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髙橋彩子/水母なら二万の聲を拾うはず

2018-11-10 20:35:28 | インナーポエット




初見の折は推すにためらいがあった。それは「二万」という言葉が東日本大震災後、死者数を示す言葉として多用されてきたからだ。私自身も使っている。心のどこかに〈かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを〉という長谷川櫂の短歌も影を落としている。確かに不用意に「死者二万」とはいうべきでない。死者は二万人であっても一人であっても、その死の軽重に変わりはないからだ。では、詩の言葉として使ってはいけないか。そうではない。長谷川櫂も、むろん、それを前提として「かりそめに」と打ち出しているのだ。二万に限らず死者の数を句にした例は他にも多い。身近な例を挙げても、山形の亡き阿部宗一郎にシベリア抑留を詠った〈迎え火やさあさあ虜囚五万の霊〉の句がある。
掲句、「二万の聲」は誰の声か、限定されていない。生者の声とも、あるいは海難事故の声とも読める。しかし、二万という数は東日本大震災の死者であることを雄弁に主張する。その声を拾い、弔うことができるのは水母だけだという詩的主張に説得力がある。半透明の傘を開閉させながら泳ぐ水母が、そのまま口寄せの巫女の姿に重なるのだ。水母は死者の言葉を伝えるため、海をくまなく漂っては、その声を拾っている。それは生き残った東北の民の姿でもある。「水母」という表記も十分に働いている。


(小熊座2017年12月号 高野先生の選評より)








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Unknown (青萄)
2018-11-10 20:46:02
「声を拾う」ということでは、いとうせいこうの「想像ラジオ」の逆バージョンのようにも思える。「想像ラジオ」は何かの賞を貰えるほどの優れた小説だったと思う。が、私はツラくて読み続けられなかった…😓

このブログはタブレットでの投稿のため、文章が長くなると辛いので簡便であることをご容赦くださりませ🙇

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