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天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

言うよりやれることが大事

2019-03-30 05:00:50 | Weblog
皆様、しばらくでした。

実は、下書きはしてあったのですが、どうも見直すと芳しくない。
過去に言ったことのなぞりが大半で、面白みに欠けるというか心に来るものが少ない。
そのように感じたので、公開はしていない状況でした。

ところが先般「これなら過去にも書いたが、まだマシかも?」と思えるものがありましたので、それを書くことにしました。

それはタイトルに有ります事項です。


よく宗教を講じている人にありがちなのが

「わかっちゃいるけどやめられない」もしくは「わかっているができない」というやつです。


それを端的に言えば

「言うが易し 行うは難し」

ですね。



これが普通の人ならまだいいですが、宗教を講じていてこれをやられちゃうと

「何、ふざけているんだ」

となりますよね。


あなたの講じているものや講じている宗教は何を信者に教えているのかと。
又は信仰をしている意味が無いではないか。貴方自身は一体何を学んでいるのか。
意味が無いじゃないか、といわれることにもなります。



仏教には「四無量心」という語があります。
これをネットで調べると判りますが、慈悲喜捨の心を表したもので、その心様を示しています。


勘のいい読者さんなら、もうここでわかると思いますが要はこの語を発した人物がある掲示板に居まして非常に浅い。
つまり、語などを発しているがそこまでの人で「実践がない」人なんですね。



それこそ仏教に限らず、宗教は多数この世に存在します。
そのどれでもいい、間違った教えを説いていない宗教ならば、どこの宗教でも道徳や常識的に正しい事を示唆します。

そしてその教えを信者は守り・実践することが要求されるわけです。



これが「できない」とすれば、信者が悪いか教団が悪いかのどちらかになります。
そして大抵多いのが「できない信者」が多いのが圧倒的です。



人間には生まれつきの「性格・傾向」というものがあります。
この影響というのは結構でかい。


悪いことだと判っていながら悪事を行う。
破ってはいけないと知りつつ、違反をする。
そういうことは巷に溢れています。


もちろん自制が出来れば問題は無い。
だが、経験のある方なら判りますが、人間はそう簡単には変われない。
だからこそ、いろんなもので行動や思考を自制する必要があるのです。
そしてその自制、又は矯正を「宗教で」とする人も居るわけです。


ところが中々上手くできない人も多かったりするわけです。



しかしながら、宗教を講じなくても「人間として素晴らしい行為」をする方も居ます。
本来は皆こうでなければいけないのですが、そういう方もいます。

一方、宗教を講じていながら「出来ない人」はいかがなものか、となりますよね。



「四無量心」というのは絵に描いた餅であってはいけないわけです。
仏教が教える中の大事なことですから、これをシッカリ覚え、実践できるようでなければいけない。
それこそ「実践するんだ」と自分を奮い立たせるのではなく、自然に身について苦無く出来るようでなければいけない。


それが口からは「四無量心」とか色々ほざく。
だが、実際はその言葉のひとかけらさえもできていない、となれば話にならないですね。


それこそ「四無量心」なんて言わなくてもいい。
実際に行動が出来てその内容ができていれば、もうすでに「実践できている」わけですから、それが最もよろしい。



私が思うにボランティアとかがその表れではないかと思うのです。


慈悲喜捨の心なんていわずとも、その心が有れば無私で対象の方に施せることが慈悲喜捨の心であり、表しです。



それこそ「心で思う」だけなら、誰でも出来ます。
大事なのは「実際にやれる。できること」です。



貴方の幸せを祈りますよ、とか色々美麗な言葉はあります。
ですが、助けの1つもしないで「貴方が幸せでありますように」といくら言われても、祈られても「良くはならない」


むしろそんな奇麗ごとなど言わなくても手を差し伸べる。
自ら汗をかき、身体を動かしてその困っている人の手助けになった方が、数倍良い。


その上で「手助けはここまでしか出来なかったが、貴方たちのこれからの幸せを祈っていますよ」というならまだ良い。
何もやらず、ただ祈るだけで「物事が上手く行くように」というのは、単なる「格好付け」です。



それこそ助けていただく側としたら「祈らなくてもいいから手伝ってくれよ」でしょう?



2018年は災害の多い年でした。
色んな災害に遭われた人がTVで見ましたが、その中で多かったのが「ボランティア」の方の募集でした。


人が居ないのと、歳を召された方が多いため災害復旧するのに人手が足りない。
だから、そこに行って手助けしてくれる人のありがたさといったら感謝してもしきれない。


四無量心なんて言わなくていいから、実際にやれよ、です。




私は思うのです。
過去、実際に宗教をかじった。だが、それが偽仏教であって騙された。
教祖は上から物を言う人で、実際的に自ら身体を動かす人ではなかった。



宗教の教えも大事です。
ただもっと大事なのは教えよりも「行動」です。


尤も行動といっても相手の迷惑になる行動をしてはいけませんから、ちゃんと適切な支援や補助をするのも肝要です。
相手のために思いやりの心と適切な行動をする。


これが宗教人でなくてもできることと、宗教人なら「尚更出来て当たり前」でなくてどうする、ということです。




こと宗教は「祈りを以って平和を云々」とか言いますが、祈りも大事だが行動はもっと大事です。


東日本大震災の際にも外国からボランティアに来てくれた外人さんがいたそうです。
その方々は仏教信者では有りませんでした。


ですが、宗教云々、国籍云々ではなくて災害で困っているのだから助けに来ましたよ、で行動をされた。
貴方の助けになれば、という心で実際に来られたし手伝いもした。


これに勝る物は無いのです。



宗教をやっている人は大抵「祈りに没頭しがち」なのは経験をして私もわかっています。
ですが、その祈りだけに留まらず、実際に手を差し伸べる。力になることが肝心ではないか。

そしてやったことがすなわち「四無量心」であれば、心も身体も一致することにつながり、真の意味での「熟知」になるのではないか。そのように思うわけです。



頭の中で考え、心の中だけで済ませたものは形にならない。
自分の中だけで完結はしている。


だが、実際にやれてなければ結果として意味を成さない。
イメージトレーニングは必要ではあるが、それだけなら「絵に描いた餅」と同じだ、ということです。



今回は、宗教人にありがちな傾向と中身について触れてみました。
では、また次回。

2019年 最初の記事

2019-02-20 01:09:21 | Weblog
先日、知り合いの方より、あるお言葉をいただきました。

その方はしばらく逢ってなくて、もう5年ほど経ちますか。
自分がこのブログをしているのを知っていたのですが、5年ほど前に仕事や生活の上で自分の居た街から離れて過ごしていたのと、彼も仕事が忙しくて私のブログも見てなかったし、連絡も取ってなかったのです。

それが彼も当時居た職場が余りにも酷い環境なのに我慢の限界が来て、2018年12月31日で退職したそうです。
また、退職後は約二ヶ月ほど今までの10数年過酷な労働に耐えた分の「養生と労をねぎらう上」でしばらく休養し、最近新しい職場に就いたそうです。

そしてその新しい体制が整った際に、自分の事を思い出し連絡してきたのですが、その際に色々お互いの話などをしたのですが、その中にひょいとブログのことが。

事情を話して「今は批判をやめたよ」と話したら、彼は言うのです。


『批判は辞めてもいいから、正論だけは続けたらどうか』


こう、言ってくれたのです。


彼は私のよき理解者でありますから嬉しいお言葉です。
ですが、まあ何かそのうち書きますわ、と言ったら


「ほとんど何も書かないなら、ブログをやってないのと変わらないのではないか」


と言って来たわけです。



中々痛いところを突いてきますね。確かにそうです。



そこで、まずは批判抜きなら何が書けるか、を考えました。
すると、意外と中々出てこないものです。



それこそ私の知り合いの「某太郎」さんなら、日々の日記のようなものを書かれていますが、彼はよろしい。
なぜなら、それが彼の売りでもあるし、スタイルだからです。



それこそ彼に乗じで同じ事をやっても、ただのおっさんで尚且つ趣味がさほど無い人間の「日々日記」など誰が読むのだろうか。「某太郎」さんのように多趣味で、尚且つブログスタートから「個人的趣味で行きますよ」とやっているスタイルに私が対抗しても乗じても、意味を成さない。


それこそ批判メインでやってきた自体が私のスタイルであった、ともいえます。



けれども、自分は再び批判は行うつもりは無いのです。

批判は重鎮である「深山さん」と「ユビさん」がおやりになられている。
このお二人だけで十分です。



そして、今自分を振り返ってみれば、やはり道は2つあると思います。
ブログを辞めるか、それとも批判ではない何かのスタイルで物を書くか。



とりあえず批判はしないで置き、今までの繰り返しになるでしょうが、本当の仏教を知らしめる行為はしたほうがいいのではないか。そのようにも考えました。

実はこの案は5年間疎遠だった彼も言ってくれた案でも有ります。



世の中には本当の仏教を知らない人は一杯居る。
その知り合いの彼も、某太郎さんも自分の影響で「本当の仏教を知った人」なのです。
だから、世の中には最低でも二人は「偽仏教の餌食に成らないで済む人」が最低でも二人は居る、というわけです。



だが、逆から考えると「騙される人は多く居る」と言うことでもあります。




なので、彼曰く


「本当の仏教の内容と大切さを言うには問題は無いのではないか」



こうも言ってくれたわけです。
ありがたいことです。




ですから、今下書きを書いている最中ですが、近日ブログ記事を書こう(再開)と思います。



もちろん、阿含宗の批判はしません。
ですが、これだけは言っておきます。

偽仏教は偽仏教として駄目なので、そこは記事内でも述べてゆきます。


つまり自分が辞めるのは「阿含宗批判を止めるだけ」ということです。
ですが、まあ内容は今までと差が無いので、記事を読んでいけば「どこの教団を言っているか」とか「どういった仏教が間違いなのか」は明白になると思います。


要は「巷に知れ渡っている多くの人が知る仏教という概念」が如何に毒されているか。
また間違っているのか。間違って伝えられているのかを知らしめたい。

そして本当の仏教を知って「宗教詐欺」に遭わないでほしい。
それが私の願いであり、目的です。



そういうわけで、近日記事をUPしますが

「なんだ。阿含宗批判してないだけで、昔と言っていることはほとんど同じだ」

とはなると思います。



ですが、もしも世の中に


「本当の仏教が知りたい」とか「学びたい」と言う方が居ましたら、そういう方のお手伝いというか役には立つと思います。


それを願うために新たに自分がブログの活動を再開するよ、というお知らせを兼ねての今日の書き込みでした。



それでは、また。

謹賀新年

2019-01-02 04:39:00 | Weblog
2019年新年が明けました。

昨年までは長年やっていました「阿含宗批判」
今年からはそのスタイルから離れ、徒然に自分の思ったことや言いたい事を書くスタイルへ変えてやっていこうかと思います。

実はこの考えに至るまで結構悩みました。

それこそ、このブログを閉じるか、または閉じないまでも更新をしないで置くか。
それとも何か別なものへシフトするか・・・など、考えは色々巡りました。

で、最終的に決まったのが昨年12月末。


決まったのは良いのですが、以前同様更新は頻繁ではない、かと思います。
そういう過疎ブログでも、どなたかの役に立ってくれる。
または過去の記事を読んで「阿含宗の欺瞞に気づく」のであれば、これ幸いという思いです。

まずは、今後ゆったりと進めてゆこうと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。


2019年新年の挨拶でした。

告知

2018-10-30 05:42:17 | Weblog
阿含宗の行いや間違いを世に知らしめるために書いてきたブログですが、桐山氏も亡くなったことですし、自分もそろそろ批判引退をしようと思います。

本来であれば桐山氏が亡くなったら辞めるのが予定でした。

しかしながら後継者が桐山氏逝去後も酷い有様で詐欺宗教を行っている。
だから「続けて批判してゆくべきだ」とも思い、少し活動を続けてきました。


ですが、その考えに基づくと活動は「自分が死ぬまでやらねばならない」となります。
そして自分が死んでも阿含宗は「残る」


いわゆるきりがないわけです。


自分も余生を楽しむために活動を辞めようと思います。
またある程度説きつくした感も否めない。


なので、2018年12月一杯を以ってこのブログでの活動は終わります。
後は旧2ch(現5chもしくはSC2ch)を見てもらう。
又は自分が過去に作った批判HPを見てもらうということになります。


今は数年前からネットの普及が良くなり、調べ物をするには十分な状態となっています。
ですから阿含宗のことに関して調べるには、事足りると思っています。


後は各自の判断です。
批判内容は嘘だ、として頑迷に信じきるのも自由。
批判を信じて考察をして詐欺から回避するのも自由。


あまり好きな言葉ではないですが、騙されるのは騙される側にも非がある。

ならば騙されたことを機に「何を、どう考えるか」が要求されます。



一番いいのは「騙される前に調べて詐欺に遭わないこと」です。
それが叶うなら一番良い。


しかし、それが叶わなくても騙された後でも良い。
早く詐欺に気がついて「脱却」できれば、それでもいい。


要は「騙されるな」ということです。




ですから今からですと後二ヶ月ですが、ラストをどう過ごすか考えています。



大体説きたいことは説きました。後は皆さんの判断です。


よく考えてどのように対処するか。よく考えて阿含宗の信仰と向き合ってください。



それでは、また。

彼岸など「ない」

2018-09-27 03:49:49 | Weblog
ここのところずっと忙しかったので、時期を逸脱してしまいましたが彼岸のことについて触れてみます。


ご存知の通り彼岸は年二回あり、1つは「春のお彼岸」もう1つは「秋のお彼岸」があります。


お彼岸の意味はネットで調べると簡単に出てきますね。


意味は色々出てきますが、特に巷的、又は日本人が認識し行っている行為としては、そもそもの仏教の意図とは違った行為。
悟りを開くための仏道修行ではなく、春・秋の期間に行われる彼岸会の法要やお墓参りのことを指していることが多いようです。



私もそうでしたが、実はこの風習(のようなもの)に沿いすぎて、疑問を持つ人がどれだけいるか。
まあたまに「何かエンドレスでおかしくね?」と思ったことがありましたが、せいぜいそこまでです。



よく考えてみてください。

生きている人が彼岸を渡るようにと、又は死者(先祖)が彼岸を渡って行けますように、と願う行為なら私は「不要」とみます。



まず、生きている人が彼岸を渡るように、は余計なお世話です。



真っ先に浮かぶのがこの事項に該当する人のことです。

それは「仏教を信奉していて修行を行っている人のこと」を指します。



だったら別に仏教以外の宗教を奉じていたり信仰をしている。又は無宗教の人には「関係のない話」になります。



仏教は凡夫が仏陀になり、ゆくゆくは涅槃へ入るのが目的と何度も言ってきました。
だから仏教を心底奉じ究極まで登り詰める、又はそうなるために修行に励むならそれは間違いない。

だが、これも目標だから別に春だの秋だの関係なく、死ぬまで目標にひたすら、で良い訳です。
なので、わざわざ「彼岸に至る」なんてのは言わなくてもいいし、言う必要も無い。

正確には「涅槃へ至る」なんですけどね。




また今度は「死者(先祖)が彼岸を渡って行けますように」も、これまたおかしいことです。



生きている人が死んだ方を敬う、または偲ぶのはよろしいことです。
ですが、彼岸に至るかどうかは「その人の全て」が掛かっており、また死んだから彼岸へ至るというのも正式には違うことです。



なぜなら仏教的に正しい修行をして仏陀になりその果てに涅槃へ至ってようやく「渡れる世界」です。
これが何も講じていない、奉じてもいない輩が子孫縁者が祈っただけで「渡れるか」です。



またいつになったら渡れるのでしょうか?
そんなことは誰にもわかりません。

というか厳密に言えば極楽浄土の世界はお釈迦さまが説いたものではありませんしね。
後世の人間が考えたものですからね。いわゆる「嘘」又は「外道・邪道の世界」です。
本当の仏教にそういう考えは有りません。



となると、死んだ方はどうすれば行けるのか?と言う問題です。
それは簡単です。多くの方は輪廻転生しますから、黙っててもいつしか何かに生まれてきます。


そして人間に生まれたなら正しい仏教を講じて仏陀になり、その後涅槃へ入ればそれで終了です。
そうならない限りは気が遠くなるほどの転生をしますから、何度もやれば良い。

つまり人間に生まれて正しい仏教を行って涅槃へ入るまでは「入れない」ということです。



だから死んだ方は死んで彼岸を渡る、ではなく「生まれ変わってから正しい仏教の修行を満了しなければ入れない」のですから、死んだ方の彼岸を渡る願いも祈りも「無駄」ということです。



また生きているからと言って必ず誰しもが「仏教を奉じるか」もあります。
ましてや嘘の仏教が多い中、正しい仏教を講じれるのはさて、というのもある。



仮に正しい仏教を講じても仏陀になれるかどうかもわからない。ましてや仏陀になっても陥落と言うこともありえる。
つまり仏陀に成ることさえ至難なのに、涅槃入りなんて夢のまた夢の話です。



尚且つ巷にある認識は間違った教えによる「躍らせ」に近いものです。
毎年春と秋にやらされ、しかもエンドレスです。

尚且つやったって意味はほとんど無い。
こんなものをお釈迦さまが説くでしょうか?




といっても説いていないと最初に私が言っていますけどね。





だからキテレツすぎるんですよ。
情報もロクにない時代で、皆が変に思っても意義を立てない時代が今まででしたからね。




今やその気になったらある程度まで調べられる時代です。
心霊写真もUFO写真も簡単に作れる時代です。

それこそ私が子供の頃にはまだ騙されるのは当然と言う時代でした。
それが30~40年ほど経って今の時代です。

逆に今の子供たちの方がいろいろ知ってて無知な人が変な事を言うと「笑われる時代」なのです。




別に憎くて風習などを馬鹿にするつもりも非難するつもりもありません。
ただ、実際的にやってて「意味あるの?」とか「それって正しいの?」となると話は変わってくる。

その一環として話しているのです。





正しい仏教にはお彼岸もお盆も回忌もありません。供養の意味さえ違う。

巷にあるほとんどの事項は「嘘の教え」です。そのことを知らずに自分たちは「やらされている」又は「なぞらえて生きている」のが実情です。



正しい仏教を奉じようとならなくても、せめて「嘘の仏教はやらないようにしよう」私はそのように思います。



今日はここまでとします。

本当の仏教に基づく「お盆の過ごし方」

2018-08-12 05:38:36 | Weblog
この記事を書いた時期は、お盆も丁度間近ですので、今回は『本当の仏教に基づく”お盆の過ごし方”』を説きましょう。

というか、このブログをいつも見てくだっさって居る方には、答えはわかっているとは思います。
ですが、比較的新しくいらした方やあまり当ブログを読まれてない方には「何のこと?」でしょうから、そういった方向けということでお読みいただければ幸いです。


まず、お盆ですが、これは本当の仏教では「説かれていない事項」です。


よく「お盆の時期は地獄の釜の蓋が開き、ご先祖様が各子孫のところや家々に戻れる時期」などと言うことを耳にしますが、この事項は「全くの嘘」です。
本当の仏教ではそういうことは「微塵も説いていません」


というか、そもそもお盆の時期やらお盆に何をするという概念すらないのが本当の答えです。
ですから、やれお盆だからとか何々をしなければいけないなんてのは「最初から無い」のです。


そうすると「では、そういった物を説いていないとしても、実際的にお盆と言うものは巷に根付き存在する。それに対しどうしたら良いのか」と言うのが出てくると思います。

今回はそれを説くために書いたわけです。



本当の仏教では説かれていない「お盆」
では、説かれてないから「何もしない」と言うので良いのか?と聞かれたとします。

その答えは???



これは2つあります。1つは「何もしない」もう1つは「自分が説く推奨スタイルで往なす」です。
このどちらかで良いかと思います。



まず簡単なのは先の「何もしない」です。
これは後にしてもう1つの方の「自分が説く推奨スタイルで往なす」から説明しましょう。



これは「何もしない」よりは行っているので面倒といえば面倒でしょうが、巷に広まった行為に添うものですから過去に行ったことが有る人なら、そんなに面倒ではないはずです。



この行うのは巷に有るようにお墓や仏壇に参り、先祖を偲ぶというのを行うだけです。
いわゆる「お盆には実家に帰り、お墓や仏壇に参る」と言うやつを行うというやつです。



なんだ。これだと別に巷で行っている皆がやっているやつと同じじゃねーか。
そうです。行為的にはそうなります。
ただ、自分がこれに付け加えたいのが「別にお坊さんを呼ばなくても、お経も何も上げなくても(お盆供養としての儀式をしなくても)いいよ」ということです。



そういうと「あれ?そうなるとただ自分らや子孫らが集まってお墓や仏壇に参って、後は会食なんてのしか残らなくなるけどいいの?」と言う方が居ます。
そうです。それで良いのです。



つまり本当の仏教の説く「先祖供養」と言うのは「先祖を偲ぶ行為」というのが「供養」なのです。

巷に広まっている「お坊さんを呼んで恭しく宗教行為~お経などを読み上げて貰う」のが「先祖供養」だと思っているようですが、それは違います。
お坊さんのやっている行為は後世の人たちが作り出した「行為」であり「概念」です。

ちなみに仏教の根幹である阿含経には「お盆にはこうしなさい」などと言う内容や記述は一切ありません。
つまり仏教の教えは違うところにあり、巷にある内容は嘘が多いというのがこれなのです。

これを易しく端的に言っているのが自分の説明であり、それが「巷には嘘の内容が多いよ」というのがそれです。




だから本当の仏教の内容から言うと先祖供養には時期は関係なくいつでも良い。
また内容はと言うと「先祖を偲ぶこと」ですから、別にお盆に実家に集まってどうのこうのしなくても別に構わない。



それこそ仕事や生活の都合で「実家に帰れない~お墓や仏壇においそれと簡単に参れない」と言う人だって多い場合もあります。


そうなるとお盆の時期に供養が出来ない・参れない人は「先祖供養が出来てない人」もしくは不遜者ということになります。または供養失格者と言っても良いのではないか。
極端な物言いですが、そういうことにも繋がるのではないか。




ですがよく考えてみればそういう人を蔑むような考えや言い方は「変」であり、おかしなものだと気づくはずです。
お盆の時期に皆がやる行為が出来ない。それでそのような言い方をされたら気分が良いでしょうか?
そしてそういうものを強要する宗教ってどうよ?と思いませんか?



むしろ逆で「供養は貴方たちの姿勢や考えが大事であって、基本は先祖を偲ぶことですよ」といわれたら、どうでしょうか?



私はそのほうがずっと気が楽だし、イージーな感じが好きですね。
そして普段参れない人が何年か越しに実家のお墓や仏壇に参って手を合わせ先祖を偲ぶ。これで良いのではないか。そのように思います。
そこにお坊さんや何かが無くては成らないのではなくて、先祖有っての自分が居る。先祖を懇ろに思う気持ち。これが大事だよと説く。
そっちの方が実は本当の仏教の説いている内容だよ、といわれたら、嬉しくなりませんか?


私はそのように感じましたね。




ただ、確かに私も最初は巷の概念や阿含宗の嘘に絆されていましたから、本当の仏教の内容には「それだけで良いのか?」と凄く違和感が生じた。
毎日ご宝塔に勤行を行い、回忌やお盆などには特別に専用の「お次第」を以って供養を捧げたものです。


それが「偲ぶだけで良いよ」といわれたら、ほぼ何もしないのに近いのですから「カクッ」ときます。
それこそ行為的には「黙祷を捧げる」のと同じわけですから、凄く違和感が出た。


だが、意味を知り実際に行うようになってからは、違和感は消えました。
むしろ自分たちが過去からやっている行為~お坊さんを呼んで云々~は「要らなかったんだな」とよくわかった。




何も知らなかった頃から思ってたんですよ。
いちいちお坊さんを呼んで、尚且つただ呼ぶだけでは済まない。

お布施も用意し、供物もそれ相当用意せねばならない。
そしてやはり一番苦痛なのは「法要の間の我慢」です。

訳のわからんお経を聴かされて、尚且つその間我慢せねばならない。
まあ、せいぜい30分くらいの我慢だから大したことはないが、自分が一番思っていたのは

「この行為で本当に先祖が喜んでいるのだろうか」

ということでした。




私は先祖供養がしたくて阿含宗に入ったんです。ですから何の供養的行為をするにも「先祖が喜んでくれるために頑張った」わけです。



ところがそれが無い。もしくは得れないとなれば何で行う意味があるか、です。
尚且つ手間も金も掛かるわけです。



そして阿含宗を長年やった末に判ったのが「本当の仏教」でその内容を知ったら阿含宗もそうですが、在来仏教さえも「嘘だらけ」だという事実でした。
だから阿含宗も辞めて、なおかつ先祖に対しては「偲ぶ」で通した。


そういう感じですね。



だからお盆に休みが取れないとか、おいそれと実家のお墓や仏壇に参る暇が無い、と言う方も入るでしょう。
そういう人は別にお盆でなくても日ごろ先祖を思い偲ぶ、で良いのです。

またはお盆と言う時期に際し、普段偲ばない人も偲ぶということをして見るのも一考です。




そして後で述べるとしていた「何もしない」はこの部類に属します。



実家に帰れない。又は巷にある認識や行為さえも出来ないという人は「何もしない」に自然的になっているわけです。
だから、したくてしているわけではないが「何もしない」もありといえばありなんです。



また例えば本家筋でなくて自分の家には墓もないし仏壇さえも無い、と言う方もいる場合があります。
そういう方も当然「何もしない」スタイルになっているではないですか。



だから恭しく何かをするのが「供養」ではなくて、元々本当の仏教では「先祖を偲ぶこと」が供養となっているわけですから、誰でも出来るしどこでも出来る。
お金も掛からず物も不要。自分の体1つで念じるだけですから簡単です。



だから特段「何もしない」で良いし、したとしても「お墓参りや仏壇に参る」でOKなのです。
そしてせっかく遠方から親戚一同が集まったのなら、会食しながら話をするとか懇談をする。
そういう機会が「お盆」ということじゃないのでしょうか。



今では昔ほどお盆だ正月だと固執する方も減りましたが、巷的にはまだ強く残っているものです。
丁度この時期に今年も参りましたので、説かせてもらった次第です。



本当の仏教の供養は「偲ぶこと」これを念頭に置いてもらって、貴方もどうぞ偲びつつお盆をお過ごしください。

それでは、また。

運命について考えるー因縁解脱と運命変革

2018-07-23 03:50:13 | Weblog
因縁解脱という語と内容に惑わされている、またはそれが出来ると信じている人がいます。
かつての自分もそうでしたが、そのことを信じるがためにエセ宗教に騙されたわけです。

逆を言えば「信じなければ騙されない」わけですが、ではそういうように行けば事が簡単に済みますが果たしてどうなのか。
単なる「疑い深く安易に信じない」というスタイルでいれば、本当に騙されないで済むのか?です。

そこのところを含め、考察して行きたいと思います。


まず「人は信じなければ騙されない」というのはあまりにも単純です。単純ですが、ある種事実でも有ります。
そして基本はそうですが、案外「信じなかった人も騙されるに至る」という場合も中にはあります。

それについては「ほら、信じるから騙されるんだ」といえば事は済みます。ですが、どうしてそうなったのかを考えるまでには至っていなかったりします。


そうは言ってもいろんなケースもありますから、ここでは多くある例を取り上げてみましょう。



一番多いのは「その人が持つ弱点」もしくは「藁をもすがりたくなった状況からの信じ込み」の場合が多いようです。

つまり普段は「何だそんなもの」と往なして取り合わない。信じなかった人が、あることをきっかけにころりと信じてしまう。
ここがネックとなって騙されるというのが圧倒的に多いようです。



だからそれに対し「絶対に信じるな」を通して行けば良いのでしょうが、そう行かない人もいます。
そこが難しいところでもあります。



ただ、自分はこうも考えます。
運命って何だ?どういうものであってどうなのか。そこを知ればそれについての騙しは回避できるのではないか。
そう思ったわけです。


また実際過去に信者だったときに「運命を変えることの出来る論」としてあったのが「因縁解脱」なわけです。
尚且つそれが出来ると言ったのが「お釈迦さま」というので信じたという。


ですが、ちゃんと調べたらお釈迦さまはそういうことは言っていないのに気づきます。
そして気づいたのが騙されてから20数年後という酷い有様だったわけです。



だから騙される前にちゃんと真実というか肝心なところを知っておけば、騙されないで済む。
単に「信じなければ良いだけのことだ」と言うのではなく、相手が騙しに来る内容を判れば別段「疑いの眼」でいなくても避けれる。
そのように思ったわけです。



では、そこを見て行きましょう。



因縁解脱の論の始まりは「仏教及び宗教が持つ神秘性・不思議な力により運命を変えれる」という思考からなります。
そして、その始まりを追えばこういうのがある。

人は生まれてから死ぬまで様々な人生を送ります。
嫌なことや良いことがランダムに絡み合い、その中で生涯を終える。

良いことは放っておいても問題は無いが、問題なのは「悪いこと」の方です。


その悪いことも些細なものであれば問題は無いが、これが度を越す、または酷いとなれば誰だって嫌に違いない。
そしてできることならば、この悪いことをどうにかできないか、と考えるものです。



それに対し普通は「どうにもできないよ」とするか「頑張って克服するまたは耐える」というような姿勢があります。
これが自然な形であり、誰もがすることでもあり、又は受けるしかない状況です。



ただ、そこで「その受けるしかない状況をどうにかする・できる」としたのが「因縁解脱」なわけです。
まあ、因縁解脱といわない教団や宗教では「奇跡」とも言いますから、そのようなことで人生上での危機を脱する、または消滅させることが出来る。
だからこそ宗教は素晴らしいのだ、と謳う訳です。



ですが、因縁解脱というのは仏教で語っているように見える語ですが、実はこの語は「造語」であり仏教にこのような語はありません。
またお釈迦さまも因縁解脱に対しての内容は一切説いていません。


つまり因縁解脱を説く宗教や教団がもしあったとしたら、それはその教団が「勝手にそのような内容を言っている」ということと「偽仏教である」ということです。

だってお釈迦さま自体がそういう語や内容を説いてないのですから、嘘ということになります。
また仏教では戒があり、その中に「嘘をついてはいけない」というのがありますが、それを破って付いたことになる。

それでは戒を作った意味もないし、お釈迦さん自体が「嘘つき」になります。そういう馬鹿な話は無い。


ましてや因縁解脱の発祥を追えば、お釈迦さまが亡くなってから何千年も経った後で日本の新興宗教の教祖が作ったものと言うのがわかっています。
つまり「後世の人間が勝手に作った概念と語」ということなのですね。

ですから如何に仏教用語のように感じる語であり、内容に見えるが実は「仏教ではない代物」ということなのです。



そしてお釈迦さま自体が説いたのは「因果応報」又は「因縁果報」というもの。縁によって起こるということで「縁起の法」とも言われているものです。
いわゆるこれがよく聞く「因縁」というやつです。

この因縁には良いものと悪いものがある。
これがどうして生じるのかというと自分の中にその果報が生じる因があり、そしてそれに対する縁を持っているのです。

この両者が出会い熟した頃に果報となって自分に現れるのが「因果応報・因縁果報」というものです。
つまりこれは真理であり、物事が起きる法則であり道理、なのですね。それをお釈迦さまは説かれた。



だが、この因縁には「良し悪しの区別が無い」ことがあります。
つまり良し悪しがあろうが物事の発生や終了まで法則の通り起きるシステムですから、良いも悪いもない。
因果が生じれば縁があればそれが起きる、という風に進むわけです。


そしてそれを止める、又は消すことができないこともお釈迦さまは説いています。
因果が生じたらそれを受けるしかない。そのように説かれている。


例えば良いことの因果が沢山あって「もういいよ」と本人が望んでも、それを止めることは出来ない。
まあ、そういうような奇特な人はいないとは思うが、これが道理なのだから仕方ない。




一方、悪いことも同様で「何でもするから消したり減らしたり出来ないか」としても駄目なんです。
過去に散々話しましたが、お釈迦さまのお弟子さんたちもこの因果により不幸な亡くなり方をした方がいます。

もしも宗教による力などで何とかできるのなら、とっくに回避・相殺していたでしょう。
ですが実際は「しなかった」 それは「できないから」です。受けるしかない。



そうなると運命と言うものはあってもそれに対し「甘んじて受けるしかない」のですね。
そしてお釈迦さまはそれを説いた。



で、因縁解脱なるものは一切説いていないわけです。




わかるんですよ。生きていれば確かに良くないことがあり、その程度も酷ければ何とかしたいと思うのはある。

だが、真理を超えて調整が出来るのなら、とっくに今までの人でそれを成しているはずです。
またそういう人はお釈迦さまも超えているだろうし、お釈迦さまも説き忘れ、もしくはミス、と言うことになる。


そんな馬鹿な話は無いわけです。




キリスト教ではこういう風に説いていますね。



「神は試練を与えたもうた」



つまり悪いことはこれは「神様からのテスト及び試練であって、貴方はそれに対しチャレンジすべきだ」ということですね。



私は個人的にキリスト教は好きなのですが、どうも数点納得がいかないものがあります。
そしてその中の1つがこの言葉と意味なのです。



なんで自分が望まないのに一方的に与えられるのか。神様ってそんなにエラくて傲慢なのか?と。

こっちとすれば別に頼まないのに「ほれ、試練だよ」と苦難を与えられる。これはたまったものではありませんよね。



だから私からすれば神様は「随分性格が悪く意地が悪いんだなあ」としか映らない。
なのでキリスト教に入り込めなかったというのがあります。



ですが、これを「運命」と言う観点でみてゆくと、また違ってきます。




つまり言葉で言っている「神は試練を与えたもうた」は神様が試練をなすりつけた、又は私たちにポイと放り投げたのではなく
「その人が生きている間に受ける事項が発生した」だけであって、神様はそれを克服できるか、またはどのように対処するかを見ておられますよ、と言う意味なのでした。


つまり宗教(宗旨・宗派)が違えども、真理は同じなんだと。



この世に生まれて死ぬまで起きる様々な事は別段「試練」でもなんでもない。
ただ単にその人が受けるべき事項が発生して起きているのであり、そのシステムは仏教の説く「因縁」=縁起の法、なわけです。

キリスト教では仏教のように説いてない、というだけで、ではどのようにすべきか?というとキリスト教でも仏教と同じく「その人が受けるしかない」というのです。

試練でありそれを克服してみなさい、と言うことを言い、逃げなさいとはいわない。つまりは「試練と対峙しなさい」とでも言えばいいでしょうか。
どこまでもその苦難に立ち向かいなさいというのです。

つまりその人の身に現れるものはその人の因果であり運命である。それに対し「受ける」ということが人生なのです。
仏教も、キリスト教もなんてことは無い。同じ事を言っているんだよ。そのようにわかるわけです。


ただ、それに対し余計なことを付け加えたのがあの言葉(試練を与えた)だったわけです。

だから試練もクソもない。ただ受けなさいで良いのですね。




そしてキリスト教は因縁解脱論みたいなことは言いません。
神様に祈れば試練は消えますよ、とか何とかできますなんて言わない。

だってそういうことを言えば「試練」なんてのは嘘っぱちになってしまいますからね。
だから「説かない」




キリスト教の良いところはエセ宗教のような「運命を変えれる」とか「どうにかできる」と言わないことです。
ただひたすら「貴方は耐えなさい」とか「克服できるように頑張りなさい」とは言うが、依存をさせない。
ここはある種「素晴らしい点」だといえます。



一方日本にある仏教系とかの教団及び日本に多い教団の大半は「悪い運命をどうにかするために講じなさい」としていろんな行為をさせるのが多い。

これは全て仏教の・・・というよりも、日本の古来から有る宗教の「神道」にも原因があるように見受けます。



それがよく聞く「お百度参り」が有名ですね。後は祈祷などの儀式もそうです。



神に祈りを捧げその神通力や宗教の持つ不思議な力で運命を変える。そういう示唆が新興宗教の持つ特色や売り、となって展開をしているわけです。
これが神道だけに留まらず、仏教寺院でも・・・とやりだしたのでしょう。

だから今では神道教団というよりも仏教教団で説いているのが多い有様です。
そして神道よりも後発の仏教・新興宗教教団が言った因縁解脱と言う論が普及してしまった有様です。

だって在来仏教教団はほぼ「因縁解脱」というのは言いませんからね。



中には稀にお坊さんが何を勘違いしたか自ら「因縁解脱論」を言う方もいましたが、本当に稀です。
特に自分の家の宗派である「浄土真宗」では、一切因縁解脱なんて言いませんね。




当たり前です。浄土の世界にはそういうものはないし、お経にも書かれていませんから説きようが無い。
また他の宗派もそうです。法華経にも大日経にもその他仏教のお経を調べても「因縁解脱」については書かれていないから説くほうが変です。



だから因縁解脱を説く人や教団が有ったら「どのお経に書かれているか。またその箇所を示して」といえば困るのは相手側です。
せいぜい述べても屁理屈や勝手解釈だけです。絶対に出てこない。



だから因縁解脱なんてのは嘘っぱちだというのです。




運命ってのはあるとは思うんです。そしてその「ある」というのは「ものの道理」であって縁起に他ならない。
そのことが人生上でいろんなこととなって現れる。その様を総称し別称したのが「運命」というだけです。



私も過去を思い返せば、阿含宗では「運命と宿命」というのを習ったし言いもした。
だけど、そんなもの「クソ食らえ」です。



ものの道理は真理であり、物事の起きる法則です。
だからそれを運命だろうが宿命だろうが言うのは勝手だが、法から見たら「なんだそんなもの」です。
運命も宿命も関係ない。己の身に起きるもの。そのこと全てが貴方の因果なのだ。それだけです。



だからお釈迦さまが最初から説いているように「悪いことをするな。良いことをしなさい」というのが真理であり正解です。

良いことは良いのだから何もすることは無い。悪いことはできれば起きてほしくないし、受けたくも無い。
ならば、その後々受けたくない報いを受けるようなことは最初からするな、と言うのは当り前です。
悪果=悪い運命の種を作るな、というのが、お釈迦さまの説いた言葉と内容です。


因縁解脱なんてのは説いてません。運命も然り、です。


小学生でもわかるように説いているのですから、エセ宗教の謳い文句や内容に絆されずに、毎日を大切に生きてゆきましょう。


今回はこれで終わります。

質問に答える 阿含宗とオウムとの違いについて

2018-07-13 18:23:27 | Weblog

前回書いた記事を知り合いがみて「阿含宗とオウムの違い」についてもう少し詳しく書いたらどうか、と言うのを提言されました。

なので、そこの辺りについて追記になりますが、書かせてもらいます。



まず、何も知らない人から見れば記事からは

「オウムが阿含宗を模倣した、と言うのは判ったが、では阿含宗と言うのはオウム以上の凄いところだったのでは?」

そのように思う方も居ると思います。



答えを先に言いますと「そうではありません」

ですが、これだけだと当然中身はわかりませんから、述べてゆきますね。



まず、オウムの麻原が阿含宗を模倣したというのは事実です。

阿含宗の教団内に来て様子を見、また阿含宗教祖の本なども読み、阿含宗の教義やら内容と言うものを調べた。

当然ですよね。阿含宗がどのような教団でどのような方向性や特色を持つか。尚且つ当時はかなり人気を博していましたから、学ぶ点はあると睨んだ。
なので、阿含宗のどこに良さがあり、真似る点があるか。それを得るために阿含宗を麻原たちはチェックしたわけですね。

尚且つオウムへは「阿含宗から流れてきた信者」も多数いましたから、その人たちにも聞いたりしたのでしょう。
そして、阿含宗の持つ「良さ」を取りいれ、行った。その結果、オウムも徐々に勢力を拡大していった、というのがありますね。



ただ、押さえてほしいのは「阿含宗の全てを模倣したのではない」ということです。

つまり、麻原は阿含宗から欲しかったのは「教団が発展するセオリー」やら「やり方」が欲しかっただけで、後は要らなかった。
ノウハウや「こうすればうまく行く」というやつが欲しかったのですね。だから阿含宗を全部真似ることはしなかったわけです。

というか、真似てもしょうがないですよね。だって麻原は、桐山靖雄とは全然思考回路も性格も違いますし、方向性も違った。
だからオウムは「犯罪教団」になり叩かれて、阿含宗は「ほぼ平穏」で現在も継続している有様です。両者は全然進み方も存在も違っている。

これは中身と経緯を知れば、ごく当たり前なのです。



まず、阿含宗~桐山靖雄を見て行きます。

これはこのブログを見ている方は承知のことですが、桐山靖雄というのは自分の欲望を叶えたくて宗教法人を興すに至った。
宗教法人のTOPになり、人よりエラくなり人を操作し、地位も名誉も権限も得られる存在になりたい。勿論金も得て、もあるでしょう。
つまり宗教と言うものを利用して、自分のエゴを満たしたかったといえるわけです。


一方、麻原もエゴはあります。そうすると「両者エゴがある」と言えるのですが、エゴはエゴでも同じではなかった。
麻原は最初は桐山靖雄のように多少のエゴであったと思うのです。それが段々酷くなって悪い方向へ傾いていった。
つまり、世界までを自分のものにするエゴ。オウムこそが世界の頂点に立つべきものへ。そのように思い・進めていった形が酷くなってゆき、最終的には「人を殺してもいい」というものになった。


桐山靖雄は過去に犯罪を犯してムショに入っていますから、また何か企てて再度ムショへ、というのは避けていた。
というか「二度と入ってなるものか」という気持ちや考えはあったと思いますね。

だから犯罪スレスレ、及び犯罪をしていると思いにくいような所業で往なす。そのようにしていたわけです。



また麻原のような「世界を牛耳る」とか「世界のTOPに」と言う考えはなかったようです。



まあ、阿含宗が発展する関係でそのようになれば良いとは思ってはいたでしょう。
しかし、阿含宗より大きい「創○学会」でも「世界を牛耳る」までは行ってないので「できないだろう」とは思っていたかもしれない。



とにかく麻原と違って桐山靖雄は、エゴはありながらも逸れに逸れた考えまでは持っていなかったと推測できますね。
それが大きな差となり、方向性も違ったし結果も違ったということですね。




桐山靖雄はまたかなりの妄想家でもあった。サイコパスでもあり、自己愛が強すぎて自分のことや利益しか考えない人でした。
教祖や権力者に良くありがちな傾向であるとはいえますね。


しかし、麻原は桐山靖雄とは違い、その妄想も欲望も違った。
いろんな考えを妄想し展開するのは両者似ているところがあるが、唯一違うのは麻原の場合は対象者が外部であった点です。



例えばオウムを滅ぼそうとしているのは悪の手先である。そしてその悪の中にはアメリカもあり、日本警察なども入っていました。
だから、そういった存在も「オウム憎し」で潰しに来るんだ。殺人兵器などを用いて、オウムを壊滅させに来るんだ、なども言っていました。



また当時は1999年前と言うこともあり、世紀末(終末)論もあって、それも麻原独自のものを述べていて、それに対して「オウム信者を奮起・鼓舞させるような指導」をしていたのも事実です。
つまり、いろんな考えや妄想が酷くなり、それが段々度を越えていったのと、筆すべきは「実際的に行動に移した」と言う点です。





例えば同じ妄想を言うにしても阿含宗の場合は麻原のような度は無い。
また阿含宗の場合の世紀末(終末)論は「霊障と悪因縁」で説いていたため、オウムのような外部への示唆や考えと言うのは無かったのですね。



オウムも教団内で思う・語る分には良かったのでしょうが、その考えを「実行するに至った」のが破滅への道になりました。
サリン事件やその他教団外の人々に対して、また社会に対して興した悪事のことなどです。



化学兵器である「サリン」や「VXガス」などを製造し、また使用するに至りませんでしたが拳銃などや戦争に使うような武器らを製造もしていた。



だからサリンに留まらず、戦争をおこす考えを麻原は持っていたし、それを信者ら教団らが行うということになっていた考えは本当に愚かであり、程度が酷すぎる。
尚且ついち教団がそういう破壊行為をしようとするというのは、誠にとんでもない考えと行動であったわけです。




ですから、そういう考えを持つ麻原オウムと、あくまで宗教詐欺から足を出さない「桐山靖雄~阿含宗」とでは、結果も中身も違って当然、となるわけです。
これが先に言った「違いますよ」という中身です。




桐山靖雄もエゴは持っている。麻原も然り。
だが、桐山靖雄は「宗教詐欺のエゴ」麻原は「世界制服のエゴ」となれば、自ずから道は違ってくる。





なので、オウムが真似た教団なんだから、阿含宗も怖くね?と思うのは判りますが、全然です。
オウムから見れば、阿含宗など「井の中の蛙」みたいで怖さは感じない。




しかし、タチが悪いのはあります。それは如何に世界征服の考えはないまでも、人を騙すのは犯罪であり、良くない行為です。
ましてそういうことをするのが宗教であり、本当の仏教の教団というのですから、話にならない。




また余談ですが、阿含宗を模倣したのは「オウム」だけではありません。法の華三方行という教団が昔ありましたが、その教祖も阿含宗を模倣したといわれています。
そしてある程度まで隆盛したが、教祖がヘタこいてムショに入りましたね。それがきっかけで勢いは下降しました。



まあ、模倣を言えば阿含宗も真似た教団はあります。阿含宗もある新興宗教を真似て(しかも一箇所ではない)作り上げたのが「阿含宗」です。
厳密に言えば「観音慈恵会」でしたが、後に阿含経を依経とするのもあって教団名を変えて「阿含宗」になりましたが、その「観音慈恵会」は数種の新興宗教を模倣し基盤を築いた。



だから完全オリジナルってのは意外と少ないのかもしれませんね。
どこの教団もどこかの教団の模倣から入っているのでしょう。



皮肉なことに法の華の教祖も、麻原もムショに入っています。
教団が大きくなってから入ってないのは「桐山靖雄」です。
(桐山靖雄がムショに入ったのは観音慈恵会を開いてから間もなくの頃です)



桐山靖雄は非常にプライドが高く、出所後はかなり用心深くしていたようです。
なぜならムショを出て後にせっかく成功してもまたムショに入ったら話にならない。


だからお縄にならないようにと気をつけていたのでしょう。



一方、福永法源も麻原も「ムショ」に入ったのは「隙」でもあり、「ミス」でもあったと思います。




でも、肝心なのはムショに入る・入らないではなく「何を以って行動をしているか」です。




ムショに入らなくても詐欺的行為をしている人や教団は山ほど有ります。
オウムばかりが悪くて他は悪くない、ではないのです。


ましてやオウムは解体されて形は無いですが、麻原の持っていた内容や意思を継承している団体はあるのですからね。




そういうわけで、この説明は終わりです。
ぜひ、皆様の一考に役立てられたら、と思います。

若い人は知らない「オウム真理教の過去」から考える

2018-07-08 08:13:14 | Weblog
先日、過去にわが国日本に存在した「オウム真理教」という新興宗教教団がありました。
その教団が非常によろしくない行為をしたことで教祖及び信者の一部の人たちが逮捕され、その人たちの7名の方に極刑が成されました。

このニュースはTVなどで何回も放送されたので、ご存知の方が多いとは思いますが、相当年齢のいっている方なら「あの事件か」と判る方が多いのですが、
比較的若い方は「何のこと?」と言う感じで、あまり実感や深い内容を知らない方がいると思います。

また特に自分が言いたいのは「オウム真理教」はただ単に「新興宗教を作ろう」として出てきた教団ではないことがあるために、非常にそこを危惧します。


なんでかというと、実はTVではほとんど放送されないことですが、実はこの「オウム真理教」は『阿含宗を手本にして出てきた教団』なのです。
だから特に危惧し、懸念するのです。



この事項を知る人は意外と少ない。
ましてや事件はTVなどで報道するが「オウムの発生(模倣)元は阿含宗」というのをいいませんから、報道には出てこない。
なので、オウム真理教が過去によろしくない事件を起こしたことでタイホされ、教団が解体されたのはわかっても、その教団発生の元、と言うのまでわかる人は少ない。



では、なんで天照が「それを知っているか」ですが、実は過去に私は当時「阿含宗の信者」だったので良く知っているわけです。



厳密に語ると物凄く長くなるのでそれは致しませんが、おおよそで語りますと、オウム真理教の教祖「麻原彰晃」はまずは神秘世界なるものに興味を示し、自分で色々模索した。
その経緯で自分自身が宗教色を持つようになり、細々と展開をしていたようです。

ところが当時いろんな宗教が発生していました。その中に当時TOP注目を浴びていたのが「阿含宗」でした。
その阿含宗に麻原は当然注目をするわけです。

その結果「この教団のやり方や方向性は人を集めるのに適している」と感じ、模倣します。
その企みは見事に当り、物議を醸しながらもオウム真理教はどんどん拡大してゆきます。


ただ、完全に模倣するわけではありませんし、オウム真理教自体のもつ方向性も阿含宗とは違いますから、展開は変わってゆきます。
どのあたりの違いかと言うと、阿含宗は仏教を基軸に置き、在家のまま成仏を目指す、という方向性です。

ところがオウム真理教は「出家して成仏」というのと、仏教だけではなく他の宗教のものを取り入れているので非常にごちゃ混ぜな内容となっています。
これらが大きく違う点ですね。




ただ、オウム真理教が大きく発展したのはヨガをベースに置き、超能力開発を打ち出した点が若者に受けたのもあります。
そして阿含宗でも超能力開発を出してもいました。

しかしながら、阿含宗は中々その方法を教えない姿勢でいました。
一方、オウムでは「すぐに教えるぞ」という有様でしたので、そこに興味を持つ人が押し寄せ、また阿含宗にいた信者も阿含宗を辞め、オウムに移った人も居ました。

だからオウムの信者で逮捕された信者の中に「元阿含宗信者」がいるのはそのせいです。



つまりオウムでは真理を求めるといいながら、信者を操作する形になっていたのですね。
絶対的な存在になっている教祖麻原が何でも掌握し、その判断に従う状態に成っているのです。

尚且つ麻原が狂った思考を持っているので、そのせいで教団がおかしな方向に進みます。
その際たるものがオウムが過去に起こした数点の事件なわけです。

(これらは語ると長くなるので、皆様ご自身で調べてください)



これが「たられば」になりますが、麻原が純粋に真理を求め変な行動を起こさなければ、まだ存続していたはずです。
ところが麻原自体が精神を病んでおり、尚且つ性格が歪なため道(方向)が逸れてしまったわけです。

過去の世界大戦などもそうですが、人々を先導する人物らが狂っている、又は異常であればあるほど道が逸れます。
それと同じように教祖らが道を逸れると、信者もろとも逸れる、と言うことがおきます。

オウムはその状態になったと言うことですね。




ただ、ここで少し言いたいことがあるのですが、最も酷い形になったには確かにオウムの姿ではあります。
しかし、下手をすれば「どこの新興宗教でも、その逸れる可能性はある」ということです。



なぜなら、そういったオウムのようなことは起きていない・起こしていないだけで、もしこれがどこかの新興宗教の教祖が「イカレてしまってたら」どうなるか?



世の中には正逆の世界があります。

例えばお金を貯めるのは大変ですが、お金を浪費(使う)のは簡単です。
ギャンブルなんかに賭けてしまえば、あっという間に無くすことは可能です。

真面目に生きることは大変ですが、グレるのは一瞬でできます。


そういうことと同じように「狂気を持って悪さをしよう」と思ったら、いつでもできます。
そして教団のようなところのTOPにいて権力や影響力を持ったらどうなるか・・・



またこれは私がいつも言うことですが、教団の大半は「嘘の教えを説き、人々を騙している」のが多い。
これはオウムから見れば悪の程度は低く見えますが、だからと言って「良い」訳ではない。

人を騙す、ということは「詐欺」なわけです。そして騙しているのは「信者」なのです。
つまり信者を教団が食い物にし、操作しているということです。



これはオウムのような犯罪とは違っても、犯罪であることには違わない。
ただ、オウムのように社会犯罪をしてない、というだけです。




日本人は外国と違い「無宗教の人が多い」といわれています。
しかし、私は「変な宗教にかぶれて損をしたり騙されるくらいなら『無宗教の方が良い』と思う」ようになりました。



それは阿含宗での経験・学びから得たものです。




数ある宗教の中から阿含宗を選び入信した。その結果「騙されたこと」に気づいた。

宗教は阿含宗以外にも多々ありますから、例えば阿含宗をやめてもマトモなところぐらいあるだろう。
そう思って調べたら、意外と無かったのに驚いた。



別に「宗教が無くては生きてゆけない」という心でもからでもなかったですが、まあ阿含宗を長年やっていましたから、辞めたら「どこかにちゃんとしたところがあるだろう」
そのように思って模索をした。ところが結果は「ゼロ」だった。


これはかなりショックでしたね。



そうなるとそこから出てくるのは先に言った通りの言葉の


「変に宗教にかぶれずに無宗教がいいや」となるのは当然です。


別に無宗教になったら死ぬ、訳ではありませんからね。





仮にオウムのような宗教に属してないとしても、やはり教団からの指図があったり何らかの損失はあるわけです。
在来仏教に属しても、やれ何とかといってお布施やら供養でお金を出さねば成らぬ。


それが無宗教なら「ほぼゼロ円」ですからね。



そして仏教で言うならお釈迦さまの本当の教えを知るには、僅かなお金で済みましたし、尚且つ知ってしまえば後はゼロ円です。
講じるにも記憶するにもお金が掛からない。これは本当に目から鱗でした。

そこで「ああ、本当の仏教っていいよね」と思った。




お釈迦さまがあれこれ金銭を要求したり、変な教えをさせるはずがないのですよ。
させるのは「嘘の教え」だからさせるでしょうし、それで「あがり」を貰うところが出てくる。
これが今巷にある「宗教ら」の姿です。



私は阿含宗を辞めてからそのスタイルでいます。そして非常に健やかです。



オウムは何をやったか?
いろんな宗教の教えをごっちゃまぜにして訳のわからない宗教のまま、教祖のエゴや狂気を実行してしまった。
他人様を傷つけ、殺し罪を作っただけです。

これは真理を説く教団のすることですか。
そして真理がそういうものを説くのか。



オウムは実際無くなったから今ですと「アーレフ」に成るのでしょうが、それらの派生教団は皆「麻原の考え」に基づいて未だに行動しています。



いいですか?教祖の逸れた考えが教団(オウム)を滅ぼし、人々を殺傷し、信者も不幸にしたわけです。
尚且つ、教祖や教団の考えに逆らえば「ポア」されたわけです。やらないわけにはいかなかった。

オウムにいて理性や常識・良識を持っていても、それが機能させられなかったのですよ。



無理やり犯罪の片棒を担がされて犯罪者になってしまった。それが宗教教団のすることですか。



派生教団では「ヨガ」をベースに色々言葉巧みに信者を集めています。
単なる「ヨガ道場」ではないのですよ。



そして麻原がいなくても教団内では麻原の教えが未だに根付いて密かに続けられている。



だからヨガをやるならオウムに関係ないところに属しなさい。
また宗教を説くヨガ教室には「行くな」です。




また宗教云々にかぶれる人にありがちなのは「真理がどうの」というやつがいることです。


私からすれば「真理がどうの、と言う前に、人間としてまともに生きれよ」といいたい。



真理を知るには正しい教えを知れば事足ります。
それはキリスト教でも仏教でもあります。そこで真理を学んでしまえば後は要らない。
おのおのがその真理を心に刻んで、後はその人がどう生きるか、です。



実際生活の中に真理なんてさほど役に立たない。
むしろ、真理の逆の影響を受けて、苦労する方が多い。



それこそ真理だのほざくまえに、仕事を如何にきちんとやるか。
ミス無くこなすか。生活を豊かにするか。有意義に生きるかの方が大変です。


真理にかまけてたら、生きる上でストッパーになって生きるのが辛くなるほどです。
むしろ真理など無い方が「生きやすい」




真理など教義と同じで覚えてしまえば後は心にしまっておいて、で足ります。
宗教かぶれや道を求めるなんて、出家してしまえといいたい。
在家で生きるのはそれだけ大変なんですよ。




真理探究がそんなにやりたければ、一人で無人島か山にでも篭ってやってください、です。





宗教は遊びじゃないんです。だからこそそこに「間違い」があってはならない。また間違いを起こしてもならない。
それだけ真摯に・シビアにできるのかどうか。

尚且つ真理探究なら、もっと厳しいのです。
尚且つ仰ぐ主が「イカレて」たらどうするのか?です。




オウム逮捕者の極刑があったことを機に、己のことを振り返って切るのも良いのかもしれません。




今日は、特別に単発で書かせていただきました。以上です。

本当の仏教を知れば、嘘は判る。この強さを知る。

2018-07-01 01:12:22 | Weblog
今まで阿含宗を信仰する人が「このようである」とか「本当の仏教を知らない故に騙されている」と言う内容を飽きるほど述べてきました。

しかし、そのことは絶対的であり間違いではないのですが、どうも響いてない。理解が得れてないというのを最近知り合いから聞きました。

なので基本的なものは同じでも、見方というか見地を変えてみればまた違ったものが見える。もしくは理解が進むかもしれない、というのを感じ、その方向性を進めて行くことを行います。


まず今回話したいのは「桐山氏がついた嘘を信じた故の勘違いループ」です。


気づいたのは阿含宗信者が「仏教とは如何に」と聞かれると多くの人は「因縁解脱」と答えます。
なので、そこを自分が言って「それは間違いである」と今まで述べてきたわけですが、稀にこのように答える方も居ます。


「仏教とは解脱することである。涅槃へ入ることである」


このように答える人が数は少ないがいるのです。



この言葉だけを聞けば「仏教を知っている」と思いがちですが、教祖は嘘をついていますから肝心のところで間違える。
そこに気がつくかが「騙されている」の判別がつくところなのです。


では、その中身を見て見ましょう。


仏教はいつも自分が言っているように仏陀になって涅槃へ入ることが目的です。
まずこれを述べてきます。

しかし、それを述べてからこういう風に間違った方向へ話をしてきます。
そこを押えておくと、如何に間違っているか、どこが間違っているかがわかってきます。

仏教は仏陀に成って涅槃へ入ることが目的なのだが、それは簡単ではない。
涅槃へ入る前にまず仏陀という存在にならなければいけないからです。

その仏陀に成るためには、様々な修行をするのだがその修行を満了することが出来ないのが大半だという。
なぜか?それは仏教の修行は難解なため、成しえることが難しい。
また成し得るまでの間にその人の境涯や環境の問題。また自身が持つ悪業(過去世からの悪果)のために修行が頓挫するということがあり満了できないのだと説いてきます。

勿論これはベース的な話であって、この話を納得させるために尚も様々な話をしてきたりします。

例えば徳(有徳)・不徳に絡む話。因縁論を出してくる話。先祖供養の話などを出してきます。
これに対し何も知らない人は「もっともらしく聞こえ信じてしまう」と言う場合があったりするのです。

勿論頑なにその阿含宗で教わるところの内容に対し、拒否・反論してくる方もいます。
仏教的に、また理論的に見事に反論してくる人は稀ですが、そこまで出来ないとしても「自分はその考えに賛同できない」と言う形で拒否し、応じないという方がいます。

応じなければよろしいのですが、これがもしも阿含宗の持つ「嘘の内容」に絆されると、やられてしまう。
つまり「騙されてしまう」ということなのですね。これが本当によろしくないといつも私は説くのです。



さて、それらを見て行きますと本当の仏教を知る人からは、面白いほど嘘が浮き上がってきて「如何にも騙されているな」がわかります。


まずは、得意の因縁論です。いわゆる因縁解脱を説いてきます。


内容は色々説きますからそれはそれで説く方も一生懸命なので本当らしく聞こえますが、それに対して暴くことや拒否することも出来ます。
それはいつも自分が言っていること。つまり


「阿含経のどこに因縁解脱が書かれているか。またお釈迦さまが何経のどの部分にでもいいからそれが示されている箇所を説明・示して欲しい」と言えば、相手はそれを答えるために後日回答に保留するか、言葉を濁す・誤魔化すなどします。


要は答えですが、阿含経どころか、どのお経にも「因縁解脱」は説かれて(書かれて)いません。
仏教学的には「創作経典」と言われる阿含経以外のお経さえ、書かれていないのです。


これは誠に不思議なことですよね。


阿含宗ではお釈迦さまの持つ「成仏法」を元に修行をして成仏すると言う。そして因縁解脱を提唱しているのです。
ですが、今度は逆にこちらから

「では、その記述箇所や証拠を見せてください」と言われると、たちまち「出せなく」なります。

今まで熱弁していた「因縁解脱」が急に・途端に示せなくなるのですね。




どうしてこういうことになるかというと、教祖桐山靖雄のついた嘘を「嘘だと知らないで信じきっているから」なのです。
ろくに確認もしないで信じてしまって、教祖の言うことや内容を信じきって「覚える」



覚えたはいいが、今度はその「証拠を出せ」と外部に言われる。すると「じゃあ、それを出しますよ」とすると「無い」のに気が付く。
又は「無い」のを誤魔化すために色々方便をかますしか「方法が無い」のが実情です。



これは私も経験しているので、100%自信を持って言えます。
というか、それを過去に信者だった時期に2chで批判側に言われて「ようし待っていろ。出し示してやる」と燃えて調べた。


ところが調べたら無いのに気づきます。あれえ?変だなあ。
そう思ってくまなく調べるが、欠片さえもないのに気づく。


青くなったのは自分です。相手に「出せ」と言われて「出す」といった手前、引っ込みが付かない。


また、教団の関係物や教祖の著書などをくまなく調べるが、なんと一切その示そうとしているものが「ゼロ」なんですよ。
相手に言われて初めて気づく、という大失態を経験しているのですね。




そして時間を掛けて調べた結果、因縁解脱の示す箇所が全く無いことに気づき、尚且つ因縁解脱を提唱し説明した教祖の言動を確認したら、教祖が因縁解脱を「お釈迦さまが説いた」という風に言っている。
または、因縁解脱の理論を教祖が言っているだけで、お経のどこに書かれていて、という記述は一切無いことに気づきます。

いわゆる「騙されていた」のを知るわけですね。



だから因縁解脱の関係のことを言ってきたら、私が言うように「証拠を見せてください」とやる。


中には「じゃあ、あんたが「無い」と言うのだから、無いというのを見せなさい」とか、学者さんでもいいから「無いと言っている人の意見や文章を示せ」などと言ってくる場合が有ります。

これは全くの言いがかりや変な反論でして、それには取り合わないのがよろしい。



学者さんらでは学術面での物言いはするが、どこそこの教団に影響を及ぼすような物言い。つまり喧嘩でもなるような物言いはしないのですね。



そりゃあそうでしょう。もしも勇ましい学者さんがいて「巷で因縁解脱を説いているところがおありだが、あれは全くの間違い。仏教にそのようなものはありません」とやったらどうなるか?



阿含宗のみならず因縁解脱を説く教団は山ほどあるのですから、そこから叩き上げに遭う。
そんな多数と真っ向から喧嘩するような学者さんはおりません。



本当なら私からすれば喧嘩でもして嘘を暴いて欲しいものですが、そういう人はおりません。
もしもいたなら、とっくに日本からは「因縁解脱」は廃れるか消えていることでしょう。

そのほうが世のためなんですがね。




だから「因縁解脱などない。嘘っぱちだ」と言っている学者さんを示せ、とかその人の書いた文章でもいいから出せ、というのは応じなくていい。
むしろ「因縁解脱と言うのはね・・・」と言ってきた方が示すべきです。だから相手のそういう意図に応じず

「因縁解脱の正当性を述べてきたのはそちらではないか。むしろ有るといっている方が先に示すべきではないか」と言って応じなければいい。

またそれを糧にして「貴方の話は信じられないので、阿含宗の話をするならその因縁解脱が有ることを示してきてからにしましょう」といって切り返せばいいのです。



そうすれば嫌な話はカットでき、断ることができます。勧誘もです。
またうまく行けば相手が教祖に騙されていることに気がつくきっかけになるかもしれません。

これは高望み過ぎですけどね。




後は「徳・不徳に絡む話」やら「先祖供養」の話を出してくる場合がある。

これも教祖の受け売りで、全くのデタラメです。



どうしてそういうことがいえるかと言うと、教祖は阿含宗の内容、又は因縁解脱の理屈を信じ込ませようとしていろんな方便を使っています。
その中のもの(アイテム)ですから、嘘ばかりなんですね。



例えば「徳・不徳」と言うのを見れば、そのために悪いことが起きるとかいいことが起きるなんてのは「お釈迦さまは説いていません」
これも先の因縁解脱と同じで、お経のどこに書かれているかは示せません。

また仏教の要である「仏陀になって涅槃へ入る」のに「徳・不徳が関係する」という記述もありません。
そういうことをお釈迦さまが言うとすれば、お釈迦さま自体もペテン師ということになり、仏教自体も「嘘っぱちの教え・宗教」と成ってしまいます。

仮にそうだとしたら「仏教なんてやらない」方がいいのではないでしょうか?
無宗教だったり、もしも宗教を講じるなら、神道やらキリスト教など仏教以外の宗教で十分ではないのでしょうか?



先祖供養もそうです。特に日本人は昔から親や祖父・祖母など自分よりの年長の家族から受け継がれてきた流れなどがあります。
だから先祖を供養することは大事だよ、というのと、昔からの風習に従い倣う、というのがあります。


で、肝心の「供養は如何に?」となると千差万別であって、宗派によっても形式や行い・内容なども違います。
また阿含宗は阿含宗としてのものもあります。



それらをそれぞれによってやらされたら敵いませんよね。



そして一番の肝心なものは「巷にはお釈迦さまが説いた本当の仏教の示す”先祖供養”の仕方を教えているところは少ない」と言う事実があることです。
だから皆教団によってまちまちだし、言うこともやらせることも違うのです。



ですが、本当の仏教の先祖供養は自分たちの認識と全然違います。むしろ合致しているのは「お盆に家族や子孫らが集まって偲ぶ」と言う行為ぐらいです。



つまり本当の仏教の教える「先祖供養」は大まかに言うと


①故人を偲ぶ
②故人の遺業や生き様に倣い、良き点を学ぶ。又は実行する
③生きている親などは「生きている先祖」なのだから敬い尊む

これらです。


これをみるとどこにも「お経を読め」とか「真言を唱えよ」とか、供物を供えよも無いし、巷で見られる恭しい行為は見られません。



それこそ先に言いましたが、巷で行っている行為と共通するのが「お盆に家族や子孫らが集まって偲ぶ」というやつ。
実家などにお盆だから、ということで家族や親戚など一同が集まって、お墓や仏壇などにお参りし、その後家族で団欒するでしょう?

あの団欒などが「偲ぶ」になるし、また仏壇・お墓で冥福を祈る行為が「偲ぶ」なのです。



だからぶっちゃけ「お坊さんを呼んだり盛大に供物などを盛って」としなくてもいいのです。
仰々しくしなくても、心や頭の中で先祖を偲べれば「供養」になるのです。



例え、実家に行けなくても、墓や仏壇に参れなくても、心は先祖を偲んでいれば「先祖供養」になるのです。



だから私はこの内容を知ったときは「ぶっとび」ましたね。お釈迦さま、シンプルすぎって。




だけど、しばらく考えて唸りました。


「ああ。多くの寺院が色々供養だとお受けするが、それはある種商売になるからなんだな」


そう思いましたね。



だって、そうでしょう?本当の仏教の先祖供養を皆がやったら、今までの常識や風習に関係する寺院や商売になる仕事をしている人らは「商売にならない」



墓石屋さんだってそう。花屋さんだってそう。仏具やさんもそうでしょう。またお仏飯関係やら供物関係の商いの方も売り上げが下がる。
線香やロウソクもあげなくても偲んでいれば「供養になる」んですから、今までのセオリーで商いをしてきた人はたまったものではない。



むしろそれよりも巷の風習に倣い、

「生前故人が好きだったものを供えて上げましょう」とか「回忌供養しましょう」とか「お盆の法要をしましょう」とかしたら商売になる。

そしてそういうものが根付いてしまった、ということですね。で、多くの人がそれをやることが「供養」なのだと思ってしまった。



ですが、本当の仏教はそれは説いていないのです。



尚且つ、在来仏教はまだ可愛い方で、阿含宗の場合はやぶさかではない。



先祖が成仏してないということを語って、阿含宗式の供養をさせようとするからです。これが悪質なのです。



それが「解脱供養」と言う名目の供養を筆頭に様々各種の供養を行わせようとします。これが曲者です。





繰り返しになりますが、お釈迦さまはそういったものは説いていません。阿含宗教祖が勝手に作り上げた「供養」と言う名の「商売」なのです。



だから在来仏教では説かない「霊障」と言うものを持ち出して、供養しないと運気や運命に関わると言い、脅します。
なので、悪質なわけです。




お釈迦さまは霊障なんてものは説かないし、またそういうもので運が悪くなるなども言わない。
仏教はひたすら「仏陀になって涅槃を目指す」のですから、そういう邪道なことは言わない。



一方、阿含宗はオカルトだらけの内容で人を惑わします。またさも本当のような言い分で信じさせようとします。非常に悪質です。




だから先祖供養といって本当の内容を言わないところは皆アウトです。阿含宗はおろかどこの教団もです。



ただ、敷いて言えば阿含宗が非常によろしくない。なので述べているわけです。




というわけで、徳・不徳、因縁解脱、先祖供養色々言ってきますが、どれも本当の仏教の前では「嘘でありデタラメ」なんです。
本当のことを語ってたら私と同じ本当のことを語るのが「本物」なのです。



ですが、阿含宗は教祖桐山靖雄が「人々を騙して儲ける為に作った教団~詐欺宗教教団」ですから、嘘ばかりです。



だからもしもこのブログを読んでいる人で知り合いに阿含宗の関係者(信者)が居る方もいるでしょう。
その方々に入信を迫られ、又は入らないかと勧められているのなら、応じてはいけません。



そして自分が言ったことを参考にして、絶対に詐欺宗教の餌食になってはいけません。



ぜひ、皆さんが健やかに詐欺からの魔の手を浴びず、平和で安心して暮らせる時間を得れるようにと願っています。

今日はここまで。