天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

天照 質問に答える⑤

2017-10-15 04:22:56 | Weblog
【 質問⑤ 】


天照さんや批判側の方たちは日夜阿含宗の欺瞞を伝える活動を行っていますが、その効果があまり無いような気がします。
効果の無さ及び阿含宗の信者さんへの別な伝達の方法を考えてみてはいかがでしょうか。


_________________________


うーん、そういう風に見受けましたか。


確かに行動の結果、効果が絶大で目に見えていればこのような質問は出ないでしょうね。
そしておっしゃるとおり、自分らがやっている行動は外部から見れば「あまり効いてない」となる。



私も最初判りませんでしたが、深山さんやユビさん、また自分が掲示板に参入した当時のラシンさん、青柿さんなどの方が数名の方が居りましたが、その方々の投稿や行動が「どれだけ効いているか」はわかりませんでした。
つまり今回の質問者の方と同じような印象を自分も抱いたものでした。


確かに全国の阿含宗道場にいて事細やかに「批判の効果が出ている」と分かれば、そういう考えも払拭できるでしょう。
でも、仮に自分が阿含宗の関係者であって情報を得れても、本当に批判の効果だと明らかに判別できるのは難しいと思います。


むしろ、自分も行動して判りましたが、絶大な効果狙いや批判楽し、で行動をするのではなく、一番大事なのは何か、ということです。




それは自分としては2つあります。

1つは「いつでも情報を得れるようにすること」 もう1つは「できるだけ継続して情報を伝えること」です。




どっちもほとんど同じなので一緒にしても構いませんね。いつでも誰でも阿含宗の欺瞞を伝えてその情報を得れるようにすること。
こういう風に表現すれば理由は1つになるでしょう。




私が欺瞞を知って「そうなのか」と理解した時に思ったのは色々な想いでしたが、その中にこういうのがありました。



「どうしてこういう大事な情報を早く得れなかったか」です。





またこれは自分がいつも言う事ですが、これも非常に不遜に思う事項です。




人は、特に日本人は何かあったとしてもその事項を口にすることが少なく、黙って終わりが多い場合があります。




例えば会社で悪いことをしている人がいたとします。犯罪までは行かないまでも行動としてはよろしくない。


普通、そういう行動をしている人がいれば上司などが気づいて警告したり指導などをすると良いのですが、それに気づかない会社というのもあります。
すると結果悪い行動をしている人は悪いことをいつも「当たり前」に行って止めようとしません。



そういう場合は上司などに頼らず、直に本人に言って止めさせるとか行動を改善させるようにしたりするものですが、これも会社に依りますが誰もそれをしないところも有ります。
つまり「悪事を知っていながら何も言わずにいる」というのがあったりするんですね。



そこに新しい人が入って悪事を見たり受けたりしてその人に言おうとすると先輩たちが「やめとけ。かまうな」と制止します。



私はこういうのが許せないんですね。






これが「いち会社」として小さな世界ならその会社内だけのことですから、辞めるか我慢すればいいだけで社会的にはそんな影響はありませんが、これが「社会で行われたら」どうなるか?



そう。例えば犯罪者やよろしくない性格の者が何の制御も無かったら、とんでもないことになります。





こと桐山靖雄のような詐欺師がいるのに、何も言わない。
それこそ「ああいう馬鹿にかまうな」と誰も無視して過ごせ、でいたら詐欺の被害に遭う人は今後も出るし、止まないわけです。




そして実際的に世間で「阿含宗はこういうところですよ。桐山靖雄は詐欺師なんですよ」と誰もやらなかったら、自分はどうなっていたか、です。







確かに世の中には「馬鹿は構うな」があり、それを行う場合も多い。
人を批判したり攻撃するのではなく、自分がしっかりしていてそういうやつと関わらなければいいだけだ。そういう風に諭す人も居ます。



でも、犯罪者というか悪事を止めない人は周りが無視したり何も言わなければ「ああ、誰も言わないから良いんだ」と逆に悪い行動を継続したりするものです。

私はそれに対し、それでいいのか、と思うわけです。




確かに自分は警察でもないし裁判所(裁判官)でもありません。だから何か裁いたり懲罰を与えたりできるわけではない。
ただ、悪いことをしている人を知らせたり、悪行動の足かせはできると思う。



世に悪事を行っている人のことを知らせる、ということはそういうことですね。阿含宗の中身と桐山靖雄という人物のよくない所をお知らせする。
繰り返し、継続してお知らせする。





人はその人のタイミングや縁で情報に触れる・掴むときがまちまちですから、いつでも情報を得れるようでないといけないわけです。
ただ単に一時期だけ知らせて終わり、では駄目なのです。





長年そういう行動をやってもどれだけの人が気づくか、はわかりません。ただし、全く結果がゼロということも無いわけです。
ましてや今の時代はネットが当たり前の世界です。そして今後もそれは続いてゆく。




だからやってて無駄だということもないし、将来どのように効果が出るかも分からないわけです。





いつもある方が言われた内容に近いことですが、自分も賛同です。





自分たちがやっていることで一人でも気が付いてくれる。そこから考えて退会するもよし。何か考えて行動をする。
それでよし、としてないと活動なんてやってられるものでは無い。





ましてや自分が2chに参入したのは2008年の秋です。それまで阿含宗の欺瞞を伝えてきた人たちは当時は開始から7年とか8年とか続けられていたんですね。



もしもその行動が2・3年で終了していたら、私が欺瞞に気づけたかも分からないわけです。
つまり行動を続けていてくれた方々のおかげで、自分が後年に目を覚ます事ができたわけです。





なので自分の経験からも分かるのと同時に、目に見えて絶大な効果なんてのを欲して行動するのではなく、着実にコンスタントに行動する。
これこそが一番のベストな行動であると自負していますし、自分のできることの範疇だと思っています。




だから目に見えての絶大な効果は期待しないでくださいね(笑)



___________________



追記



あと「阿含宗の信者さんへの別な伝達の方法」ですが、自分も以前に考えてみたことがあります。
ですが、色々考えた結果「今のネットでの公示の方がベストだ」としていて、それ以外の行動は今のところしていません。




それこそ阿含宗の道場などの施設の前に行ってビラを撒くとか、リアルの世界で大々的に「欺瞞を知らせた」方が目立つし人も気づく上ではわかりやすいかもしれません。
しかし、目的は「如何に欺瞞に気づいてもらうか」なのですから、先に言ったようなリアルでの行動がいいか?というと甚だ疑問ですね。




実際そう言う行動をしたら阿含宗にも顧問弁護士もいますから、裁判沙汰になるでしょう。警察も来て私も拘束や逮捕もされるかもしれません。



そういう行動をして世に知らせることも有れば、ネットでも地道に知らせるのも方法ではないかと思うのです。




また、こういうのもあります。信者さんがリアル行動で本当にどこまで気づくか、です。






2chでも見受けますが、本当に人によって洗脳の度合いが違いますね。
特に狂信者という輩が強く阿含宗を擁護していますが、あの様相を見て仮に如何にリアルで私が何か行動しても「ああ、元信者の落ちこぼれが馬鹿をやってれら」で終わりです。
効果のほどなんて期待できないし、また狂信者でなくても道場ではリアル行動をした人を良く言うわけがありません。

阿含宗の中では教祖や教団が至上なのであって、それに反対する奴らは「皆悪」なのですからね。




だからリアルで身体を張って訴えても、さてどうか、というのはあります。
また拘束されたら、行動だってできやしない。犯罪歴を増やし危険人物になって終わりです。



自分に掛かるリスクを背負って、尚且つ効果のほどがわからないものに命を掛けてどうするか、と思ったんですよね。
だから地道なネットの方がボクシングで言う「1・2パンチ」のジャブか、じわじわ後から来る「ボディブロー」の方が地味だけど効くなと。そう考えたわけです。




信者さんは真面目な人が多いですよ。その分洗脳の餌食にもなりやすい。その経験を自分もしてきています。




そういう人たちの目を覚ますのは意外と大変なことです。ただ叫んだり強く訴えただけでは効果などあまりない。





また阿含宗では「自分で考えることをさせない傾向がある」んですね。いわゆる北朝鮮のようにTOPの言う事を強制的に聞かせて従わせるシステムに似ています。



もちろん阿含宗は宗教ですから北朝鮮のように逆らえば殺される、みたいなことは無いです。
ただ、やわらかな洗脳が敷かれている。それこそ子供の頃から「将軍様や国のために尽くす」というのを埋め込まれるように、信者が間違った教えを阿含宗では植え付けるんですね。
そしてその結果、正しい判断ができないで欺瞞に気づかないでいるのがあるわけです。




外の情報をあまり聞かず・信じず、阿含宗で教わることだけを信じて覚える。そういう傾向が強いと中々欺瞞に気づかないんですね。
だから私が20数年も阿含宗に居た、というのはそこが大きな原因なんですね。




そういうと「北朝鮮のように本当に管理されている環境に居るのならまだしも、いつでもネットを見たり本を読んだりとできるのに、そういうことをしないのか」と言われそうですね。
そうなんです。しないんですね。管長の言うことは絶対だと言って他の書物等を見ない。ネットも見たとしても阿含宗に関するものは見ないわけです。
だから私がいつも言う「阿含宗の信者は信じることは人一倍強い」と言っていますが、ここなんです。これが自分たちで騙されていることを自覚するきっかけを失っているんですね。

なので何か余程の事が無い限り気が付かないで、詐欺の手中に有るわけなんです。





だから「何かおかしい」と思う事さえない人も信者には居ます。こういう人は非常に厄介です。
私のように日々信仰をしていて「変だなあ」と思っても真実にたどり着くには時間が掛かったわけです。
だから「何かおかしい」とか信仰をしていて「不満を抱く」という物がなければ、おそらく一生騙されてゆくことでしょうね。




自分の経験ですけど欺瞞を知って得たものでこういうのがあります。
それは「自分の頭で考えること」の大切さです。



そういうと「私の頭なんて大したものじゃない。自分で考えて逆に悪い結果に遭ったことがある」なんて人も居ることでしょう。
ですが、そういうことも踏まえて私はやはり「考えること」を発端として「調べること」に発展してほしいと思うのです。



なぜなら分からないことが有ったら私は最近はよくネットを活用します。
昔あった事項やクイズ問題などよくTVなどで見たりしますが、中々思い出せないものが多くあります。

するとすぐにタブレットなどを起動させて調べることがあります。これって単純ですが大事なことです。


なぜならどうでもいいことならまだしも、大事なことを放置していたら後から後悔することも有るからです。
なので、調べることの大切さを学んだ私は、なるべく後からでも調べることにしています。



あとお釈迦さまも「自分で考えることの大切さ」を言っていたというのを知って大変驚きました。



普通偉い人というのは下位の者に対して良く言うのは

「お前らごとき脳みそが少ないやつらが考えても、大したことなどできない。だから考えるな」と言ったりします。

ところがお釈迦様は

「物を見たり人から何かを聞いたりあるが、その際にも自分の頭で考えることが大切だ」という風に言われたそうです。



実はこれ当たり前のようであたり前ではなく、大切なことだと自分は後年知らされたんですね。





確かに智慧の低いとか物事を浅くしか考えれない人もいて、そういう言う人は思慮が足りないので良い結果を出せなかったり失敗することもあります。
また深く考えても答えが出なくて時間だけを失う、なんてのも有るかもしれません。




ですが、何もかも人の言う事を聞きそれに従うならば「自分」というものは要らないことになります。
何も考えずに従うだけの人生の人も居ますが、それはある意味ロボットな人生ではないでしょうか。



それよりも自分で考えて行う癖や判断力を磨くということは人生で大事なことでもあり、そういう時に遭遇した際にいつも人の言う事に従ってばかりですといざな時に判断ができなくなります。



そして人には人を騙すことや操作することを望む人間もいます。そういう人の僕になるために自分たちは生きているわけではありませんから、やはり自分で考える力・姿勢というのは必要だと思います。

結果阿含宗のような「人を騙す事」の巣窟に居るとその被害を受けます。



嘘の教えを教えられ、その結果間違った道を歩まされる。自分たちが損をしていることさえ気づかない。
そう言う事のどこがいいのでしょうか。



だからお釈迦様は「必ず私の教えだからといってむやみに信じるのではなく、自分の中で考えてご覧なさい」と言っています。
嘘が無いか。間違いはないか。無条件で「誰々の事だから必ず正しい」と決めつけるのではなく、聞いたうえで自分でも考える。それを勧めているわけです。



自分も阿含宗に居てそういう姿勢になったわけです。管長の言う事だけを信じて他の言う事は聞くな。
尚且つ自分の頭で考えるのではなく、素直に聞いてそれを理解しなさい、とされる。そしてそのようにした結果、長年騙された。



もしも自分がちゃんと考えて尚且つ調べる、という行為をしてたら阿含宗の欺瞞に早く気づけたかと思います。



だから私もお釈迦様の言ったことに倣って


「天照の言う事は正しいかどうか。皆さん考えてみたり調べてみてください。
私は私の経験の元で色々話をしています。それを信じてくれることはありがたいことです。

ただ、そういう中「天照の言う事は本当かどうか信じられない」という人も居ることでしょう。
でしたら、ぜひ私の言う内容などを調べたり考察してみてください。または質問ください。」


そのように言っています。



ですから信じるも何もの前にやはり「自分の頭で考えたり調べたりすること」はとても重要だということです。

天照 質問に答える④

2017-10-01 06:54:56 | Weblog
さあ、今回は別な質問に参ります。

ショートなものなので、今回は2つ一気に投稿します。




【 質問③ 】

天照さんが言われる「仏陀」になるということは、とても大変だろうというのは何となくわかりました。
そこでその大変さに加えて、こうも思いました。

仏陀に成る人ってそういう素質みたいなものとか環境とか無いと成れないのではないか。
なので、普通の人がやはり仏陀に成るってのは高根の花ではないですが、所詮絵空事に近い物のような気がします。


__________________


うーん、確かにそうですね。言葉で言うほど簡単に成れたら、どんなに楽かと自分でも思いますよ。

だけど、この資質やら環境が整って無かったら成れないのではないか、というのは違うような気がします。



2chでもよく出て来る話ですが、チューラパンダカの話がそれです。
私もその話に非常に同意であり、これがよく今回の質問への回答に適していると思います。



このチューラパンダカという人物はチューラパンダカのお兄さんと共にお釈迦様の弟子になり出家した人です。
お兄さんはそれ相当頭がよく、修行に励めておりましたが、チューラパンダカは頭が悪く呑み込みが悪く覚えも悪かったようです。
だからそのあまりの修行の駄目さに兄も呆れて「お前のような奴は弟子失格だ」となじったほどでした。


その兄のなじりを聞いてチューラパンダカは落ち込んでいました。その様をお釈迦様が後で知り、チューラパンダカに有る指導をされました。

「この布で道場を清掃し、塵払え汚れ払え、とやってごらん」と言われました。

チューラパンダカは確かに他の人より覚えが悪かったのですが、凄く純粋だったのでお釈迦様の教えを忠実に且つ素直に実行しました。
そして毎度毎日「塵払え汚れ払え」とやっていました。



それを見て周りの人はあからさまにしませんでしたが、少々馬鹿にしていました。



お釈迦様はチューラパンダカはあまりに覚えが悪いので、馬鹿でもやれることを指導された。
だけどあの所作で悟りなど開けるかね。そのように多くの弟子たちは思っていました。



ところがずっとその行動をしてゆくうちにチューラパンダカはお釈迦さまがなぜこの所作を授けてくれたかを理解しました。
そして理解してしばらくしてから悟りを開いて、皆がビックリしたそうです。




それは何か?それはお釈迦様は掃除をさせてそれが修行だ、とさせたのではなく、道場を清掃させるが如く、そこからの派生、つまり心の中の「塵や汚れを払う」ことを教えていたのでした。
それに気づきチューラパンダカは仏陀に成るための要である「煩悩を切る方法」を会得し、実際その方向へ進み悟りを開き仏陀に成ったそうです。



このことからわかるように、如何に頭が悪いとか人より劣っているとかがあろうが、それは関係ないということ。
つまりこのことから派生して考えれば環境が悪列なところに居ようが、人より劣っていようが、仏教の肝要な物は「煩悩解脱」なのです。

如何に煩悩から離れて悟りを得るか。それが大事なのですね。
だから頭の良し悪しは関係ないし、環境が恵まれても頭が良くても逆に悟りを得れなければ駄目だということです。




私はこの話を2009年以降に知りましたが、なるほどと納得しました。



なぜならお釈迦様の話を2009年以前に聞いていた際には、お釈迦様はこのように言っていたのを耳にしています。


「如何に貧しくとも、環境が悪くとも、身分が低いとかがあろうとも仏教にはそれは関係ない。
男女も身分の高貴も卑賤もない。老いも若きも無い。皆修行に励めば解脱できるのが仏教だ」


これを聞いていただけなので、確かに大筋で内容はわかってはいたのですが、チューラパンダカの話を聞いて尚も理解を深めた次第です。





だから確かに現実問題として頭が悪いとか環境が良くない人は何かを成すのには非常に困難を極めることでしょう。



ただ、こと煩悩を消す、という面に於いては煩悩にまみれていない人ほど仏教のような方向性はやり易いのかもしれませんね。






それこそいつも不平不満や飢餓感がある人は煩悩を断つのが大変かもしれません。

金や物、地位や立場、権力、食べ物や様々な欲に振り回されて、それらの獲得や維持に必死になっている人。
そういう人の方が多いのではないでしょうか。



仏教ではそういうのは解脱の何の役に立たないことを言っています。勘違いしないでほしいのは「仏教の中の解脱に於いて」ということです。


在家の修行者には欲と言えども必要な物がありますから、それらはお釈迦様と言えども否定していません。
ただ、そういったものも度を越したり執着すると煩悩になりますから、そこは在家の人が解脱する上で気を付けなければ行けない所ではあります。



出家はほとんど世俗の事からシャットアウトした環境に居ますからいいですが、在家はその面で大変です。
そして前にも言いましたが出家だって大変さはある。



毎度煩悩解脱の修行でそれに専念しなければいけないわけで、尚且つ托鉢は思し召しですから食事がまともにできない日も有る。
つまり死と隣り合わせの生活でもある、と言えます。


確かに働かなくてもいいし世俗の事から離れて生活してはいます。しかし、やはり仏教の道場は弟子たちが沢山いますから人間とのしがらみも完全にシャットアウトもできない。
無人島に一人で暮らしているのとはわけが違います。


またインドは熱い地域ですから暑さとの闘いも有るし、雨期になれば雨だらけの日々でもある。
いつも快適な温度の保たれた場所でぬくぬくと修行なんてできません。


またこれは人にもよりますが、世俗から離れれば離れるほど煩悩が増大する人も居ます。
または托鉢に出かけた際に在家から布施を貰うわけですが、その際に世俗にも触れるので煩悩が復活する場合だってあると思う。


つまりはどんな環境に居ようが、頭が悪かろうが仏教的な大事な要素~煩悩を滅する事が出来なければ駄目だ、ということです。




だからお釈迦様はそこを分かっているから、資質がある人や環境が恵まれた人でないと解脱できない、なんて言わないわけです。
本当に頑張って解脱に向かって道を歩める人だけが成れる。そのように分かっているわけです。


そしてそのことはどんな人にも通用する事であり、差別は一切していません。仏教に差別が無いのはここにもあるわけです。
年齢制限もないし人種のどうのこうの。また男女の云々も関係ない。要は如何に煩悩を滅して仏陀に成り修行を完成させられるか。
お釈迦様の教えを理解し実行できるか。それだけなのです。



ということで理解していただけたら幸いです。



_________________


【 質問④ 】

天照さんのブログや2chを見て勉強していますが、疑問に思っていることがありますので質問します。

桐山氏はなぜ沢山の嘘をつき、人を騙すことをしたのでしょうか。
ちゃんとした仕事しているか、もしくは教祖になってもいいから本当の仏教を教えていたら、詐欺師呼ばわりされることもなかったと思います。

どうして桐山氏は、かのように悪い行動を行ってしまったのでしょうか。


____________________



良い質問ですね。私も過去そのように考えたことがありますね。
桐山氏が詐欺を働かないでいたら、死ぬまで・・・いや死んでも批判されることはなかったと思います。
また自分も阿含宗を辞めなかったと思います。



でも、これは2chなどにも出て来る情報を元に自分で分析したことではありますが、普通に考えるからそのように思ってしまうのだと思います。
つまりまともな考え方を持っていてそれを成せたら、桐山氏のようにはならないし生きない。
逆を言えば桐山氏は「マトモではなかった面が多かったから、悪事を成してしまったのだ」と思います。


そういうと「随分辛辣な言い方だなあ」と思われると思いますが、善意に思っても桐山氏のやったこと(やってきたこと)はかなり酷過ぎたからです。
善い面も有ったとは思います。ですが、悪い面が圧倒的に多いのでとても善意解釈はできかねるのでそういう言い方になってしまうのです。


人間は詐欺師にまでならないにしても、生きていれば過失の嘘や悪意が無いにしても嘘や間違いというのはするものです。
そしてそういう物は大抵はあまり大事に成らずに済んだり、迷惑の度も小さかったり狭かったりします。



ところが桐山氏のやったことは大きく広範囲でよろしくない事項が大半です。
つまり詐欺という物は、どこからどうみても犯罪だからです。



また生い立ちなどを見てゆくと、元来詐欺を働くのに「ふさわしい」性格と傾向があったようです。
それがますます人生に於いて輪を掛けてやってしまったようです。



人間というものは大きく分けて、性格がほぼ生涯に於いて変わらないというのと、時期はその人に依るが変わることの経緯があって性格が変わった、というのがあるようです。
そしてたかが知れている自分の人生上で見てきたことからどちらが多いのかというと前者の「ほぼ生涯に於いて変わらない」という人の方が多いのを自分は見てきています。


また個人的なことですが、自分も性格を変えようとしてその事項に挑んだことがあります。30代から40代の間にいろいろ試したことがありました。
しかし変わったのは一時的な期間だけで、まもなく性格の改善は失敗に終わりました。


なので、自分の体験としても経験していることから「性格を変えるのは中々至難の業だ」というのはわかります。
そして先ほど言ったように自分の人生上で他人を見てきて感じたのは自分同様「生まれつきの性格を変える事の出来ている人は中々いない」ということです。



桐山氏が小学校の時期に先生から言われた言葉が著著「現世成仏」の中に書かれています。それがよく桐山氏の傾向を表しています。


桐山氏が小学校を卒業する際に先生から母親に

「この子は注意して育てた方が良い。なぜならこの子はとんでもない悪党になるか、その逆の物凄い善者のどちらかになるでしょう」



私はこの言葉を善解釈していたのですが、後で桐山氏を考察した際に先生の言いたかった「本当の真意」をわかりました。
つまり先生は「この子は悪党になる」と言いたかったでしょうが、それを言ったら身も蓋もないし、やはり受け取る側から見れば印象が悪い。

だから両極端なところがある性格を持っているから、注意して育てた方が良い、という風に言ったのではないかと思いました。



学校の先生と言えば最近は「教育者」と言い難い。それこそ名称だけの「先生」も存在するのでピンと来ないかもしれませんが、昔の先生には子供の資質を見抜く先生もいたものでした、

子供の性格や傾向などをみて指導などをするのが教育です。昔はそういう物もあったものです。



また桐山氏の考察をしてゆくと、どうしても子供も頃はピュアだったが大人になって性格が悪い方向に逸れた、というのが見当たらない。
むしろ子供の頃から「危険な傾向がある」とあるので、先生がその様に言いたかったが先の理由で言い方を変えた。そういうのが私の見解です。



桐山氏の傾向で顕著なのが自己愛主義が異常に強いのと、嘘をつくのが平気かつ狡猾であるということです。





良く例えるなら男は元来嘘が下手、というのがよく言われています。そういう人が多い故そのように言われるのでしょう。

異性や妻に対して男が何か良くないことをしたのだが、その事項を隠すために嘘をつくが下手なためバレてしまう、というやつです。



普通はそういう感じが多いものですが、稀に元来「嘘が得意」というような人がいるのも現実です。


まあ、さすがにそういう資質のある人は皆詐欺師になるような世の中でもないでしょうから、そこまで至らなくてもよく職場や知り合いに

「ああ、あいつは嘘が上手いからなあ」とか「顔色を変えずに嘘をつくんで騙されることが多いな」という人が居たりすることも有るでしょう。

そう言う人が単なる罪もない「嘘」を超えて、何かをやらかすときには詐欺師になったりするんでしょうね。
そして桐山氏はまさにその通りになった、というのがあるわけです。




考察の決定的になったものがいくつかありますが、その中で顕著なのがこれです。桐山氏の犯罪歴です。



桐山氏は教団内・外で「自分が法に触れた事項は人生で一回だけ」と言っていたのでしたが、それが嘘だったということです。



桐山氏は実は生涯にこれらの犯罪を犯しているのです。



第1回目 昭和27年8月16日 詐欺、契約違反 (警視庁西新井署)
第2回目 昭和27年12月12日 手形詐欺 (千葉県松戸署)
第3回目 昭和28年8月16日 酒税法違反、私文書偽造 (警視庁防犯課)



生涯でムショに入ったのは三回目の時だけですが、それ以外の二件はムショには入っていません。
ですが、立派な犯罪であります。


またよく過去の犯罪を見てください。皆、詐欺に関わる事項ばかりです。
三回目の項目には詐欺とは書かれていませんが、偽ビールを製造したわけですから、世間を欺くには変わりはない。
また私文書偽造も立派な詐欺の範疇にあたります。



尚且つ教祖になって経典改ざん、他宗教のパクリと様々な嘘で繕ったものらが多数あるので、十分宗教詐欺にあたります。




つまりこのことから桐山氏は元来嘘つきであり、嘘をつくのが平気な人であった、というのが窺い知れます。




また宗教詐欺に至るには「如何にお縄にならないで人を騙して偉くなり儲けれるか」というのを考えた結果「宗教詐欺が適している」と察知したようです。
なので宗教詐欺を行うに至ったようです。




実際そのことに気づき行動を起こしたが、起こしたのが三回目の犯罪の後でしたから、阿含宗の前身である「観音慈恵会」の教祖にはなっていたのですが、ムショに入らなければいけなかった。
なので、その間は「山に篭って修行をしてくる」と言い、十か月服役した。



この事柄にもいわくがあります。つまりその観音慈恵会の運営最中に服役したのを「山に篭って修行をしてくる」と嘘をついたことです。
また、桐山氏としてもこの事項をバレたくなかったのもあった。



ところが観音慈恵会が段々時流に乗り流行ってくると、桐山氏の動向や過去を調べる人も居るわけです。そして過去の事がバレた。


さすがの大嘘つきの桐山氏も嘘を突き通すことができず、犯罪歴があることを告白した。
したにはしたのだが、内容を桐山氏の都合の良い方に変えて発表と、また犯罪歴は1つだけということで言い渡した。

過去の2つは公表せずにいたわけです。





しかし、過去の2つも調べ上げた人も居ました。それで私らがそれを知ることとなったのです。



ただ、その事項が表ざたになることは無く信者や世間で「犯罪歴は三回ある」というのを知らない人は結構多いです。




だから桐山氏は大嘘つきなのに輪を掛けて「運もいい」というのがあったようです。
普通ならみんな犯罪がバレて阿含宗の看板なども畳まなければいけなくなっていたでしょうからね。





あと桐山氏は妻が居ながら、ある女性信者とデキていた、というのも有りますが、それも得意のスカシで通過している。


何とも呆れるばかりの人生です。





信者を騙して儲けて教祖としてエラクなり、詐欺行為としては上々のものだったでしょう。

しかし、そんなことをして本当に楽しかったのでしょうか?




私には甚だ疑問であります。





そういうわけで桐山氏のことを色々調べて考察してゆくと、可哀そうだった面がある、なんてのは出てこないんです。
むしろ呆れてしまう状態になる。




だからマトモな人生を歩んでいたらどうだったか、と思ったけど、それは桐山氏には通用しない。
マトモな人生を避けて良くない方ばかり歩んだからです。



人を騙して犯罪に手を染める。尚且つ反省しないで何度も行う。その結果三回目に刑務所に入る目に遭うわけです。
それでも反省をせずに「宗教詐欺で身を立てる」ので突き進んでゆくわけです。




こういう人物に可哀そうなんて気持ちも起きないのはしょうがないと言えませんか?
嘘づくしの人生と嘘まみれの人生。そういう人生だったのです。





ですから、哀れというしかないのがあります。
以上です。