神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

タラントのたとえ。

2016年04月04日 | キリスト教
【マグダラのマリア】フレデリック・サンズ


 >>天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました』

 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』

 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました』

 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』
 
 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です』

 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい』

 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

(マタイの福音書、第25章14~29節)


 上のイエスさまのタラントのたとえとは、まるで関係ないように思われるかもしれませんが……以前、かなり昔に、ちらし配りのアルバイトをしたことがあります。

 市内で三軒くらい大きな飲食店をやっているレストランのちらしだったのですが、まあ基本、受け取っていく方というのはそんなに多くありません(笑)

 駅前などで、朝夕の通勤ラッシュ時を狙って一時間半くらいの時間で配布するのですが、ノルマを配りきったということは一度もなかったような気がします。お金のほうが時給プラス何枚配ったかの歩合制だったと思うのですが、あんまりたくさん配れないことに対して引け目を感じるあまり、長く続かなかったような記憶があります

 これがティッシュとかだとか、はけるのも早いのですが(笑)、ただちらしだけとなると、「紙ゴミになるだけで邪魔」という感じで、なかなか難しいんですよね。わたしも自分でやってみる前までまるでわかりませんでしたが、普段街中などで見ている分には「誰にでも出来るアホみたいな仕事」みたいに感じる方も多いかもしれません。

 でも、どっこいこれがなかなか難しい。それでもまあ、とにかく人の前に差しだせばいいだけでもあるので、とにかくやり続けていると、それなりに枚数ははけます。けれど、やっぱり途中、受け取らない人ばかりが続くと、心が折れそうになるものですそしてそういう時にはちょっと脇のほうへいって深呼吸。そしてまた自分の心を励ましつつ、「まだこんなにちらし残ってるし(T_T)と思いながら声かけしつつ配っていくのですよね。。。

 いえ、このたったの一時間半ほどの時間が、いかに長かったことか。そして事務所のほうへ戻って残ったちらしを渡しつつ、今日何枚配ったかという報告をするのですが、きっちり全ハケしている人もいる中、わたしは半分も配れていない……何かそんな状態でした。もちろん、時給プラス歩合制ですので、そんなに肩身の狭い思いをしなくていいはずなのですが、この頃ちょっとした誤解があって、このアルバイトはやめることにしたんですよね。

 担当の方が見回りに来た時に、たまたまなかなか人が受け取っていかないところばかり見られた、&これもまたたまたま、なかなか人が受け取っていってくれないので心が折れ、隅っこのほうで心を落ち着けているところを見られた――というのがあり、なんとなく「こんなに一生懸命やってるのに、サボってると思われたっぽい」と思って、その後やめてしまったのでした。。。

 特にそれほど強く注意されたとか、担当の方から嫌な雰囲気やオーラを感じたわけでもないのですが、もともと「このバイト、向いてない」と思ってたのがあったので、そんなちょっとしたきっかけでやめることになってしまったのだと思います

 ところで、イエスさまのタラントのたとえのお話に戻りますが、このお話からイエスさまは仕事の成果について特にノルマを課していないことがわかります。

 その人が自分に預けられたものに対し、忠実に用いて尽くすのであれば、なんというか、その心の態度、信仰のことを褒めて倍の報酬を与えているということですよね。

 ところが、悪いなまけ者のしもべは、なんにもしないどころか、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」というびっくりするような言い訳をし、預かっていた1タラントをそのまま主人(神さま)に返すのでした。

 実をいうとわたし、最初に聖書のこの箇所を読んだ時には「自分はこの悪いなまけ者のしもべというほど、信仰者として悪くはなかろう☆」と思っていたような気がします(^^;)

 けれど、神さまからこれほどまでに豊かに与えられているにも関らず、その十分の一ほども果たしてお返しが出来ているのか……という価値基準ではかったとしたらば、今も昔も自分の状況というのはこの「悪いなまけ者のしもべ」に等しくはないだろうかと、そんなふうにも思ったりorz

 もちろん、神さまがご覧になるのは、信仰の態度や心の態度といったことですから、たとえばトラクトを配っていて、なかなか誰も受けといっていかないとか、心が折れかかってちょっと休んでいたからといって、そのことをサボっているとか怠けているといったようにお考えになることは決してないでしょう(※トラクト=イエスさまの十字架の救いのことや、教会への案内のことなどが書かれたパンフレット)。

 そういう意味で、わたしたちクリスチャン、キリストにある信仰者は心から安心なのです♪(^^)

 何故といって、今自分にいる場所で、「神さまのために、力のないわたしに一体何が出来るだろうか」と考え、祈り、賛美し感謝しつつ、神さまのために時間を使った時には、それがどのような形のものであれ、神さまの時に神さまの方法によって必ず用いてくださるからです。

 ノンクリスチャンの方がこの聖書箇所だけを読まれた場合、「えっ、これでいくと神さまってなんか不平等で冷たくない!?」と誤解されるといけませんので、一応補足しておきますと、まず、この文章の中には>>よほどたってという言葉が出てきます。

 ところが、この一タラント預かったしもべは、>>出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。とあるとおり、実は最初から神さまのために何もするつもりがなかったということがわかります。その反対に五タラントを十タラントにした良いしもべはというと、>>すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。とあるとおり、このすぐにというのは、神さまに対する忠実性の表れであり、彼の信仰の態度がかなりのところ立派なものであったことがわかるのです。

 まあ、わたし自身、これから何か仮に一生懸命がんばってやったとしても、二タラントを倍に出来るかどうかという信仰者ですので、最初から主人が帰ってくるまでの長きに渡って素晴らしい信仰を保ち続けた五タラントのしもべに主人がさらに与えたのかが何故なのかもよくわかります(=神さまの裁定は正しいものだと納得することが出来るというか)。

 神さまは愛のお方ですけれども、神さまのために時間を使わないしもべに対してと、それがどのようなものであれ、神さまのためにより多く忠実に時間や能力を用いたしもべとでは、天の御国においてはっきり差が出る……ということに対しては、決して誰も文句を言うことの出来ない日が、やがてやってくるということなのではないでしょうか(^^;)

 それではまた~!!





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