さて②では概略のようなものでしたので、実際的なものを話してゆきましょう。
まず、仏教はかなり枝分かれしており、これは後世沢山のお経が捏造されて沢山
作成された経緯に寄るものが大きいです。
そこには頑なに釈尊の教えを守るものと、方便を持って教えから外れたものとの
大きな分裂が事の発端のようです。
忠実に釈尊の教えを守ろうとすると、これは特殊な世界に属す恐れがあり、
逆に多少の砕けた示唆でいいかとなると、本当の教えから遠ざかることになる。
また、釈尊入滅後かなりの時期において現在ほど知識や勉学のほども発達しては
いなかったこともあり、湾曲がまかり通ったというのがあります。
世間にウケる形体にしたのはそこにあります。
いくら釈尊の教えが正しくても、世間に広まらない・実践しづらいものでは何の
意味も持たないであろうし、狭い世界の中で逆に衰退する恐れも懸念されたでしょう。
もっとマクロなそして誰でも実践できるようなものへと考えたのはいいのですが、
あまりにも釈尊の教義から外れたものに変貌してしまった。
そして、そのことについて正しい側が間違った側を制御できなくなった。
いわゆる有名な「二大分裂」です。その後の経過は歴史に見られるとおりです。
そしてその大きな間違った流れが世界の主流になり、大きな位置づけを持って
しまったために世間での錯誤状態が通ってしまったのです。
ですから、お経は山のように存在し中に語ることは如何様にも存在する。
まして、仏教宗派はお経を元に存在しているのがほとんどですから、お経が
間違っているとかの検証もしないでやったらどうなるか・・・。
非常に恐ろしいことです。というか、今までそれで来ていたのですね。
また、お経の中での意味が釈尊の説かれたものから外れている。
有名なのを示せば、例えば法華経でいえば、法華経が最高であり、釈尊よい
貴重な存在になってしまっている。
後は浄土の方に行くと、阿弥陀様が釈尊よりも貴重な存在になっている。
貴重な存在だけでなく、中身の示唆もおかしくなっている。
法華経では「お題目」を唱え、浄土の方では「念仏」を唱えている。
この「お題目・念仏」を唱えるだけで救われる、というのですから、もうそこで
「おかしい」ということなのですが、意外とそれに気がつかない。
TV番組よろしく幽霊などが出てきてそれを何とかしようとするために、お題目や
念仏を唱えると効く、というようなドラマ仕立に慣れている人は一生懸命それを
やろうとします。後は信仰上唱えていると何か特別な宗教儀式のひとつでもやっている
ような気になる。そういう風に観念が植え付けられているのが非常に多いのです。
釈尊がお題目や念仏を唱えることを宗教儀式として本当に我々に示唆しているのか?
ということすら考えたことが無い人がおそらく巷では大半なはずです。
また、普段宗教なんて考えたことも講じたことも無い人でも何か心霊現象的なものに
出会ったとか、身近な死者の安心を願う際に唱えたりしてしまう場合もあるでしょう。
それだけ多くの日本人は釈尊の説かない湾曲した仏教とはいえないものを信じたり
使う場合も有るということがあるのです。
あと、自分の家の宗派が「OO宗」という仏教宗派に入っていて、というのもあります。
多くの宗派はお題目か念仏が主流ですから、どうしてもそういう流れになる。
例えお題目や念仏でなくても、本当の仏教ではさてどのように行うものなのか、という
事を知っている人はいないし、講じるとなるとますます数は減ります。
というか、ほとんど居ないでしょうね。
お題目や念仏を唱えさせるのは、文盲で知識の無い人たちにも繰り返し短い文言を唱える
事は誰にでも出来るし、またそれを何回も唱えることで「仏教の修行をした」という事に
置き換えるという「とんでもないスリカエ」をしているからなのです。
お題目や念仏を一生のうちで最低10回唱えるとあなたは仏になれますよ、といわれて
真面目に受け取れますか?端的に言えばそういう内容なのです。
今の時代や世界にそれを「マジですか」と受け取って信じる人は多くは無い。
ですが、人は何か困ったことがあったりした場合にそういうものを受け取ることがある。
まして、一生のうちに10回唱えるだけで救われるのであれば、もっと唱えればもっと
救われる。一生の困難な際にはいつでも通用する魔法の言葉(呪文)を得た、と錯覚
させて信じさせることが、歪んだ仏教の目的になってしまっているのです。
では、実際お釈迦様がそういうことを推奨したのか。
お題目や念仏を唱えたら「救われるぞ」と本当に言ったのか?というと、そんなことはありません。
どこの誰が作ったかもわからないのが「釈尊の説いたお経」とみなされ信じられている。
こういうのが今の世の中の現実なのです。
ですから、本当に家の宗派だから、とか自分が好きでやっているからいいんだ、ではなく、
本当に自分が講じているものは正しい仏教なのか、というチェックもしないと恐ろしいことに
なってしまうのです。A宗だけが「偽仏教」ではないのです。(続く)
まず、仏教はかなり枝分かれしており、これは後世沢山のお経が捏造されて沢山
作成された経緯に寄るものが大きいです。
そこには頑なに釈尊の教えを守るものと、方便を持って教えから外れたものとの
大きな分裂が事の発端のようです。
忠実に釈尊の教えを守ろうとすると、これは特殊な世界に属す恐れがあり、
逆に多少の砕けた示唆でいいかとなると、本当の教えから遠ざかることになる。
また、釈尊入滅後かなりの時期において現在ほど知識や勉学のほども発達しては
いなかったこともあり、湾曲がまかり通ったというのがあります。
世間にウケる形体にしたのはそこにあります。
いくら釈尊の教えが正しくても、世間に広まらない・実践しづらいものでは何の
意味も持たないであろうし、狭い世界の中で逆に衰退する恐れも懸念されたでしょう。
もっとマクロなそして誰でも実践できるようなものへと考えたのはいいのですが、
あまりにも釈尊の教義から外れたものに変貌してしまった。
そして、そのことについて正しい側が間違った側を制御できなくなった。
いわゆる有名な「二大分裂」です。その後の経過は歴史に見られるとおりです。
そしてその大きな間違った流れが世界の主流になり、大きな位置づけを持って
しまったために世間での錯誤状態が通ってしまったのです。
ですから、お経は山のように存在し中に語ることは如何様にも存在する。
まして、仏教宗派はお経を元に存在しているのがほとんどですから、お経が
間違っているとかの検証もしないでやったらどうなるか・・・。
非常に恐ろしいことです。というか、今までそれで来ていたのですね。
また、お経の中での意味が釈尊の説かれたものから外れている。
有名なのを示せば、例えば法華経でいえば、法華経が最高であり、釈尊よい
貴重な存在になってしまっている。
後は浄土の方に行くと、阿弥陀様が釈尊よりも貴重な存在になっている。
貴重な存在だけでなく、中身の示唆もおかしくなっている。
法華経では「お題目」を唱え、浄土の方では「念仏」を唱えている。
この「お題目・念仏」を唱えるだけで救われる、というのですから、もうそこで
「おかしい」ということなのですが、意外とそれに気がつかない。
TV番組よろしく幽霊などが出てきてそれを何とかしようとするために、お題目や
念仏を唱えると効く、というようなドラマ仕立に慣れている人は一生懸命それを
やろうとします。後は信仰上唱えていると何か特別な宗教儀式のひとつでもやっている
ような気になる。そういう風に観念が植え付けられているのが非常に多いのです。
釈尊がお題目や念仏を唱えることを宗教儀式として本当に我々に示唆しているのか?
ということすら考えたことが無い人がおそらく巷では大半なはずです。
また、普段宗教なんて考えたことも講じたことも無い人でも何か心霊現象的なものに
出会ったとか、身近な死者の安心を願う際に唱えたりしてしまう場合もあるでしょう。
それだけ多くの日本人は釈尊の説かない湾曲した仏教とはいえないものを信じたり
使う場合も有るということがあるのです。
あと、自分の家の宗派が「OO宗」という仏教宗派に入っていて、というのもあります。
多くの宗派はお題目か念仏が主流ですから、どうしてもそういう流れになる。
例えお題目や念仏でなくても、本当の仏教ではさてどのように行うものなのか、という
事を知っている人はいないし、講じるとなるとますます数は減ります。
というか、ほとんど居ないでしょうね。
お題目や念仏を唱えさせるのは、文盲で知識の無い人たちにも繰り返し短い文言を唱える
事は誰にでも出来るし、またそれを何回も唱えることで「仏教の修行をした」という事に
置き換えるという「とんでもないスリカエ」をしているからなのです。
お題目や念仏を一生のうちで最低10回唱えるとあなたは仏になれますよ、といわれて
真面目に受け取れますか?端的に言えばそういう内容なのです。
今の時代や世界にそれを「マジですか」と受け取って信じる人は多くは無い。
ですが、人は何か困ったことがあったりした場合にそういうものを受け取ることがある。
まして、一生のうちに10回唱えるだけで救われるのであれば、もっと唱えればもっと
救われる。一生の困難な際にはいつでも通用する魔法の言葉(呪文)を得た、と錯覚
させて信じさせることが、歪んだ仏教の目的になってしまっているのです。
では、実際お釈迦様がそういうことを推奨したのか。
お題目や念仏を唱えたら「救われるぞ」と本当に言ったのか?というと、そんなことはありません。
どこの誰が作ったかもわからないのが「釈尊の説いたお経」とみなされ信じられている。
こういうのが今の世の中の現実なのです。
ですから、本当に家の宗派だから、とか自分が好きでやっているからいいんだ、ではなく、
本当に自分が講じているものは正しい仏教なのか、というチェックもしないと恐ろしいことに
なってしまうのです。A宗だけが「偽仏教」ではないのです。(続く)