皆様、しばらくでした。
実は、下書きはしてあったのですが、どうも見直すと芳しくない。
過去に言ったことのなぞりが大半で、面白みに欠けるというか心に来るものが少ない。
そのように感じたので、公開はしていない状況でした。
ところが先般「これなら過去にも書いたが、まだマシかも?」と思えるものがありましたので、それを書くことにしました。
それはタイトルに有ります事項です。
よく宗教を講じている人にありがちなのが
「わかっちゃいるけどやめられない」もしくは「わかっているができない」というやつです。
それを端的に言えば
「言うが易し 行うは難し」
ですね。
これが普通の人ならまだいいですが、宗教を講じていてこれをやられちゃうと
「何、ふざけているんだ」
となりますよね。
あなたの講じているものや講じている宗教は何を信者に教えているのかと。
又は信仰をしている意味が無いではないか。貴方自身は一体何を学んでいるのか。
意味が無いじゃないか、といわれることにもなります。
仏教には「四無量心」という語があります。
これをネットで調べると判りますが、慈悲喜捨の心を表したもので、その心様を示しています。
勘のいい読者さんなら、もうここでわかると思いますが要はこの語を発した人物がある掲示板に居まして非常に浅い。
つまり、語などを発しているがそこまでの人で「実践がない」人なんですね。
それこそ仏教に限らず、宗教は多数この世に存在します。
そのどれでもいい、間違った教えを説いていない宗教ならば、どこの宗教でも道徳や常識的に正しい事を示唆します。
そしてその教えを信者は守り・実践することが要求されるわけです。
これが「できない」とすれば、信者が悪いか教団が悪いかのどちらかになります。
そして大抵多いのが「できない信者」が多いのが圧倒的です。
人間には生まれつきの「性格・傾向」というものがあります。
この影響というのは結構でかい。
悪いことだと判っていながら悪事を行う。
破ってはいけないと知りつつ、違反をする。
そういうことは巷に溢れています。
もちろん自制が出来れば問題は無い。
だが、経験のある方なら判りますが、人間はそう簡単には変われない。
だからこそ、いろんなもので行動や思考を自制する必要があるのです。
そしてその自制、又は矯正を「宗教で」とする人も居るわけです。
ところが中々上手くできない人も多かったりするわけです。
しかしながら、宗教を講じなくても「人間として素晴らしい行為」をする方も居ます。
本来は皆こうでなければいけないのですが、そういう方もいます。
一方、宗教を講じていながら「出来ない人」はいかがなものか、となりますよね。
「四無量心」というのは絵に描いた餅であってはいけないわけです。
仏教が教える中の大事なことですから、これをシッカリ覚え、実践できるようでなければいけない。
それこそ「実践するんだ」と自分を奮い立たせるのではなく、自然に身について苦無く出来るようでなければいけない。
それが口からは「四無量心」とか色々ほざく。
だが、実際はその言葉のひとかけらさえもできていない、となれば話にならないですね。
それこそ「四無量心」なんて言わなくてもいい。
実際に行動が出来てその内容ができていれば、もうすでに「実践できている」わけですから、それが最もよろしい。
私が思うにボランティアとかがその表れではないかと思うのです。
慈悲喜捨の心なんていわずとも、その心が有れば無私で対象の方に施せることが慈悲喜捨の心であり、表しです。
それこそ「心で思う」だけなら、誰でも出来ます。
大事なのは「実際にやれる。できること」です。
貴方の幸せを祈りますよ、とか色々美麗な言葉はあります。
ですが、助けの1つもしないで「貴方が幸せでありますように」といくら言われても、祈られても「良くはならない」
むしろそんな奇麗ごとなど言わなくても手を差し伸べる。
自ら汗をかき、身体を動かしてその困っている人の手助けになった方が、数倍良い。
その上で「手助けはここまでしか出来なかったが、貴方たちのこれからの幸せを祈っていますよ」というならまだ良い。
何もやらず、ただ祈るだけで「物事が上手く行くように」というのは、単なる「格好付け」です。
それこそ助けていただく側としたら「祈らなくてもいいから手伝ってくれよ」でしょう?
2018年は災害の多い年でした。
色んな災害に遭われた人がTVで見ましたが、その中で多かったのが「ボランティア」の方の募集でした。
人が居ないのと、歳を召された方が多いため災害復旧するのに人手が足りない。
だから、そこに行って手助けしてくれる人のありがたさといったら感謝してもしきれない。
四無量心なんて言わなくていいから、実際にやれよ、です。
私は思うのです。
過去、実際に宗教をかじった。だが、それが偽仏教であって騙された。
教祖は上から物を言う人で、実際的に自ら身体を動かす人ではなかった。
宗教の教えも大事です。
ただもっと大事なのは教えよりも「行動」です。
尤も行動といっても相手の迷惑になる行動をしてはいけませんから、ちゃんと適切な支援や補助をするのも肝要です。
相手のために思いやりの心と適切な行動をする。
これが宗教人でなくてもできることと、宗教人なら「尚更出来て当たり前」でなくてどうする、ということです。
こと宗教は「祈りを以って平和を云々」とか言いますが、祈りも大事だが行動はもっと大事です。
東日本大震災の際にも外国からボランティアに来てくれた外人さんがいたそうです。
その方々は仏教信者では有りませんでした。
ですが、宗教云々、国籍云々ではなくて災害で困っているのだから助けに来ましたよ、で行動をされた。
貴方の助けになれば、という心で実際に来られたし手伝いもした。
これに勝る物は無いのです。
宗教をやっている人は大抵「祈りに没頭しがち」なのは経験をして私もわかっています。
ですが、その祈りだけに留まらず、実際に手を差し伸べる。力になることが肝心ではないか。
そしてやったことがすなわち「四無量心」であれば、心も身体も一致することにつながり、真の意味での「熟知」になるのではないか。そのように思うわけです。
頭の中で考え、心の中だけで済ませたものは形にならない。
自分の中だけで完結はしている。
だが、実際にやれてなければ結果として意味を成さない。
イメージトレーニングは必要ではあるが、それだけなら「絵に描いた餅」と同じだ、ということです。
今回は、宗教人にありがちな傾向と中身について触れてみました。
では、また次回。
実は、下書きはしてあったのですが、どうも見直すと芳しくない。
過去に言ったことのなぞりが大半で、面白みに欠けるというか心に来るものが少ない。
そのように感じたので、公開はしていない状況でした。
ところが先般「これなら過去にも書いたが、まだマシかも?」と思えるものがありましたので、それを書くことにしました。
それはタイトルに有ります事項です。
よく宗教を講じている人にありがちなのが
「わかっちゃいるけどやめられない」もしくは「わかっているができない」というやつです。
それを端的に言えば
「言うが易し 行うは難し」
ですね。
これが普通の人ならまだいいですが、宗教を講じていてこれをやられちゃうと
「何、ふざけているんだ」
となりますよね。
あなたの講じているものや講じている宗教は何を信者に教えているのかと。
又は信仰をしている意味が無いではないか。貴方自身は一体何を学んでいるのか。
意味が無いじゃないか、といわれることにもなります。
仏教には「四無量心」という語があります。
これをネットで調べると判りますが、慈悲喜捨の心を表したもので、その心様を示しています。
勘のいい読者さんなら、もうここでわかると思いますが要はこの語を発した人物がある掲示板に居まして非常に浅い。
つまり、語などを発しているがそこまでの人で「実践がない」人なんですね。
それこそ仏教に限らず、宗教は多数この世に存在します。
そのどれでもいい、間違った教えを説いていない宗教ならば、どこの宗教でも道徳や常識的に正しい事を示唆します。
そしてその教えを信者は守り・実践することが要求されるわけです。
これが「できない」とすれば、信者が悪いか教団が悪いかのどちらかになります。
そして大抵多いのが「できない信者」が多いのが圧倒的です。
人間には生まれつきの「性格・傾向」というものがあります。
この影響というのは結構でかい。
悪いことだと判っていながら悪事を行う。
破ってはいけないと知りつつ、違反をする。
そういうことは巷に溢れています。
もちろん自制が出来れば問題は無い。
だが、経験のある方なら判りますが、人間はそう簡単には変われない。
だからこそ、いろんなもので行動や思考を自制する必要があるのです。
そしてその自制、又は矯正を「宗教で」とする人も居るわけです。
ところが中々上手くできない人も多かったりするわけです。
しかしながら、宗教を講じなくても「人間として素晴らしい行為」をする方も居ます。
本来は皆こうでなければいけないのですが、そういう方もいます。
一方、宗教を講じていながら「出来ない人」はいかがなものか、となりますよね。
「四無量心」というのは絵に描いた餅であってはいけないわけです。
仏教が教える中の大事なことですから、これをシッカリ覚え、実践できるようでなければいけない。
それこそ「実践するんだ」と自分を奮い立たせるのではなく、自然に身について苦無く出来るようでなければいけない。
それが口からは「四無量心」とか色々ほざく。
だが、実際はその言葉のひとかけらさえもできていない、となれば話にならないですね。
それこそ「四無量心」なんて言わなくてもいい。
実際に行動が出来てその内容ができていれば、もうすでに「実践できている」わけですから、それが最もよろしい。
私が思うにボランティアとかがその表れではないかと思うのです。
慈悲喜捨の心なんていわずとも、その心が有れば無私で対象の方に施せることが慈悲喜捨の心であり、表しです。
それこそ「心で思う」だけなら、誰でも出来ます。
大事なのは「実際にやれる。できること」です。
貴方の幸せを祈りますよ、とか色々美麗な言葉はあります。
ですが、助けの1つもしないで「貴方が幸せでありますように」といくら言われても、祈られても「良くはならない」
むしろそんな奇麗ごとなど言わなくても手を差し伸べる。
自ら汗をかき、身体を動かしてその困っている人の手助けになった方が、数倍良い。
その上で「手助けはここまでしか出来なかったが、貴方たちのこれからの幸せを祈っていますよ」というならまだ良い。
何もやらず、ただ祈るだけで「物事が上手く行くように」というのは、単なる「格好付け」です。
それこそ助けていただく側としたら「祈らなくてもいいから手伝ってくれよ」でしょう?
2018年は災害の多い年でした。
色んな災害に遭われた人がTVで見ましたが、その中で多かったのが「ボランティア」の方の募集でした。
人が居ないのと、歳を召された方が多いため災害復旧するのに人手が足りない。
だから、そこに行って手助けしてくれる人のありがたさといったら感謝してもしきれない。
四無量心なんて言わなくていいから、実際にやれよ、です。
私は思うのです。
過去、実際に宗教をかじった。だが、それが偽仏教であって騙された。
教祖は上から物を言う人で、実際的に自ら身体を動かす人ではなかった。
宗教の教えも大事です。
ただもっと大事なのは教えよりも「行動」です。
尤も行動といっても相手の迷惑になる行動をしてはいけませんから、ちゃんと適切な支援や補助をするのも肝要です。
相手のために思いやりの心と適切な行動をする。
これが宗教人でなくてもできることと、宗教人なら「尚更出来て当たり前」でなくてどうする、ということです。
こと宗教は「祈りを以って平和を云々」とか言いますが、祈りも大事だが行動はもっと大事です。
東日本大震災の際にも外国からボランティアに来てくれた外人さんがいたそうです。
その方々は仏教信者では有りませんでした。
ですが、宗教云々、国籍云々ではなくて災害で困っているのだから助けに来ましたよ、で行動をされた。
貴方の助けになれば、という心で実際に来られたし手伝いもした。
これに勝る物は無いのです。
宗教をやっている人は大抵「祈りに没頭しがち」なのは経験をして私もわかっています。
ですが、その祈りだけに留まらず、実際に手を差し伸べる。力になることが肝心ではないか。
そしてやったことがすなわち「四無量心」であれば、心も身体も一致することにつながり、真の意味での「熟知」になるのではないか。そのように思うわけです。
頭の中で考え、心の中だけで済ませたものは形にならない。
自分の中だけで完結はしている。
だが、実際にやれてなければ結果として意味を成さない。
イメージトレーニングは必要ではあるが、それだけなら「絵に描いた餅」と同じだ、ということです。
今回は、宗教人にありがちな傾向と中身について触れてみました。
では、また次回。