神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

そもそもなかったもののために争う。

2020年06月27日 | キリスト教

 定額特別給付金が支給(中)されましたが、テレビの街頭インタビュー的なものを見ていると、「生活費」や「貯金」といったように答えておられる方が多かったように感じました(^^;)

 でもちょっと人生相談的な記事で、不満を持っておられる方もいるというのをお読みしまして……そのですね、DVを受けている女性の方の場合など、特殊なケースは別として、世帯主にまとめてあれって振り込まれるわけですよね。

 そこで、息子さんや娘さんが「スマホを買い替えたい!」など、親御さんと交渉したり、十万円そのまま渡すというより、「今後これこれのために必要になるから」、「うちは貧乏だから、あんたのお金も生活費に少しは回してね」など、ご家庭によって色々ご事情はあると思います。

 ただ、旦那さんが車を買い替えるのに使いたいと言うのだが、奥さんは家のリフォーム費用にしたいということで不満を持っている、旦那さんが「俺は趣味とか遊興費に使わせてもらう。それでいいだろ?」といった感じだったり……そのですね。それが悪いとは思わないものの、少し不思議だなと自分的に感じたのが――割と奥さんに支給される分というのは、「そのまま生活費、子供の将来の教育資金として貯蓄」など、「自分のために服やカバンや化粧品を買う」といったことはあまりなく、あっても「家族や友人と少しばかり贅沢な食事をする」くらいなものだったりするんですよね(^^;)

 その、独身の女性の方の場合はそういうこともあると思いますし、「経済が回る」という意味で何に使ってもいいんじゃないかなと思ったりもします。でも、主婦の女性の方の場合は――まず奥さん・お母さんが自分の支給額の分を家庭のために犠牲にするのは当たり前だ……というところがあるんだなって思いました。

 息子さん・娘さんの場合でも、「好きなように使っていいよ」とお母さんがそのまま渡される場合はあると思いますし、大体奥さまが不満を持つのは旦那さん……「え?あんた何言ってんの。あの車、まだ乗れるのに二十万ぽっち入ったくらいで、この機会に乗り換えたいだって?何バカ言ってんの」とか、「冷蔵庫がそろそろ壊れそうなんだよ。だってもう二十年以上も使ってるからね。お互いのお金を使うとしたらそういうことでしょ!」とか、大体こんなあたりで揉めたりするのかな、なんて。

 でも、なんとなく少し不思議だったのが「そもそもなかったもののために揉める」と言いますか、何分そもそもコロナ禍で収入が減少した方のためにとか、そうした目的があっての支給なので……何か選ぶ余裕もなく、生活費ですべて消えた、ひとり十万円くらい支給になっても、うちは自営業でその間収入なかったから、マイナス分さえ全然補填できない――など、色々あると思うんですよね。。。

 ただ、わたし的に……「奥さん・お母さんの支給分が家庭や教育資金などのために消えるのは当たり前」っぽいように感じたので、たとえば、もし息子さんや娘さんなどが、もらえたお金の中からお母さんに何かプレゼントされたりするのはどうかな、と思ったのです。もちろん、旦那さんから奥さんにプレゼントされたりするのもとても素敵だと思います

 もちろんそれが「奥さん・お母さんのそんなに欲しくもないもの」だったりしたら、むしろ「こんなくだらないもののためにお金使って!」みたいになったりしたらなんなんので……やっぱり、「これなら絶対喜んでくれるはず!」というものがわかってたら――あるいはお母さんの大好きな△□といった食べ物をプレゼントしたりするのはどうでしょう。

 それが仮に三千円とか、そのくらいのものでも……「母の日でもないのに、一体どうしたのよ、あんた」、「ほら、十万円でたからさ。ちょっとくらいはお母さんにもプールしようかなと思って」――みたいにお話できたら、コロナ禍という嫌な空気の中にあっても、その時、その空間だけは少しの間だけでも幸せになれるような気がする、というか。。。

「賢者の贈り物」ではありませんが、お互いに「奥さんは旦那さんに時計の鎖を買ってあげるために髪を切り、旦那さんは奥さんに鼈甲の櫛を買ってあげるために時計を売った……でも、ふたりの間にはそれ以上のものが残った」というのでしょうか。

 そういうふうに出来たら素敵だな、という気がします

 あと、ここはキリスト教について何か書く、というブログなので、一応もうひとつ付け加えますと、キリスト教では「絶対そうしなくちゃいけない」ということではないのですが、収入の十分の一を神さまに捧げると祝福される(什一献金)……自分が困っている時でも、まず自分以上に困っていて貧しかったりする方のために、出来る範囲内で寄付や献金などをしてから、残りを自分の生活費その他のために使う、ということがありまして、このことをしはじめてから経済や自分の生活が祝福されてきたという、その「実感」を感じつつクリスチャン生活を送っている方がたくさんいます。

 わたしも、支給額のうちの一万円ちょっとくらいは寄付など、人のために使う予定なのですが、「この十万円をなんのために使ったらいいでしょうか」と祈ったりしつつ、十分の一を献金したりすると……あるいは経済に関して、お給料が入るたびにそう祈ったりしていると、「お金の使い方」に関して自分のほうで態度が変わるところがあると思います。

 これは何も、「だから贅沢しちゃいけないんだよ☆」といったことではなく――無駄遣いをしないようになったり、神さまに献金しはじめてから何故か収入が増えたといった祝福に繋がったりすることで……その後、自分の収入が増えたら増えた分だけ、さらに寄付したり献金できるお金も増額できるわけですし、何より、「自分も困ってるんだけどな」という時でも、出来る範囲内で(たとえば360円くらいとか)祈りとともに捧げる時、その後思わぬところから収入があって助けられたりと、そうした経験をしているクリスチャンの方はたくさんおられると思うんですよね。

 前にもお書きしましたとおり、これは「情けは人のためならず」といったことではなく、寄付したり献金すると、その後それ以上の祝福が自分に返ってくるから……という、功利主義的なことではないのです。「心から神さまに向かって祈り願い、捧げる時に」、何故か不思議とそのようなことが起きてくるという、旧約聖書のマナの奇跡、新約聖書の五千人の給食における奇跡といったことと原則としては同じことだと思うんですよね。

 なんにしても、お互いにそんなふうに贈り物をしあうとしたら――「コロナ禍でも国から一人につき十万円が支給になって、あの時、△□はこういうものをプレゼントしてくれて嬉しかったな」という、何かそうしたことのために少しばかりお金を使ってみるのはどうでしょう、という提案でした。。。

 それではまた~!!





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