だから自分が何を言いたいかということで締めくくりたいと思いますが、まず阿含宗の信仰をしている人は良く分別を付けてほしい。
騙されているんですよ、ということに気づく。
そして良く精査したら辞めることです。やっても意味のないことをしているのですからロスばかりです。
お金も時間も労力も、皆阿含宗に流れて終わりです。
また強迫概念も取っ払うように努める。
桐山氏の言ったことはほとんどが嘘です。中身が無い「はったりや虚偽」ばかりと言っていい。
しかし、それでもまだ概念に固執している人がいます。
今回はそこを書きたくて書きました。
例えば「自分がもしも横変死の因縁を持っていたらどうしよう」と思っている人がいたとします。
答えは「横変死するなら横変死するがよろし」
阿含宗に居た人は知っていると思いますが、あの有名な猊下の著書にも出てきた「あるお坊さん」の言葉ですね。
これを猊下は馬鹿にしていましたが、実はこれが本当の仏教の「スタイル」であり、内容なんです。
そしてこの言葉を吐いたお坊さんを馬鹿にすることが桐山氏のステータスであり、常套手段なのです。
いいですか?お釈迦様は自分が作った業はその因果を受けると言われている。誰もそれをどうにかすることはできない。
あるのは受けることだけなのです。
だから確かに私だって横変死は嫌いです。よろしくないのは知っている。
しかし自分がそういう罪を過去に作っているのだから「しょうがない」
祈ろうが何かにすがろうが、それを改善できた人は居ないのです。
ならば、そこに何をしてどうなるか、です。
どうせ死ねば丹波さんが言っていたように「解放される」んです。
死ねば生きていた時のことはリセットになるんです。
横変死して痛い思いも苦しみもリセットになるんです。そしてまたどこかに「生まれ変わる」
それこそ嘘でもいいから阿含宗をやるんだ、というのなら止めはしません。好きなだけやればいい。
そして運命を変えれずに横変死するだけです。
貴方がそれで満足できるというのなら。
いいですか?阿含宗の言う事は嘘っぱちなんです。なんでそれを信じていくのか?
確かに横変死もガンもその他人生で悪いことには遭いたくないです。これは私も同じ。
だけど、それが運命なら「応じるしかない」わけです。
それこそむしろ逆に「かかってこい」とやってみてはいかがか。
手塚治虫さんがマンガ「ブッダ」の中で書いていますが、アッサジとのあり会話のシーンがあります。
アッサジは過去世の因果のせいで、生きたまま動物のエサになることをわかっていました。
その話をしたらお釈迦様は「気が狂いそうだ」と言われました。そして物凄く嘆いた。
そしてお釈迦様はアッサジに「怖くないのか」と聞いたら「怖いけどしかたないのにゃ」と返答します。
重ねて気が狂いそうなお釈迦様に対し、アッサジは恐怖を避けるためにはどうしたらいいかをこのように答えました。
「なにも考えないことにゃ」
これって単純だけど恐ろしいことです。ですが恐ろしいことですが至高の事でもあります。
だって自分の運命を知っていつどこでどのようになる、とわかったらさすがに多くの人は気が狂いそうにもなるでしょう。
でも、逆にそういうのがわからないでいたらどうか?
そう。わからないから「呑気に生きれる」のです。
漫画の中にも出てきますが、どうして動物や虫たちは明日死ぬかもしれないという運命にも呑気でいられるのだ?というのに対しての答えは「未来の事は分からない」とあるからです。
つまり下手に神通力だか何かわからないが、先を知ってしまえばさすがに割り切りや呑気に成れるはずもない。
だが、最初から分からなければ急な不幸な事項にも嘆く暇(事)さえない。
だからこの世に生きる大半の人や生物が「先がわからない」「読めない」のはある意味「幸せ」なのかもしれない。
世の中というのは上手くできているものですね。
そういうものをマンガに手塚先生は書かれているわけです。本当に奥深いですね。
だから自分もその「ブッダ」を見たけれども「将来の不安」はないわけではない。
しかし「心づもり」は、かなりできたと思っています。
自分の死がいつでどのようになるか。皆目わからない。ある程度予測はしているが明確では無い。
だが、その明確でないから生きられているのだと今は思っています。
それよりもいつどこでどうなって死ぬ、とか自分の人生は、と憂うより、毎日を精一杯無駄なく生きているか?に心を注いだ方が良い。
自分なんかそこまで至ってませんから、いつも反省しきりです。
今日も精一杯生きたか。悔いなく生きたか。そう思える日は本当に少ない。
だから阿含宗のような強迫概念などぶっ飛ばせ、といいたいです。
いつ死ぬ?
「さあ?ねえ」
悪い人生を送るかもしれないぞ
「まあ、自分の過去世が悪いから仕方ないでしょう」
先祖が浮かばれてないみたいだぞ
「いいんだよ。死んだらその人の行く場所に自動で行くから心配ない」
因縁解脱も霊障も悪因縁もクソくらえ。
全て自分の行動と生き方で行けばいい。
できるだけ人生上では悪いことをしないで行こう。
そして毎日を楽しく精一杯生きよう。
いつどのようになるか分からないのだから。
それでいいのですよ。そういう風にならなかったら概念から抜け出せないでしょうよ。
だから何を貴方は恐れているのか。
因縁返し?霊障?悪因縁の埋没???
そういうのってまやかしなんだよ。
例えば現世で結婚できなくたって、それは縁のある相手が現世に出逢わなかっただけ。
良くない人生だってあがいてみようよ。努力や工夫で挑もう。
または努力した結果、結果が伴わなくても死ねば誰しもが「生まれ変わる」わけです。
ならばその新しい身体と環境でまたリスタートができる。
輪廻もこうしてみれば大変な物であるけれども、100%悪い物でもないわけです。
しかしながら輪廻も気の遠くなるほど何度もやっていれば、いづれ嫌にも成ります。
ならばそこからが仏教の意味や導きの中身が生きてきます。
解脱し生まれ変わらないようになる。それを目指すようになる。
つまりはこういう考えにならない限り、仏教ってそんなに大事でもなかったりします。
だって実際生きていて仏教をやらないからってそこに何が有るか?
特段何もないでしょう。
つまり仏教は解脱して生まれ変わらない存在になるという究極的なものにならない限り、重用視する意味はさほど無い。
その様に私は思っています。
散々輪廻を繰り返してきたが、いよいよ疲れ果ててきた。
また生きてはいるが、あまり「生」というものに魅力というか甲斐を感じない。
普通に寿命を終えて亡くなれば、また自動で生まれ変わる。
ああ、嫌だなあ。もういっそ生まれ変わらなくなりたい。
そういう人にはうってつけなのが仏教です。
輪廻上等じゃないか。それこそ何度も多様な「人生」を送れる。
全ていいことばかりではないが、自分がいろんなことにチャレンジできるし男にも女にもなれるんだろう?
そういう人には仏教の解脱論など何の意味も無いでしょう。
輪廻って何よ。そんなもの。人生って楽しいよね。そう思う人は気の済むまで生まれては死に、死んでは生まれてを繰り返せばいい。
それこそ個人(当人)が願わなくても輪廻は止まないから自動的に輪廻は繰り返されますけどね。
自分は特に厭世的ではないし鬱でもないけど、輪廻はそろそろいいか、という感慨はあります。
それを自覚したのはある程度大きくなってから。そうですね。中学生ぐらいからでしょうかね。
以前話したことがありますが、特に私の父とある日「人生について」を話したことがとても嫌でした。
父は私に「人生ってどのような感じかわかるか?」と聞いてきました。
当然私は中学生のガキですから、分かるはずもなく明快な解答などできません。
それに対し父は
「人間はおぎゃーと生まれて大きくなって、結婚して子供を育てて、子育てが終ったら亡くなる。それが人生だ」
と言いました。
何も知らないガキの自分でしたが感覚で「それは違う」と思いました。
だけど、そのこと(反発心)を言っても「じゃあ、どのようだと他に言えるか」と言われて何も言えなくなりました。
確かに人生をおおよそに述べたら、生まれてから死ぬまでの状況を父は言っている。また虫や動物なども人間と変わらず、父の言うような流れで生命を終えている。
仮に結婚しても子供ができないとか、結婚さえもできない人生であったら父の言う事からブレてしまうが、その場合は「生まれたらいつか死ぬ」で完結することが出系る。
つまりは人間での話ではあったが、生まれてから死ぬまでどうなのか、と問えば父の言ったような事が流れであり当然であって、間違いではないのです。
しかし私は思った。ただそれだけなら人間である意味もないし人生など楽しくもないではないか。
またこうも思った。人間は確かに動物や虫と違い比較的長くも生きるし高度な知識な能力も持っている。
美味しい食べ物も有るし、いろんな人との出会いも有るだろうし、将来への期待なども有ることはある。
だが、おおよその流れからだと虫も動物も人間も差が無いわけです。
生まれれてから死ぬまでは色々あろうが、その経緯に特別な差があるか。人間だから虫や動物と違って何かあるか、と言われた「特段無い」のがオチです。
だったら生まれてくる物体としての差は有ったとしても、生命を送る過程では差は無いわけです。
ならば生まれてくる意味などあるのだろうか、と思った。
また虫や動物と人間とに差が無いなら人間に生まれてよかったと言えるのか。そういう事さえ思った。
ただ生まれて結婚して子供を作って育て上げたら死んで終わりなら、人間でなくても同じだろうが。そのように思った。
その後輪廻という物を知り考えるにつけ、余計空しくなった。
なぜなら、過去世の記憶などや自分が人生でどのようになるなどの予知も無いけれども、いつまでこのエンドレスな物を繰り返せばいいのか、と思った。
例えるならばゲームで言う「RPG」をやっているようなものです。終わりが無く永遠に行うエンドレスゲームです。
ゲームなら電源を切って止めることもできるし、やりたくなったらプレイを再開すればできる。
だが、輪廻はそういうわけには行かないわけです。
また選択の余地もない。こっちが嫌だと言っても「やらされる」わけです。
そして悪業があればその因果のために「嫌な目に遭う」
輪廻しても良いことばかり起きるわけではない。必ず嫌な目にも遭う。ゲームのようにスキップもできないわけです。
尚且つ体に痛みや心にも傷を負う。
いつまでこのリアルRPGをやらされるのか、と言えばお釈迦様は「解脱して涅槃へ入らない限り続く」と言われています。
私はそれを知って愕然とした。
一応ゴールはあるのだが、そこに簡単にたどり着けるかというと、そうではなくとても難しいわけです。
だからこういうことを知って解脱への道を歩むのが「仏教」であって、巷に有る「嘘の教え」は本当の仏教にはないわけです。
なので阿含宗が説かねばならないのは「本当の仏教の内容」であり「方法」なのです。
ところがそうではなく、巷に有るような「嘘の教え」をやらせて信者から金を巻き上げているわけです。
だから「詐欺」だというのです。
阿含宗が「本当の仏教教団」「お釈迦様の真の教えを教えている」などというから問題なのです。
これが桐山靖雄という人間が個人的に修行をして、人生を変えることができる。悪い運命を変えるレクチャーを教えます、という新興宗教なら良かったわけです。
嘘をついて人々を騙しているから批判しているのです。
だから本当の仏教というのはお釈迦様の説いた真理を理解し、解脱への道を歩むのが仏教です。
それ以外は仏教ではないのです。
今まで通り線香をあげロウソクを灯しお経や真言、念仏やお題目を上げて何かをやるのならそれは「偽仏教」です。
本当の仏教はそういうことは「やりません」
こういう違いを知ったら阿含宗の行為はできなくなる、ということです。
今日は長くなったので、ここまで。
騙されているんですよ、ということに気づく。
そして良く精査したら辞めることです。やっても意味のないことをしているのですからロスばかりです。
お金も時間も労力も、皆阿含宗に流れて終わりです。
また強迫概念も取っ払うように努める。
桐山氏の言ったことはほとんどが嘘です。中身が無い「はったりや虚偽」ばかりと言っていい。
しかし、それでもまだ概念に固執している人がいます。
今回はそこを書きたくて書きました。
例えば「自分がもしも横変死の因縁を持っていたらどうしよう」と思っている人がいたとします。
答えは「横変死するなら横変死するがよろし」
阿含宗に居た人は知っていると思いますが、あの有名な猊下の著書にも出てきた「あるお坊さん」の言葉ですね。
これを猊下は馬鹿にしていましたが、実はこれが本当の仏教の「スタイル」であり、内容なんです。
そしてこの言葉を吐いたお坊さんを馬鹿にすることが桐山氏のステータスであり、常套手段なのです。
いいですか?お釈迦様は自分が作った業はその因果を受けると言われている。誰もそれをどうにかすることはできない。
あるのは受けることだけなのです。
だから確かに私だって横変死は嫌いです。よろしくないのは知っている。
しかし自分がそういう罪を過去に作っているのだから「しょうがない」
祈ろうが何かにすがろうが、それを改善できた人は居ないのです。
ならば、そこに何をしてどうなるか、です。
どうせ死ねば丹波さんが言っていたように「解放される」んです。
死ねば生きていた時のことはリセットになるんです。
横変死して痛い思いも苦しみもリセットになるんです。そしてまたどこかに「生まれ変わる」
それこそ嘘でもいいから阿含宗をやるんだ、というのなら止めはしません。好きなだけやればいい。
そして運命を変えれずに横変死するだけです。
貴方がそれで満足できるというのなら。
いいですか?阿含宗の言う事は嘘っぱちなんです。なんでそれを信じていくのか?
確かに横変死もガンもその他人生で悪いことには遭いたくないです。これは私も同じ。
だけど、それが運命なら「応じるしかない」わけです。
それこそむしろ逆に「かかってこい」とやってみてはいかがか。
手塚治虫さんがマンガ「ブッダ」の中で書いていますが、アッサジとのあり会話のシーンがあります。
アッサジは過去世の因果のせいで、生きたまま動物のエサになることをわかっていました。
その話をしたらお釈迦様は「気が狂いそうだ」と言われました。そして物凄く嘆いた。
そしてお釈迦様はアッサジに「怖くないのか」と聞いたら「怖いけどしかたないのにゃ」と返答します。
重ねて気が狂いそうなお釈迦様に対し、アッサジは恐怖を避けるためにはどうしたらいいかをこのように答えました。
「なにも考えないことにゃ」
これって単純だけど恐ろしいことです。ですが恐ろしいことですが至高の事でもあります。
だって自分の運命を知っていつどこでどのようになる、とわかったらさすがに多くの人は気が狂いそうにもなるでしょう。
でも、逆にそういうのがわからないでいたらどうか?
そう。わからないから「呑気に生きれる」のです。
漫画の中にも出てきますが、どうして動物や虫たちは明日死ぬかもしれないという運命にも呑気でいられるのだ?というのに対しての答えは「未来の事は分からない」とあるからです。
つまり下手に神通力だか何かわからないが、先を知ってしまえばさすがに割り切りや呑気に成れるはずもない。
だが、最初から分からなければ急な不幸な事項にも嘆く暇(事)さえない。
だからこの世に生きる大半の人や生物が「先がわからない」「読めない」のはある意味「幸せ」なのかもしれない。
世の中というのは上手くできているものですね。
そういうものをマンガに手塚先生は書かれているわけです。本当に奥深いですね。
だから自分もその「ブッダ」を見たけれども「将来の不安」はないわけではない。
しかし「心づもり」は、かなりできたと思っています。
自分の死がいつでどのようになるか。皆目わからない。ある程度予測はしているが明確では無い。
だが、その明確でないから生きられているのだと今は思っています。
それよりもいつどこでどうなって死ぬ、とか自分の人生は、と憂うより、毎日を精一杯無駄なく生きているか?に心を注いだ方が良い。
自分なんかそこまで至ってませんから、いつも反省しきりです。
今日も精一杯生きたか。悔いなく生きたか。そう思える日は本当に少ない。
だから阿含宗のような強迫概念などぶっ飛ばせ、といいたいです。
いつ死ぬ?
「さあ?ねえ」
悪い人生を送るかもしれないぞ
「まあ、自分の過去世が悪いから仕方ないでしょう」
先祖が浮かばれてないみたいだぞ
「いいんだよ。死んだらその人の行く場所に自動で行くから心配ない」
因縁解脱も霊障も悪因縁もクソくらえ。
全て自分の行動と生き方で行けばいい。
できるだけ人生上では悪いことをしないで行こう。
そして毎日を楽しく精一杯生きよう。
いつどのようになるか分からないのだから。
それでいいのですよ。そういう風にならなかったら概念から抜け出せないでしょうよ。
だから何を貴方は恐れているのか。
因縁返し?霊障?悪因縁の埋没???
そういうのってまやかしなんだよ。
例えば現世で結婚できなくたって、それは縁のある相手が現世に出逢わなかっただけ。
良くない人生だってあがいてみようよ。努力や工夫で挑もう。
または努力した結果、結果が伴わなくても死ねば誰しもが「生まれ変わる」わけです。
ならばその新しい身体と環境でまたリスタートができる。
輪廻もこうしてみれば大変な物であるけれども、100%悪い物でもないわけです。
しかしながら輪廻も気の遠くなるほど何度もやっていれば、いづれ嫌にも成ります。
ならばそこからが仏教の意味や導きの中身が生きてきます。
解脱し生まれ変わらないようになる。それを目指すようになる。
つまりはこういう考えにならない限り、仏教ってそんなに大事でもなかったりします。
だって実際生きていて仏教をやらないからってそこに何が有るか?
特段何もないでしょう。
つまり仏教は解脱して生まれ変わらない存在になるという究極的なものにならない限り、重用視する意味はさほど無い。
その様に私は思っています。
散々輪廻を繰り返してきたが、いよいよ疲れ果ててきた。
また生きてはいるが、あまり「生」というものに魅力というか甲斐を感じない。
普通に寿命を終えて亡くなれば、また自動で生まれ変わる。
ああ、嫌だなあ。もういっそ生まれ変わらなくなりたい。
そういう人にはうってつけなのが仏教です。
輪廻上等じゃないか。それこそ何度も多様な「人生」を送れる。
全ていいことばかりではないが、自分がいろんなことにチャレンジできるし男にも女にもなれるんだろう?
そういう人には仏教の解脱論など何の意味も無いでしょう。
輪廻って何よ。そんなもの。人生って楽しいよね。そう思う人は気の済むまで生まれては死に、死んでは生まれてを繰り返せばいい。
それこそ個人(当人)が願わなくても輪廻は止まないから自動的に輪廻は繰り返されますけどね。
自分は特に厭世的ではないし鬱でもないけど、輪廻はそろそろいいか、という感慨はあります。
それを自覚したのはある程度大きくなってから。そうですね。中学生ぐらいからでしょうかね。
以前話したことがありますが、特に私の父とある日「人生について」を話したことがとても嫌でした。
父は私に「人生ってどのような感じかわかるか?」と聞いてきました。
当然私は中学生のガキですから、分かるはずもなく明快な解答などできません。
それに対し父は
「人間はおぎゃーと生まれて大きくなって、結婚して子供を育てて、子育てが終ったら亡くなる。それが人生だ」
と言いました。
何も知らないガキの自分でしたが感覚で「それは違う」と思いました。
だけど、そのこと(反発心)を言っても「じゃあ、どのようだと他に言えるか」と言われて何も言えなくなりました。
確かに人生をおおよそに述べたら、生まれてから死ぬまでの状況を父は言っている。また虫や動物なども人間と変わらず、父の言うような流れで生命を終えている。
仮に結婚しても子供ができないとか、結婚さえもできない人生であったら父の言う事からブレてしまうが、その場合は「生まれたらいつか死ぬ」で完結することが出系る。
つまりは人間での話ではあったが、生まれてから死ぬまでどうなのか、と問えば父の言ったような事が流れであり当然であって、間違いではないのです。
しかし私は思った。ただそれだけなら人間である意味もないし人生など楽しくもないではないか。
またこうも思った。人間は確かに動物や虫と違い比較的長くも生きるし高度な知識な能力も持っている。
美味しい食べ物も有るし、いろんな人との出会いも有るだろうし、将来への期待なども有ることはある。
だが、おおよその流れからだと虫も動物も人間も差が無いわけです。
生まれれてから死ぬまでは色々あろうが、その経緯に特別な差があるか。人間だから虫や動物と違って何かあるか、と言われた「特段無い」のがオチです。
だったら生まれてくる物体としての差は有ったとしても、生命を送る過程では差は無いわけです。
ならば生まれてくる意味などあるのだろうか、と思った。
また虫や動物と人間とに差が無いなら人間に生まれてよかったと言えるのか。そういう事さえ思った。
ただ生まれて結婚して子供を作って育て上げたら死んで終わりなら、人間でなくても同じだろうが。そのように思った。
その後輪廻という物を知り考えるにつけ、余計空しくなった。
なぜなら、過去世の記憶などや自分が人生でどのようになるなどの予知も無いけれども、いつまでこのエンドレスな物を繰り返せばいいのか、と思った。
例えるならばゲームで言う「RPG」をやっているようなものです。終わりが無く永遠に行うエンドレスゲームです。
ゲームなら電源を切って止めることもできるし、やりたくなったらプレイを再開すればできる。
だが、輪廻はそういうわけには行かないわけです。
また選択の余地もない。こっちが嫌だと言っても「やらされる」わけです。
そして悪業があればその因果のために「嫌な目に遭う」
輪廻しても良いことばかり起きるわけではない。必ず嫌な目にも遭う。ゲームのようにスキップもできないわけです。
尚且つ体に痛みや心にも傷を負う。
いつまでこのリアルRPGをやらされるのか、と言えばお釈迦様は「解脱して涅槃へ入らない限り続く」と言われています。
私はそれを知って愕然とした。
一応ゴールはあるのだが、そこに簡単にたどり着けるかというと、そうではなくとても難しいわけです。
だからこういうことを知って解脱への道を歩むのが「仏教」であって、巷に有る「嘘の教え」は本当の仏教にはないわけです。
なので阿含宗が説かねばならないのは「本当の仏教の内容」であり「方法」なのです。
ところがそうではなく、巷に有るような「嘘の教え」をやらせて信者から金を巻き上げているわけです。
だから「詐欺」だというのです。
阿含宗が「本当の仏教教団」「お釈迦様の真の教えを教えている」などというから問題なのです。
これが桐山靖雄という人間が個人的に修行をして、人生を変えることができる。悪い運命を変えるレクチャーを教えます、という新興宗教なら良かったわけです。
嘘をついて人々を騙しているから批判しているのです。
だから本当の仏教というのはお釈迦様の説いた真理を理解し、解脱への道を歩むのが仏教です。
それ以外は仏教ではないのです。
今まで通り線香をあげロウソクを灯しお経や真言、念仏やお題目を上げて何かをやるのならそれは「偽仏教」です。
本当の仏教はそういうことは「やりません」
こういう違いを知ったら阿含宗の行為はできなくなる、ということです。
今日は長くなったので、ここまで。