ヤコブやユダらの熱心な布教によって信じた、信じることが出来るようになった……ということだったらいいなと思ったり(聖書には直接言及はありませんけれども^^;)
それでは次回は、マルコの福音書の第6章6節から始めたいと思いますm(_ _)m
ではまた~!!

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