天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

違和感を覚える釈迦仏教③

2010-08-31 06:18:40 | Weblog
さて②では概略のようなものでしたので、実際的なものを話してゆきましょう。

まず、仏教はかなり枝分かれしており、これは後世沢山のお経が捏造されて沢山
作成された経緯に寄るものが大きいです。
そこには頑なに釈尊の教えを守るものと、方便を持って教えから外れたものとの
大きな分裂が事の発端のようです。

忠実に釈尊の教えを守ろうとすると、これは特殊な世界に属す恐れがあり、
逆に多少の砕けた示唆でいいかとなると、本当の教えから遠ざかることになる。
また、釈尊入滅後かなりの時期において現在ほど知識や勉学のほども発達しては
いなかったこともあり、湾曲がまかり通ったというのがあります。

世間にウケる形体にしたのはそこにあります。
いくら釈尊の教えが正しくても、世間に広まらない・実践しづらいものでは何の
意味も持たないであろうし、狭い世界の中で逆に衰退する恐れも懸念されたでしょう。
もっとマクロなそして誰でも実践できるようなものへと考えたのはいいのですが、
あまりにも釈尊の教義から外れたものに変貌してしまった。
そして、そのことについて正しい側が間違った側を制御できなくなった。
いわゆる有名な「二大分裂」です。その後の経過は歴史に見られるとおりです。

そしてその大きな間違った流れが世界の主流になり、大きな位置づけを持って
しまったために世間での錯誤状態が通ってしまったのです。

ですから、お経は山のように存在し中に語ることは如何様にも存在する。
まして、仏教宗派はお経を元に存在しているのがほとんどですから、お経が
間違っているとかの検証もしないでやったらどうなるか・・・。
非常に恐ろしいことです。というか、今までそれで来ていたのですね。

また、お経の中での意味が釈尊の説かれたものから外れている。
有名なのを示せば、例えば法華経でいえば、法華経が最高であり、釈尊よい
貴重な存在になってしまっている。
後は浄土の方に行くと、阿弥陀様が釈尊よりも貴重な存在になっている。

貴重な存在だけでなく、中身の示唆もおかしくなっている。
法華経では「お題目」を唱え、浄土の方では「念仏」を唱えている。
この「お題目・念仏」を唱えるだけで救われる、というのですから、もうそこで
「おかしい」ということなのですが、意外とそれに気がつかない。

TV番組よろしく幽霊などが出てきてそれを何とかしようとするために、お題目や
念仏を唱えると効く、というようなドラマ仕立に慣れている人は一生懸命それを
やろうとします。後は信仰上唱えていると何か特別な宗教儀式のひとつでもやっている
ような気になる。そういう風に観念が植え付けられているのが非常に多いのです。

釈尊がお題目や念仏を唱えることを宗教儀式として本当に我々に示唆しているのか?
ということすら考えたことが無い人がおそらく巷では大半なはずです。
また、普段宗教なんて考えたことも講じたことも無い人でも何か心霊現象的なものに
出会ったとか、身近な死者の安心を願う際に唱えたりしてしまう場合もあるでしょう。
それだけ多くの日本人は釈尊の説かない湾曲した仏教とはいえないものを信じたり
使う場合も有るということがあるのです。

あと、自分の家の宗派が「OO宗」という仏教宗派に入っていて、というのもあります。
多くの宗派はお題目か念仏が主流ですから、どうしてもそういう流れになる。
例えお題目や念仏でなくても、本当の仏教ではさてどのように行うものなのか、という
事を知っている人はいないし、講じるとなるとますます数は減ります。
というか、ほとんど居ないでしょうね。

お題目や念仏を唱えさせるのは、文盲で知識の無い人たちにも繰り返し短い文言を唱える
事は誰にでも出来るし、またそれを何回も唱えることで「仏教の修行をした」という事に
置き換えるという「とんでもないスリカエ」をしているからなのです。
お題目や念仏を一生のうちで最低10回唱えるとあなたは仏になれますよ、といわれて
真面目に受け取れますか?端的に言えばそういう内容なのです。

今の時代や世界にそれを「マジですか」と受け取って信じる人は多くは無い。
ですが、人は何か困ったことがあったりした場合にそういうものを受け取ることがある。
まして、一生のうちに10回唱えるだけで救われるのであれば、もっと唱えればもっと
救われる。一生の困難な際にはいつでも通用する魔法の言葉(呪文)を得た、と錯覚
させて信じさせることが、歪んだ仏教の目的になってしまっているのです。

では、実際お釈迦様がそういうことを推奨したのか。
お題目や念仏を唱えたら「救われるぞ」と本当に言ったのか?というと、そんなことはありません。
どこの誰が作ったかもわからないのが「釈尊の説いたお経」とみなされ信じられている。
こういうのが今の世の中の現実なのです。
ですから、本当に家の宗派だから、とか自分が好きでやっているからいいんだ、ではなく、
本当に自分が講じているものは正しい仏教なのか、というチェックもしないと恐ろしいことに
なってしまうのです。A宗だけが「偽仏教」ではないのです。(続く)

違和感を覚える釈迦仏教②

2010-08-30 06:53:11 | Weblog
実際的にでは、どのように違和感を覚えるかというのを書いてみましょう。

A宗で特に用いられる「密教」というのを見てゆけば良くわかります。

まず、密教では”観想”という巷的に言えば「想像」「イメージ」「頭の中に置き換える」
というものを良く使います。それこそそういうのがほとんど多い、といってもいいでしょう。

また密教は様々な仏や菩薩、明王などの諸尊が出てきます。
そういう諸尊を勧請し(呼び寄せる)祈願などを行います。

これはどういうことかというと、様々な仏様などを儀式上の形式で呼び寄せ、
その呼び寄せた対象(本尊)に供養を施し、願い事を叶えてもらうということです。
そして最後はあちらの世界へ帰っていただく。こういう流れが密教にはある訳です。

当然そういう諸尊などもイメージの世界であり、実際に存在するかといえばそれは
ありませんが、密教では「存在がある」という状態で行います。
なので、観念メインが多い、というのが自分にはあるわけです。

特に現実面での状況に弱い?とされるA宗教祖はこの点を利用しています。
ありもしない・釈尊が説きもしないものを「ある」と称し、打ち出しているのですから
非常に悪質であり、インチキです。

現実的に有りもしないものに対し対応する(誤魔化す)には2つの方法があると
私は見ます。

① 現実的に対応する
② 同じ状態のもので対応する(例 観想には観想)

普通は①で対応するものなのですが、A宗教祖は②を利用しているのです。
また、巷の人も②で誤魔化された人が多いわけでして、それでA宗がある程度発展
してきた経緯があります。

また、私が述べてきたことにあるように、巷にはこの「誤魔化し」のトラップが
非常に多いのです。つまりA宗だけでなく他の宗教法人もこのトラップが非常に
使っているのが多いので、まさかトラップだと気がつきにくい現実があります。

では、何がトラップか?というと、巷で良く見かける「お守り」や「お札」、
そして各種祈願などがそうです。
よく正月になれば神社などにお参りしますよね?それなどが代表的なものです。
また寺院などでも「皆さんの祈願をお受けいたします」というのを賜っている。
正月だけでなくほぼ毎日いつでも受け付けているはずです。
交通安全や縁結び、安産祈願やその他沢山見慣れた・聞き慣れたものが多いでしょう?
密教とは形式が違っても、中身を見ればほぼ同じです。
ただ、神社か寺院か、そして祈願形式が違うというだけで、神仏へ何をどう祈願するか
のシステム様式の違いだけです。ほぼ同じといっていい。

まあ、神道系のことは仏教では無いですから横において置くとしても、こと仏教に
関して言えば密教でなくてもお守りや祈願をしている寺院はあります。
法華経教団なんかが最たる有名なものですね。また法華経関連以外でもなんらかの
ことを行っているのがあったりもします。

ところがこの一見なんでもないように見える行為は果たして仏教の開祖釈尊が
認めた、もしくは釈尊自体が行っていた行為なのか、ということです。

ここを突っ込んでくる人が意外と少ないのが現実です。
葬式を批判する人が居ても、このお守りだとか祈願だとかまで突っ込む人は意外と
少ないので驚きます。

そういう面で言えば、私たちが如何に巷的宗教の行為に慣らされていてそこの
部分に「変じゃないか」と気がつかないことが結構あるのです。
こういうことを私は述べているのです。

なぜ批判する人が居ないのかはわかりますが、今回はそれが目的の話では無いので
割愛しますが、言われてみてそのとき「あれれ?」と思うのが意外にあるのです。
葬式はもちろんのこと、在来仏教で根本仏教というものから照らし合わせれば
「本当の仏教をどのくらいやっているのかね」というのが浮き上がってくるんです。
ましてA宗にフォーカスすると、インチキだらけですから浮き出る浮き出る。
ですが、無知識や巷の宗教行為に慣らされていると
「何でそういう風に責める」とか「お守りや祈願までにケチをつけるのはどうか」と
思える・見えるのはあるかと思います。

しかし、仏教というのはそういう人々の願い事を叶える宗派なのでしょうか?
また、仏教の開祖がそういうことを推奨し、行っていたのでしょうか?
ですから、釈尊をそこから勘違いし「随分釈尊もたかが知れているな」と思った
人もいるかもしれません。

そこで「本当の仏教ってなんだろう」と調べると、釈尊は葬式どころかお守り販売など
していませんし、祈願なども行っていないのがわかります。
そして、何をしていたのかといえばひたすら仏陀になるための行動を示唆していました。
仏になるための教えを説き、そのための実際の示唆を何度も繰り返し弟子たちに教えて
いた。また仏陀になった釈尊も弟子たちもその状態を維持していたのです。
人々からの施しを受けたことはあっても貪ることはなく、搾取することは無い。
また教団の維持や発展のために様々な商売のような行為は一切していません。
世間の世俗から離れることが煩悩を消すことになるので、行うはずがありません。
生きて行く為には食料と衣類など最低限のものがあればそれで足りるということで
必要以上に集めることはしないし、また実際に托鉢で飲食物が少ないときには
「餓死寸前」になるまで飢えたことさえあります。それでも商売のようなことをして
食べ物や金品を得たりする行為はしていない。そこまで徹底しています。

そういう釈尊と巷の寺院を見たら全然違うというのがわかります。
過去の私もそうでしたが、こういうことをほとんど巷の方も知らない人が多いでしょう。

そりゃあそうでしょう。誰も好き好んで仏教を勉強しよう、などとやる方は多くない。
まして学校でもここまで教えないのですし、わからないのは当然です。
尚且つ実際に周りに神社や寺院があって当たり前のように私の行った行為が行われている。
家族も他人も何気なくそれらの宗教行為に接して応じていたら、変に思いづらいでしょう。
気がつかないのは仕方ないです。

ですが、ことそんなに専門的な仏教を勉強しなくても釈尊がどのような行為や活動を
されていたのか、というのを調べること・知ることは出来ます。
そうすると私が気がつかされたことぐらいは知ることが出来ます。
それから周りを見ると「何か変。かなり変」というのが見えてきます。
ですから、私のブログを見た方でこの事実を知った方は、早く気がつくことができますね。
ぜひ、「嘘だ」と思う方は調べてみてください。驚くことこの上ないですよ。(続く)

違和感を覚える釈迦仏教

2010-08-21 07:29:27 | Weblog
今までの馴染みの有る「宗教形式」、特に偽仏教に慣れている人は過去の自分を
含めて本当の釈迦仏教を知っても、実際にさて、となるとよほど認識を持たないと
違和感が多すぎて講ずる気になれないのがあります。

それは自分がA宗に関わったことで学んだことの経験なのですが、A宗は今まで
何度も述べているように「偽仏教」です。それをてっきり「本物」と信じ講じて
きた。だが、何も無く・起きず「変だな」と思った。
まさか、偽物だとは知らなかったわけです。

そして、今度は本当の釈迦仏教とは、と調べてゆけばこれもまた非常に簡素で
味気ない感じがするのです。
それは自分が今までの「お経を読む」とか「真言を唱える」
また「仏像・仏画、曼荼羅、ご宝塔を拝む」などの行為を「宗教行為」として
行ったのもあるし、実際巷には宗教ではそういう行為がほとんどです。
ですから、逆のそういった行為から離れている(行わない)釈迦仏教は逆に
「違和感バリバリ」の感じがして「これが本当の釈迦仏教?」と思ったものです。

しかし、釈尊がどういったことを行い、示唆されたか。
また、お経の意味と釈尊の行いの整合性を調べれば、偽仏教との違いは明らかに
なってきます。偽仏教は釈尊が示唆した行為と逆の行為ばかりしています。
これで判断が付くのです。

釈尊は依存から離れ、自分が持つ執着から離れること、煩悩を滅することを
行います。そして、そこからが大変ですが究極的に離れることができた時に
解脱=仏陀になれるわけです。

それが教祖や神仏に”頼るようになる”仏像や仏画・曼荼羅・ご宝塔に依存し、
そこに「執着する」 お経を読み、真言を唱えて「何かやったような気になる」
こういう行為で自分というものを研鑽しないで逸れてしまう。
これが昔から伝わる「慣れ親しんでいる宗教行為」なのです。

それとは逆に何も持たない。何も頼らない。自分の心を見つめどのように調整、
つまり執着から離れるか、また自分が引き起こす傾向から離れる・改善できるか
を見てゆく行為は多くの人にはあまり「ウケません」
むしろ、辛い行為になるので「嫌う」訳です。

そりゃあ何かに対して拝んでいる方が「楽」です。
半分寝てても行為だけできれば、やった気になる。
ですが、それは何の効果があるか?といえば、自己満足や傍から見て表面的に
「信仰?といえる行為をしているな」と見えるだけで、自分を変えたり向上する、
というものがあるかといえば、さほど無いのが現実です。
ですから、そういう行為を長年やっても何の変化も無い人が多いのが現実です。
それは「自分との根本的な戦いや処理をしていないから」です。
釈迦仏教は「自分との戦いをする示唆」なのです。

ここのところに気づかなければ、釈迦仏教と在来の慣れ親しんだ宗教行為との
格差や違和感に耐えれなくなって、また何かのおかしげな宗教に鞍替えしてしまう
ことになります。又、実際そういう方もいるようです。
これでは何のためにA宗を辞めたかわかったものではありません。

要は「懲りてない」ということでしょう。いつまでも依存できる、または自分との
戦いから逃げている、何かで代替したくてその器だけを変えている、ということです。
これでは気がつくまで改善が望めません。

釈尊はお経を朗々と上げることや真言を狂ったように唱えるとか、仏像・仏画などに
拝むことなど一切してません。というか、無駄を省く方でしたからそのような無駄な
行為をどうして行うはずがあるでしょうか。
また、釈尊は自分自身が解脱者であり如来です。本尊というものを置いてそれに対して
「拝む」というのは自分で自分を拝む、もしくは自分以外の存在を拝んでいる、という
ことになります。

目的は易しく言えば自分を変えることですから、何で自分のことを分析・調整しないで
他の行為をする必要があるのでしょうか。だから変な宗教行為をするはずが無いのです。
それよりも自分というもの、そして自分の煩悩を消す方に一生懸命に精進するのです。
だから、その完成が成された人は普通の人と違った思考・行動をする。
世俗の垢(欲望や煩悩)にまみれた状態から離れて、執着を捨てた清らかな人となるのです。
拝んだり、何かに依存すること自体がおかしな行為なのです。

この違いや判断が出来ないので、自分はA宗を信じて何が悪い、と食って掛かるのです。
仏教の基本的なことも、真実もわからないで吼えるわけです。
逆にこういうことが理解できたら、A宗など馬鹿臭くて信仰出来なくなるのです。

本当の仏教から歪んでしまい偽物のほうが「本物」と思い信じてしまう。
これは無知ゆえの行為ではありますが、私が述べたようなことを嘘かどうか調べてみる。
そういうことをしてみると、よくよく意味がわかってくると思うのですが・・・。

自分の経験上、そういうことなのだとお伝えする次第です。

2chに見る妄信信者と自分の過去経緯を見てみる

2010-08-20 07:06:11 | Weblog
私も昔はA宗は「桐山教」と揶揄されるとむかついた輩の一人でしたが、
今は「そういわれても仕方ないな」と思うようになりました。

それはA宗は「本当の仏教教団だ」と世間に言っている癖に中身は教祖の
妄想と捏造のオンパレードなのですから、まさにこの言葉が当てはまります。

そして、最悪なのが信者の中で「仏教を講じている」といいながら、偽仏教
を行いそれに気がつかないことです。つまり、教祖の言い分・主張に沿って
仏教とは違う「まがいもの」をやらされているのに気がつかないのです。

これは教祖の発言した内容や実際の行動・指導などを検証すればわかってくる
事なのですが、それがさっぱり当事者には見えてこない。
見えてこない理由は、自分たちのやっている教え・行動を本当に仏教として
合っているかどうかという冷静な判断が出来ないからです。

そしてその妄信している人たちは、何が正しいかということさえ知らない。
なので、尚更自分たちのやらされている(やっている)ことの間違いさえ
わからない状態なのです。

また、A宗では「正統な釈迦仏教の法と教えを行っている教団」と言っています
が、それを確かめるには「お釈迦様」のおやりになられたことと比較し検証し
なければ、A宗が正統な釈迦仏教かどうかわかるはずがありません。
そういう作業もしないで、信じ込む。意見をすれば反抗し攻撃することしか能が
有りません。その姿は「釈迦」を信じることではなく、教祖を信じることだけが
一番の要になっているのですが、それすらさえも気がついていません。

釈尊が禁止した「占い、護摩」そして、説いていない「OOの因縁」と因縁解脱
という変な思考が横行しているのに鈍感です。
また、死者供養の湾曲により「解脱先祖供養法」と称し、解脱護摩というのを
焚き完全な死者の成仏が出来るということで、供養金を集める所業をしています。

これに対し釈尊は「自分は死者をどうのこうのできない」という旨のことを
言われています。つまり、釈尊は偉大な方、といわれていますがその偉大な方が
自ら「死者の成仏云々などできない」ということを言っているのです。

それを「A宗ではどんな死者も完全成仏させることが出来る」と謳うのですから
如何に嘘つきかがわかります。

そのほか仏舎利のことや教義のことも検証してゆけば、デタラメなものだというのが
わかります。そういうことを2chでは10年前から発しているのですが、信者の
大半はこの事実を知らない方が多いのです。
尚且つ2chの記事を読んで理解する人がなかなか少ないのも事実です。
麻薬の薬漬けではないですが、教祖の言い分に漬かっているということでしょう。
「宗教はアヘンである」と皮肉った言葉の意味も、今では頷けます。

私も過去、擁護の側にいた人間です。批判意見に気分を害しましたが、その意見に
対し、検証して批判意見が間違っていたらただでは済ませんぞ、と調べた。
すると、間違っていたのはどちらか? A宗側だったのです。
それに気づいてからは「物事はちゃんと調べないとまずい」と思ったものでした。
やっかみや自分の気持ち・憶測だけで批判側は物を言っているわけではない、と
気がついてからは、逆に何の根拠も持たず信じていた自分たちを恥に感じましたね。

今2chではそういう妄信信者が渦を巻いて様々な発言をしています。
致し方ない経緯だとは思いますが、ぜひ反論する前に批判側の意見を確認してみる。
また、自分たちに本当に非が無いかをチェックしてみることです。

A宗の教祖というのは本当に気が置けない詐欺師です。
日本人の特性や傾向を利用してうまく世間の人間を騙しています。
騙されるほうも悪いですが、騙すほうも悪い。
このまま詐欺師を放置しているのがまかり通るのは、許しがたいことです。

ぜひ、本当の釈迦仏教というものを知り、A宗の欺瞞に気がついてほしいものです。



思わず反論した

2010-08-19 02:52:20 | Weblog
2chを見たら、あまりにも戯言が酷いので反論した自分です。
放置しておいても良かったのですが、目にあまったのでやった次第。
あ、ちなみに反論は「したらば」の方ですので。
(2chは文字数とか制約が五月蝿いのと、あまり繁しく投稿するとアク禁の対象になるので)

信者の傾向として自分が分析した物をあげてみましょう。

① 純粋に仏教を志している(講じたい)
② 自分の考えに近い・沿った趣旨の教団に属す
③ 別に仏教だとかとかの考えはなく、現世利益が得られればいい
④ 先祖供養をしたい
⑤ 超能力が欲しい(能力開発など)
⑥ 守護霊・守護神が欲しい
⑦ オカルトっぽいものが好き
⑧ 密教系統が好きで簡単に出来るのがいい
⑨ なんとなく(人に薦められたなど)

こういうのが多かったようです。
自分は、といえばこの中の複合では有りますが、でも一つだけどれか、というならば、
入信した動機は④で、後は①か②でしょうね。最終的には①になった経緯があります。

一番嫌だったのは全てがインチキだったということです。
本物の仏教でなかったし、先祖供養も出来てなかった。また因縁も霊障も全て教祖の
作り出した妄想だったということです。
ましてや長年騙されていたわけですから、情け無いことこの上ないですね。

もっと早く掲示板に目を向け、検証・考察していたらそれだけ早く目を覚ませた
でしょう。非常にそこは悔やんでいますね。

ですが、悔やむことばかりが能ではなく、前に進むことが肝心と思います。
過去を反省し過去の痛手を糧とし教訓とする。そうでなければただの悔やみで終わりです。
何にも活かすことが出来なければ意味が無いからです。

今色々書いている2chの方も早く気がついてくれれば、と思います。

A宗は嘘のデパート

2010-08-18 06:05:36 | Weblog
A宗では昔「超能力」の開発が出来る、という触れ込みがあって、それに注目された
時期がありました。もちろん、そんなのは嘘でしたが、嘘に気がつかないでその
超能力獲得が目的な人が結構いたのはありましたね。

ですが、良く考えてみれば超能力を身につけて何をするのでしょうか?
逆を言えば、超能力を身につけねばならない理由がそんなにあるのでしょうか。

また超能力獲得の際に良く出てくるのが「チャクラ」と「クンダリーニ」です。
実は未だにこの方面にこだわっている方が信者でいるのです。

仮にそのチャクラとクンダリーニを覚醒したとします。
すると超能力が授かるようなものですが、ではそれを成しえた人は?というと
それが見たことは無い。また教祖自体も覚醒(開発)したと言うが、ではその
開発した人がヨレヨレなのはどういうことなのか。

一度も「これが超能力だ」と見せた人がいません。
結局は妄想の世界の出来事か、と私は見ています。

オウムの麻原氏が「空中浮遊をした」とか「凄い力を見せた」ということが過去に
かなり言われましたが、その超能力者も刑務所の中です。しかも、死刑囚という
状態に置かれています。これではさすがの超能力者も無能力者でしょうね。
というか、超能力でどうかして見せて欲しいものです。

私は超能力は「あったらいいでしょうな」というくらいで死ぬほど欲しいとは
思いませんでした。
そりゃあ建前上としても、完璧な先祖供養が出来て先祖を成仏させられる。
自分の悪い運命を変えられる。奇蹟の力を持つこと(得ること)が出来る。
そして「超能力を持つことが出来、人生を自由に謳歌できる」となれば、これは
かなりのものがあるな、と興味を持つでしょう。

ですが、その全てが嘘でしたので話にならないわけですが、未だにその路線は
A宗の「ウリ」ですから、超能力云々は弱めにしていますが、まだ謳っています。

この詐欺のオンパレードの懲りない面々は現在も続いているわけで、そこに騙されて
いる人たちが昔より減ったとしても現に存在します。
信者から搾取しその上がりで生きているのがA宗です。
この劣悪な宗教法人の行動をやめさせるには、信者からの資金提供をとめるしかない。

毎日A宗信者への警告発信が、そのA宗衰退~しいては撲滅への道だと感じ、行う。
今の自分の生きがいになっています。

思うところ

2010-08-17 09:14:14 | Weblog
青柿さんというHNの方から、A宗信者の運営されているサイトを教えてもらい、拝見しました。
思ったのは皆さんそれそれの個性を出して、やられているなあと思いました。
またA宗では信者はA宗絡みのHPは原則禁止なのですがブログなので、
「これならいいかも」と思っていましたね。

見ていると日常の事を書いていてその合間にA宗のことを書いている人もいれば、
A宗の教義のことをメインに書いている人もいました。
ですが、そのメイン内容で書いている人のどれも皆「教祖の言い分の鵜呑み」が
目立ち、「ああ、そうですか」としか感じなかったですね。

自分も元信者ですからそこらへんは良くわかるんです。
また、実際に自分も今は撤去して存在しませんが、HPを作っていたときにはやはり、
自分も半分くらいは教祖の主張を展開していましたから、そうなるのがわかります。

ただ、そこからいえることは今の私のように教祖が嘘の塊であったことがわかれば、
その教祖の主張など、何の信憑性もなくデタラメであったことが認識できます。
なので、そのブログを運営している方には非常に申し訳ないですが、「残念ですね」
という哀れみがありますね。

彼らは彼らでかつて自分もしてたように「正しい」と思って展開をしているのです。
本当の仏教、また新しいメソッドをA宗はやっている、と信じて疑わない。
また、これは自分も後からわかったことですが、自分で成し遂げていない・検証して
いないにも関わらず、教祖の言い分を鵜呑みにしてそれをWeb上で「繰り広げている」
それが全くのデタラメ・教祖の妄想だったと知ったら、さてどうなるか、です。

これが哀れみの心が発生する原因です。哀しいなあ、と。

彼らは悪意が無いだけに可愛そう、と思います。
それに対し、知らせてあげようか、という気持ちもありますが、今のところちょっと
考えてしまいます。
今後それをやるかもしれないし、やらないで終わるかもしれない。
そこらへんはちょっと悩んでいます。
今現在の考えは「そっとしておく」ですね。

出来れば彼らにも「A宗は偽仏教ですよ」と教えたい。
ですが、キャパが無い方はそれを拒否しますし、尚且つ下手をすれば噛み付いてくる。
別にリアルの世界で噛み付かれるわけではないから痛くは無いですが、あまり神経を
逆撫でしないでおこうか、というのもあったりします。

ただ、おせっかい焼きな面がある自分としては、もしかしたらいい方法があれば
将来彼らにもアプローチをするかも知れませんね。

そんなことを思った自分でした。

おめでたいやつら

2010-08-16 09:09:23 | Weblog
2chでは批判側を罵り、詮索することが流行のようでおめでたい人たちだ、と思う。
マトモな議論が出来なくなったらこの始末。それで自分らは正当だと思っているから
始末に終えない。

過去ログを読めばわかるものも屁理屈で返している阿呆。
人様に物を言う前に、正しい見解(判断)も出来ないから、それで大人か?と思う。
日本も様々な事件が起こるのは、こういう輩がいるからではないか、と思う。

まず、ユビ氏に於いては何が「板を立てた人」だ。
ユビ氏が出てきたのは大分スレが章を立ててからですぞ。
最初から掲示板を立てた人間だという憶測のはずれもわからないようだ。

次に深山氏はPC投稿です。携帯を使っていると思っているようで呆れ。
あと、深山氏は自分が投稿したい、または必要だと思われるときだけ投稿する、
といっている文言も無視して詮索ばかり。
2chではご本人登場を請われたから登場したわけでは無いが、いざ登場しても
全然詮索輩の態度は依然そのままだ。
愉快犯のようなものなので、かまわない方がいいのでしょうね。

単にスレ消費と妨害だけの行為にしかならない行動は、まさに批判派の妨害を
たくらんでいると予測されている意見があるけれど、それをあまり重要視して
なかった自分でもここまで来ると「そうなのかもしれない」と思ってしまう。
擁護側には知的な意見も理性も常識も無いのだと感じる。
世の中にはこういう人間がいるんだな、とつくづく感じます。

そして、一番呆れるのが「こういう行為をしているのがA宗の擁護サイドだ」
ということです。
特に2chはいちいち細かい記事に対して管理行使はできない板ですから、
荒らし行為がまかり通る状態です。
こういうのが私が2chを嫌がる・忌み嫌う原因なのです。
人に迷惑を書ける行為をただ見ているしかない・・・。
全く馬鹿げている。

多少理屈がハチャメチャでも意見を述べる人のほうがまだ程度が良い、と
思うほど低劣な行動ばかりです。
私が信者なら絶対にそういう行為はしない。自分と自分の教団に傷が付きます。
そういう考えもなくて、腹立たしいから批判側に報復したいんでしょう。

ま、どうせやっていることはロクな事ではない。
そのうち因果応報にめぐり合わせることでしょう。
構わないのが一番です。

ですので、こちらに書かせていただきました。

教祖入院説???

2010-08-15 06:42:52 | Weblog
本当かどうかはわからないですが、2chでA宗の教祖が主要行事で無い以外の日は
病院へ入院している、という書き込みがありました。
それが本当なら、かなり体調が悪く老いも進んでいる、ということですね。

ここ近年は大きな行事に立って参加、ということはほとんどなく、椅子に座って
談話するとか呆け話の法話などがメインですから、たいしたことはして無いんです。
なので、入院説も出ても違和感が無いですね。
それだけ好き勝手をやってきた教祖も、いよいよ寄る歳の波には勝てず、尚且つ
糖尿から脳梗塞まで発症していますから、ツケが回ってきています。

私や先にA宗を退会した人などはわかっていますが、教祖が今までは非常に努力と
研鑽をしてきたと信じていました。
しかし、それは見せ掛けや嘘の報告であり、実際は飽食をし贅沢三昧。
愛人を囲って、またデタラメばかりを世に撒き散らしてきた。
そして、巷の人や信者を騙してきた悪の権化です。
なので、今の醜態ぶりは当然の報いです。

個人の不幸を喜ぶ趣味は無いですが、悪いことをした人への報いの結果に私は
「ああ、当然でしょう」という気持ちはあります。
悪事を散々行ってそれで幸せになられたら、真面目な人間はたまったものじゃない。

ましていち宗教(教団)の教祖であり、人に道を説くという位置の人です。
人を騙して搾取して得た金で、のうのうと生きているのがまかりとおってたまりますか。

お釈迦様は「全ては因果応報の流れによるんだよ」といわれました。
悪いことをすればそれが自分へ帰って(反映される)くる。
善いことをすればそれが自分へ帰ってくる。
時期は機が熟せば、自然とそうなるのだよ、と小学生にでもわかる説明をされました。

そういうことを教祖自らが説いていて、その具現が出てきている。
まさに因果応報を地で行っているわけです。

仮に入院説が間違っていて憶測だった、としても教祖の老衰ぶりは日を追うごとに
加速しているのがわかります。
教祖はいままさに教団の「人寄せパンダ」状態ですから、公に顔を出すことがある。
それを見れば、嫌というほど教祖の顔やしぐさを見てきた我々には十分わかるし、
全く教祖を知らない人でも人目見たら「随分歳を召されてますね」とわかります。
概観だけでもそれだけわかるのです。

A宗はワンマンカリスマ教祖が立てた教団ですから、教祖が亡くなればその後の
行方は非常に不安定なものになります。
実際過去に脳梗塞だということを隠して入院治療をしたときに護摩法要を法務部の
TOPに代理で行わせた際に、信者が例祭参加を激減したことがあります。
教祖が不在、というだけでこの有様です。
まして「もう教祖は亡くなるのではないか」ということを懸念され実際に信者の
間では「教祖が死んだらA宗は辞める」と言う人まで出た経緯があります。
(私の知り合いにもそういう方がいます)

また、教祖のスキャンダルにも反応し、それで退会した人もいますから、尚更
亡くなった際にはかなりのダメージが教団には発生するでしょう。

全ては教祖の撒いた種。その因果応報に報わねばならない時期が差し掛かってきて
いるのでしょう。

そんなことを思った、自分でした。

オカルトから脱出せよ!

2010-08-14 07:21:30 | Weblog
A宗で学んだことは全て無駄ばかりではありません。
痛みを伴ったことは実は人生経験でもあるのです。

そこで一番感じたものは「如何に自分というものを見つめるか」です。
それが本当の仏教の示唆でもあるのです。
つまり、今までは「まがいものの仏教~偽仏教」を知らずに講じていたのです。

その中で偽仏教は依存体質を強くし、自分を駄目にしてしまいます。
そういう骨抜きにすることが、教団側には好都合だからです。
信者をコントロールし、自由に操ることが出来る格好の獲物なのです。

様々な餌で釣り、釣ったあとは生け簀で教団の思うような事へ使うわけです。
信者はいわゆる魚であり、利益は教団側に与えるだけです。
逆から見れば釣られた魚(信者)は、生かすも殺すも教団次第な状態です。

ですが、我々は人間です。魚と一緒では有りません。
なので、生け簀から逃げて自由を手に入れることが出来るのです。
また、捕われてただいいようにされるのは、自分にも落ち度があるからです。
その落ち度は自分が無知か、間違っているからいいように扱われるのです。

その根本的なものを見れば色々理由は有りますが、最たるものをあげれば
やはり「オカルト好き」なものがあるようです。
その宗教があまりにもオカルトな行為や傾向が多い場合には、例えA宗でなくても
気をつけなければいけません。

オカルトが流行ったのは大分前です。今の時代は科学も発達し、ネットの世界も
充実しています。これだけ昔のような情報が疎かった時代から変わってきている
のですから、人間も変わらなければおかしいです。

本当の仏教を学べばオカルト要素は無いのに気がつきます。
そういうことさえ知らない人が多く、実際に私もその一人でした。
学ぶべきことは勉強ばかりではなく、宗教においても関わる人はやはり多少なりとも
学んでおく必要があるかと思います。

そして何よりも騙されたことに気づいたものが、後世のために警告を発す。
これが肝要だと思います。
日本人は黙ることが美徳のように思う傾向があります。
悪い組織・団体があるのなら、それを放置することは良くない。
それを知ったものが実際に行動しなければ、騙されて被害をこうむる人は絶えないのです。
黙って語らず、が至高なのだと思うことはやめた方が良いです。

悪いものは悪い。この当たり前のことを行うのです。
そして、そこから自分も立ち上がり自分のかけがえの無い人生を送るのです。

オカルトに染まって人生を失うことがないように祈るとともに行動する自分です。