神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

イエスのたぎる血潮の憐れみをこの身に受ける。

2023年01月03日 | キリスト教
【神秘の子羊(ヘントの祭壇画)】(ヤン・ファン・エイク)


 わたし、漫画とかアニメが結構好きな人なのですが、ある時から漫画(orアニメ)内における描写で少し気になることが出て来ました。

 そのある時って、遡るとわたしの十代後半とか二十代前半くらいのことなので、まあ簡単に言うとすれば「相当昔」のお話です(笑)。だから、今ではそれがかなりのところ一般化してるくらいとは思うものの……割と最近(というか、これも結構前から)は、残酷な描写や流血シーンのあるものは厳しく規制されるようになってきたわけですよね。

 つまり、PG12指定とか、R15指定とか、そういうことですけど……その~、なんていうか、剣で片腕ぶった切られるとか、魔法の呪文によって首が吹っ飛ぶなど、「流血シーン」、「血の流れる暴力的なシーン」を描いた作品が増加する傾向にあるみたいだなっていうことでした。

 もっともわたし、むしろ十代~二十代前半くらいの若い時こそ、「お話の中のこと」と「現実」を分けて考えるところがあって、そういうところから「モデルガンで人撃ってみてえ」とか、「同じように剣をぶん回して達人になりてえ」みたいな発想はほとんどなく、映画や漫画やアニメのそうしたシーンから影響受けて、現実で何か問題起こしてしまう人ってむしろ、「なんて純粋で初心な人なんだろう」とすら思ってしまうというか(^^;)

 こんなふうに書くと、ちょっと誤解を生んでしまいそうですし、実際にそうした事件に巻き込まれてナイフで刺されでもしたら、「純粋で初心だって!?何言ってんだ、この野郎っ!!」としか思えないのは間違いありません。でも、わたしの若かった頃から今の若い人たちの間でもおそらくそうなのではないかと思われることとして――「そのくらい刺激の強いものを見ても、ストーリーその他が面白くないと、特にどーとも思わないし、心が動かない」ということがあると思います。

 そのですね、「心の問題の構造」として、無意識的な領域も含めて、今はすごく難しいことになってると思うんですよね。今日本は戦後七十年以上にもなり、北朝鮮や中国という脅威ということはあるにしても、むしろそれよりも深刻なのは自然災害のほうだったりして……そうした事柄を除いたとすれば、世界中見渡してみた場合、「日本は平和で安全な国」と位置づけられていると思います。

 でも、時々「若い人たちの心は不健康だ」と言われることの要因のひとつとして、「異世界に生まれ変わって自由な人生生きたい」願望というのが、最近の作品傾向に如実に現れているというのがあって、わたしもこのあたりの作品に詳しいわけではないものの――あまりの多さに驚いてるんですよね。それで、ちらほら見たり読んだりする限り、こう思ったわけです。

 みんな、もしかして「そもそもの初期値を変えたい」、「現実世界では絶対変えられないその部分を書き換えたい」という、そうしたことに気づいてしまったという、そうしたことなんじゃないかって。

 まあ、容姿などはもしかしたら、お金さえあれば整形することも出来るにしても、その他の「初期値」ですよね。やっぱり、本人の努力次第ということの他に、「運」というものも含めてその人が生まれ持ったもの、その「初期値」が高く生まれる人と、あまりそうでなく生まれてくる人とがいて……その部分の「数値」をゲームのように自在に書き換えることが出来たら――「オレの人生こうだったかも」、「わたしの人生ああだったかも」っていう無限の可能性があるわけですよね。そして舞台設定としてダントツで人気あるのがファンタジーであるというのも、わたし自身ファンタジー大好き人間なので、説明など必要なくまったくもってよく理解できます。

 こうした現実逃避の置き換え、今の日本においては、幼稚園→小学校→中学→高校→大学→就職→結婚→子育て→老後……的な、ある程度イメージが一本道で退屈でつまらないのに対して、「意識だけ別世界へ行ける」って、ここでしか無限の可能性の選択肢がないって、自分的にすごくよくわかることなわけです。

 それで、最初の「流血」に話を戻すとしますと、「(漫画などの創作世界における)架空の血」と「わたしたちが現実世界で流している血」の交わる一点があるらしいと、そののち、わたしは個人的に気づいたことがありました。今、ウクライナで戦争があって、現実に流されている血のことを思うと、こんなことを言ってはいけないかもしれないんですけど、人間って本当につらくて苦しい時、「心から血が流れる」ということがあるわけです。

 本当は学校でいじめにあっているのに、家にいる時は両親に対してニコニコ笑いながらも、心の中では血を流している、ブラック企業の上司のパワハラが半端ないものの、お店にくるお客さんに対してはゼロ円スマイル、今日も心では血を流して働いてます……人間にはそういうところがあって、この目に見えない現実の血と、漫画やアニメにおける流血シーンとが混ざりあう一点というのがあるわけですよね。割と最近の漫画でわかりやすく言えるのは『鬼滅の刃』かなって思うんですけど、主人公の炭次郎くんたちが鬼と戦って流す血というのは――ある部分、わたしたちの現実世界にもいる鬼とも戦って流してくれている血と同じだ……というくらい、無意識の世界で結びついていて、癒されるところがあったりするわけです(その他、『新世紀エヴァンゲリオン』など、心当たりのある作品を持つ方は数多いと思います^^;)。

「流血」→「暴力的なシーン」→「成長途中にある子たちには見せちゃダメ」という流れは正しいと思うし、それも大切なことなんですけど――若い人のみならず現代人の心の問題の深刻さとして、「血の流れるバトルシーンを見てスカッとした」という場合、掘り下げると結構危機の重さが見えてくるところがあると思います。「流血シーンを見てスカッとした」→「ヤバイ危険な人」、「ストレス溜まってる人」という以上に、それだけ日常生活で戦い、心が血を流している……それがわたしの普段の日常生活なんですよ、そしてそれがわたしにとっての「普通」なんです……という人が今の時代とっっても増えているということ、このあたりの深いレベルでの心理分析というのは急務でないかという気すらします。

 つまり、「心の血」って目に見えないわけですけど、映画や漫画やアニメなどで流血シーンを見ることにより――自分が現実世界で流している見えない「心の血」が視覚化されることにより、無意識レベルで妙に納得するわけです。「そうだよ!オレだって自分のチンケな人生でほんとはこんくらい、血を流して戦ってんだよ!!」といったように……。

 それで、前振り長くなって恐縮なんですけど(汗)、ここはキリスト教について何か書くというブログなので、最終的なお話はそちらのほうです(^^;)。

 イエスさまは、十字架上で我々人類すべてのために血を流し、罪の贖いを完成されました。でも、「ここに神さまの愛があるのです」なんて言われても、普通に考えた場合「??」としか思えないと思うんですよね。けれども、そのことの意味が「本当に真実」理解された瞬間から、「イエス・キリストは神の子である」とか、「十字架上でイエスが流された血は、我々の罪の贖いのためであった」……といったことが、とても深く理解されてくるわけです。

 十字架刑というのはとても残酷な刑罰であって、その後「あまりに残酷すぎる」ということで廃止になったというほどの過酷な刑でした。イエスさまはその生涯において、人々の病いを癒したり悪霊の追い出しをしたり、神さまの教えを説いたりと、良いことしかなさらなかったにも関わらず、「自分を神の子であると偽証した」との罪により、この厳しくつらい十字架刑を受けることになってしまいました。

 イエスさまが十字架におかかりになった時、その足許でローマ兵が「神の子なら、今そこから降りてくるがいい。神のお気に入りなのだから、そう出来るはずだ」といったように嘲弄していますが、イエスさまは全裸で手足を釘で打ち抜かれるという肉体の痛みと苦しみと恥辱の極みにありながらも――これらの人々のことを赦されました。何故なら、「彼らは自分が何をしているかわからないのです」と理解しておられたからであり、救世主(メシア)はそのような形で苦しみを受けて死ぬが、その後甦るという旧約聖書に預言された言葉が成就するという、御父の言葉に従われたからでもありました。

 彼が本当に「神の子」であったかどうか、信じない方にとっては今も疑問でしょうが、それでもイエス・キリストという人物が実在したということだけは、間違いなく歴史上の事実です。また、そのことが歴史上の事実であったとして、その後二千年も過ぎた今を生きるわたしたちにとって――「そのことが一体なんの関係が?」と、そう感じるのが普通かもしれません。

 けれどもわたしは、イエスさまのことを自分の主として信じたその後、だんだんにわかってきたことがありました。イエスさまが十字架上で流された血を、自分は「浴びるほど受けた」からこそ、その穢れない清い血により、まったく罪のない存在としていただけたということが。また、キリスト教で天国というのは、罪のある者は入れぬ世界です。けれども、イエス・キリストを神の子であると告白する者、イエスさまの十字架上の血の贖いを受けた者は、「まったく罪なし」として、天国へ入れていただくことが出来るのです。

「そんなの、なんかおかしいじゃないか」と、えなりかずきさんの物真似をして言ってもいいのですが(笑)、まずはよくわからないながらもそう「信じる」ことが出来たこと、それこそが実は聖霊さまの働きであり、神さまの不思議な力であったと、今はよく理解できます。

「神さまを信じる」ことが出来るということもまた、神さまの与えてくださる恵みに他ならないものなのですから

 それではまた~!!



 >>その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。
 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです」

 またヨハネは証言して言った。

「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である』
 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」

 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。

(ヨハネの福音書、第1章29~36節)






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