神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます。

2018年09月25日 | キリスト教
【受胎告知】フラ・アンジェリコ


 >>ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 そのとき、イエスはこう言われた。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」

 彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。

「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」

 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

「ユダヤ人の王なら、自分を救え」

 と言った。

「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、

「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」

 と言った。

 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。

「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」
 
 そして言った。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思いだしてください」

 イエスは、彼に言われた。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」

(ルカの福音書、第23章32~43節)


 わたしの持っている聖書によると、パラダイスという言葉の語源の元はペルシヤ語で、


 >>パラダイス=囲いのある庭園を表わす古ペルシヤ語に由来する語。神の住まいである天を指して用いられる。


 ということだそうです。

 また、ネットの辞書を引いてみますと、


 1.アダムとイブが住んだというエデンの園。

 2.キリスト教で、救われた人の行く所。天国。楽園。

 3.悩みや苦しみのない、楽しい世界。


 とあります。

 今回のトップ画は、フラ・アンジェリコの『受胎告知』なのですけれども、フラ・アンジェリコは他にも数点『受胎告知』の絵を描いています。


【受胎告知】フラ・アンジェリコ


 こちらは、背景にいわゆる失楽園が描かれているわけですけど、トップ画のほうの『受胎告知』は、背景のほうが塀で覆われています。以前、何かの美術書で、絵の背景の塀は「処女マリアの貞潔や慎ましさを表わす」……といったように書いてあった気がするんですけど、それと同時にこれは、パラダイス、塀(神さまからの完全な庇護を表わす)で囲まれた楽園を表現してもいるのだと思います。

 つまり、人類はかつてはこのパラダイスの中にいたわけですけれども、アダムとエヴァが神さまに叛いたことによって、この楽園から追い出されてしまったわけですよね。でも、マリアさまがイエスさまを身ごもったことによって、全人類がもう一度このパラダイス(天国)の中へ戻るという道が開かれたわけです。


 >>しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

 最後の敵である死も滅ぼされます。

(コリント人への手紙第一、第15章20~26節)


 つまり、旧約聖書では、救世主(メシア)の待望ということが言われて終わるわけですけれども、新約聖書はこのメシアであるイエス・キリストの誕生からはじまります。


 >>そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

(ローマ人への手紙、第5章12~21節)


 旧約聖書に最初に出てくる人間がアダムであり、そして彼によって全人類に原罪というものがいわば遺伝したことにより……その罪ある状態から逃れることの出来る(言いかえるなら律法を守り切ることの出来る)人間はこの世にひとりもいません。

 けれども、イエスさまが処女マリアさまの胎に聖霊によってお宿りになったことで、すべての人間を彼のことを信じさえするなら、その罪すべてから救うという道が開かれました。何故なら、イエスさまが十字架上で流した血が自分のためのものだったと告白するなら、彼こそ神のひとり子であり、この世界唯一の救い主であると告白するなら、その人の罪はすべて許され、天国へ行くことが出来るからです。

<罪>の原語の意味は、「的を外す」ということ、つまり神さまの御前に「的を外した生き方をすること」が<罪>ということなのだと思います。

 わたしたちはたぶん、社会的地位のある、お金持ちでありつつ家族にも恵まれているような人のことを「的の当たった生き方をしている」と、一般的にはそのように評価するかもしれません。また、そうした人のことを「生まれた時から恵まれた環境にあった運のいい人」と思うこともあるでしょう。

 普通、弓の矢を的に当てるには、ど真ん中を射抜くためには、相当の努力と鍛錬が必要と思います。けれども、人生で一番大切なのは、「イエス・キリストの御名によって」的を射抜くことだと思うんですよね(^^;)

 もちろん、それ以外の人生は価値がないということではなく、生まれた時の環境が劣悪であり、運まで悪く、その後も何かとトラブルの絶えない人生を送っている人でも、その全員が「イエス・キリストの御名によって」人生の的を射抜けるようになること――これが神さまの御前における、人間に対するある種の平等性なのではないかと、時々思うことがあります。。。

 それではまた~!!





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