祈りを、うたにこめて

祈りうた・いのちうた(伴走  親子がともに生きる時間)

親子がともに生きる時間



 親と子と、ともに暮らすのは何年くらいだろう。
 孫がつい最近、片言で「パパ」「ママ」と呼び始めた。この濃い関係が続くのは、あと何年くらいだろう、と思う。
 わたしは十九で家を出た。それ以来戻っていない。その前に、すでに「家庭
内別居」ではないが、庭に建ててもらったプレハブの三畳で寝起きしていた。
中学二年生のときである。母と顔を合わせて話すのは、朝と夜の食事時くらいだった。洗濯は母に頼み、小遣いなども貰っていたのだが、孫がそのチチハハに密着し、濃密な時間を過ごしているのとは異なる距離であった。―こうふりかえると、「親子関係」の時間、「ともに暮らす」といえる時間というのは、わたしの場合十五年ほどだったのだ。
 その母と死に別れて三十年近い時間が経った。「ともに暮らした」時間よりはるかに長い時間である。そのうえ、母が亡くなった齢をわたしはとうに超えて生きているのである。
 だが、と思う。
 親子の関係というのは、生身で「ともに」生きる関係がすべてではないと。
生者同士でなく、死者と生者という関係でも「ともに」生きる関係があるのだろうと。
  わたしが齢をとったせいかもしれないが、母と心の中で語る時間が増えている。密度も濃い気がするのだ。




おっかさんの齢(とし)を何年もこえた
姉貴(あねき)の齢も何年もすぎた
おやじの齢まであと十年あまり 

ときおり おっかさんも姉貴もおやじも
こんなさもしい時代を見なくて良かったのかもしれない
そんな弱気になることがある

だが 姉貴がもっと生きようとした分
おっかさんがもっと生きたかった分
 せっかくの今日だ、惜しみながら生きなくては!





◆言葉に愛を宿したい。
◆ご訪問ありがとうございます。

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