goo blog サービス終了のお知らせ 

天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

目を覚ました自分が得たもの④

2017-08-29 05:10:46 | Weblog
だから自分が何を言いたいかということで締めくくりたいと思いますが、まず阿含宗の信仰をしている人は良く分別を付けてほしい。
騙されているんですよ、ということに気づく。

そして良く精査したら辞めることです。やっても意味のないことをしているのですからロスばかりです。
お金も時間も労力も、皆阿含宗に流れて終わりです。





また強迫概念も取っ払うように努める。
桐山氏の言ったことはほとんどが嘘です。中身が無い「はったりや虚偽」ばかりと言っていい。




しかし、それでもまだ概念に固執している人がいます。
今回はそこを書きたくて書きました。





例えば「自分がもしも横変死の因縁を持っていたらどうしよう」と思っている人がいたとします。




答えは「横変死するなら横変死するがよろし」







阿含宗に居た人は知っていると思いますが、あの有名な猊下の著書にも出てきた「あるお坊さん」の言葉ですね。

これを猊下は馬鹿にしていましたが、実はこれが本当の仏教の「スタイル」であり、内容なんです。
そしてこの言葉を吐いたお坊さんを馬鹿にすることが桐山氏のステータスであり、常套手段なのです。





いいですか?お釈迦様は自分が作った業はその因果を受けると言われている。誰もそれをどうにかすることはできない。
あるのは受けることだけなのです。





だから確かに私だって横変死は嫌いです。よろしくないのは知っている。
しかし自分がそういう罪を過去に作っているのだから「しょうがない」




祈ろうが何かにすがろうが、それを改善できた人は居ないのです。
ならば、そこに何をしてどうなるか、です。




どうせ死ねば丹波さんが言っていたように「解放される」んです。
死ねば生きていた時のことはリセットになるんです。
横変死して痛い思いも苦しみもリセットになるんです。そしてまたどこかに「生まれ変わる」




それこそ嘘でもいいから阿含宗をやるんだ、というのなら止めはしません。好きなだけやればいい。
そして運命を変えれずに横変死するだけです。



貴方がそれで満足できるというのなら。







いいですか?阿含宗の言う事は嘘っぱちなんです。なんでそれを信じていくのか?





確かに横変死もガンもその他人生で悪いことには遭いたくないです。これは私も同じ。




だけど、それが運命なら「応じるしかない」わけです。
それこそむしろ逆に「かかってこい」とやってみてはいかがか。





手塚治虫さんがマンガ「ブッダ」の中で書いていますが、アッサジとのあり会話のシーンがあります。





アッサジは過去世の因果のせいで、生きたまま動物のエサになることをわかっていました。
その話をしたらお釈迦様は「気が狂いそうだ」と言われました。そして物凄く嘆いた。




そしてお釈迦様はアッサジに「怖くないのか」と聞いたら「怖いけどしかたないのにゃ」と返答します。
重ねて気が狂いそうなお釈迦様に対し、アッサジは恐怖を避けるためにはどうしたらいいかをこのように答えました。




「なにも考えないことにゃ」




これって単純だけど恐ろしいことです。ですが恐ろしいことですが至高の事でもあります。








だって自分の運命を知っていつどこでどのようになる、とわかったらさすがに多くの人は気が狂いそうにもなるでしょう。




でも、逆にそういうのがわからないでいたらどうか?




そう。わからないから「呑気に生きれる」のです。








漫画の中にも出てきますが、どうして動物や虫たちは明日死ぬかもしれないという運命にも呑気でいられるのだ?というのに対しての答えは「未来の事は分からない」とあるからです。
つまり下手に神通力だか何かわからないが、先を知ってしまえばさすがに割り切りや呑気に成れるはずもない。




だが、最初から分からなければ急な不幸な事項にも嘆く暇(事)さえない。
だからこの世に生きる大半の人や生物が「先がわからない」「読めない」のはある意味「幸せ」なのかもしれない。
世の中というのは上手くできているものですね。




そういうものをマンガに手塚先生は書かれているわけです。本当に奥深いですね。









だから自分もその「ブッダ」を見たけれども「将来の不安」はないわけではない。
しかし「心づもり」は、かなりできたと思っています。





自分の死がいつでどのようになるか。皆目わからない。ある程度予測はしているが明確では無い。
だが、その明確でないから生きられているのだと今は思っています。






それよりもいつどこでどうなって死ぬ、とか自分の人生は、と憂うより、毎日を精一杯無駄なく生きているか?に心を注いだ方が良い。





自分なんかそこまで至ってませんから、いつも反省しきりです。
今日も精一杯生きたか。悔いなく生きたか。そう思える日は本当に少ない。






だから阿含宗のような強迫概念などぶっ飛ばせ、といいたいです。

いつ死ぬ?
「さあ?ねえ」

悪い人生を送るかもしれないぞ
「まあ、自分の過去世が悪いから仕方ないでしょう」

先祖が浮かばれてないみたいだぞ

「いいんだよ。死んだらその人の行く場所に自動で行くから心配ない」




因縁解脱も霊障も悪因縁もクソくらえ。
全て自分の行動と生き方で行けばいい。

できるだけ人生上では悪いことをしないで行こう。
そして毎日を楽しく精一杯生きよう。
いつどのようになるか分からないのだから。




それでいいのですよ。そういう風にならなかったら概念から抜け出せないでしょうよ。






だから何を貴方は恐れているのか。

因縁返し?霊障?悪因縁の埋没???





そういうのってまやかしなんだよ。





例えば現世で結婚できなくたって、それは縁のある相手が現世に出逢わなかっただけ。
良くない人生だってあがいてみようよ。努力や工夫で挑もう。
または努力した結果、結果が伴わなくても死ねば誰しもが「生まれ変わる」わけです。
ならばその新しい身体と環境でまたリスタートができる。




輪廻もこうしてみれば大変な物であるけれども、100%悪い物でもないわけです。




しかしながら輪廻も気の遠くなるほど何度もやっていれば、いづれ嫌にも成ります。
ならばそこからが仏教の意味や導きの中身が生きてきます。



解脱し生まれ変わらないようになる。それを目指すようになる。
つまりはこういう考えにならない限り、仏教ってそんなに大事でもなかったりします。



だって実際生きていて仏教をやらないからってそこに何が有るか?
特段何もないでしょう。



つまり仏教は解脱して生まれ変わらない存在になるという究極的なものにならない限り、重用視する意味はさほど無い。
その様に私は思っています。




散々輪廻を繰り返してきたが、いよいよ疲れ果ててきた。
また生きてはいるが、あまり「生」というものに魅力というか甲斐を感じない。

普通に寿命を終えて亡くなれば、また自動で生まれ変わる。
ああ、嫌だなあ。もういっそ生まれ変わらなくなりたい。



そういう人にはうってつけなのが仏教です。



輪廻上等じゃないか。それこそ何度も多様な「人生」を送れる。
全ていいことばかりではないが、自分がいろんなことにチャレンジできるし男にも女にもなれるんだろう?

そういう人には仏教の解脱論など何の意味も無いでしょう。




輪廻って何よ。そんなもの。人生って楽しいよね。そう思う人は気の済むまで生まれては死に、死んでは生まれてを繰り返せばいい。
それこそ個人(当人)が願わなくても輪廻は止まないから自動的に輪廻は繰り返されますけどね。



自分は特に厭世的ではないし鬱でもないけど、輪廻はそろそろいいか、という感慨はあります。
それを自覚したのはある程度大きくなってから。そうですね。中学生ぐらいからでしょうかね。


以前話したことがありますが、特に私の父とある日「人生について」を話したことがとても嫌でした。




父は私に「人生ってどのような感じかわかるか?」と聞いてきました。
当然私は中学生のガキですから、分かるはずもなく明快な解答などできません。


それに対し父は


「人間はおぎゃーと生まれて大きくなって、結婚して子供を育てて、子育てが終ったら亡くなる。それが人生だ」


と言いました。



何も知らないガキの自分でしたが感覚で「それは違う」と思いました。
だけど、そのこと(反発心)を言っても「じゃあ、どのようだと他に言えるか」と言われて何も言えなくなりました。


確かに人生をおおよそに述べたら、生まれてから死ぬまでの状況を父は言っている。また虫や動物なども人間と変わらず、父の言うような流れで生命を終えている。
仮に結婚しても子供ができないとか、結婚さえもできない人生であったら父の言う事からブレてしまうが、その場合は「生まれたらいつか死ぬ」で完結することが出系る。

つまりは人間での話ではあったが、生まれてから死ぬまでどうなのか、と問えば父の言ったような事が流れであり当然であって、間違いではないのです。




しかし私は思った。ただそれだけなら人間である意味もないし人生など楽しくもないではないか。



またこうも思った。人間は確かに動物や虫と違い比較的長くも生きるし高度な知識な能力も持っている。
美味しい食べ物も有るし、いろんな人との出会いも有るだろうし、将来への期待なども有ることはある。



だが、おおよその流れからだと虫も動物も人間も差が無いわけです。
生まれれてから死ぬまでは色々あろうが、その経緯に特別な差があるか。人間だから虫や動物と違って何かあるか、と言われた「特段無い」のがオチです。



だったら生まれてくる物体としての差は有ったとしても、生命を送る過程では差は無いわけです。
ならば生まれてくる意味などあるのだろうか、と思った。



また虫や動物と人間とに差が無いなら人間に生まれてよかったと言えるのか。そういう事さえ思った。
ただ生まれて結婚して子供を作って育て上げたら死んで終わりなら、人間でなくても同じだろうが。そのように思った。



その後輪廻という物を知り考えるにつけ、余計空しくなった。

なぜなら、過去世の記憶などや自分が人生でどのようになるなどの予知も無いけれども、いつまでこのエンドレスな物を繰り返せばいいのか、と思った。




例えるならばゲームで言う「RPG」をやっているようなものです。終わりが無く永遠に行うエンドレスゲームです。



ゲームなら電源を切って止めることもできるし、やりたくなったらプレイを再開すればできる。
だが、輪廻はそういうわけには行かないわけです。


また選択の余地もない。こっちが嫌だと言っても「やらされる」わけです。
そして悪業があればその因果のために「嫌な目に遭う」



輪廻しても良いことばかり起きるわけではない。必ず嫌な目にも遭う。ゲームのようにスキップもできないわけです。
尚且つ体に痛みや心にも傷を負う。




いつまでこのリアルRPGをやらされるのか、と言えばお釈迦様は「解脱して涅槃へ入らない限り続く」と言われています。
私はそれを知って愕然とした。


一応ゴールはあるのだが、そこに簡単にたどり着けるかというと、そうではなくとても難しいわけです。






だからこういうことを知って解脱への道を歩むのが「仏教」であって、巷に有る「嘘の教え」は本当の仏教にはないわけです。


なので阿含宗が説かねばならないのは「本当の仏教の内容」であり「方法」なのです。




ところがそうではなく、巷に有るような「嘘の教え」をやらせて信者から金を巻き上げているわけです。
だから「詐欺」だというのです。




阿含宗が「本当の仏教教団」「お釈迦様の真の教えを教えている」などというから問題なのです。
これが桐山靖雄という人間が個人的に修行をして、人生を変えることができる。悪い運命を変えるレクチャーを教えます、という新興宗教なら良かったわけです。



嘘をついて人々を騙しているから批判しているのです。




だから本当の仏教というのはお釈迦様の説いた真理を理解し、解脱への道を歩むのが仏教です。
それ以外は仏教ではないのです。



今まで通り線香をあげロウソクを灯しお経や真言、念仏やお題目を上げて何かをやるのならそれは「偽仏教」です。
本当の仏教はそういうことは「やりません」



こういう違いを知ったら阿含宗の行為はできなくなる、ということです。



今日は長くなったので、ここまで。

目を覚ました自分が得たもの③

2017-08-23 03:47:50 | Weblog
さて、早速前回の続きから参ります。



因縁解脱の嘘っぱちというのは前に話しました。しかし、それだけでは目を覚ませない。または強迫概念に悩まされる・怯える人へのアプローチからの話でしたね。





信者経験のない人やあまり真面目に阿含宗の信仰をしなかった人には「抱かない感情」なのですが、比較的真面目にやったかた。またはある種ピュア過ぎた人には抱く概念です。
その概念から抜け出すことが退会に繋がる道なのです。




阿含宗ではいつも言うように「因縁解脱」が信仰の要となっています。
この因縁解脱を果たすために信仰をしているともいえるわけです。

そしてその因縁解脱論を尤もらしく見せるためと信じ込ませるために様々な強迫概念を信者に与えるわけです。
その強迫概念があるためにそれを無くそうとするために信仰をする、と言えなくもないのが阿含宗にはあるわけです。

だからその様相も「宗教ヤクザ」たる所以なのです。




だってそうでしょう?阿含宗では色々な因縁の項目や内容を言いますよ。
だけど、その因縁たるやどこに、どうあって、どうなのかなんてわからない。物体じゃないんだから見えもしない。触れもしない。



しかし世間での事項や様を示して不幸な人生を送っている人たちの事を例に挙げて「君たちもこういう運命(因縁)のようになりたいか?」と言ってくるわけです。





もちろん最初からそういう物を信じない、または屁とも思わない人にはこういう脅しは効きません。
だから自分も経験がありますが、阿含宗のことを知り合いなどに説明したりするわけですが、勧誘に沿う人は阿含宗の言い分を信じる人です。

しかし反発したり理解しない人は入信しません。むしろ酷い場合は逆に怒られたり縁を切られたりする場合も有ります。
そういう人たちは絶対に阿含宗の毒牙には掛かりませんね。だから一番の詐欺に遭わないために良いのは「信じないこと」ですね。

ヘタに信じたり「どうしよう」と不安げになる人ほど阿含宗に引っ張りやすい。
だからキリスト教さんでしたっけ?「信じる者は救われる」っていう言葉がありますが、阿含宗の場合は逆で「信じたら騙される」に成っちゃうんですからね。
本当に情けないものです。





まあ、阿含宗の信仰をしている人は今言ったように阿含宗側の言い分、つまり桐山氏の作ったものを信じちゃって騙されているわけです。
だからその内容らを信じない様にすればいい。



だけど実際的に簡単に「はい、そうですか」と一秒でできたら誰も苦労はしません。
なので、その自分らが信じたものを精査してゆく。内容をよく理解し正誤を判別することです。




例を挙げていうと判りやすいので述べましょう。



例えば横変死の因縁というのがあります。これは数ある因縁の中で最悪最低の因縁と言われています。


それは畳の上で安楽な死を迎えれないことを指しているからです。事故、事件、災害、他殺、自殺などの事象に遭い死を迎える、というやつだからです。





実際TVや新聞などでもニュースにあるように酷い亡くなり方をする方が居ますが、その方々がこの「因縁」を持っているということを阿含宗では言うのですね。
だから信者さんらは「この因縁を持って無ければいいが」と思うし、また実際に因縁透視で指摘された人はこの因縁を切るために信仰に励んだりします。




そして阿含宗は各種の因縁には根があると言います。その根とは「先祖」を指します。




先祖に横変死した人がいればその人たちの余波を受ける。または遺伝的な物として横変死の因縁を引き継ぐことがある。そういいます。





まあ、厳密な説明は長くなるので簡単に説明しますが、例えば必ず横変死した家の人の子孫は必ず皆が横変死するとは限らない。
なぜなら自分が過去世に於いて作った罪障(悪因縁)と家系の持つもの、また先祖とのシンクロがないと横変死しない。




例えば自分が過去世で行った悪業は「ガンで死ぬ運命」を持っていたとします。そういう人はガンで亡くなる運命ですから横変死しない。
横変死している先祖が多い家に生まれても運命まで合致するわけではない。


むしろガンで亡くなった先祖とのシンクロが起きてそれで亡くなるのであるから、ガンで亡くなった先祖を供養しする必要がある、と指導します。
おおよそですが、阿含宗はこういう指導をするわけです。





そうなると単なる「因縁解脱」という項目にいろんな要素が絡まって複雑であり、大変であることがわかるでしょう。
だから信者は基本的に毎日お勤めをする。勤行というやつで阿含宗で決められた次第に沿ってお経及び真言などを詠み上げるわけです。
これが因縁を切る為の基本です。


ただ、これだけでは因縁は切れない。先ほど言った「先祖供養」が必要である。
こと霊障がある先祖とのつながりで不幸な死を迎える。または死だけでなく人生さえも不幸な運命を辿る恐れがあると言います。
なので、解脱供養という先祖成仏の供養も行わねば因縁は切れない、と教義で教えます。

またこの2つだけでも駄目で過去世に於いて現世に現れる「運命」を作ったのは自分である。
そしてその悪業を無くすためには「徳を積み相殺させる」必要があるとする。

それを可能とするのが本尊の力であり、成仏法であると阿含宗は言います。
だから信者はこぞって教団(道場)に通い、様々な奉仕活動をします。

つまり道場に於いて奉仕活動をすれば徳を積むことができて、それが因縁解脱につながる、というわけです。




ざっとですがこのように信者さんらを嘘の教えで縛り付けて操作するわけです。




ただ、阿含宗の巧妙なところは嘘と本当の教えを混ぜて話すことです。だから時折本当の事も混じっています。
しかしながら大半の言い分は「嘘」ですが。







ざっと話した阿含宗での因縁解脱内容にも実は本当の仏教の内容が入っています。それは「過去世の行いが現世で反映される」というやつです。
これはお釈迦様が説いていることであり、正しい内容です。


ただ正しいのはそこだけで後は「嘘」です。ここがほとんどの人が分からないわけですね。






正しく解説すると現世で横変死するのは過去世に於いて自分がその様な因果を作ったからそのようになるのです。
これは仏教で説いています。因果応報、因縁果報と言います。因縁の法則、縁起の法則というやつです。

ただ勘違いしないで欲しいのが「悪い事ばかりではない」ことです。
つまり因縁の法則は善いことや悪いこと区別がありません。どちらも自分の起こした結果で報いを受けるわけですから善いことをすればその因果を。
悪いことをすればその因果を、と言っているだけで悪いことの反映が多ければ、それは自分が過去に於いて起こした結果であり、善いことの反映が多ければそれも自分、ということです。

因果の法則は単純明快なのですね。



で、問題はこの自分が過去に於いて積んでしまった悪業に対してです。
因果の報いはどこまでも追いかけてくるとお釈迦様は説きます。
決して逃げたり相殺したりすることができない。また誰かがそういう手助け(かわしや減滅。相殺など)もできない、と言っています。

だからお釈迦様は最初から「努めて悪業を行うなよ」と言っているのです。



悪業を積めばその反映のために苦しむのは自分です。だからそう言う事(悪事)さえしなければ苦しむ思いはしなくて済む。
だから結局は自分に来るのだから、悪いことはするな。そして相殺もできないのだから尚更である、というわけです。



あの神通力があると言われているお釈迦様でも「何もできないぞ」と言われている。
実際、弟子たちが悪業のために苦しんでいてもお釈迦様は見守るしかなかった過去があります。
モッガーラナ尊者を始め数名の弟子たちです。彼らも修行の末神通力は持っていた。
しかし、神通力で悪業をどうにかできることは無く、高弟らの人たちも悪業を受けざるを得なかった。

だからお釈迦様の弟子であっても横変死した人がいたのです。

なので阿含宗の言う事が正しければ、弟子たちが横変死するのを無くすことができるはずです。
しかし、実際はそれが無かった。正確には「そういうことはしないし、できない」
なので、阿含宗の言っていることは本当に嘘だ、ということです。






ここがキーポイントであり重大なところです。



阿含宗では因縁解脱でどんな悪因縁も切れる(解脱できる)と言われていますが、お釈迦様はそういうことを説いて無い。
説いて無いばかりかお経に弟子たちの数名が不幸な亡くなり方をしている記述さえあるのです。



だったら阿含宗の言っている因縁解脱は真っ赤な嘘だとここでわかるものです。
某宗教法人の教祖が因縁解脱の発祥云々を仮に無しにしても、もうここで分かる。

仏教自体に「悪い運命を変えるというものは最初から無い」ということです。
キリスト教とかも無いはずです。

有るとすれば外道の教えで外部の新興宗教とかでしょう。







だから阿含宗は「根本仏教教団」と言っていながら同時に嘘を教えているのですね。とんでもないことです。






するとここで問題が出てきます。

では、阿含宗で言っている先祖がどうの、徳がどうの、はどうなるのか?ということです。




はい。これらは全くの嘘です。
答えを言うと自分がどんな家系に生まれどんな先祖が居ようとそれはそれであり関係ありません。


ただあるとすればこの世に生まれてくるために体が無いと生まれてくることができませんから、そういう意味での縁のある家系だったということ。
また生まれてきて様々な事象に遭いますが、それはその運命に遭って人生を送る~因果のとおりに人生を送るための道筋としてのよすがであってそれだけです。


だから阿含宗で言うような霊障だの縦の因縁だのは「関係ありません」





尚且つお釈迦様は「生きている人間も死んだ人も何人もどうこうできない」といっています。


まあ、せいぜい生きている人間には「こうしなさい」とかアドバイスやある程度の操作やらはできるでしょう。
しかしこと運命的な事項には親族であってもこれと言ったことができません。
つまり運命を変えるようなことはほとんどできないとはっきりお釈迦様は言っているわけです。


尚且つ本当の仏教は死者への供養としては「偲ぶこと」ぐらいで他は特にありません。
巷であるような葬式仏教は後世の人たちの行いの派生や後世の人たちのアレンジです。
本当の仏教は火葬して弔って終わりです。本当に質素です。




お経を唱え念仏やお題目、真言を唱え供養にいとまないのはよろしい行為に見えますが、あれは本当の仏教の内容では有りません。
やっても死者には何も届きませんから。



だから阿含宗の解脱供養なんて「嘘っぱち」なんです。




さて、最後は徳の問題ですがこれもお釈迦様は説いて無い事項です。

特に徳があれば悪業を消せるとか緩和できるなんてのは言ってません。




言ったのは「努めて善行を行え」です。悪いことをするな。善いことをせよ。この事項です。
それは先に述べたとおりです。





阿含宗で言うところの「道場で修行をせよ」とか「ご本尊様に供養して徳をいただけ」「徳が悪因縁を切る力になる」というのはお釈迦様は説いていません。

それどころか「ご本尊」という物自体も曲者です。なぜならお釈迦様はご本尊など説いて無いからです。





如来というのはこの世に一人「釈迦如来」だけです。またお釈迦様自身が如来であっても「自分に供養しろ」なんて一切言ってません。

まして密教などの様に沢山の如来やら尊を挙げることも有りません。




それはそうです。信仰をしたことのある人はわかりますが、本尊というのは仰ぐ存在であり供養の対象者でもあります。
その存在が自分以外に何体もいる、ということはおかしなことです。ましてやそういう存在は仏教の歴史でも現実の歴史にも証明が成されていません。

お釈迦様は本当にいただろう、というのはありますが、それ以外の尊、例えば阿弥陀如来やら何とかの尊は?というと、そういう尊らの存在は「ありません」




だからお釈迦様が自分以外に「尊」を推奨したり用意するというのはありませんし、実際阿含経にはあの仏教特有の多種の尊の事は書かれていません。




またお釈迦様は供養のことを言いましたが、これは「貧者や出家者などに供養せよ」とは言いましたが、お釈迦様が「俺に供養しろ」とか多種の尊に「供養せよ」などというのは言ってません。
ましてやお釈迦様は亡くなって居ますから、亡くなってその身がもうこの世にはありませんから死しても「自身に供養せよ」等とは言わない。

お釈迦様の遺骨(仏舎利)に対してもそうです。偲ぶだけで「供養せよ」なんて言っていません。



ところが後世の人間は遺骨に対して依存をし、また供物を供養したがる。
そういう風習が残ってしまっているのですね。





お釈迦様の遺骨に対して祈っても、何か供養めいたことをしても何もないぞ。そう言い渡されているのです。
しかし、阿含宗はこういう事実を「言わない」「教えない」




それどころか逆に「ご本尊様に供養しなさい」「お金や物や労力で供養しなさい」その様に言うわけです。





居ない存在を「居る」とし、またお釈迦様が説かないことを言い信者を食い物にしているのがよくわかるでしょう?
こういうことを1つづつ自分で理解することが大事なのです。
そして本当の仏教と阿含宗との内容を精査する。



そうしたらある程度行けば分別が付くはずです。強迫概念も吹っ飛ぶのが本当なのです。




今日は長くなりましたので、続きはまた次回にて。

目を覚ました自分が得たもの②

2017-08-17 00:53:46 | Weblog
さて、どのようにするか、ですが、基本はいつも同じです。
本当の仏教から本当の内容を知って置くことです。


なんでそういうことが必要かというと、教祖である桐山氏の言う事が全部本当だと思って信仰しているわけです。
信者という者は大概そういうものです。教団を信じ教祖を信じる。当たり前のことですね。

しかしその教祖自体が「嘘ばかりを並べて自分ら(信者)を騙している」となったらどうでしょう?

これは由々しき問題です。




ですが、桐山氏の言う事ばかりしか聞いてない(知らない)のでは、何が本当の教えか。
間違いはどこなのかが分からないままです。

だから本当の仏教の教えを知る(学ぶ)必要があるのです。



今は良い時代になりました。本屋さん、もしくはうまい具合に行けばブックオフさん辺りでも参考にできる本があれば確認ができるでしょう。
もしもそういう機会以外ですとネットが便利です。



そして調べて行くと物凄い違いに唖然とすることでしょう。
私もそうでしたが、ちょっとの違いとか微量な差なら可愛い物ですが、本当に全く違うのが多い。
全然お釈迦様が説いている内容と違うので、

「本当に桐山氏は阿含経を読破し内容を網羅したのか?」と疑いが出るほどです。



つまり易しい言い方をすれば、私が教祖に成ろうとして仏教を学んでもどこをどう間違えば桐山氏のような風になるか。
それすらさえもできないほどの嘘がてんこ盛りなんです、阿含宗は。



なので最初はその現実の事項に面食らいましたが、徐々にわかってきた。

ああ、やっぱり騙そうとして頭をひねらないとこういう嘘はつけないな。そのように強く感じました。





純粋に道を求めて釈尊の教えを行おうとしたら、桐山氏のような発言や行動はできません。
なぜなら釈尊の意と内容に反するからです。

阿含経に書いてあることを守ろうとすれば、護摩も占いもその他阿含宗で行っていることの大半ができなくなります。
ましてや因縁解脱なんて「無し」になります。すると阿含宗が阿含宗たる色も内容も無しになりますから、運営ができなくなる。
つまり詐欺まがいの行為全てができなくなる、ということですね。




あと信者経験がある人は良くわかりますが、桐山氏はよく学者さんらを馬鹿にします。
お経とか何かの引用に際には一切馬鹿にしないくせに、論じることになると途端に見下す。


「学者なんて机上の論ばかりで実際的な物が無いんだ。彼らは修行者でもないし実際に行動したことが無い奴らばかりだ。
仏教の学問的なことはできるだろうが、それ以外は駄目なんだ」

その様な内容を言っていたものです。




でも、なんでそういう風に言うかというと理由があります。

つまり学者の言っていることの全てが正しいとなれば、自分が言った論や内容が嘘になるからです。




例えば釈尊は成仏というのは仏陀に成るということであり、そのために修行をするのだという。
一方、阿含宗(桐山氏)は「成仏というのは因縁解脱のことであり、因縁解脱するために修行をするのだ」という。




だけど肝心の「因縁解脱」を阿含経から探しても微塵も出てきません。
何故か?それはもう皆さん耳にタコができていますよね?




そう。昔のある新興宗教の開祖が作った語であり内容だからです。
つまりお釈迦様は元々「因縁解脱」なんて説いていませんから、お経に有るはずがない。




そして恐ろしいことに阿含経どころか、どの経典にも書かれていないのです。
創作経典と言われて桐山氏が散々批判した「大乗経典」はおろか、万巻あると言われるどのお経にも「因縁解脱」は書かれていない。

それこそ阿含宗以外にも「因縁解脱」を提唱している教団も有りますが、そこで奉じている有名な「法華経」にすら「因縁解脱」は書かれていません。




じゃあ、釈尊と桐山氏、どっちが正しいの?と言ったら、答えはわかりますよね?





で、信者の中にもそういう風に言ってくるやつも出て来るはずだ。
そこで蓋をするのが「桐山氏のはったり」なわけです。




つまり学者を馬鹿にして「彼らは学問しかできない」と言い放つ。



桐山靖雄は仏教を勉強して尚且つ苦行を沢山してきた。その結果成仏するに至る方法や力を身に着けてきた。
学者にはそういうことができるか?また君たちは彼らの文学と桐山靖雄の血と汗の成果とどっちを信じるのだ?


そういう風に息巻くのです。すると多くの人が「桐山靖雄を選ぶ」とやっちゃったわけです。





桐山氏ってこういう手法も使って人を騙したり自分の方へ関心を引くわけです。





だから、もしも考える人の中に



「いや、やっぱり学者さんの方が正しいと思う」という人がいて実際に阿含宗を去る人も居ます。



しかし、そういう場合は「好きにするがよろしい」で何も言わない。
桐山靖雄を信じられないというのならそれは構わない。人は何を信じるのも自由なのだから、それを選んでどうのこうのと言わない。



そういう風に肩で風を切るような姿勢も見せたりします。



なので、桐山氏というのは嘘もつくがそれ以外にはったりなどもかましたり、勢いで人を騙すのに長けた人でもありました。
そういうのにやられて信者になる人も少なからずいた、ということですね。




だからこういうのも含めて「桐山靖雄を信じて行こう」に成っちゃうわけです。
案外単純な手法ですすが、意外と効果も有ったりします。




確かにそういう選択もある種有り、なのかもしれません。

しかし、本当に正しい仏教を行いたい、というのであれば、やはりきちんと阿含宗の内容が正しいのか。
桐山靖雄が嘘ついていないか、の精査ぐらいはしておくべきでしょう。



なぜなら「遊びで信仰をする」という人はそう多くは無いからです。
ほとんどの人が皆先祖を供養したいとか、本当の仏教を講じて成仏したいという人が信仰をしているわけです。


その人たちが如何に真摯でも、教えている内容が嘘やデタラメだったら何もしてないのと同じことになります。
つまり無信仰の人と何も差が無い、ということです。あるとすれば一生懸命詐欺宗教に身を費やし、お金などを浪費して終わり、が差でしょうかね。


でも、この差のどこに意味があるでしょうか?
ただ、詐欺師に貢いだ(搾取された)だけでしょう? そこを言うのです。



供養のためにお金をはたき、様々な活動や行動に身を費やす。
だけどそれらは何も先祖にも届かないし、自分の悪因縁の消滅にも活かせない。
ただ詐欺師らを喜ばせ、こちらは損をしているだけなのです。





だから面倒くさいとか天照が言う事は信じられないとかあるでしょうが、自分がそういう悪の餌食になっているのは嫌だ、というのならやってみることです。
調べてみてこちら(天照)が間違いだったら、安心して阿含宗の信仰を続ければいい。それだけのことです。


ただ、もしも私の言う事が正しかったとしたら・・・さてあなたはどうするのでしょうか?







そして何かのきっかけがあって調べてみたら、やはり阿含宗を批判した人たちの意見が正しかったと気づく人も居ます。
ならば、そこからすぐに「辞めよう」となれば問題は無いのですが、それがすぐに実行できない人がいます。


それはあまりにも深く阿含宗の中に入り込み、退会できなくなっているなどのしがらみがある人たちです。
または家族などで阿含宗を信じていたが、それが間違いだと気づいてもその旨を主張できない。
無理に衝突すると諸問題が起き、その方が悪い結果を招くことがある、などの方もあります。

そういう方は嫌でしょうが「にわか信心」もしくは「フェイク信心」で行くしかないでしょう。




ただ、私が言うのは「辞めようと思えばのすぐに辞めるのにも関わらず、躊躇したり頓挫している人」のことを指します。




それは外部から見ると


「なんでそんな環境に居ながら、辞めれないの?」と思われると思います。


私も過去、そのように思っていました。





しかし、数年かけて様子を見てみると、その人・人によって差はありますが、何かがその人の邪魔をしているので退会できかねている、というのがわかりました。
私もその人の状況になったつもりでシミュレーションしてみたら、躊躇する気持ちはわかりました。




ただ、言えるのは「躊躇してもいいが、それをいつまで続けるのか」ということです。
つまり「決断は早い方が良い」わけで、躊躇状態を長く引っ張ったって「さほど意味が無い」のがわかるからです。



躊躇というのは迷いです。迷いはある種「理解力の低下」が招いていると私は見ます。
だから前に「理解力が浅い(低い)」などと言ったのはここなのです。



本気で理解し辞めれる環境があるのなら、後は決断し実行するだけです。
しかし、それができない、というのはやはりその人に問題があるからです。


そしてその「問題」というのが「自分の中に生きている洗脳度」または「変なこだわり」なのです。それが邪魔をしていると私は見ます。
(これが①の最後辺りで述べた「トリガー」というやつです)


だからその躊躇から脱却するためには、もっと深い理解と決断力が必要になる、ということですね。





実際的にその内容に触れると多くの場合はこれがあります。

「阿含宗で教わった教義や内容に恐れを抱いている」

これが最も多いですね。




確かに恐れを抱くのはわかります。私もこの恐れを懸念していた輩の一人だからです。
ですが、私がその懸念を早く取り除けたのはどこか?ということが、躊躇を長く続けてしまう人との大きな違いだと思います。そこがポイントです。




これは徹底的に「正しい仏教の内容と桐山氏の嘘との把握」が必要です。
つまり、如何に阿含宗の内容に強迫概念があるか。惑わされているか。それに怯えているかを自覚することです。



もっと易しい言い方をすれば「オオカミが来るぞ」と言われて怖がる。
幽霊が居るぞ、または来るぞ、なんて言われてむやみに恐怖するようなものと似ています。



そういう脅しにようなものに勝つには「現実を見る・知ること」です。
つまり「無い物に怯えている」のが一番の原因です。
なんで無い物に大の大人が「ビクビク」せねばならないのか、ということです。




まあ、そうは言っても現実では本当に「オオカミが来るぞ」と言われてそれにビクビクしているわけではありませんから、よくそこらを見ましょう。





私が言う「ビクビク」とは宗教的強迫観念のことです。こと阿含宗以外にもそういうものを植え付ける、または想起させるようなところも有りますが、よそ様はこの際省きます。
ここでは阿含宗のことですからね。

ただ、阿含宗以外にもそういう教団がありますから、応用として他の教団でもそのことをしているのであれば、以下の説明を見てゆけば変な洗脳から脱却できるでしょう。
なので、もしも活用したい方はそのようになさってください。




私は今「宗教的強迫観念」と言いましたが、これを2chの阿含批判板では阿含宗のことを「宗教ヤクザ」と呼んでいます。

私も最初その言葉を見たとき「言い過ぎじゃないか?」とか「言葉のアヤも酷くないか?」と思いました。
しかし、考察してゆくと「いや、言い過ぎじゃないな。むしろ適切な言葉かもしれない」と思うようになりました。




最近のヤクザさんはどうかは知りませんが、昔は本当に酷かった。
何が酷かったのかと言えば「チンピラ」と言われるヤクザの下っ端やら、生半可なヤクザほど堅気の私達に「因縁を吹っかけて来る」のが多かったのです。



この「因縁を吹っかけて来る」という意味が分からない人は居ないと思いますが、いわゆる「イチャモン付け」でもあります。
まあ、意味が分からない人は良くネットでや辞典で調べてみてください。


とにかくその「因縁を吹っかけて来る」のがやたら多かったわけです。これを阿含宗は「宗教の世界」でやっているゆえに「宗教ヤクザ」と揶揄って言われているわけですね。





それこそこの語(揶揄)にはかなりの皮肉が混じっているわけです。
阿含宗では「因縁解脱」をする教団ですよね? それが信者に対して「因縁を吹っかけて来る」とはどういうことか?です。



それこそ本末転倒ではないですか。
ですが、現実を見るとその本末転倒を阿含宗がしちゃっているわけです。
だからそれを分かって後で「納得した」のがあるわけです。





まず因縁解脱という物があるか・無いか、です。これは良く調べれば分かる様に概念としてのものはあるかもしれないが、厳然たるものとしての存在は「ありません」
こと仏教に於いてみれば「全くの嘘」です。


何故それが言えるかと言えばお釈迦様は因縁解脱なんて微塵も説いて無いからです。
次にお経の中に1つも因縁解脱に関する記述や説明が無いことです。

先にも言いましたが阿含経は元より創作経典群にも一切無いのです。これはおかしなことです。
そうなると因縁解脱という物は「お釈迦様が亡くなってから後世の人間が考えた代物」ということになります。
そして実際的に調べると某新興宗教の開祖が言い出した(作り出した)ものだというのがあります。

だから如何に「そうかもしれない」というような内容であっても、それは外道の教えであり仏教の教えではない、ということです。
なのでその仏教では説かない教えを「仏教で行う」というキテレツなことを阿含宗はやっているわけですね。


私が本当の仏教を基軸に置け・知っておけ、というのはここに有るわけです。




だったら「あ~、因縁解脱ってのは嘘(架空)の教えか。尚且つ仏教の教えじゃないってか。だったらやっても意味がないじゃん」となりませんか?






次にそれが判っても別な「強迫観念の悩まされる・怯える」というやつがあります。
これは真面目に阿含宗で教学を勉強した人に多くある事項です。


しかし、これも良く理解度を深めてゆけば脱却できるはずです。






今回は長くなったので次回はこの続きから行います。では。

目を覚ました自分が得たもの①

2017-08-07 19:56:11 | Weblog
さて、もう2017年も8月に突入し年の半分を超えました。
ここからは今までと違った形で、尚且つ自分がどうやって本当の仏教を理解し詐欺仏教阿含宗から目を覚ますに至ったかを書いてゆきます。

どなたかの参考になれば幸いです。



まず初回の記事として大きなものから行きましょうか。


阿含宗では日本の多くの新興宗教教団でも使われている「因縁解脱」を信仰の要としています。
もちろん厳密に言えば「因縁解脱」だけでもないし、それが全てでもありません。

阿含宗ではいろんな要素を網羅しているので因縁解脱の他にも信仰をする上での様々なものがあります。
しかし一言で、端的に「これ」という物を出す・表すとすればやはり「因縁解脱」となるので自分は表し・用いています。

そして他の教団と違う点はやはり因縁解脱するにあたって阿含宗風?というかいろんな解釈(味付け)をしています。
そこが阿含宗と他の教団との違いではないかと思います。

尚且つ解脱するためには「成仏法」が絶対に必要であり、ここも他教団と違う点です。
まあ、ざっとですが阿含宗では何を要に教えているか?というと

「因縁解脱」であり、それが完全解脱に繋がるものであり、それを成すためには「成仏法」が必要である。
そしてその成仏法は阿含宗にしかなく、また阿含宗でしか講じれないという物であるというわけですね。




そしてその因縁解脱をするためには「悪い因縁」を切る=悪因縁解脱する必要があります。
善い因縁は放っておいても害はないため、無くす・解脱するためには「悪い方を無くす」というのが必要になります。
そしてその悪い因縁を切るために信者さんらは阿含宗の信仰にいそしむ(努力する)わけです。




何も知らない人がこういうのを聞けば「そうなんだあ」と思うかと思います。
しかし、こういう内容や説明は皆「嘘」なんですね。



このブログを見たことがある人にはもう承知の事実ですからその辺りの説明は省きますが、もしもこのブログを初めて見る方や詳しく内容を知らない方は過去の記事を読んでみてください、何度も私が語っていますのでいつでも見れます(笑)




さて、この度自分は何を語るのか?と言いますと、この「嘘」の事項を認めたくない人や「分かっているがどうも引っかかることがある」と言う人がいます。
かくいう自分も本当の仏教を知り阿含宗が如何に「偽仏教」であり、「嘘八百」であり、「詐欺仏教」であったかが分かっても「心の底から理解する」には時間が掛かりました。
つまりそれだけ「悪い影響を受けていた」ということなのです。




こと退会にあたって悩む人がいるのもそこが原因であったるすることがあります。




さあ、では完全に阿含宗が「偽仏教・嘘だらけ・詐欺仏教」だというのを完全に理解する、となるのは「その人次第」というのは今述べましたが、その人次第ということはその人が理解を示さなければいつまでも騙されたまま、ということも指します。


逆に早く理解すれば詐欺の魔の手から早く抜け脱すことは可能になるでしょう。
そのために「何を、どう理解するか」が問題と言えましょう。




私の場合はこういうのを理解しました。






例えば阿含宗に居た人は良くわかりますが「因縁解脱修行宝鑑」もしくは因縁透視をしてもらった人は自分がどのような因縁を持っているかを列記して(あげて)もらった事があるかと思います。
また「そういうのが無い」という人は自分がどんな因縁を持っているか分からないが、想像などで「おそらくこうかもしれない」とか想像したりしたことがあるかもしれません。



実はここがミソでして、いち早く目を覚ますには「この項目に捉われない」と意外とスムーズに行きます。

どういうことか見てゆきましょう。







まず、基本としては


「阿含宗で教わる教学や教義のほとんどは桐山氏が作った妄想と嘘で仏教にはない教えばかり」ということです。


これは今まで耳にタコができるほど聞かされてきましたよね?


普通ならこの事項だけで目を覚まし理解を得れるものですが、洗脳の度合いが高いというか阿含宗の信仰を命がけしている人にはこの事項を理解できない人が多いのも事実です。





ならば、その辺りの「こだわり」やら「固執」を取り除けばいいのではないか。そう思うのです。






まず、これも基本ですがこういうのがあります。



「阿含宗では様々な因縁の種類を言ったり表しているが、それが阿含経のどこに書かれているのか」



調べると判りますが、ありません。存在しないのです。




次に「阿含宗では因縁解脱するにあたって成仏法と成仏力で成仏するとあるが、それはお釈迦様がいつどこでどのように述べられているか」



これも有りませんね。桐山氏が勝手に作り上げたものですから阿含経にそういうシステムも記述も有りません。



それどころか仏教の教える「解脱=成仏」というのと、阿含宗が教える「解脱=成仏」の内容が違うのですから、話にすらならないのです。







なんでこのようなおかしなことになったのかというと、私が何度も言っているように桐山氏が行おうとしたのは「人を騙す事」です。
ですからそのためには如何様な嘘もつくし行うわけです。


尚且つ桐山氏が自分の主張を正当化するにあたって言う嘘は「それらしく見せる必要」があります。
あまりにも簡単にバレる嘘であれば、長く・多くの人を騙せません。

短時間や短期間ではそれも可能だったでしょう。だから実際過去に阿含宗は「飛ぶ鳥を落とす勢い」だった時期がありました。
その時期に自分も居りましたから、よくわかります。

しかし、訝しく思う人や信仰に本気になれない人。またはどこかで嘘だというのを分かって退会するものが出て、段々阿含宗は寂れてきました。
ですが、日本人の性質に有った騙し方なので、未だに多くの人が騙された事に気づかないで信仰を続けています。
なので、如何に寂れたといっても阿含宗が生き残っているのは、そこに理由があります。




本題に戻り、桐山氏は人を騙そうとした。そのためには何でもやったわけです。また方便も素人を騙すには十分の物を用いたわけです。
それが阿含宗の教義の中に有る「因縁解脱」です。


そしてただそのまま他教団でも使っているようなままで方便を通したら、他教団と差が無くなります。つまり「意味が無くなる」「価値が無い」わけです。
阿含宗で「どうしても信仰をしたい」となるようなものを出さなければ、とても生き残れれないし立宗した意味もないという物です。

それこそそういう簡単な繕いだったら、とっくの昔に阿含宗は潰れているでしょう。



逆を言えば、中々巧妙に嘘をついたお蔭で「繁盛した」ということですね。





それは「巷の人に本当の仏教も嘘の仏教もわからない人が多い」というのがあります。ここを突いてきたわけです。




なのでいつも自分が言うように「本当の仏教の内容と阿含宗の内容とを精査せよ」と言っても、まともにそれを行う人は少なかったりします。
それはいろいろ理由があるでしょうが、まず多いのは「めんどくさい」というのと「天照よりも桐山氏を取る」というやつですかね。これら非常に多い。




普通なら「騙されていますよ」と言われたら気づくのが普通です。ところがいざ「信仰」となるとどうしてこうも腰が重いというか動かないのでしょうか。
確認をするとか未だとネットも有りますから非常に調べやすいのにもかかわらず、実行しない。非常に呆れる次第です。





次に多いのが、調べたけれど「理解力が浅い人」です。もしくは頭で理解はしたが「心で理解できないでいる」という人ですね。



これらは人に依りますが時間のかかる人がいれば、きっかけ次第で「ぱっと」理解する人も居ます。
まあ、千差万別ですが、色々あるというわけです。




では、どのようにするか、です。







私が思うには本当に「理解力が無い」という人は少ないとみています。それは言葉が悪いですが「脳や心に障害がある人」で、理解しようと思っても理解できない人がそうなりやすい。


自分が言うのはそういう「障害」を持ってないのに「理解力が無い」もしくは「浅い」人のことを指します。
ですから当人に理解ができかねるのは「何か別な理由がある」とみています。





そして自分が一番多く懸念するのが「阿含宗の教えに深くやられている」ということです。
つまり「嘘がトリガーになっていて理解を邪魔している」という感じでしょうか。




だからそのトリガーを取り除かねばいつまでも「もやもや」のままです。

次回はその「取り除き方」について触れてみます。では。

阿含宗在籍期間を振り返る⑤

2017-07-29 06:57:24 | Weblog
なので過去の自分はもとより、世の中を見ても亡くなった方を思うので非常に多いのが「死後の安寧」です。

砕けて言えば「死んだ人がどうぞ天国に行けますように」「成仏できますように」ということですね。



安らかに死を迎える人も居ますが、数は多くない。
亡くなる人の大半は病気で苦しんだり、事故や災害。事件などに絡んで安らかに死することができなかった人が大半です。


そうなれば死の際の状況がよろしくないことから亡くなった方への想いが強くなるということです。
これは確かに人間としてそのように思ったり考えるのは有りだと自分も思います。




しかし、その懸念を払拭するのに判りやすい物が1つだけあります。
それはあまり良い引用ではないと言えばないのですが、他に良い引用が無いためにこれを用いますが、それは

「故 丹波哲郎さんの発言」です。



知っている人は知っていると思いますが、丹波さんは有名な芸能人であり俳優でした。
そういう傍ら霊やあの世の世界の事を後年語りだしてそちらの方でも有名になった方でもありました。



その丹波さんが色々言っていた言葉の中にこういうのがありました。それは



「人は死んだら自由になるんだよ」ということです。



どういうことかというと、丹波さんは生前幽体離脱のような事にもあってあの世などを見てきたそうです。

その際に色々見てきたのでそういう発言をされたのですが、その際にこういう風にも言われています。


「例えば生前に眼の病気などで眼が見えなかった人が死んだら視力が回復するんだ。
 死んでしまえば生きていた時の障害やら不自由だったものが無くなるわけだ。
 だから生きていた時に不自由を受けた人も死んだらそういう物の支配をうけなくなるんだ」


その様なことを言っていました。



もちろん私も当時そのような氏の発言を聞いてはいましたが「どうかなあ」と思っていました。

確かに悪い話ではありませんが、本当にそうなのかどうかわかりませんでしたしね。




ですが、お釈迦様の本当の教えなどを学んで行くうちに丹波さんの言っていたことのいくつかも「正しいんだな」と分かってきた。
その1つがこの「死んだらリセット」というようなことでした。




それこそ普通では人は死ねば生きていた時の状況や状態などをそのまま継続し、それ故に「死後成仏できない」と考えていました。
だからこそ亡くなった方に対して「どうぞ成仏できますように」「成仏してください」なんてするわけです。



しかし実際は死んだら肉体が無くなる(または肉体から離れる)わけですから、もう生きていた頃の支配を受けないわけです。
すると丹波さんが言ったことは「あながち嘘ではない」と言うことになります。



またお釈迦様は死後「その人の赴くところへ行く」と言われている。

死んですぐに転生ができる人は、別な肉体(または生命体)を持ち生前とは別な存在として生まれ変わる。
ならば、いつまでも生前の苦しみや死の苦しみなどを持ち続けることはできなくなります。



死んだ人が悪業のために地獄という世界に堕ちたとしましょう。
ですが、このことも同様で地獄で自分の作った悪果のためにその地で苦しまねばならない。
そこに他人が如何に祈ろうが追善しようが悪果の相殺や軽減などはできない。
また地獄に堕ちて苦しんでいる人との生きての繋がりは切れてしまっているわけですから、やはりどうにもできない。

だからお釈迦様は最初から「自分はどうこうできない」と言っていますし、他人が人をどうこうもできない、と言っています。
基本は因果応報なのだから努めて善行をせよ、と言われているわけです。




地獄の逆として善果の恩恵で死して天国に行けたとしたら、これも同じです。
地獄と違うのが苦しまないで済む点です。

そして天国で安穏に暮らしているわけですから、子孫や遺族たちは死者に対しての変な懸念は持たなくて済みます。

これを勘違いして「どうぞ成仏してください」なんて生きている人たちが祈っていたら、死んだ方たちは「やめてくれ」と思うことでしょうね。



それこそ昔流行った「千の風に乗って」の歌のようです。
お墓の前で泣かないで。そこには自分はいないんだよ。死んだ方はそのように思うんです。




だから死んだ(または死ぬまでの経緯)で安らかでない死に方をした方を可哀そう、と思うのはわかります。
しかし、死んでしまえばまた別な世界へ旅立つのでもあるし、生きている人がどうのこうのやってもそれは死んだ人には届かないんです。

なので死者には死を悼み偲んでおもむろにささやかな供養をして終わり。
基本として偲んで終わり、でいいのです。




それが分かってからは私は弟にも父にも、そしてその他の家の先祖の供養に際して凄く簡素にしています。



まず供物は上げない。墓なら墓を綺麗にして水を掛けて合掌して念じて終わり。

仏壇ならろうそくと線香だけあげて合掌して終わり。これだけです。



本当は仏壇の線香とろうそくも上げたくはないが、まあ用意してあるので使っているだけです。
線香の香りもろうそくの灯りも別段あの世へ届くわけではありませんからね。


だから先祖に対して偲ぶ心の合掌と念じる行為。これだけでいいのです。





しかし、自分のような行為が「当たり前」なったらどうなりますか?

そう。今まである(現在も有る)様々なシステムに関する人たちが飯が食えなくなります。



寺院はおろか、お供え物を製造・販売していたお店や企業などが潰れます。
ろうそくや線香なども売れなくなるでしょう。



そんなことになったら世の中が激変するので、下手に本当の仏教だのを推すより「今までのまま」でとなるのがあるわけです。
そしてそういう物が継続されることで世の中も成り立っているとも言えます。





だから自分はこの本当の仏教の内容を知っていたなら、詐欺宗教に騙されないで済んだというのは非常に強くあります。
また将来に於いての供養に於いても余計なお金を使わないで済む。





なんで供養するということでお金を沢山消費せねばならないか。
またそのために苦労しなければいけないか。本当に馬鹿くさいです。




死んだ方へ可哀そうだとか供養したい、と思う心は決して悪いことではありません。
しかし、それを悪用というか商売につなげていてそれに成り立っているのには賛成はできません。




こっちは「供養したい」というのとそれらを成すことで「供養ができている」と思っている。
しかし、実際は「供養ではない」し「成仏云々と関係ない」わけです。





だから私は早く多くの人が本当の事実に気が付いて余計な物にお金を使う事が無くなればいいと思っています。

なんで戒名に何十万も費やすのか。葬式に何百万も掛けなければいけないのか。
また「やれ回忌だの」と法要に追われるのもナンセンスです。




人は死んだら終わりでサヨナラです。死んだら簡素なセレモニー(葬式など)で済ませて墓に納骨して終わりでいいのです。
後は生きている人はおもむろに偲んで暮らしてゆけばいい。それだけで十分です。戒名も回忌も不要です。




この章は今回で終わり、また違うものを行ってゆきます。それでは。

阿含宗在籍期間を振り返る④

2017-07-20 05:47:35 | Weblog
③からの続きです。(長いので分割しました)






本当の仏教の内容はというと何度も言っているので皆さんはもうお分かりですよね?

そう。人は死んだらどうなるか?
それは「その人の赴くところへ行く」が正解です。


つまりキリスト教のように天国に行くでもないし、地獄に行くでもないし、神様の元へ行くでもないし、仏様や先祖のいる場所へ行くでもない。
ならば、無の世界なのか?というとそうでもない。


ああ、じゃあ輪廻転生があるんだから、生まれ変わるとか?
色々考えが出てきますよね。





これについて答えたのがお釈迦様です。そして答えが先ほどの「その人の赴くところへ行く」なのですが、これを良く見てゆきましょう。




例えばある人は物凄くこの世で頑張り、善いことをした。すると因果応報の法則がありますから、その善果の報いを受けるような環境や場所に行く、ということです。

一方、ある人は生きている間に悪いこと三昧だった。すると死後は当然因果応報に沿って「その人のしかるべきところへ行く」わけです。
つまり悪果の報いを受ける環境や場所へ行く、ということです。


ただ、それについては「地獄」だとか何だとかとは特に述べていません。
まあ、もちろん質問が「人は死んだらどこへ行くのでしょうか」の答えですから、その答えに答えたのがこの言葉ですけどね。

ですが端的で簡潔極まりない文言ですが、本当に無駄が無い。まさにお釈迦様というべき回答です。




その人がどういう考えと行動で物事を成したか。その結果に沿って因果は現れるのだぞということを明確に示しています。

なので、巷的な言い方をすればその人が「天国に行こうが地獄に行こうが、それはその人の行いで決まるのである」であって、周りや他人がどうのこうのと言う筋合いはないわけです。
逆に誰かが横から「天国に行かせたり地獄に落としたり」ということも「できない」わけです。

全て自分の因果の善し悪しに物事は自分に反映されるというわけです。これが因果の法則、因縁の法則とも言います。




だから先ほどの例えを持っていうと、有る人が生きている間に善いことばかりをした。そして寿命が来て亡くなった。
その現象だけを見ていれば「あの人は善いことをしたのだから天国行き決定だな」と誰しもが思っても、その人の過去世からの悪業が残っていたらその清算をするためにその場所や生物になって残っている因果を果たすことになります。

なので必ず善いことをした人生だから、すなわち「天国に行ける」とは限りません。


また、悪いことをした人が死んだらその報いを受けるのは当然ですが、その人自体に過去世からの善果もあるとしたら「善悪果混ざったところ」に赴くことになり、必ず地獄に行くとは限りません。




こうなると「やれ天国だの地獄だの」と言えなくなります。





またお釈迦様は「死んだら成仏できない」ということは言っていません。

確かに生きていて肉体が無ければ仏陀に成るための修行という物はできません。だからそういう意味合いでの「成仏ができない」というのはあります。

ただ、皆の多くが抱いている「死んだらあの世で浮かばれない」というやつの「成仏できない」というのはお釈迦様は説いてないんですね。




というか正確に言うならば、あの世で「浮かばれない」ような原因を作ったのは誰か?ということです。


そうです。それは「自分」なわけです。





生きている間に散々悪いことをした。その結果苦しむ目に遭う種というか元を作ってしまったわけです。
そしてその報いが現れて「浮かばれなくなる」わけです。




まあ、確かにそういう目に遭っている先祖をが居たとしたら子孫としては「可哀そう」と思う気持ちは確かにある(出て来る)でしょう。
でも、それをどうやって知るの(分かる)でしょうか?


また仮にわかったとしても、その先祖の苦しみをどうやって解消させてあげることができるのでしょうか?




そういうと


「それを成すことができるのが仏教の供養法だ」という人が居たりします。



しかし、肝心のお釈迦様はそういうことは「言ってない」し「教えてもいない」のが事実です。
つまりあのお釈迦様でも「何もしないしできない」ということです。



今まで何度もこの辺りの事は言ってきているので端折りますが、お釈迦様は死後苦しんでいる人を助けることもしない。
厳密に言えば、生きている人にも教えは説くが、神通力のようなもので救ったなんてことはしてないのです。

つまり生きている人も死んだ人もお釈迦様が誰かを助ける、なんてことはしてないし、むしろ「できない」とさえ言っている。
全て身に起きることは因果の法則なのだから、努めて善行を成せ、という教えだけ行っている。




これが本当の仏教の内容です。





だから自分が高校生の時に霊感だか何だか知らないが、先祖が成仏してない気がすると感じた。
だけどその根拠は如何に?というのがあります。


また百歩譲って霊感が正しかったとする。本当にあの世で先祖が苦しんでいたとします。
では、どうやってその先祖を救ってやれるのか?という問題があります。


お坊さんの力?お経?真言?お題目?念仏?それとも供物ですか?




お釈迦様は「誰も何もできないよ。その因果が果たされるまで(尽きるまで)当事者は報いを受けなければいけない」と言われています。


だから天国に行こうが地獄に落ちようが、またはどこかへ転生しようがその人の因果次第なので、どのようになるか、如何様になるかをいちいち示せないわけです。
なので簡潔にすっぱり答えたのが

「その人の赴くところ行く」

と言ったわけですね。







さて顧みると、阿含宗のような「成仏法で死者を完全に成仏させることができる」という謳い文句はさてどうか?となりますよね。
尚且つこの成仏法はお釈迦様が持っているというのですよ。正式名は「釈迦の成仏法」というのですからね。





だけど、肝心のお釈迦様は「自分は何もできないよ」とお経の中で言っている。
一方阿含宗は「お釈迦様が世界で唯一死者を成仏させることができる法を持っている」という。

じゃあ、どっちが本物?となりませんか???






阿含宗開祖の桐山靖雄が真っ赤の嘘をついているわけです。そういう物はないのです。
そしてお釈迦様が説かれたようにその人が受ける因果というものがある。その報いから逃れられる人は誰もいないんだ。
善い物も悪い物も皆その影響を受ける。報いを受けるんだ。

そういうことですね。





だから自分以外にも皆こぞって「先祖供養」にいそしんでいる。
こと日本人は「先祖供養」に励んできた人種でもあるのです。



ただ、如何せん嘘の教えがあった。
お坊さんやお寺は檀家からの供養を請け負い、法要などをベースに供養行為を行う。

一方檀家は供物を供えたり法要をお寺さんにお願いすることで供養をした(している)という事になっている。




だけど、お釈迦様はそういう物は説いてないのですね。





本当の仏教に則すならば寺院は檀家さんらに本当の仏教の内容を説き在家にも成仏する大切さを説く。
お釈迦様の説いた正しい内容を教えるのが仕事です。
そしてお坊さんらはひたすら仏陀に成るための修行をするわけです。

在家者はというと普段の生活をしながらも仏陀に成るための修行をする。また出家者の後押しとして布施をするなどを行う感じでしょうか。
もちろん、仏陀に成ろうなんて思わない人は、布施だけでもいいし布施は基本思し召しなんですから、やらなくても構わない。

どうです?こうみると全然今巷に有るスタイルと違う、というのが判りますよね。
本当の仏教に則したものと、今巷に有るものとは本当に違うというのがわかりますね。






ついでにいうならば、葬式はするものの法要は特にしなくていい。回忌なんてのは後世の人間の作りものです。
だから安く済ませたいなら葬式も簡素にやって、後は回忌もやらなくていい。

本当の仏教の供養は「先祖を偲ぶこと」が基本ですからね。偲ぶだけの行為はお金がさほど掛からない。
戒名だって後世の人間の作りものですからね。戒名も無くたって良い。




だからたまにですが、墓石に「俗名」で掘っている人いますでしょう? あれって違反でも何でもないんです。
戒名が無ければ成仏できない、なんていうお寺も有るそうですが、全くの嘘です。




だから私が在来仏教も「準詐欺宗教だ」というのですよ。






かいつまんで話してきましたが、どうでしょうか?
概要だけ分かっても、自分たちが今まで教わった来たり見聞きしてきた。もしくは実際にやってきたことなどを本当の仏教の内容に照らしたら「かなり違う」のがわかりますね。


そうです、それだけ自分たちは「本当の仏教」を教わることも無く、尚且つ間違ったもしくは嘘の教えを示唆されてきたし、未だにその方向性を「させられている」のですね。




だから繰り返しになりますが、今の在来仏教では何を以って死者成仏を果たすと言っているのでしょうか?



お経? 違いますよね?

真言? これも違う。

お題目?念仏? そんなのは昔からやっているしいくつ唱えれば成仏するのか?
またお釈迦様がそれらを唱えれば死者成仏できると説いたのでしょうか?
そしてそういった箇所はどのお経のどの場所に書かれているのでしょうか?

または供物を供えれば成仏できるのでしょうか?
いいえ。死んだ人は供物など食べることができませんよね?
死んだ人に生きた人が気持ちで供えるのはわかりますが、それで成仏できるなんてのはやはりお釈迦様は言っていません。

だったら最後は「お坊さんの力?」となりますが、お坊さんに聞けばよろしい。
まともなお坊さんだったら「いいえ。自分たちの力や能力で死んだ人を成仏させるなんてことはありません」と答えます。
ちなみに自分の家の宗派の「浄土真宗」のお坊さんはある日の説教で自らそのように答えています。
私が聞かなくてもお坊さんの方から説教内で「言った」のです。

そうなると普通は「このお坊さんは嘘をついている」とか「おかしなお坊さんだ」とみられますが、実はそうではない。
お坊さんとしては合格の回答であり、正しいのです。

お経の中にも、また寺院としてもそのようなものを打ち出したら、たちまち詐欺宗教の仲間になります。
阿含宗と何ら変わりなくなります。




在来仏教を自分が「準詐欺仏教」というのはここにあります。
つまり在来仏教は間違った教えや内容を説いたのは歴史的な物や依経自体が創作経典な故に「真実を説けないでいる」面があるのです。


といって本当の仏教を基軸として「在来仏教は講じても駄目です」となれば、たちまち宗派崩壊となる。
また今まで多くの檀家さんやその先祖などから信仰心とお金などをいただいて来た経緯があります。

そういうのが「準詐欺」であるとなったらどうなりますか?責任が取れません。



そういうのもあるので、事穏やかに済ませるためには私が言っているような事項をなるべく出さず、または出しても方便で繕い「今まで通り在来仏教の信仰を続けてもらう」のがベストです。
だからそのようにしていて経過しているのが事実です。



そういうわけで肝心要の「お坊さん」さえ「死者成仏させられない」のが事実です。






さあ、そうなると「死んだ人に対してどうしたらいいのか」となります。

方法は2つになります。1つは在来仏教などが示す「供養方法」でやるか、自分の言ったような方法でやるか、です。




前者は未だに厳然としてある方法ですから説明はカットします。
問題は後者の自分が言った方法ですね。




自分の言った方法は「先祖を偲ぶ」という本当の仏教のスタイルですからお金もかからないし、手間もかからない。非常に楽です。

むしろ、今までの在来仏教の示された方法に慣れた人からだと、あまりに簡素過ぎて「ほぼ何もしていないに近い行為」に感じるでしょう。
しかし、それでいいのです。





なぜなら先祖を思う心や何かを行う行為は良いことだとは思いますが、今ある在来仏教の示す行為をしても、本当の仏教の行為でも先祖から見れば「同じ」なのですからね。






死んだ人は墓にも仏壇にも死んだ場所にも生家やゆかりのある地にも「居ません」
死んだ人は「その人赴くところへ行った」のであって、それを見ることも知ることも感じることもできません。
ましてや何かしてあげることも適いません。




つまり子孫や遺族が何かやったところでそれは「生きている人の自己満足」で終りです。
盛大な葬式も法要を行っても、それが死者の何かにはならない。全然因果の左右や軽減・付加にならないのです。



生きている人は「天国に行けますように」なんて望んでいるが、そんなのはその人の因果次第なので他の人が何かできるわけではない。
だからお坊さんが「成仏させてあげるなんて言わない」のもここです。本当の仏教の内容を知っているからこそ「お坊さんの力で成仏させてやっている」と言わないのが正しいのです。



また阿含宗の様に「成仏法が成仏させる」なんてのも駄目です。そういう記述は無いしお釈迦様もそういう内容を一切言ってません。
阿含宗の開祖がついた真っ赤な嘘です。仏教自体にそういう「法」などないというのを巷の人が知らないから嘘をついて騙しているのです。





そういうことから考えると、如何に盛大に、または仰々しく法要などをやっても「あまり意味を成さない」というのがわかりますね。
そしてそういう法要などをやればやるほど、そういう物を請け負う所にお金を費やすだけです。




死んだ人は死んだらその人の行く場所や環境・状態に移行するので、生きている人の行う行為はあまり関係が無いんです。
だから葬儀はある程度のものや簡素で良いのです。また回忌法要などもお金もかかりますからしなくていい。

死んだ方へは偲ぶだけでいいのです。



ただ、現実問題として皆さんが「はい、そうですか」とおやりになるとは思いません。
なぜなら、今まで自分の親や親せき、知人や周りの人が巷に遍満している「習わし」に沿おうとするのが大半です。

確かに理論や金銭的な面を考えれば私の呈した方法が良いとは多くの人はわかります。
しかし判りはするが実際に実行できるか?といえば、そうではないと思う。

また自分の呈したようにするのが非常に異様に感じ、行えないでしょう。
もしくは昔から多くの人に植え付けられた、もしくは染まされた「認識」や「概念」が邪魔をして実行できない。

葬式も簡素で法要もしない、なんて有様は、供養をほとんどしない恐ろしい行為だと感じることでしょう。

阿含宗在籍期間を振り返る③

2017-07-11 06:20:45 | Weblog
自分が阿含宗に入った一番の動機は「先祖供養」が目的で入信しました。

あくまで個人的見解であったり憶測に過ぎないのですが、どうも自分の先祖が成仏していないのでは?と思っていた。
なので、どうにかして先祖を完全成仏させる宗派があるのだとしたら、そこの力を得て成仏させるに至りたい。そういう考えがありました。

自分の家の宗派は「浄土真宗」でしたが、どうもその宗派、つまり在来仏教では成仏していない気がすると思っていたんですね。

当時は自分は高校生で弟は中学生でしたが、二人ともにわか霊感でしたがそのような物を感じていた。
なのでどうにかして大人になったら世の中に「先祖を完全に成仏させる宗派」があったらそこにいきたい。
自分はそのように思っていたのでした。(弟はそこまでの考えがありませんでした)

今思えばそういう考えは愚も愚だとわかるのですが、何分やはり無知識なのとガキだったことも相まって阿含宗という宗教詐欺の餌食になるものを持っていたわけですね。



ただ、そういう傍ら巷を見てみますと、こと日本は意外と「自分の思ったような考えを抱いている人が多数存在する」というのがありました。
つまり私個人で見てみれば「勝手な推測や憶測」であったものの、巷という広範囲を見れば如何に世の中に「浮かばれていない先祖が居ますよ」という事項で人を騙す。
もしくは人を惑わせるような事項を行っている人がいるのに気づきます。


それは世に居る霊能力者という人もその類に入ります。


なんでそういうのがわかるのか、というと「本当の仏教」を学んだからこそ、その点について良くわかるようになったのがあります。



つまり本当の仏教には「死者成仏が無いんだ」ということを理解する。ここを押えて置く、または理解できた上で精査すると巷に有る逸れた考えが判別できて来るのです。




まず世の中を見てください。日本人のほとんどの人が仏教を講じている背景は「仏陀に成りたい」という目的ではなく「先祖供養が目的」というのが大半であり圧倒的であるということです。
次に来るのが「家の代々の宗旨宗派を守る・継承する」ということで行って(講じて)いる物が多い。
つまり、仏教という宗派により先祖を供養するということで講じているのが大半だということです。



ただ、その講ずべき仏教が本当の仏教なら良いのですが、巷に有る多くの「仏教」と言われる物は、残念ながら偽仏教か嘘の教えが混ざっているものです。
ですから総じていえば巷に有る仏教のほとんどは「本当の仏教ではないもの」を講じているわけです。



ということは嘘を講じていることになりますから効果が無い、または意味を成さないに近いものを行っているということになります。
また肝心のものである「先祖供養」というものを果たしていないというのも出てきます。





そういうと


「随分天照は物知りなようで、そうやって今ある仏教を批判するのか」
「本当の仏教と偽の仏教っていったってそんなに差が無いだろうよ」


そう思う方もいるかと思います。





まず、考えてみてください。

先祖を供養したいと思う気持ちはとても素晴らしいことです。そういう考えを持ったからこそ例え偽物であっても「仏教」を講じることができたわけです。
逆に日本人が「供養もクソも無い」という思考の持ち主が大半だったら、おそらく仏教信奉者はかなり少なかったことでしょう。
そしてその結果日本は仏教信者はほとんどいない、という有様になっていたでしょう。



では、問いますが「供養」って何でしょうか。どういう物が「供養」というのでしょうか。


そういうと以前から自分も説いていますが、巷に有る行為らを述べて来るのが殆どです。
つまり本当の仏教の説く内容を正確に述べて来る人はほとんどいません。かつての自分もそうでしたから良くわかります。



私が言う(問う)のは「偽仏教の供養法」じゃなくて「本当の仏教の供養内容」を聞いているのですからね。





するとそこで分かるのが「如何に長年多くの人がそういう間違った観念や内容を教えられ講じさせられてきたか」が分かるのです。
自分はそれを以って「間違った教えの方法を講じている」と言うのであり、またそのことを皆がすることで「成り立っているもの」があるから訝しくも思うのです。

つまり偽仏教を継続してもらうことで生活や継承が成り立つ人たちの利益・餌食になっている。
そして詐欺宗教特に詐欺仏教にはまる原因になっている、ということなのです。




だから元々をただせば自分が高校生の頃に「自分の家の先祖が成仏してないような気がする」なんて考えを持たなければ阿含宗のような詐欺宗教に入ることも無かったでしょう。
そして上手くゆけば詐欺宗教に縁のない生活を送れたかもしれません。



ですが、それが「阿含宗」という物を見ればそう言えるだけであって、では在来仏教が「本当の仏教内容」を教えている、または講じさせているか?というとそうではありません。

それこそ私から言えば在来仏教は阿含宗ほど悪質やあこぎではないが、準詐欺仏教であるとも言える、と思っています。





本当の仏教の供養というのを見れば、如何に巷に有る認識や伝わる内容が嘘か、と言うのがわかります。
また成仏に関する正しい内容を知れば、私が高校生の時期に抱いた「先祖が成仏してないのではないか」という考えも見事に解消できます。

だから本当の仏教の内容を知れば詐欺仏教に騙されることもないし、仏教的な面での道を逸れることが無い。
なので「もっと早く若い時期に本当の仏教を知っていたら騙されないで済んだのに」と強く思いますね。

それこそ早ければ早い方が良いです。小学生の頃から本当の仏教の内容を知っていたらかなり人生の役に立つでしょうね。
そして詐欺宗教の餌食にならないで済む確率も上がります。




阿含宗の(または阿含宗の様に展開している宗教)ようなところが、実は自分のような潜在的に「先祖がちゃんと成仏しているか」と思う人たちを騙すのにうってつけな物を持っているのです。

自分も経験していますが、頑なに「自分の信じている宗派で完全に先祖は成仏している」とか「自分の霊感で先祖で成仏してない人は居ない」という自信のある人は、まず阿含宗に興味や関心は持ちません。
話も聞いてくれない程ですし、仮に話を聞いてもらうキャパのある人でも最終的に「阿含宗に入るか」となれば悉く断られます。

それは根底に「供養も充分しているし先祖が成仏しているから阿含宗は必要ない」という考えがあるからです。




例えばですが、ある方が「キリスト教」を信奉しているとします。
知ってのとおり、キリスト教は死んだら天国に行ける(または神の元に行ける)という観念があります。
だから仏教の様に「死んだら供養しなければ成仏できない」という考えがありません。


そのイージーさが良くて仏教からキリスト教に改宗する人がいるほどですから、死後(死者)成仏云々という点で見ればとても安心のできる宗教と言えるでしょう。


ところがキリスト教の信奉している人の所に行って

「あなたの先祖は成仏していない」といったらどうなるか?です。




答えは大きく分けで2つ出るでしょうね。

1つは大ゲンカ及び仏教観念を拒否されるか、もう1つは成仏してないという言葉に絆されるか、です。

前者はいいのですが、問題は後者の方です。
ヘタに後者の方に絆されてごらんなさい? 詐欺宗教の餌食に有ります。



実は意外とそういう経緯で詐欺宗教に鞍替えする、もしくは二足のわらじを履いた感じをする人も居ます。
キリスト教も信じるが、仏教も安全のため「やっておく」みたいな感じですかね。
数は多くはないが、そういう人も実際いるのも事実です。




基本で考えればキリスト教の考えがしっかりあれば、特段横から


「あんたの先祖は成仏してないぞ」なんて言われてもクソくらえ、です。それが普通です。




ですが、「先祖が成仏してない」といわれて考えが揺らぐのは、やはり日本人だからでしょうか。それとも何かの優しさなのでしょうか。
「成仏してない」という言葉にやられちゃう場合があるんですね。




こうなると「成仏しているのかしてないのかどっちが本当か?」と分からなくなったりします。
だから自分はちゃんと判別を付けるために「本当の仏教を知った方が良い」というのがそこなのです。

つまり本当の仏教の内容を知れば、何のことは無い。詐欺宗教の側の人間や逸れた考えの人などぶっ飛ばせます。
だからいつも「本当の仏教を知ってください」というのです。


【 次回へ続く 】

阿含宗在籍期間を振り返る②

2017-07-03 16:32:27 | Weblog
さて、前回は「どうして桐山氏は僧籍関連に躍起だったか」というので過去を振り返りながら、自分が如何に騙されたか。
また騙す方はどうしてそのような行動をとっていたか、というのを見てゆくことで「騙しの手法」やら「行動分析からわかる詐欺内容」を考察できるものとして章を進めています。

今回は①にも準じることですが、「信じすぎることからの詐欺への突入」としてこれを見て行きます。


阿含宗の最たるものの顕れは「大嘘」でほとんど作られていることです。
つまり教義は元より教祖の発した言葉や内容の大半は「嘘」であり、その比率は98%が嘘、と言ってもいいくらいの嘘だらけだ、ということです。


なんでまたそんなに嘘だらけなのか。またそういう嘘だらけの教団に何で多くの人が騙されているのか、という疑問符が立ちます。
それは信者経験が無い人からみるとすぐそのように思うし感じるとは思いますが、実際騙された人間からすると後で分かることですが「無条件に信じすぎた結果騙された」というのがあります。

無知・少教養、そして仏教を良く知らない。この3つが騙しに遭う原因だと自分は思っています。
総じていえば「仏教を良く知らない」つまり「本当の仏教を知らないから騙された」ということです。

これは過去から散々自分が言っていることですし、ブログの趣旨としても述べている次第です。



ただ、今までは「本当の仏教を知らないから騙された」ということで言ってきましたが、それだけだと信者経験が無い人には「はあ、そうですか」と、どこか他人事にしか映らない。
深く伝わらないんですね。

それこそ「痛い思いをして分かる」なんてのがありますが、痛い思いをして分かったときには、案外「すでに遅し」の場合が多かったりします。
だから前もって言う際にはできるだけ詳しく説明するのがいいのですが、詐欺に遭う場合って大抵事前警告をあまり聞いて無かったりしている場合が多いんです。
なので前回も言いましたが詐欺に遭った人の多くが


「自分は詐欺なんかに遭う(ひっかかる)なんて夢にも思わなかった」というのが非常に多い。


それこそこっち側からすれば


「私は大丈夫」とか「詐欺に遭う人が間抜けなんだよ」とか言う人がいるけど、それってかなり自分たちを「なめた・馬鹿にした言い方だよね」って思うわけです。




確かに賢くて用心深い人ならば詐欺に遭わない、と私も思います。
ですが、中には高学歴やエリートと呼ばれる人たちにも「詐欺の魔の手」に掛かる人も居ます。

つまり自分からすれば

「その人の騙されるヒットポイントに当たれば大概の人はコロッと騙される」と思っています。




つまり、人間100人いれば100人全員が騙されるとは限りませんが、その騙されなかった人の中にも手法や内容が変われば別なもので騙される恐れは十分にある。
その様に私は見ています。



例えばある人は宗教詐欺には絶対というほど騙されないが、ハニートラップには子供の手をつねるが如くコロリと騙される、というようなものがあります。
もちろん例えですからハニートラップばかりではない。儲け話に騙される。感情に訴えられると騙される。等々様々なものに騙されるのがあります。

つまり自分が言っているようにその人の弱い所や関心があるところなどにヒットすれば、騙しに遭う可能性がある、ということです。
そして自分はたまたま「宗教詐欺」で阿含宗のようなスタイル物に「ヒットした」ということですね。

だって、一括りに「宗教詐欺」と言っても阿含宗以外にも教団は山ほどあります。
そして自分は阿含宗以外の宗教は信じませんでしたからね。だから他の宗教の詐欺には遭わなかった。

尚且つ阿含宗で宗教詐欺を学習したので、今後宗教詐欺にはもう遭わない。応じません。


だが、自分の中でまだヒットポイントがあればその何か別な物で騙される恐れはある。
ですが、阿含宗にて騙された経緯があるわけですから、それを活かして今後人生で詐欺に遭わないようにしたいと思っていますね。




さて、本題に戻り「なんでかくも天照は阿含宗という宗教詐欺に騙されたか」です。

それは「ほぼ無条件に桐山氏を信じたから」です。次に「桐山氏の言動を検証・考察しなかったから」というのもあります。

つまり総じていえば「信じることばかり優先させて、己がやらなければいけない重要なことを端折ったから騙された」ということです。
そしてその「己がやらなければいけない重要なことを端折ったから騙された」というのが「桐山氏の言動を検証・考察しなかったから」ということです。



まあ、ぶっちゃけて言えば入信するということは信じたから入信したわけです。
ですが、入信した後からでも「桐山氏の言動を検証・考察すること」は、いつでもできたわけです。

しかし実際にはそれを「やらなかった」わけです。それはなぜか?

それは「お坊さんともあろう人物が嘘をつくはずがない」と思っていたからです。
厳密には「一介の教団を作った人物~教祖がまさか嘘をついているはずがないだろう」という気持ちと考えが有ったから信じることに徹してしまった。

それこそ「何でも疑って掛かる人が世の中に入るが、ああいう人ってどうかと思う」という気持ちが自分にはありましたしね。



疑って掛かるより信じる方を選ぶよ、なんて綺麗ごとを言っていたのも自分でしたから、そのせいもあって見事に「騙された」というのもあります。
これは本当に痛いことですし、後悔していることです。





これも後で学んだことですが、例えば個人的に「人を疑って掛かるのは嫌い」というのは別に悪いことではありません。
ですが、そのせいで騙される目に遭ったら果たして喜んでいられるか?というのも有る。



騙されたくないなら疑って掛かるに越したことはありません。だから世の中には「信じるよりも疑う心ばかり強い人」が居るのも事実です。
そういう人はおそらく高確率で騙しには遭わないかもしれません。



自分が宗教詐欺で学んだことはこういうことです。




「疑う・疑わないは横に置き、物事を深く見て検証・考察すること」




これが至上かな?と思っています。





例えですがそれが顕著なのは警察などの捜査に有ると言われています。



一見、警察の捜査は「誰も信じず絶えず疑って捜査する」ように見えますが、そうではないそうです。

それこそ疑うの逆の「信じる傾向」ばかり強いと、捜査も難儀します。
といって、疑ってばかりも真実を見抜きにくい。



一番いいのは真実を追う事。つまり中庸と言ってどちらにも偏らない目を持つ、ということです。
信じるでもなく信じないでもない。常に真実を追う結果、真実にたどり着くというやつです。



これだと信じて騙されるでもなく、疑いすぎて訝しく思われるのも防げます。





というか元々仏教は中庸だったんですよね。これがあれば詐欺に「どはまり」することを避けれたかも知れません。






桐山氏の言い分を鵜呑みにするのではなく、まずは1つの意見として聞いて置く。
そういう傍ら、仏教ではその桐山氏の言っている内容という物がどうなのか、など精査してみる。
精査なんて仰々しくなくても確認をして見ればいいだけの事です。

桐山氏の言っていることが正しければ確認が取れるわけですから問題はないわけです。
ところがその作業をやるとたちまち不整合な事項ばかり出て来るんですね。


これが自分が目を覚ますのに非常に役に立った行いなんです。
騙しから抜け出す。また騙されているということの認識を持つためには、こういった作業が必要なのです。





例え話ですが、おしるこを作っていたとします。

それに対し桐山氏は

「甘くするためには砂糖を大量に入れるべし」と言ってたとします。

その言葉を信じて信者は物凄く砂糖を入れます。しかし、中々甘さが強まらない。


教祖に聞けば

「それはまだまだ君たちの入れた砂糖の量が足りないせいだ。もっと追加するか人工甘味料でもいいから自分が『甘い』と感じるまで甘みを追加すればいいのだ」と言ったとします。



なので、信者さんらは努めて甘味料を狂ったほど追加します。しかし一向に甘くならない。




一方、ある方は


「おしるこには逆作用というのがある。砂糖を適量入れたら仕上げにひとつまみ、もしくは適量の少量で良いので塩を入れると良い。すると甘みが増して好い加減にできるぞ」と言われた。


そしてそれを試した人は上手く美味しいおしるこを作ったという。




そして後からその情報を聞いた信者さんが


「何か少量の塩を入れれば甘くなるそうだよ」ということで少量の塩を投入。そして味見をしたら物凄甘さでひっくり返った。


そこで初めて気が付いた。


「教祖め!嘘をつきやがったな!!!」







まあ、例え話なので無理がありますが、大体置き換えるとこんなものでしょうね。




ですから信じることだけ抜群で過ごしてきた人は未だに少量の塩を入れることを知らない人たちです。
なので、未だに砂糖を殺人的な量をずっと入れ続けているようなものです。



そして少量の塩を入れて「ぎゃふん」と言ったのが過去の自分です。


この天と地ほどの違いは経験した人でないとわからないでしょうね。






「おしるこに塩をいれるなんて馬鹿なことを言うな。気違いにも程がある」
「教祖が言っていることが正しいのだ。なんで甘い食べ物を作っているのに砂糖の逆である塩など入れるものか」




このように言ったりしているわけです。



これを直すと



「桐山靖雄という人は苦労して教祖になった人だ。嘘などつくはずがない」
「お釈迦様の持つ成仏法を世に出したのは管長なんだ」



色々言われると思います。
ですが、皆「真実を確かめてみるということをさぼって、桐山氏を信じることしかしない」のですね。



実際の検証は、おしるこほど楽ではないですが、やってみればいいのです。
そして自分はやってみた。



尚且つやったのは「ようし。そんなに言うなら調べて批判する奴らを逆にやっつけてやる」としたことが始まりです。
そして調べて行ったら段々青くなっていった。

なぜなら桐山氏の言ったことの整合性が無いことばかり浮き上がってくるからです。
そして批判側が言ったことの事項は正しいというのが出て来る出て来る。

青くならない方がおかしいというものです。





判りやすい例としておしるこを挙げましたが、どうですか?

桐山氏が嘘などついて無ければ問題は無いんです。
ところが桐山氏は嘘ばかりついていた。大量の嘘を。




嘘ばかりだと知らずに信じてしまった人たちはどうなります?

そう。お金や労力などを教団に貢いでしまった結果となりますね。
しかも、貢いだなんてだけでなく、先祖も成仏しないし因縁も切れない。

桐山氏と教団に自分たちの金も心も無碍に費やしただけ、になってしまうのです。





だからタチが悪い、と私は言うのです。





桐山氏がどういう考えで詐欺を企てたかは後から考察してわかりましたが、そんなものは私が望んだものでは無い。

私はまず自分の先祖の完全成仏を願って入信した。その後は悪い因縁を切りたいというので信仰を続けた。



ですが、それらの達成はゼロなんですよ。なぜなら全くの嘘ですからね。
本当の仏教にはそういう死者成仏や悪因縁切り、なんてのは無いんです。



明らかな詐欺です。




だから例え話のおしるこなら「いやあ、騙されちゃった」と笑って過ごせますが、宗教詐欺はそういうわけにはいかない。
なので、どうぞ阿含宗で信仰をしている人はこの事項に気が付いて欲しいですね。



特に桐山氏は2016年8月に亡くなりました。
その後は深田氏と和田氏が阿含宗を運営しています。


桐山氏のやってきたこと自体も嘘だらけですが、今の阿含宗も「嘘だらけ」です。



あの「開祖霊諭」はその最たるものです。
「開祖霊諭」は後継者たちの創作物です。本当に桐山氏が述べたり言っている物ではありません。

尚且つ阿含宗で今後展開してゆく新しい伝法なども後継者たちの創作物です。



和田氏は桐山氏の許可を得た資格者ではありません。
そういう人物が”のうのう”と壇上に現れて護摩を焚き、尚且つ「ほぼ教祖」として物事を行っている。


内容も行動も本当によろしくない。






せめて過去に教祖が生きていた頃の方便に従ったとしても、今の阿含宗の姿勢に沿わないことを勧めます。

というか阿含宗は偽仏教で詐欺宗教だから早く気が付いて辞めるべきです。




今回はここまで。

阿含宗在籍期間を振り返る①

2017-06-23 04:40:43 | Weblog
ふと思ったのですが、阿含宗初代教祖(開祖)桐山靖雄氏の当時を振り返ることで「どうしてそのような行動に至ったのか」が分かるかと思い、この章を進めて行こうと思います。


まず最初のものとしてこれを見てゆきましょう。それは「桐山氏がなぜ僧籍関連に躍起だったのか」についてです。




阿含宗の事を知らない、または古くから阿含宗に居ない人で桐山氏の行動に疎い人のためにざっとですが昔の事を掘り起こしてみます。




桐山氏は阿含宗を創設し運営していたわけですが、いきなり阿含宗という物を創設したわけではありません。
阿含宗の前には「観音慈恵会」という宗教団体でした。つまり「観音慈恵会」から阿含宗に名称を変えた、ということですね。

厳密に言えば私は古い時期は幼少、及びそれ以前だったことも有り関わっていませんでしたから、後から知ったのですが、観音慈恵会よりも古い形(宗教団体)があったそうです。

それは「皇大治教」というもので、観音慈恵会よりも前の時期、1948年に立ち上げたそうです。
しかし、その後1954年に「観音慈恵会」を立ち上げ「皇大治教」は辞めたようです。

そして1978年に観音慈恵会から阿含宗に変えて現在に至る、というわけです。



「皇大治教」はかなり古い時期ですから正確な中身は判りませんが、聞くところによればいかがわしい宗教団体だったと聞いています。
そういうままではさすがにまずいと思ったのでしょうね。なので巷的に認知度が深い「観音信仰」をベースにした団体である「観音慈恵会」を新たに立ち上げシフトしたようです。


そしてその流れがある程度うまく行き、信者も増えてきたことと阿含経に目を付けて居たことも有り、「阿含宗」へと名称も変えたというわけです。



これがおおよその宗教法人(団体)としての流れです。





流れは実は大した重要ではなく、説明と考察に必要だから述べただけです。
ここからが今回の本題というか大事なところですので、よくお読みください。




桐山氏は普通の僧侶のような「仏教大学」を出てどこかの宗派に身を置き得度した、という経歴がありません。
つまり一介の宗教法人(団体)の代表及び管長という立場ながらも、僧侶としての資格を持ってはいなかったのです。


これは普通であれば考えられない欠損部分でもあります。
しかし、桐山氏はその欠損部分を補うために色々苦心したのですね。


在来仏教教団であれば必ずどこかの宗派に身を置き僧侶の資格を得て僧籍を取得します。
ですが、こと新興宗教であれば「僧籍や僧侶としての資格がないものでも団体を持てる」のですね。
だから例えですが「○福の科学」というような団体の主催者も特段僧籍や僧侶としての資格を持っていません。
ですが、ちゃんと団体の主として君臨し活動しています。

そのことから新興宗教では特に僧籍が無く、特に僧侶の資格がなくても活動・運営ができるというわけです。



ただ、そうはいっても実際的に僧としてのプロとしての肩書を持つか持たないかでは世間での認知度やハクの面でも無いよりは有った方が良いわけです。


しかしながらその僧籍等を得ようとしても若い時分なら、一時どこかの寺院に身を置き、尚且つ仏教大学を出て資格を得ることもできましょうが、桐山氏は皇大治教の時点で33歳です。
そういう中年の年齢の時期に僧籍を取るための行動をしているような暇はありません。

確かに稀に年齢が上の人でも僧籍を取るために(または僧侶になるために)仏教大学を出て・・・という方も居ります。
ですが、僧侶になるということはどこかの宗派に就く、ということを意味していて、その宗派のお坊さんになることを意味します。


桐山氏のやりたかったことは「どこかの宗派の坊さんになることが目的」ではなくて、自分で興した宗派のTOPになることが目的ですから、如何に僧籍が欲しいとはいえ回り道をしてまでするつもりはなかったわけです。
このことから桐山氏が「何をやりたくて行動したか」が見えてきますね。




先ほど言いましたが新興宗教はぶっちゃけ、ある程度の物を用意して申請が通れば「誰でも団体が作れる」わけです。僧籍がなく僧侶としての資格が無くても宗教法人が持てるわけです。


ただ、そのままだと世間的に見られる目という物と、桐山氏個人としても「僧としての資格があれば言う事は無い」わけです。
だからそのために「色々と模索した」というのが経緯としてあるのです。




今まで述べた概要でわかる様に団体を興したのはできた。後は僧としての「ハク」が欲しいわけです。
そしてそれを得るために最初の段階として真言宗金剛院派の「北野氏」から得度を得たようなことで僧籍を得た感じにしたのです。


しかし、名称は伝統寺院のようにそれっぽく感じますが、実際的にさほど「資格ですよ」というほどのものがないわけです。
だから、その北野氏からの物では「こと足りない」ので、次を模索した。それが「真言宗」からの僧籍会得だったのです。


ところがその事項は途中で失敗に至ります。
なぜなら真言宗は新興宗教ではありませんから、とても厳しいわけです。
どこの馬の骨とわからない人間に「はいよ」と言う感じで僧籍など与えません。


色々な手を使って模索した結果得そうになった途中で企みがばれて、破門になります。
そこで桐山氏は考え方を変えたわけです。



「ハクは日本で得れないなら別なところで得ればいい」



そうです。つまり外国での宗派からの権威などを得ることでハクをつける、という方向にシフトしたのですね。


だから実際的に桐山氏の名誉やら権威的な物は皆「外国」ばかりなのがその証拠です。
日本で在来仏教寺院からの資格系統はゼロ、というのが明らかな証拠です。




本当は日本の在来仏教寺院からの僧籍や資格が一番なわけです。しかしそれが得れないのです。
だからと言って「ハクがゼロ」だと世間は「何それ」と言われる原因になります。



また、人を騙す上に置いて権威という物はあればあるだけ騙しの道具になり、効果が期待できます。
ですからハクを付けるためと騙しを効果的に出すために「必要」だったわけです。

ただ如何せん国内での僧籍は取れない。なので外国の宗派よりの権威・僧位。またいろんな名誉なども得れば僧籍に及ばないまでも「この人は凄いんだ」という示しになる。
またこれは別の観点ではありますが、桐山氏は創価学会の池田代表に対して対抗心を持っていたと言われています。

池田大作氏は知ってのとおり、いろんなところから名誉やらを沢山貰っています。つまりそれだけハクも多い、ということです。
桐山氏は池田さん以上の物を、と思っていたようですが中々そうはいかなかった。
しかしながらある程度のものを集めることはできましたから、それなりの数の物は集めた。
ですが、その集めたものを良く見てみると団体やらに寄付したりなどをすれば得れる物ばかりです。

つまり先ほどから言っていることですが、桐山氏は単なる一介の宗教法人の代表なわけです。
そのままでも運営はできるが、どこか物足りない。尚且つ本人もそれを感じてもいる。

できるだけ権威や名誉などが欲しいわけです。そしてそれらを手に入れることで自身に「ハク」をつけていた、ということです。
そして繰り返しになりますが、ハクがつく副産物として「人を騙すための道具」になっていた、ということもあるわけです。





さて、本題に振り返ってみると自分はその「ハク」を集めている最中に入信していました。
もちろんそういう教祖の姿を見て何も知らない自分は

「国内では在来仏教らに認められなかったが、諸外国の人たちは教祖の凄さという物を分かって様々な物を与えていたのだなあ」と思っていました。

まあ、いわゆる過去の自分は「物知らず」だったわけです。



別に私は権威だとか名誉だとかそういうのに憧れたり従ったりする人間ではありません。
むしろ何も持たなくても「結果で見せる人間」の方を認めます。



というか桐山氏はそういうニュアンスの事も発していました。
自分は誰もやらないことをしているし、できないことをしている。
そういう人間の価値を誰も国内では理解できるものが居ない。

だが、外国の人ならそういうのがわかってくれている。
自分はこれから発展してゆく人間だから今後を見てもらうしかないが、外国の人は日本人よりそういうのがすぐわかる人がいる。
国内から日本を変えてゆくのではなく、世界から日本を変えてゆくようにするのだ。

そのような内容を当時言っていたわけです。
それをすっかり信じていたので、見事に騙されていたわけです。




今だからわかりますが、詐欺に引っかかるという人は信じることが優先されます。
良く調べてみるとか深く物事を掘り下げる。検証するということをしないことが多い。

なので騙されるようです。


今も横行しているオレオレ詐欺やら特殊詐欺もさほど凄い騙しではありません。
尚且つ良く確認さえすれば簡単に騙されない性質のものも多々あります。


ところが実際は騙される人が絶えず、尚且つ被害金額も毎年増えているという有様です。
そして騙された人の多くの方の言う言葉が


「自分は騙されないと思った」というのが非常に多い。



つまり、ニュースなどを聞いても「どこかの間抜けな人が騙されているんだろう」というような安易さと対岸の火事気分で居る人が結構騙されているのですね。
これには自分も「何てことだ」と感じます。




宗教詐欺はオレオレ詐欺などとは手法も中身も違いますから一緒くたにはできませんが、詐欺というジャンルには変わりはないわけです。

詐欺は巧妙な嘘をつき、騙すものも有れば、単純なすぐにバレるようなものまで多岐にわたります。



如何せん、騙しに遭う傾向を見れば、確認・検証をしっかりしていれば、防げたものが多いです。

だから人生を生きる上で「信じること」は必要ですが、何でも信じるのではなく疑って掛かることも必要です。
また疑うを抜きにしてもやはり深く調べてみる。即決で信じたり端的に応じることでの失敗が非常に多いので、物事が何かあったら良く調べる。

そして今の時代はネットという物があります。情報が昔より比較的得やすい時代でもあります。


そういうものを活用して騙されないようにする。また人の意見も活用するのも手です。
ぜひ、そのようにして安易に騙しに走らない。そのように努めていただきたいと願います。

閑話休題

2017-06-01 14:54:12 | Weblog
もう6月がスタートしました。早くも2017年も半分が来た、ということで時間の流れは早いものです。

さて、今回はちょっと阿含宗の話題オンリーから離れて、TVで見た「あるニュース」について語ります。



それはある新聞が載せた記事でその内容が

「ある人が喪服で飲食店に入り食事をしたのち、退店後店先で『塩をまかれた』という経緯」です。

もちろんその喪服の人にダイレクトに塩をまいたわけではありませんが、食事を終って清算後退店しますよね。
そうして店先から居なくなった後に塩をまかれたわけですが、その状況を知らなければいいですが、知ったならやられた方としては良い気分がしませんよね。

私が喪服を着て入店した人間で同じことをされたなら、やはり気分が悪いです。




飲食店ではやはり「ゲン」を担ぐというのもあってそういう行為をするところがあります。
ですが、私がここで言いたいのは「良く考えて行動してほしい」ということです。






これは自分のお寺さんが法要に来ていたときに「説教」で語られたことですが、これを引用します。
なぜなら、いつも自分が「在来仏教」を批判していますが、中にはとても良い物や正しいことを言う場合も有ります。
それは批判を超えて称賛するべきものだと自分は思っています。その中の1つであるものなのですが、非常に良い物なので引用し説明いたします。




お寺さんが法要の合間に説教をされました。
それは「どうして皆葬式が終わった後に家に入る前に『塩を掛ける』のか」という事について、でした。



お寺さんは説教を始めたばかりにこのことを言い、次いですぐさま答えも言いました。


「塩を掛けるという行為はナンセンス以外の何物でもない」


これには私も「へえ~」と感心したものでした。そしてお寺さんがどのように説明するのか注目して聴いていました。




お寺さんはこう言われました。




「葬式という物は人が亡くなった際に行う儀式です。故人の事を偲びつつ、冥福を祈る場でもありセレモニーなわけです。
 しかしその葬式が終わり、皆家に帰り玄関を入る前に真っ先に行うのが「塩で浄める」ということで体に塩を掛けるわけです。

 なんでそのようなことを行うのかというと、それは死というのもは不浄だという観念(概念)があるからです。
 その不浄を払うために塩を体にふりかけ、浄めてからでないと家に入ると良くない、と思うから行うわけです。

 ですが、その不浄という物=観念(概念)は、いったいどこから来たのでしょうか?


 そう問われると意外と誰も明確に答えられないのが現実です。
 せいぜいあるのは

 『昔からやっているから』とか『みんなやっている』もしくは『昔の人からの言い伝えのようなもので自然と行っている』というようなものです。

 
 確かにそれらはわかりますが、その「不浄」とやらは本当に不浄なのか。何が不浄なのかというのを良く捉えていません。



 結局、何が不浄なのかというのを追ってゆけば、不浄なのは「亡くなった人」のことを指しています。
 つまり亡くなった人が不浄な故、塩で浄める行為をしている、ということになります。


 それでは人は生きて居れば「不浄でなく」て、死んだ途端「不浄な存在」に変わるものなのでしょうか?



 亡くなられた人は葬儀に来られた方にとっては縁のある方です。特に親族などの身内の方から見れば非常に近しい存在です。





 例えば、自分の親が亡くなったとします。すると先ほどまで生きていた親が死んだ途端「不浄な存在」になってしまうというわけですが、これってそうなのでしょうか?
 生きていれば不浄では無くて、死んだ途端「不浄になる」のでは、これは非常に変な思考でおかしなものではありませんでしょうか。



 さっきまで「お父さん(お母さん)」と生きていた存在が、死んだ途端「不浄な存在」になる。
 これって亡くなった方にとって非常に失礼ではないでしょうか。


 逆を考えても分かります。例えば自分が死んだとしたら、ついさっきまで親しかった身内や家族、友人知人が皆一斉に自分を「不成な存在」として線を引かれる。
 または忌み嫌うような仕草をされたら、果たして気分が良いものでしょうか?


 また仏教に於いてもお釈迦様はそのような観念や概念を言われたことがありません。
 生きているときはもちろん、死んだら人間は不浄な存在になる、なんてことは言われていません。
 むしろ死んだって生きてたって「何もなし。普通のまま」で見るのが仏教です。死んだからどうの、ということは言いません。
 まして塩で浄めるという行為も仏教にはありません。



 そうするとやはり考えられることとすれば、どこかの誰かが考えた(作り出した)観念や概念であると言えます。
 そしてその物(行為)が未だに継承され、行われているということですね。


 ですから、葬式が終って家に入る前にせっせと塩を掛ける行為は私は「お止めなさい」と言っています。
 しかし、行うのは個人の勝手ですから、絶対にとめるということはしません。
 ただ、その観念(概念)は間違っていますよ。少なくとも仏教ではそのようには教えていません。
 そういうことをお伝えしているような感じですね。」



おおよそこのような内容でした。私は「あっぱれ」と思いましたね。





お寺さんの言う通りで、本当に有る種「馬鹿げた行為」だと思います。
塩で浄めてからでないと家にそのまま入ると災いが起きる(禍に遭う)というのを自分は聞いたことがあります。
または死んだ人が付いているなんてことを言う人の意見も聞いたことがあります。



でも、いづれにしても根拠のないことであり、信憑性もありません。



また塩ごときで浄められるのならこんな簡単なことはない。そんなに塩がいいなら、いっそ亡くなった人を塩で浄めたらいいではないか。
塩漬けにするほどの大量の塩でやったらいいのではないか、という愚問まで出てきそうな感じです。



そんな馬鹿な話はないわけで、尚且つ日本は火葬しますから不浄もクソも有りません。
なのに葬式が終れば「塩・塩」と走る。

非常におかしな風習ですね。










また仏教的にみてもお釈迦様はそういう物は説いていないという。お寺さんの言う通りで仏教では塩を浄めに使うことはありません。
せいぜい神道などで使うぐらいです。仏教にはありません。





ならばやはり根幹的にみても「仏教からそのような逸れた教えは説いて無い」というのがわかります。
なので、どう考えても後世の人間が勝手に考えて流行らせた「変な風習」だというのがわかります。
お寺さんが呆れながら「しょうがないなあ」とみているのも分かるという物です。






TVのニュースではここまで詳しくやっていませんでしたから、「皆さんはどう思いますか」で留まっていましたが、本当におかしなものです。
飲食店では「ゲン」を担ぐ、ということで喪服を着たお客さんが来た後「塩をまく」という行為をするところがあるとは言いますが、それもおかしなものです。

つまり気持ち的には分からなくはないが、おかしな行為であることは明白です。
やはりそういう「ゲン」も捨てて「別に何もやらず普通にしているべき」です。




よくあるのが変な客が来て店に迷惑をかけたとかそういうのがある場合はよく「塩をまいとけ」とやりますが、それならまだわかります。
だけど葬式に出た後そのままで飲食店に入るな、は酷です。


それこそ家に一旦帰って平服に着替えて行ける環境の人は良いですが、そういうのができない人も居ます。
そういう人は安易に喪服のまま飲食ができないことになります。または退店後に塩をまかれる存在になるのを覚悟で行くべき、を割り切るしかない。



そういうのってどういうのかと思いますけどね。





最後に私が言いたいのが「そろそろ日本人も気が付きなさい」ということです。
ほとんど意味がない「塩まき」というものに、つまり仏教さえ説かない風習に絆されている。

偽仏教に気が付かないのは根が大きいですから時間も掛かりしょうがない物がありますが、喪服の塩は私は意味がないと思う。
それよりも葬式に出て故人の冥福を祈った。哀しみも有ったがお別れができてよかった、と気持ちの面で整理が付けれてよかったと思うべきです。

故人に対して葬式に出て居ながら塩で浄めるとは非常に失礼な行為です。





以上、5月31日にTVで見たニュースに思うことでした。