あ、今回タイトルにそんなに深い意味ないんですけど……一応念のため、
・拘泥とは=他に選びようもあるのに、ひとつのことに拘ること。
だそうです。
まあ、「意味くらい誰でも知ってらあな☆」という話ではあります。
そんで、なんでこのタイトルにしたかというと――某映画にて、ふたりの罪人が泥だらけになって争う場面を見たんですよね。そんで、両者とも泥だらけになりながら、その片方の男のほうは「殺してやる!!」と叫んでいるという。
しかもその泥まみれ具合が半端なくて、干潟というのか湿地帯なので、もうお互いの顔の見分けもつかないくらい泥まみれに泥まみれで。。。
映画の展開的に、割と最初のほうに出てくる場面なので、とりあえずこの時点ではどっちが悪いのかとかさっぱりわかりません。結局ふたりとも、脱獄して逃げるところだったのでどちらも相応に悪いことをして来たらしいのは間違いなく……ただ、このうち片方の男のほうは、主人公の男の子がパンや飲み物を持ってきてくれたことでその後改心するという。
有名タイトルの映画なので、わかる方にはすぐピンと来るかもしれないのですが、イエスさまに救われた時、人は大体こんな感じなんじゃないかと思ったりしたというか。人間、一度頭から足の爪先まで泥まみれになれば、それがどこの誰かなんて、ちょっとすぐにはわかりません。でも、そこからイエスさまの救いに与ることで、頭のてっぺんから足の爪先まで清くしていただくことが出来るわけですよね。
「人は神さまの御前に平等である」と聞いても、一般的にいって「いやあ、オレはそうは思わんがな☆」という方は多いと思います。わたしも、世界のニュースを聞いていて思うに、他にも人間の歴史を学んでいても思うに……正直、あまりそう思えないと思ったりもします。ただ、「イエスさまの福音の前に人はみな平等である」という場合、これは間違いなく確かにそうであろうと心から認めることが出来ます。
つまり、ある意味イエスさまの前に初めて出ていくという時……たとえて言うなら、わたしたちは頭の髪の先から足の爪先まで泥だらけで、神さまには誰が誰やら見分けなどつかないと思うわけです。また、イエスさまのことを信じて聖霊さまを受けると、今度はその泥をすべて洗い清めていただけるわけですが、この時にも「おまえはなんとなく気に入らないから、わたしの救いに与らせるのはちょっとどうかと思う」といった差別は一切ないという意味で、イエスさまはそんなことをする必要もないのに、ひとりひとりの汚い泥をあえて洗ってくださるという親切な方でもあるわけです。
しかしながら、聖書にも「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」(ペテロの手紙第二、第2章10節)とある通り、イエスさまを信じたその後も、やっぱり罪の泥に汚れるということはあるわけで……キリスト教においてはそのたびに悔い改めるならば赦されるというのは、ノンクリスチャンの方も聞いたことがあると思います。
このことを聞いて、「そんなんちょっとおかしいんとちゃう?」と感じる方は多いと思うのですが、これもたとえて言えば、何度泥だらけになってもイエスさまの元に行けば、また同じように泥をすっかり洗い流していただけるということなのです。もちろん、こんなことが何度も続いたとしたら——十回や二十回どころでなく、それ以上の回数続いたら——相手が人であれば、「おまえはまったくけしからん、どうしようもない奴だ」ということで見捨てるかもしれません。もしかしたら、実の親や息子さんや娘さんだってそうかもしれません。
>>聞いてください。主よ。私の呼ぶ声を。
私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。
「わたしの顔を、慕い求めよ」と。
主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
どうか、御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを、
怒って、押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
私を見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、
主が私を取り上げてくださる。
(詩篇27編、第7~10節)
>>女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ。
(イザヤ書、第49章15~16節)
また、「この世界にわたしの居場所などない」と感じている人々に対しては「あなたの国籍は天にあります」とおっしゃってくださいます。
この「国籍は天にあり」(ピリピ人への手紙、第3章20節)については、そうした読み方をわたしはしたことがなかったんですけど……たとえば、移民の方などでアイデンティティに苦しんだり、肌の色の違いや民族の違いによって疎外された経験を持つ方が、聖書のこの言葉を聞いてイエスさまを信じた……というのを聞いて、とても感動したことがあります。
つまり、そここそが自分の本当の居場所であって、地上のこの場所はただの一時的な仮の住む場所に過ぎないということです。
>>たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
(コリント人への手紙第二、第5章1~7節)
また、次のようにも聖書にはあります。
>>これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷に憧れていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
(へブル人への手紙、第11章13~16節)
クリスチャンの人々、キリスト教徒と呼ばれる人はみな、地上にあっては一時的な居留者であり、肌の違いや民族の違いなどがあっても、最終的には天国においてすべての人は神さまの御前に平等になる……というそのことにすべての望みをかけています。
もちろん、死んだあとのことではなく、自分が生きている間にそうしたすべてが実現されて欲しい、神さまが本当におられるのであれば、今すぐに奇跡の業をなさって欲しいと願われる方は多いと思います。また、戦争という悲惨なことがあるというのに、教会で「神の御業は完全」であるとか、「このことのうちにも、神の偉大なご計画が背後にある」と聞いたりすると、そこに何か偽善的なものを感じる方もおられるかもしれません。
けれども、わたし自身はそれでも祈っています。クリスチャンとか、キリスト教徒と呼ばれる方の多くがそうだと思います。何故かというと、これは個人的な人生の問題にしてもそうで、自分の個人的な問題が解決したら、他の人のことも余裕を持って祈ってあげてもいいよ……ということだと、わたし自身は一生誰のことの問題も祈れずに終わると思うからです(^^;)。
わたし自身は「それはそれ」として、問題はあるがままに受け止めつつ、なるべく他のこと(教会で課題となっている問題、知人の癌等の病の癒しその他)を優先させて祈るようにしています。これは他の人もそうすべきだ……という話ではなく、わたし自身も自分のことで精神的に余裕がないか、あるいはその日祈る時間があまり取れなかったり、そうした種類の妨害が入ったりすると、自分が特に叶えて欲しい問題について祈って終わる——ということは、いまだに時々あります。
わたしはもともと飽きっぽい性格なのですが、祈ることについては何があろうとなんらかの形で継続することが出来てきたということは、クリスチャンになってからの一番の恵みであり、内側から最高の癒しによって満たされる、聖霊さまが内住されていることの何よりの証拠と感じられることであり、イエスさまの聖霊さまを通した恵み深いお取り扱いにはただただ感謝しかありません。
なんというか、イエスさまの福音の恵みの前には「今目の前にある問題が解決」するというよりも、「こんな問題については、もうどうでもいいや」と自分の手のひらにぎゅっと握っているものを手放し、神さまにすべてをお委ねすることのほうが大切だ……っていう過程が場合によって結構あると思うんですよね。
もちろん、人はその時々で「こんな問題」だなんて思えないからこそ悩むわけですけど、根本的には解決しなかったとしても、自分の気の持ちようによって、問題から距離を置いてそこからなるべく精神的被害を受けないようにする、フォーカスする点を変えることで、少しくらいは気分が軽くなったりとか、「自分からわざわざ不幸にならないようにする」、「そうした選択をするように心がける」とか、祈っているとそうしたアドバイスを聖霊さまからいただけることって、結構あるような気がします。。。
あ、ちなみに今回の記事はひとつ下の記事の補足事項として書いてみました。信仰心の厚い純粋なクリスチャンの方が読まれた場合、ちょっと誤解されちゃうかな、という気がしなくもなかったので(^^;)。
それではまた~!!
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