2022年8月~10月、日常の隅っこ
8月
大声も荒ぶる無きや
蝉しぐれ
今年の蝉は夏の途中からいきなり鳴き始めた。スタートで出遅れた夏を猛ダッシュするかのように。窓という窓から飛び込んでくる鳴き声。テレビのボリュームを思わず上げる。
だが、その声はうるさくない。いや、うるさいことはうるさいのだが、耳に痛くはない。声にひたむきさがある。奥に切なさがある。わたしが夏だ、という威張り方はない。わたしも夏のひとつです、という優しさがあるばかりだ。
いのちの声を鳴り響かせてくれた蝉に感謝。
9月
一本も吾が身のひとつ
髪拾う
孫たちが帰ったあと、床やカーペットに長い髪の毛を見つける日が続いた。女の子四人、皆長く伸ばしている。拾っても拾っても、という具合だった。
平生は年寄りふたりの暮らしである。この二人には、かつての髪のボリュームはない。拾い上げることもたまにあるが、長さはないし、艶もない。
だから髪の毛にも愛着がわく。髪一本がわたしであるなどとは思わないが、それなりの付き合いはある。そのままくずかごに捨ててしまうのが惜しい気持ちにもなるのである。
聖書に「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(新約聖書「ルカの福音書」12章7節)という御言葉がある。髪の毛さえも、私の物である前に神の物なのだ。畏れ多いことなのである。
10月
赤い羽根
テレビに映る
得意顔
テレビに出るアナウンサーや政治家や評論家などの中に、赤い羽根をつけている姿を見る季節となった。それ自体は世に役立つことだろう。もしかしたら啓発の意味で、「あなたがたも共同募金に目を向けましょう、この機会に自分にできる慈善を実行しましょう」と呼びかけているのかもしれない。
だがわたしには、何となく不自然なことのように映る。ワザトラシサを感じてしまう、というのが、正直な気持ちだ。共同募金の意義より、飾って胸を張るひとたちの、ピュアでない心を感じることが勝ってしまうからだと思う。
ジゼンとギゼンは紙一重、という。皮肉好きな者の、やぶにらみである。
8月~10月
銃口をおのれに向けて
秋深む
日本の八月は戦(いくさ)を悔やむ月である。ヒロシマもナガサキも過去のことなどではない。悔やむだけでなく、戦をしないと拳をかためる月でもある。いきなり召集令状を受け取ったロシアの青年たちのように、足元をすくうようにとつぜん戦争が迫ってくるかもしれないのだ。我が事でないと油断してしまうそのとき。
ウクライナでは、砲火が止まぬままに七カ月が過ぎた。なんという長い毎日だろう。
ただ一人の驕りと欲望、それはいつ果てるのか。彼はいつ、その罪を悔い、悪の所業をやめるのか。
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一人ひとりに8月、9月、10月がおとずれ、過ぎて行ったと思います。何が残り、何を継いで11月、12月を迎えていくのか。
身辺のこと、社会のことについて、感じるべきこと、気づくべきこと、行動すべきこと、祈るべきことー私自身の冬への姿勢を考えています。