【ダビデからの書状を受け取るバテ・シェバ】ウィレム・ドロスト(いえ、もちろんわたしバテ・シェバは天国にいると思ってますよ?笑)
あの、あくまでも「聖書における地獄にいそうな人々」(笑)ですからね。
今回は軽い冗談(?)のような記事なのだと思って、あんまし深く考えないでいただけると助かります(^^;)
旧約聖書は大雑把に言うとすればおそらく、神に選ばれた民族イスラエル(ユダヤ人)の背信の歴史書と言っていいと思うのですが、このイスラエル民族の王朝としてもっとも繁栄したのがダビデ・ソロモン時代と言われています。
そして、このダビデは神さまの声に聞き従ったことでそのような栄華を手に入れたと思うのですが、だからといってまったく罪のない生涯を送ったというのではなく、夫のあるバテ・シェバという女性と姦淫の罪を犯したり(この結果生まれたのがソロモン王です)、その罪の結果がまわりまわって自分の息子の一人から叛逆されたりしています。
ダビデには多くの奥さんと息子・娘がいたと思うのですが、その中の息子のひとりアブシャロムが自分の王位を狙った時、ダビデは逃げました(^^;)
この自分に叛逆した息子のアブシャロムが死んだ時、ダビデはとても嘆いていますから、血の繋がった息子とは戦いたくないとの思いがあったのではないでしょうか(=すべてのことを神さまの御手の中に委ねていたということでもあると思います)。
この、ダビデが家来の者たちとエルサレムから逃げ落ちた時、シムイという男がダビデに向かって呪いの言葉を吐きました。
>>ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。
そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。
シムイはのろってこう言った。
「出て行け、出て行け。
血まみれの男、よこしまな者。
主がサウルの家のすべての血を
おまえに報いたのだ。
サウルに代わって王となったおまえに。
主はおまえの息子アブシャロムの手に
王位を渡した。
今、おまえはわざわいに会うのだ。
おまえは血まみれの男だから」
すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。
「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください」
王は言った。
「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。たれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ』と言えようか」
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。
「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」
ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。
(サムエル記第Ⅱ、第16章5~13節)
ダビデは初代イスラエルの王サウルに代わって王になりましたから、シムイにはシムイの言い分があったかもしれませんが、なんにしてもダビデのこの態度は立派ですよね。わたしも、ある日突然誰かに「おまえをのろってやろうぅぅっ!!」と言われたとしても、ダビデを見習って「あなたがわたしを呪っても、わたしはあなたを祝福しよう」というような態度でいられるといいな♪と思います(笑)
で、わたし的にこのシムイってなんか地獄のどっかにいそうだな……と思ったりします(^^;)
「え!?たったのこんだけのことで!?」と思われるかもしれませんが、神さまは御自身の聖徒を特別に扱われるので、そうした自分の選んだ特別な器に対しては、「彼はダビデにではなくわたし(神)を呪ったのだ」という基準でものをご覧になると思うのです。
もしかしたらダビデが天国で、「あ、べつにいいっスよ、神さま。あいつに呪われたことなんか、俺っちすでに覚えてねえし」という感じで許したことで、罰されずにすむかもしれないにしても……さて、このシムイ、父ダビデから王位を継いだソロモンによりのちに死ぬことになるのですが、その経緯はこうでした。
>>王は人をやって、シムイを呼び寄せ、彼に言った。
「自分のためにエルサレムに家を建てて、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。
出て、キデロン川を渡ったら、あなたは必ず殺されることを覚悟しておきなさい。あなたの血はあなた自身の頭に帰するのだ」
シムイは王に言った。
「よろしゅうございます。しもべは、王さまのおっしゃるとおりにいたします」
このようにして、シムイは長い間エルサレムに住んだ。
それから、三年たったころ、シムイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシュのところへ逃げた。シムイに、「あなたの奴隷たちが今、ガテにいる」という知らせがあったので、シムイはすぐ、ろばに鞍をつけ、奴隷たちを捜しにガテのアキシュのところへ行った。シムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻して帰って来た。
シムイがエルサレムからガテに行って帰って来たことは、ソロモンに告げられた。
すると、王は人をやって、シムイを呼び出して言った。
「私はあなたに、主にかけて誓わせ、『あなたが出て、どこかへ行ったなら、あなたは必ず殺されることをよく承知しておくように』と言って警告しておいたではないか。すると、あなたは私に、『よろしゅうございます。従います』と言った。
それなのに、なぜ、主への誓いと、私があなたに命じた命令を守らなかったのか」
王はまた、シムイに言った。
「あなたは自分の心に、あなたが私の父ダビデに対してなしたすべての悪を知っているはずだ。主はあなたの悪をあなたの頭に返されるが、ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つであろう」
王はエホヤダの子ベナヤに命じた。彼は出て行って、シムイを打ち取った。こうして、王国はソロモンによって確立した。
(列王記第Ⅱ、第2章36~46節)
なんかやっぱりシムイ、地獄にいそうな気がしますね(^^;)
他には、エステル記に出てくるユダヤ人を滅ぼそうとしたアガグ人ハメダタの子ハマンや、旧約聖書においてはイスラエル民族に敵対した民族や人物の多くが地獄にいそうな印象を受けます(これは聖書的原則に照らし合わせるとそうなるのかな……とわたしが思うことであって、実際どうなのかはもちろんわかりません)
また、新約聖書ではイエスさまのことを裏切ったユダや、その時代に生きていてイエスさまのことを信じなかった人々、また十二弟子を迫害した人々などがそうでしょうか。わたし的に具体的に名前のあがる人物としてすぐパッと名前のあがるのが銅細工人アレキサンデルかもしれません。
>>銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。
あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
(テモテへの手紙第Ⅱ、第4章14~15節)
銅細工人アレキサンデルが具体的にどのように使徒パウロを苦しめたのか、詳しい記述はありませんが、でもパウロがこう言ってるくらいですから、相当嫌な目にあったのでしょうね(^^;)
さて、今回はここからがようやく本題なのですが(前置きなっが!!笑)、クリスチャンはこの世において迫害される運命にあると聖書は言っていると思います。ただ、そうした宗教的迫害以前の問題として……日本はクリスチャン人口が少ないですから、大抵嫌がらせされたり、「あの人は何故わたしにこんなことをするのだろう」、「わたしの何が気に入らないのだろう」といったことが生じた場合、その相手の方はノンクリスチャンである場合が多いと思います(もちろん、クリスチャン同士で争ったり喧嘩したりということもあるにしても)
イエスさまの教えは、「右頬を打たれたら左頬も差し出せ」というものでしたが、「あの人に対してはそんなこと思えない!」ということがクリスチャンの方でもそうでなくても絶対あると思います。かといって、「あいつはイエスさまを信じてないから死後は地獄いきだな。わっはっはっ!!」というのも、クリスチャンの態度としてどうかという話ですし(笑)、結局のところ七度を七十倍するまで赦せというイエスさまの教えを実践できることが理想ではあるわけです。
でも、これはあくまでわたしが個人的に思うことなのですが――これの他に、神さまに仕えるわたしたちクリスチャンを迫害する人、嫌がらせする人があえて「悪に渡される」ということがあると思います。イエスさまが十字架上で「彼らは自分が何をしているかわかっていないのです」と言われ、御自分を十字架にかけた人々を許したように……こちらがそのような態度でも、向こうは増長して悪を行う一方だといった場合、悪に渡される、神の御思いとは逆の悪魔の思いとでもいうべき何かに引き渡されて、そのことで生涯苦しむ……ということがあるのではないかという気がします。
>>主はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
心が主から離れる者はのろわれよ。
そのような者は荒地のむろの木のように、
しあわせが訪れても会うことはなく、
荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
主に信頼し、
主を頼みとする者に祝福があるように。
その人は、水のほとりに植わった木のように、
流れのほとりに根を伸ばし、
暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って、
日照りの年にも心配なく、
いつまでも実をみのらせる。
(エレミヤ書、第17章5~8節)
これもあくまでわたし個人が思うに、ということなんですけど、神さまも聖書も悔い改めた悪人にはとても寛容だと思います。けれども、ある一定のレベルからさらに下に落ちてしまった時に、あえてその人物が悪に渡される、悪魔に売り渡されるということはあるのではないでしょうか。
シムイの罪は一見、見ようによっては軽微な罪のようにも思えます。けれども、歴史上においてイスラエル(ユダヤ人)が神さまから特別に扱われているように、神さまは御自身を信じる人々を非常に大切にされますから、「この程度の罪ならば……」というささいな罪でも、場合によってはお許しにならないということなんですよね。
つまり、今現在何か人の悪意によって悩まされてるクリスチャンの方がいらっしゃいましたら、「自分にもこういう悪いところがあったな」と思うことについては主に告白して罪の赦しを乞い、他のことについてはダビデの態度を見習うのはどうでしょう、というか(^^;)
その相手の嫌な行為や、何かの呪いとしか思えない行動に対して、いずれこれが過ぎ去った時、主が再びわたしを高く上げてくださると思って忍耐する、というか、そうできるのが一応理想と思うんですよね。
そしてまたそうした人物が自分の人生に現われた時には、「こいつ、聖書のシムイじゃーん!!」という感じで、相手に嫌な思いをさせられながらも、もしかしたらシムイの末路を思って若干心に余裕ができるやもしれません。。。
いえいえ、もちろんクリスチャンはそうした方が相手でも、その方の救いを祈ったりとか、そうした方向に動かねばならないというのが第一原則ではあると思うのですけれども、そこまでしてもどうにもならないというのか、そうしたことも時に許されることがあると思いますので、何かの軽い参考(?)までにと思いました(^^;)
それではまた~!!
あの、あくまでも「聖書における地獄にいそうな人々」(笑)ですからね。
今回は軽い冗談(?)のような記事なのだと思って、あんまし深く考えないでいただけると助かります(^^;)
旧約聖書は大雑把に言うとすればおそらく、神に選ばれた民族イスラエル(ユダヤ人)の背信の歴史書と言っていいと思うのですが、このイスラエル民族の王朝としてもっとも繁栄したのがダビデ・ソロモン時代と言われています。
そして、このダビデは神さまの声に聞き従ったことでそのような栄華を手に入れたと思うのですが、だからといってまったく罪のない生涯を送ったというのではなく、夫のあるバテ・シェバという女性と姦淫の罪を犯したり(この結果生まれたのがソロモン王です)、その罪の結果がまわりまわって自分の息子の一人から叛逆されたりしています。
ダビデには多くの奥さんと息子・娘がいたと思うのですが、その中の息子のひとりアブシャロムが自分の王位を狙った時、ダビデは逃げました(^^;)
この自分に叛逆した息子のアブシャロムが死んだ時、ダビデはとても嘆いていますから、血の繋がった息子とは戦いたくないとの思いがあったのではないでしょうか(=すべてのことを神さまの御手の中に委ねていたということでもあると思います)。
この、ダビデが家来の者たちとエルサレムから逃げ落ちた時、シムイという男がダビデに向かって呪いの言葉を吐きました。
>>ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。
そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。
シムイはのろってこう言った。
「出て行け、出て行け。
血まみれの男、よこしまな者。
主がサウルの家のすべての血を
おまえに報いたのだ。
サウルに代わって王となったおまえに。
主はおまえの息子アブシャロムの手に
王位を渡した。
今、おまえはわざわいに会うのだ。
おまえは血まみれの男だから」
すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。
「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください」
王は言った。
「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。たれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ』と言えようか」
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。
「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」
ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。
(サムエル記第Ⅱ、第16章5~13節)
ダビデは初代イスラエルの王サウルに代わって王になりましたから、シムイにはシムイの言い分があったかもしれませんが、なんにしてもダビデのこの態度は立派ですよね。わたしも、ある日突然誰かに「おまえをのろってやろうぅぅっ!!」と言われたとしても、ダビデを見習って「あなたがわたしを呪っても、わたしはあなたを祝福しよう」というような態度でいられるといいな♪と思います(笑)
で、わたし的にこのシムイってなんか地獄のどっかにいそうだな……と思ったりします(^^;)
「え!?たったのこんだけのことで!?」と思われるかもしれませんが、神さまは御自身の聖徒を特別に扱われるので、そうした自分の選んだ特別な器に対しては、「彼はダビデにではなくわたし(神)を呪ったのだ」という基準でものをご覧になると思うのです。
もしかしたらダビデが天国で、「あ、べつにいいっスよ、神さま。あいつに呪われたことなんか、俺っちすでに覚えてねえし」という感じで許したことで、罰されずにすむかもしれないにしても……さて、このシムイ、父ダビデから王位を継いだソロモンによりのちに死ぬことになるのですが、その経緯はこうでした。
>>王は人をやって、シムイを呼び寄せ、彼に言った。
「自分のためにエルサレムに家を建てて、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。
出て、キデロン川を渡ったら、あなたは必ず殺されることを覚悟しておきなさい。あなたの血はあなた自身の頭に帰するのだ」
シムイは王に言った。
「よろしゅうございます。しもべは、王さまのおっしゃるとおりにいたします」
このようにして、シムイは長い間エルサレムに住んだ。
それから、三年たったころ、シムイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシュのところへ逃げた。シムイに、「あなたの奴隷たちが今、ガテにいる」という知らせがあったので、シムイはすぐ、ろばに鞍をつけ、奴隷たちを捜しにガテのアキシュのところへ行った。シムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻して帰って来た。
シムイがエルサレムからガテに行って帰って来たことは、ソロモンに告げられた。
すると、王は人をやって、シムイを呼び出して言った。
「私はあなたに、主にかけて誓わせ、『あなたが出て、どこかへ行ったなら、あなたは必ず殺されることをよく承知しておくように』と言って警告しておいたではないか。すると、あなたは私に、『よろしゅうございます。従います』と言った。
それなのに、なぜ、主への誓いと、私があなたに命じた命令を守らなかったのか」
王はまた、シムイに言った。
「あなたは自分の心に、あなたが私の父ダビデに対してなしたすべての悪を知っているはずだ。主はあなたの悪をあなたの頭に返されるが、ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つであろう」
王はエホヤダの子ベナヤに命じた。彼は出て行って、シムイを打ち取った。こうして、王国はソロモンによって確立した。
(列王記第Ⅱ、第2章36~46節)
なんかやっぱりシムイ、地獄にいそうな気がしますね(^^;)
他には、エステル記に出てくるユダヤ人を滅ぼそうとしたアガグ人ハメダタの子ハマンや、旧約聖書においてはイスラエル民族に敵対した民族や人物の多くが地獄にいそうな印象を受けます(これは聖書的原則に照らし合わせるとそうなるのかな……とわたしが思うことであって、実際どうなのかはもちろんわかりません)
また、新約聖書ではイエスさまのことを裏切ったユダや、その時代に生きていてイエスさまのことを信じなかった人々、また十二弟子を迫害した人々などがそうでしょうか。わたし的に具体的に名前のあがる人物としてすぐパッと名前のあがるのが銅細工人アレキサンデルかもしれません。
>>銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。
あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
(テモテへの手紙第Ⅱ、第4章14~15節)
銅細工人アレキサンデルが具体的にどのように使徒パウロを苦しめたのか、詳しい記述はありませんが、でもパウロがこう言ってるくらいですから、相当嫌な目にあったのでしょうね(^^;)
さて、今回はここからがようやく本題なのですが(前置きなっが!!笑)、クリスチャンはこの世において迫害される運命にあると聖書は言っていると思います。ただ、そうした宗教的迫害以前の問題として……日本はクリスチャン人口が少ないですから、大抵嫌がらせされたり、「あの人は何故わたしにこんなことをするのだろう」、「わたしの何が気に入らないのだろう」といったことが生じた場合、その相手の方はノンクリスチャンである場合が多いと思います(もちろん、クリスチャン同士で争ったり喧嘩したりということもあるにしても)
イエスさまの教えは、「右頬を打たれたら左頬も差し出せ」というものでしたが、「あの人に対してはそんなこと思えない!」ということがクリスチャンの方でもそうでなくても絶対あると思います。かといって、「あいつはイエスさまを信じてないから死後は地獄いきだな。わっはっはっ!!」というのも、クリスチャンの態度としてどうかという話ですし(笑)、結局のところ七度を七十倍するまで赦せというイエスさまの教えを実践できることが理想ではあるわけです。
でも、これはあくまでわたしが個人的に思うことなのですが――これの他に、神さまに仕えるわたしたちクリスチャンを迫害する人、嫌がらせする人があえて「悪に渡される」ということがあると思います。イエスさまが十字架上で「彼らは自分が何をしているかわかっていないのです」と言われ、御自分を十字架にかけた人々を許したように……こちらがそのような態度でも、向こうは増長して悪を行う一方だといった場合、悪に渡される、神の御思いとは逆の悪魔の思いとでもいうべき何かに引き渡されて、そのことで生涯苦しむ……ということがあるのではないかという気がします。
>>主はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
心が主から離れる者はのろわれよ。
そのような者は荒地のむろの木のように、
しあわせが訪れても会うことはなく、
荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
主に信頼し、
主を頼みとする者に祝福があるように。
その人は、水のほとりに植わった木のように、
流れのほとりに根を伸ばし、
暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って、
日照りの年にも心配なく、
いつまでも実をみのらせる。
(エレミヤ書、第17章5~8節)
これもあくまでわたし個人が思うに、ということなんですけど、神さまも聖書も悔い改めた悪人にはとても寛容だと思います。けれども、ある一定のレベルからさらに下に落ちてしまった時に、あえてその人物が悪に渡される、悪魔に売り渡されるということはあるのではないでしょうか。
シムイの罪は一見、見ようによっては軽微な罪のようにも思えます。けれども、歴史上においてイスラエル(ユダヤ人)が神さまから特別に扱われているように、神さまは御自身を信じる人々を非常に大切にされますから、「この程度の罪ならば……」というささいな罪でも、場合によってはお許しにならないということなんですよね。
つまり、今現在何か人の悪意によって悩まされてるクリスチャンの方がいらっしゃいましたら、「自分にもこういう悪いところがあったな」と思うことについては主に告白して罪の赦しを乞い、他のことについてはダビデの態度を見習うのはどうでしょう、というか(^^;)
その相手の嫌な行為や、何かの呪いとしか思えない行動に対して、いずれこれが過ぎ去った時、主が再びわたしを高く上げてくださると思って忍耐する、というか、そうできるのが一応理想と思うんですよね。
そしてまたそうした人物が自分の人生に現われた時には、「こいつ、聖書のシムイじゃーん!!」という感じで、相手に嫌な思いをさせられながらも、もしかしたらシムイの末路を思って若干心に余裕ができるやもしれません。。。
いえいえ、もちろんクリスチャンはそうした方が相手でも、その方の救いを祈ったりとか、そうした方向に動かねばならないというのが第一原則ではあると思うのですけれども、そこまでしてもどうにもならないというのか、そうしたことも時に許されることがあると思いますので、何かの軽い参考(?)までにと思いました(^^;)
それではまた~!!
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