天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

小休止というか事情報告

2015-04-29 20:39:19 | Weblog
本尊について、の終わりに以前リクエストがあった「供養について」の可変物を書く、という予告(予定)でしたが、実は別なある方よりこういう意見を頂戴しました。

リクエストをくれた人には悪いが、個人的にはいったんやったものの再放送なるものは見たくない。
それよりも先の話題というか別物の方がまだよい。
だからもしもそのリクエストの人の内容はメール別なところとかでやってもらって、このブログでは天照が醸す「いろんな問題や疑問点などの先行き」を進めてほしい、ということでした。

ごもっともな意見で尚且つ自分は流動的な性格なので、あまり同じことをしたくないのも事実です。
またリクエストは正直嬉しくもあり、懐疑でもあった。
なぜなら一部の人に好まれても、それ以外の人が好むかどうか。
これが懐疑の元でした。

そしてそのリクエストのあった方にはメールで別対話することにして、このブログでは供養についてはある程度期間をおいてからの方がいいと考え直して、今新たに内容を考えているところです。

ですから予定し告知しておきながら恐縮ですが、別なネタにします。
そういうわけで期待していたかたには「ごめんなさい」
飽き飽きしていた方には「おめでとう」ですね。



そういうわけでもう少々時間をおいてから、新たな話題をします。
もう少々お待ちください。


それでは連絡まで。

供養について 7(終)

2015-04-20 06:28:17 | Weblog

この章もこれで最後です。長くなりましたがこれで仏教のことを深く知らない人でも最短で概要を押さえ知ることができたと思います。





宗教(仏教)は本尊が命です。すごく重要でこれがないと信仰が成り立たない、とさえいうくらい要なのです。

こういうことを自分は述べました。そして早速暴きにかかって説明をしたいくらいですがそれをやったらあまりにもいきなりすぎで「意味が分からない」状態になります。

だから仏教の歴史を知った人も読者さんにはいるとは思いますが、述べたのがあるわけです。




またこの自分の説明を理解した後で再考すれば見えてくるものがあります。
それは何か? 

私は「宗教は本尊が命」というようなことを言いました。芸能人は歯が命、なんてキャッチコピーが昔流行りましたが、それのように「宗教は本尊が命」という側面がある。

ですが阿含経を見てください。本尊が無くてもちゃんと成り立っていますね。




阿含経には他のお経で見られる方便というものがありません。
それはなぜでしょうか。

それは戒律を見てもわかります。仏教の戒律です。

有名なのが「五戒」というやつです。それを見ましょう。

1)生き物を殺してはいけない
2)盗みをしてはいけない
3)不道徳な性行為をしてはいけない(出家者は性行為おろか自慰さえ禁止)
4)酒を飲んではいけない
5)嘘をつかないこと

順番がちょっと辞書などと違いますが、まあ順不同ということで了解を。


この中で4)は在家者はある程度緩和されているようで、飲まないで済むなら飲むなという感じですね。

ですから4)以外はよく見ればわかりますがこれって巷にある道徳とほぼ同じですよね?
なのでお釈迦様の言われた戒律っていうのはイスラム教のように厳しいものとは違い、道徳的であるものを守れ、としているのだ。
そういう意味では非常に簡単で実行しやすいというものですね。

しかし、いざこの項目を人生上で100%守っているという人はどれだけいるか、です。
尚且つ今後もこの項目を守り切れるか、となればまたこれも難しかったりします。

なので仏教は至極当然のことを言うが、さて実行するとなるとなかなか難しいぞ、というのがありますね。




さて、この中の「嘘をつかない」というのがありますが、そこがポイントです。

阿含経を見てください。お釈迦様は方便、つまり嘘というのをついてませんね。
当然であります。自らが「嘘をついてはいけない」と言いながら嘘をついてたら「馬鹿を言うな」となります。言語道断です。

お釈迦様は無駄もお嫌いでしたが嘘も大嫌いでした。
だから阿含経に嘘がないのは当たり前であり当然の結果になるのです。

一方創作経典はありもしない登場人物が出たりとか、仏教を講じる上でありもしない功徳を唱えている。
これはまさに嘘に他なりません。

また阿含宗でいうと桐山靖雄は嘘のつきっぱなしとオンパレードになります。
この大嘘つきと嘘が微塵もないお釈迦様と一緒にできますか?

またどっちの方が信憑性があるでしょうか。



お釈迦様の方ですよね。



ですから単純で簡単そうな「嘘をつかない」ということを守ることもいざやってみると結構難しい。
尚且つ嘘をいったんついたら一回だけでは済まない。重なったり別な機会などにも使ったりすることもある。

また嘘がたまに人生上で有効に物事を働かすこともないわけではありません。
しかし大半は嘘がいかなる理由であろうが、後からバレてその是非を問われることがある。
すると何かのための理由で嘘をついたにしても、それはよろしくないとなる。
だから嘘はなるべくつかないに越したことはないわけです。

そしてお釈迦様の場合は真理を説いている。本当に真理を体得し悟った事項に間違いがなく嘘で繕う必要がないので「嘘をつかない」というのもあります。

しかし桐山靖雄の場合はお釈迦様や阿含経などを利用しさんざん嘘をついている。
自分が宗教詐欺を行う上で嘘をついているのです。

こんなバカな宗派が「本当の仏教教団」なんて名乗る自体犯罪です。




話は本題に戻ります。
お釈迦様は本当の事項を説いています。一方阿含経以外のお経は出所も作成者もわからない。また内容も矛盾点や方便が多すぎます。
これはお釈迦様でない後世の人間が作った創作物=偽物だからです。

また阿含経にはない「本尊」というものが出てくる。
お釈迦様の説く教えの中には「本尊」という概念はありません。

本尊というのは自分が信仰をする対象の人物や品を表します。

私がいつも言う「お釈迦様は自分以外の誰それを拝め、という風に言ってないし、尚且つお釈迦様自身さえを「拝め」とさえも言わない。

また何かの物品を本尊として拝むようにも言っていないのです。
ですから「仏舎利を本尊」としてもそれはお釈迦様が説いたことではない。

なぜならお釈迦様はご自身が亡くなる際にも、こういうことを言われたのです。

「自分が亡くなった後も生きていた時と同様私を依存崇拝するものが出てくる。これは決して弟子たちはしてはならない。私の舎利を拝んでも何の功徳もない。」

そのような意味を述べられているのです。(意は天照要約)


その最たるやつがもう耳にタコができているとは思いますが、例のあの言葉です。

「私は道を示すのみ。他にどうこうできない。」というやつです。

私はこれを別なお釈迦様の言う言葉とを絡め、要約して述べていますが耳のタコの言葉。

「私は生きている人も死んだ人もどうこうすることはできない」というやつです。




お釈迦様は本当に無駄を省き解脱への道(方法)を説かれた。そこに共感して信者が増えたわけです。
また在家の人たちもお釈迦様の説法に感嘆して、崇拝される人が多数いた。

しかし説いたことは出家者も在家者もお釈迦様が説いた方法を確実に行えば、解脱することが可能になると説いています。
そのことを横に置いてお釈迦様を間違った信仰の行いのように崇拝し功徳を得ようとする人もやはりいたのです。

それは功徳欲しさというよりもお釈迦様があまりにも偉大に見えて、崇拝したくなったのもあったのだと思います。
しかし出家者はほとんど功徳欲しさはないが、在家者の中で崇敬しているうちに功徳もいただきたくなって拝むものもいたようです。
お釈迦様はそれを嫌ったのです。




なぜか?それはそういう行為をしていると解脱とは関係ない方向へ行く。他力本願になってしまうからです。
お釈迦様を崇敬し拝したところで、解脱できるのではありません。

如何にお釈迦様の熱烈なファンで大好きになったとしても、拝むこととお釈迦様の言った修行をするのとは結果が全然違います。



拝んで解脱が果たせるのならお釈迦様はそれを説いています。ですがそれはあり得ないから説かない。
説いているのは自力本願でありお釈迦様の言われた修行法を実践することです。

そしてそこにはお釈迦さまを拝むこともなければ、何かの尊を拝んだり充てにすることではない。
また何かの物体や品を本尊とすることもないし、その対象物に依存することもない。

つまりどこまでもお釈迦様の教えた法。そしてその法を正しく実行する「自分自身」が必要なのだぞ、ということなのです。
それが有名な「法灯明・自灯明」です。

だからお釈迦様はどこまでも、尚且つ死ぬ直前までも嘘をつかず、本当の教えを説いたというのがあるのだ、というのがよくわかりますね。




さあ、それではこれでだいぶ私の説いた「本尊について」というテーマはお分かりいただけたかと思います。

本尊というものは後世の人間が方便をつく(使う)上で作られたものだということ。
そして嘘の教えであればあるほど必要性が増すということ。

そして一番要なのは本当のお釈迦様の教えでは「本尊」なんてものはないのだ、ということ。
本当の教えは本尊なんてなくても「解脱を得れる」と説かれている。本当のお釈迦様の教えを講じることが解脱への道なのだ。
お釈迦様の一番言いたかったことであり、本当の仏教の中身なのだ、ということです。




こういうことを説かないといけなかったのが「阿含宗」なのです。
間違った教えと嘘をつくから批判されるのです。




以上、これで「本尊について」を終わります。
長い間、ご清聴ありがとうございました。

次回以降はリクエストがあった「供養について 別版」でまた解説を致します。
ただし前回と同じ単なる供養についてを述べるのならあまり面白くないので、今回話せなかったものも交えたり複合して展開します。

ですからまたリクエストに応えつつリクエストで終わらない。
供養も本尊もどちらも考察する上で大事な項目ですから、そこをまた新たに掘り下げようという意味も込めてお話をします。

どうぞお楽しみに。それでは。

本尊について 6

2015-04-19 05:01:33 | Weblog
さて続きに参りましょう。

前回の終わりは特別大サービスと言っていたやつです。そこで終わりました。今回はそこからです。



その言っていたものは何なのか、ということですが、実はこれがかなり問題なのです。

わかってしまえば何でもないことですが、当時の信者時代の私はここにうっすら気づきながらも自覚することがなかった。
なんとなく変だなあとは思ってはいたわけです。しかし気づかなかった。

だから変だと思ったりわからないと思ったらちゃんと調べないと駄目な事って結構あるんですね。
その点の反省も含め、この事項を述べます。



実は阿含宗の定義(教学・教え)ではお釈迦様の言われた定義と違います。
例えば解脱の定義が全く違う。

どのように違うかと言えばお釈迦様の定義では解脱は仏陀になり涅槃へ入ることです。
ところが阿含宗では悪因縁解脱、が解脱となっている。

厳密に言えば最終的解脱はお釈迦様の言われた漏尽解脱(完全解脱)を阿含宗でも説明はしています。
しかしその完全解脱を果たすためには悪因縁を解脱しないと完全解脱には至らないとしているのです。
だから阿含宗では因縁解脱を成さねばならないとしているし、それを成すために教祖の示した方法で修行をする、ということがあるわけです。

ところがお釈迦様はそんなことは微塵も説いていません。
つまり教祖の勝手な付け加えであり、大嘘であります。

これは暴きでわかりますが、実はこれの他にもう1つ致命的なものがあります。
それは何か?実はそれが本尊に関係してくることなのです。
(だからこの度のテーマを本尊にしたのがその最たる理由です)



今阿含宗は因縁解脱を成す、と言いましたがそのためには悪因縁を切る(解脱する)ための力を得る必要があります。
そのお力を持った方は誰なのか?というと、本尊ということになります。

だからこそ本尊は何よりも大切だというのがあるわけです。

そしてその本尊は如何に?というと「ジュンテイ如来」となるわけです。




阿含宗ではジュンテイ如来の存在や価値を説いて、この本尊がいるからこそ悪因縁が切れるのだ、解脱できるのだと申します。
しかし「その言っていることが嘘」だとしたら、さてどうなるでしょうか?

そんな馬鹿な話がありますか。阿含宗では教祖様が推奨し強く推している本尊なわけです。
それが嘘って話はないでしょう?となりますよね。

その「まさか」があるのですよ。




これに気づかないから騙されるのです。




どういうことか見てゆきましょう。

ジュンテイ如来を調べてゆくと、その教祖の言う「悪因縁を解脱する力」というのは持っているというのを証明するものがないのです。

もっと深く言うと例えば聖観音様はどのようなお力を持っていて、どのような働きをする。功徳が得られるなどがあるわけです。
また他の観音様も同様で千手観音様はどのような働きをされて功徳がある。何々の観音様はどのように・・・とあるわけです。

ところがジュンテイ如来さまのそういう功徳やお力の説明には「悪因縁解脱」ということが記されてないのです。
もちろん他の観音様にしてもありませんし、明王や如来なども皆無です。




すると「そこまで言えるのなら天照だけでなく他の人も途中で気づいたりするはずだ。なぜそれがわからなかったのか」ということです。

そうです。そこが肝心なのです。
私は20数年阿含宗にいてそのことがうっすらと気づきつつもスルーしていた自分がいた。
だが自覚してないので、気づくのがかなり遅れたわけです。そして退会してからこの事項に自覚を得た。

だから本来は最初に気づいていれば阿含宗などに入らなかったし騙されないで済んだわけです。




ではなぜ「天照はもちろんのこと、なんで信者は皆わからなかったのか」ということですね。
それは数種答えがありますが、最たるものを述べましょう。

「信者は教祖の言うことを鵜呑みにしているため誰も正誤を確認しなかった」ということです。

また信者さんはそういう傾向があることは自分を含め経験をしていますからわかるし周知の事実ですが、では外部の人間がその間違いを指摘することがなかったのか?というと「なかった」のですね。
だから余計に信者さんは気づくことができなかったのもあります。




例えば学者さんでも阿含宗を批判するジャーナリストさんでもいい。このことを突っついてくれればまだ検証しようという信者さんもいたかもしれない。
しかしそういう外部からの指摘もなかったので、やはり気づかなかったという顛末なのです。

だからジュンテイ如来を調べると、悪因縁云々なんてどこのお寺さんも言わないのです。
ましてや阿含宗が信仰で講じる以前からこの尊を奉じて祀っているお寺さんは存在しています。

ですがそのお寺さん自体も「阿含宗の言っていることは間違っていますよ」とは言わないのです。

ですから信者はまっしぐらに教祖の言うことを信じるし、外部からも違うぞとは言わなければ、どうやって気づくか、です。
だから教祖の良いように騙されるわけです。



お釈迦様が「悪因縁を解脱しないと仏陀になれないぞ」とか「完全解脱ができないぞ」といわれ、その因縁解脱のための方法を説いているのなら全然かまわない。

ですがそんなことなど真っ赤な嘘ですから説いてません。尚且つ因縁解脱という考えは後世の新興宗教の教祖らが考えた概念です。
だから元々仏教にない考えですから大乗仏教にすらその概念がないのは当たり前です。

なので阿含経はもちろん法華経にも阿弥陀経にもその他たくさん作られた創作経典にも「因縁解脱」という語も内容もありません。

だから阿含宗というのは阿含経の「阿含」という文字を取って宗として名乗っている。
また阿含経を依経として奉じているという癖に阿含経に全く書かれていない・仏教に存在しない概念を真っ先に持ってくるというのはどういうことか?です。

ましてや本尊として崇拝する尊に功徳として「因縁解脱の効能・効果など無い」となれば仰げますか?ということです。




阿含宗の教祖が如何にとんでもない大嘘つきということがこの部分だけでもわかりますね。
そしてこの他以外にもたくさんの嘘をついているのです。だからかなり悪質なんです。



だから私は「本当の仏教を知らないと騙されますよ」というのがここにあるのです。
強く何度も言うのがそこなのです。




仏教のことなど何も知らない人には阿含宗は他にある在来仏教と同じように「ああ新しい宗派の1つなんだ」なんて見えるし思われているでしょう。
または在来仏教と同じと思われなくても「ただの沢山ある新興宗教の中の一派なんだろうな」で終わりです。

ですが中身を知れば如何にとんでもない教団であるかがわかります。

阿含宗こそが本当の仏教教団でありお釈迦様の正しい教えを奉じているところだ。
またお釈迦様の正しい教えを講じさせてもくれるところだと皆が勘違いすることにもつながります。

だから何も知らない人が信者になることを望んで待ち構えている。
如何に人を騙して儲けることが目的なのかというのがあるわけです。とんでもない教団です。




本当に仏教の歴史を調べ阿含経に書かれている内容を理解し、そのお釈迦様の説かれた教えを広めようと正しく実行したなら本当の看板と内容が一致し真の「阿含宗」と言えると言えます。

しかし現実は偽仏教であり嘘の教えが大半です。そしてさも正当な仏教教団のように見せかけるために本当の事項に嘘を絡めて述べたのが教祖の述べた事柄です。
つまり最初から本当の教えなど説くつもりなど甚だなかったのです。嘘を見事につくために仏教の歴史やら阿含経という物を利用した。
またその嘘がばれないためにするように密教を用いた。密教の形式や様式を使えば如何様にでも方便が可能になる。

だから教祖は「成仏法は難解なため密教の様式を用いて行うと実行しやすい」なんて言うが、真っ赤な嘘です。
嘘がバレないために、またはバレにくくするために密教を利用したのです。





どうですか?
過去の在来仏教は仏教の歴史を見てゆくと過失の面があります。

例えば浄土なら時代背景が大きく影響し、インドから中国、そして日本へ輸入されてきた宗教です。
日本に入った際にすでにたくさんのお経があってそれのどれが正しいものかわからなかった。

それこそ「全部正しいのだろう」と思うのが筋です。ですからそのお経お経を依経として宗派を立てた(たった)という経緯があります。

阿含経が本当の仏教経典であるとわかったのは明治時代です。
明治前は江戸幕府であった。鎖国もあったわけです。

日本が鎖国などしている間に外国の仏教学者さんらは考察や検証をしていた。

そして鎖国が解けた後日本の仏教学者はすでに精査が終わった外国の仏教学者の情報を得た。
すると衝撃の事実がわかったわけです。初めは理解できなかったが、よく調べたら間違いがなかった。

だがその真実を日本に持ち帰ったがそれを公表すると、日本がとんでもないことにある。
特に在来仏教教団は多数あり君臨している。それが皆崩壊するわけです。


だから学問としてはその事項は良いが、実際的に巷には「内緒」ということにしたわけです。



なので法華経で活動した日蓮さんも、その他のお経で「これこそが釈迦の教え」と思った開祖さんたちはある意味「仕方なかった」とも言えるのです。





ですが桐山靖雄は見てください。昭和30数年以降の時代に事を起こしている。
昭和40年代ころには観音慈恵会を興しています。

また昭和50年代には阿含宗に名称変更もしているし阿含経を奉じている教団として主張している。
仏教の歴史やお経の概要なども教祖は説明し、また様々なお経を勉強したとある。

ならば全てを知り尽くした人物が、どうしてそのような「明らかな間違い」をするのか、です。
明らかに間違ったというよりは、最初から宗教詐欺が目的であったというしかないでしょう。

だから悪質だというのです。

今日も長くなりましたので、まだ話したいですがここで一旦終わります。
次回でこのテーマは締めようと思いますので、もう一回お付き合いください。

本尊について 5

2015-04-18 13:32:28 | Weblog


私は「本尊について 2」でこのように述べていました。

______________


また法華系は系列の派によってそれ以外のものに尊を置くこともオプションさながらに存在します。

例えばある派は「法華経曼荼羅」も本尊であるという。
ある派は日蓮さんが本尊でもあるというのです。
または3つとも本尊であると言うところも。

こうなると本末転倒ではないか、と思うほどです。

______________


何も理由がわからない人から見れば、その通りです。さっぱり意味が分からない。

法華経自体が本尊にするというのも最初わからなかった方も居られるでしょう。
でも私の解説でおおよそ理解をしてもらえたと思います。

だが、次の2つがわからない。
法華経曼荼羅が本尊である、というのと日蓮さんが本尊である、の2つです。これがわからないと。



先に簡単な方を見てゆきましょうか。

日蓮さんが本尊という方です。これは実は日本では特段変なことではないのです。

なぜなら日蓮さんは調べるとわかりますが、かなり法華経の宣布に尽力された方です。
その影響力やカリスマ性は半端ではない。

その生き様や内容を知れば「ああ、崇敬されるのはわかる」と思います。

ですから日蓮さんは仏陀でもないしお釈迦様のような如来でもない。
だが、日蓮さんの人生を知り、法華経の宣布の貢献度を見れば本尊としても全然よろしいとなる。
そういうほどの敬いなのですね。それで本尊としてしまっているわけです。

それこそ仏と同等ということですね。



次に曼荼羅です。曼荼羅というのはよく密教で使われているもので、有名なのが真言宗にある仏様がいっぱい書かれた図ですね。

そこにはただ仏画として仏様の絵が描かれているだけではなく、曼荼羅には仏様の悟りが曼荼羅の中に体現、または曼荼羅に意味が込められているわけです。
ですからその曼荼羅を見て瞑想したりして仏様の智慧や悟りを得るようにと修行のための図としてあるわけです。

法華経はその密教の要素を取り入れたということでしょう。ただ法華経曼荼羅というのは文字でして密教の曼荼羅のように「絵」ではないのです。

またこの曼荼羅を書いたのは日蓮さんと言われています。ですから余計崇拝する意味合いや価値が高まってくるのです。



法華経曼荼羅は法華経に登場する諸尊の名前などが書かれており、法華経の世界を体現しているともいえます。
だから曼荼羅はただの文字の羅列ではなく、法華経の真理そのものでもあるということです。

なので法華経を奉持するということが法華系の趣旨ですから、法華経=本尊であり、法華経曼荼羅も本尊、日蓮さんも本尊であるとなってくるわけです。




どうですか?これである程度納得していただけたでしょうか。
もしも納得がいかなければ法華系統の寺院に行って聞くか、ネットかさまざまな書物で調べてもらっても結構です。





今まで長々と本尊の何たるを説いてきましたが、これでだいぶ当初よりわかってきた面があるかと思います。

ですから本尊というものは信仰の要であるというのがよくわかったと思います。



それではお待たせしました。これからメインである「阿含宗の本尊観や内容」に触れたいと思います。




阿含宗では本尊が多岐にわたります。浄土のように1つか?と思いきや法華系では3つもある。
ところが阿含宗はまだそれ以上です。

なんでそのようなことが起きるのか?というと、阿含宗は開祖「桐山靖雄」が作った偽仏教です。
ですから方便だらけで嘘だらけだからです。嘘とインチキで構成されているのでそのようになるわけです。
そして信者さんはその嘘に騙されているということです。


それでは見てゆきましょう。


まず本尊は教恩法主である仏教開祖のお釈迦様です。
次に密教の本尊である「大日如来」です。

これは密教を習ったり学んだことがある人は承知の事項ですが、密教では真如の世界で法の体現を成す存在は「大日如来」なのです。
つまり最高度の位置に君臨する存在が「大日如来」なのです。

だから大日如来も本尊ということになる。

次に阿含宗は観音慈恵会という教団が名称変更してなった教団です。ですから阿含宗になる前から観音信仰を軸において仏教を講じていたわけです。

ですが教祖が阿含経の存在と価値に気づき、阿含経を修行して霊力を得た。そこで阿含宗という名称を用いて観音慈恵会から転向したわけです。

そして観音信仰と言いましたが、観音様も様々な観音様が存在します。
有名どころでは「聖観音」「十一面観音」「千手観音」「馬頭観音」「如意輪観音」その他まだまだ観音様がおりますが、その中で「ジュンテイ観音」を奉じていた。

それはジュンテイ観音こそが悪因縁を解脱するためのお力を持っているという(桐山氏いわく)のと、この観音様は特殊で如来でもあり観音でもあるという存在なのです。

今でいう「two way」といった感じでしょうか。ジュンテイ如来ともいうし、ジュンテイ観音ともいう。

その観音信仰という流れからも本尊であるわけです。



そして仏教では仏舎利を最高度の本尊として祀ることがある。なぜなら仏舎利は「お釈迦様の遺骨」だからです。

お釈迦様は生きていてもかなり尊敬され崇敬された人物です。そのお方がやはり当然亡くなるわけです。
死後荼毘に付され遺骨が残った。これをお釈迦様の形見として珍重しお祀りした。

すると奇跡体験をする人が現れたので、たちまちお釈迦様は死んでもすごいや、となった。
また後世の人間が方便でそれを利用し、お釈迦様の遺骨(舎利)を仏教の功徳・効能を得れるアイテムとして位置付けたのです。

だから仏教寺院で仏舎利を持っていることはある種最高のステータスであり、万全であると言えます。



阿含宗は昭和63年にスリランカから仏舎利を拝受していますから、それから仏舎利を本尊としています。

また阿含宗には昭和○○年に教団が毎年二月に開催している柴燈護摩で現形した「三身即一の大日如来」があります。
これは先ほど言った「大日如来の大日如来」という位置づけでかなりの最高度の本尊です。

なぜなら「釈迦如来・大日如来・ジュンテイ如来」の三身が一体化した存在です。
ですから阿含宗だけにその姿を現した、ということで貴重な仏様ということで本尊として奉じの対象であります。

また二大竜神も現形され、それも本尊としておられます。

この二大竜神は法華経に出てくる八大竜神のTOP1・2であり共に兄弟です。

TOP1の兄の「難陀竜神」TOP2の「跋(ウパ)難陀竜神」です。

厳密にはジュンテイ如来の眷属とされていて如来などの存在ではありませんが、偉大な力を持っている。
だから阿含宗信者にはこの二大竜神様が守護してくださるという内容があり、本尊と同等の位置づけを持った尊であります。

ちなみにジュンテイ如来の両脇にはこの2つの尊が居られます。




だから単純追いをすると本尊だけで7体。重複するのを抜けば4体、となります。

それにしてもやはり多いですね。


阿含宗は法華さんのように阿含経も本尊だ、というのはやっていません。しかし多すぎる。
なんでこのようになるかと言うと「密教の観念」がその手伝いをしているからです。

つまり端的な言い方をすれば密教というのは「観念の世界」なのです。
だから如何様にでも展開が果たせるのです。

例を示すと例えば「変化身」という概念がある。
つまり何かの行動や体現を示すためには、その存在に変化する必要があるし、それが可能だというものです。

大日如来は法そのものです。ですからいつも定に入った状態で居られる。
しかし信者(または僧侶など)から法の作法を経て勧請される場合がある。

するとその効能に際し体現するために変化するというのがあります。

例えば祈願などをするとその顕しをする尊になる。
それが不動明王になったりするわけです。

大日如来変じて不動明王となる。不動明王になってお不動様持つ力を発揮される、というわけです。
そして信者など勧請した人たちがその尊のお力をいただく、というシステムです。それが密教にあるのです。



明らかに方便だとわかりますね。だっていちいち変身しなくても大日如来のままで力を発揮すればいいことです。
ところが教義上、そのままでは力が行使できない、という教義なんですよ。だからいちいち変身の必要がある。

または変身としなくても分身としてもいい。そういう概念が密教にあるわけです。
大日如来はその場所から動けない(動かない)のです。だから分身を以って不動明王に行ってもらう。

なんだかへんてこりんな感じがしますが、そういう物なんだと言われれば素人は騙されます。そういう宗教なんです。

だから方便だらけ、というのです。



だから密教の世界ではこういいます。

お釈迦様はあの世にいる時は大日如来である。
だがこの世に生まれてきた時は「釈迦如来」である。

また浄土としての働きを出す際は「阿弥陀如来」に変化する。
またお不動様の働きをするには「不動明王」にもなる。

つまり根本であり本体は大日如来なのだが、それがいく様にも変化できる、というのがあるのです。

だから本尊が基本的には三体あるのがそこなのです。

法身は「大日如来」
報身は「釈迦如来」
応身は「ジュンテイ如来」

そしてこの三身が一体となった大日如来の大日如来が「三身即一の如来」で阿含宗の最高の本尊とされている。

そして仏舎利でこれまた釈迦の御身。これまた本尊。

二大竜神をカウントに入れなくても5体。仏舎利と釈迦如来を一緒にしても4体の本尊が阿含宗にはあるということです。




どうですか?呆れてため息が出ませんか?


だからこのように山のように嘘が可能になるということです。




なんでこうなるかというと、全くのデタラメだからです。
お釈迦様はこういったものなど説いてません。ましてやお釈迦様自身を「本尊」などとはしていません。

またこれから話そうとしている事項は阿含宗の信者さんでも知らない事項があります。
実はこれがこのブログのネタでもあり旨味でもあります。

ですからこのブログを辛抱強く見てくださっている方は本当にありがたいと感じている私ですが、特別大サービス・・・とは大げさですがそれを公開します。




とりあえず今日は長くなったのでここまでです。次回をお楽しみに。

本尊について 4

2015-04-17 05:22:03 | Weblog

さて早速続きに参ります。

前回はお経の概略についてざっと話しました。

ブログを見ている方は「なんであのような話をしたか」と思っている方も居られると思いますが、なんでしたかというとこのブログを見ている方で仏教に詳しい人もいれば詳しくない人もいます。
詳しい人から見れば「わかりきったことを」ですが、知らない人にすれば「詳しい説明」になります。

お経が何でいっぱい数が存在するのか。またお経の大切さがほとんどわかりません。そのために回り道的ではありますが話したわけです。



お経というのは宗教が関係ない人から見ればただの訳の分からない言葉の羅列であり、ある種呪文を唱えているかのように映ります。

例えばお坊さんが葬式や回忌で法要があった際にお経を唱える。参席していればそのお経を読んでいるのに際するわけですが、さっぱり意味が分からない。
尚且つどこの宗派でもそのお経というのを大切にしているわけです。なんでそんなにお経が大事なのか、というのが素人はさっぱりわからないわけです。

ですから話を早く進めてゆくならば本当の概要だけ話せば早く話せますし、私も楽です。
ですが私が知っているからといってバンバン話を簡素&高速にしたら、読者は「なんだかさっぱりわからないや」になってしまう。

語るのは意味をなるべく理解してほしいからしているのですから、できるだけ解説するにあたってわかりやすいように行わなければいけない。
そういうのもあって行っています。

ですから読んでいて「あ、ここはわかるわ」というのがあったら読み飛ばしてください。
過去の引用もありますからね。



さて、お経はお釈迦様が説いた教えや法が記されているものであると述べました。
なれば今でいう「教科書」のようなものです。機器とかなら「説明書」と言ってもいいでしょう。

では何を説いたか?というと「成仏する方法を説いた」ということです。
そして成仏する方法というのは解脱、つまり煩悩を断ちきって仏陀になる。そして深い修行を経て完全解脱し涅槃へ入る。
これが仏教の最終目的であり完全な成仏ということです。それを成し得るための教えが記されているから重んじるのです。

ですがすべてのお経が皆お釈迦様が説かれた内容ではない。おおよその分類ですが阿含経以外は創作経典ですから嘘の教えが入っている。
しかし多くの人はそのことを知りません。

だから各々がその宗派の奉じるお経が正しいものとし奉じるわけです。
そしてお経によって奉じ方も違ってくる。


例えば浄土なら阿弥陀経が本尊になればいいと思いがちですが違う。
お経の中に出てくる「阿弥陀様」が本尊です。

浄土ではお経はあくまで解説書であり、仰ぐは本尊となる。そして本尊は?というと阿弥陀経に出てくる登場者である主役の「阿弥陀様」です。

ただ阿弥陀様は浄土にいる存在ですから実際にこの世にいません。だから掛け軸に書かれた阿弥陀様の絵や仏像などを拝むわけです。
阿弥陀様の魂を仏教にある「修法」という作法により絵や仏像に入魂する。分魂ともいいますが、とにかく難しいことを抜きにすれば意味は本尊の魂をそれらに入れる、という意味です。

だから墓や仏像にはその本尊の魂が入る(入れる)という意味で「お御霊入れ」という儀式(行為)を行うのです。




一方法華経はなぜお経に登場する諸尊がたくさんいるのに、法華経自体を本尊とするのか?です。

実は法華経は他のお経と違ってお経自体がとても素晴らしいものなのです。


おおよその概要ですが法華経には成仏するための方法がたくさん記されているといいます。
これは阿弥陀経のような浄土のお経とは全然違います。
また浄土は阿弥陀様という存在にすがるような存在、つまり阿弥陀様のお力によって成仏できるという方便ですから、これを仏教用語で「他力本願」という。

皆様もこの言葉を聞いたことがあると思います。

仏教には大きく分けると2つの成仏の道がある、といいます。(もちろんこれは方便です)

1つは本尊の力を受けて成仏する「他力本願」 もう1つは自分が努力・修行することで成仏を得る「自力本願」があります。

浄土の方は「他力本願」ですが。法華経の方は「自力本願」なのです。
そこが大きな違いなのです。

他力本願は本尊の救済力や誓願というものによって救われるというのですから、自分で何か特別な修行を行う、ということがありません。
その分楽ですし実際本尊に救済を求めることで良いとされています。拝んで何ぼ、が他力本願の趣旨になる。




一方法華経は沢山分派がありますからその宗派宗派で多岐に渡りはしますが、様々な修行をする風合いがある。
滝行をしたり、護摩を焚いたり、お経をたくさん読まれたりお題目をいっぱい唱える。またお遍路さんのような恰好をして法華の太鼓という物を持ち托鉢もしたりする。
浄土のように拝み倒すということがあまりないのが特徴です。

なぜそうなるかというと修行というのは拝み倒すことではない。やはりお釈迦様が指導されたのは苦行もあり様々な修行として体を動かすことである。
それらを修行法として説かれているわけですからそれらを行うわけです。

お経は修行法が書かれているわけですから、それを弟子たち(信者たち)は修行をすることで成仏できるという考えです。
それは全く正しいことです。

だからそのための貴重な修行法を書かれているお経こそが正しいお釈迦様の教えであり、珍重する価値があるというわけです。
それが理由でお経を本尊としてしまったというわけですね。

また法華経を修行してゆくと奇跡体験をした方もいるようです。だからますます宗教熱は上がるばかりです。

その最たる有名な話が日蓮さんの行動の中にあります。



日蓮さんは過激なほど熱く法華経の宣布にまい進した。その結果だんだん信奉者が増えていったわけです。

だが当時の日本国家はその勢いがあまりにも過激すぎて「やばい」と思った。だから宗教弾圧を日蓮さんに掛けるわけです。
当時ですから打ち首が決定されました。そして日蓮さんが処刑されようとする際に、空がにわかに曇り首切り役人の刀に落雷するわけです。

そこで日蓮さんは打ち首を逃れることができたのです。

これをみて政府も、打ち首では同じことが起きると考え「佐渡島へ島流しの刑」にしたのです。




だから法華経を信じる者は天からの救いがある、と思っちゃうわけです。激烈な体験ですよね。
また実際に遭った話ですから、これはかなりインパクトがある。

どういうのもあったり、また実際に法華経を信奉したら功徳が得られたというのが多数見られた。
それもあって法華経がかなり普及したというのがあるのです。



ただ宗教的奇跡体験や功徳が得られたというのは否定はしませんが、それだけで本当の教えであるというわけにはいきません。
問題は「本当のお釈迦様の教えであるか」というのと「成仏できるか」です。

法華経には成仏するための教えは書いていません。あるのは他のお経にみられない仏教を講じたら得られる功徳や効能の謳いなどです。

だから仏教学者さんでこのように法華経を見ている人がいます。

「法華経は仏教の解説書であり効能書である。しかしそれどまりである」

つまり如何に効能や何かを謳っても、いざその効果は?となると肝心のところが抜けているのです。
つまりどこまでも方便に過ぎず、成仏する方法がない、ということです。



そりゃあそうでしょう。成仏したことがない後世の人間が勝手に作ったお経です。経験のない人間が成仏する方法を書けるわけがない。
また仮に成仏する方法を知っているとしても、それを書いたら阿含経と瓜二つになってしまう。

だったら方便をかます意味がなくなるしできなくなる。
逆を言えば方便をかませることができなければ、お経自体に旨味も面白味も一切無くなるのです。




そうでしょう?だって法華系では様々な修行ということで行動を行う、と先ほど自分は述べました。
しかしそれらは後世の人間が作った行動概念であってお釈迦様の「やれ」と言われたことではない。

むしろ阿含経などがそうですが、お経は読み上げるものではない。
意味を読解し把握したらお釈迦様の示された修行を淡々と行うのが本当です。

滝を浴びたり護摩を焚いたり、真言やお題目を唱えることが修行法ではありません。
ひたすら煩悩解脱のための行動に専念するのが本当の教えです。



嘘の教えだからお釈迦様の教えと違った行動をするのです。ですがお経に「このようにしろ」と書かれたら本当の事項を知らない人は間違った方をしてしまう。
だから日蓮さんは真面目で熱い方でしたが、時代の波に勝てなかった。阿含経を奉じたらまた違ったのでしょうが、それが適わなかった。

時代というものは恐ろしいものですね。



今日はここまでとします。また次回。

本尊について 3

2015-04-16 19:44:05 | Weblog
それでは続きに参りましょう。

法華経の詳細についてはここでは語るサイトではないのでおおよそのことしか語りません。
ですから本格的に調べて内容を知りたい方は、学者さんの本やその他さまざまな人が解説している本がありますからそこで確認なさるか、ネットなどでも調べてください。

法華経は大乗経典の中で有名で仏教を講じる上で活用(信仰するという意味合い)されている方が多いです。
また実際一口に法華系教団というのも非常に数が多いです。

大雑把ですが普及した理由は沢山あるようですが、自分が知る中では「方便の見事さとお経の中身の豪華さ」かと思います。
また法華経を全面的に打ち出し普及させた「日蓮さん」の影響もありますし、法華信仰では奇跡などの顕れも多数あったりしてそれが信仰の普及にも影響しているのもあります。

ですから様々な理由でこの法華経というのが多くの方に信仰されたり信奉されているというのが見て取れます。



さてそれでは前章の最後の辺りで述べた「お経自体が本尊になる」ということを説明してゆきましょう。



まず端的にすぐ把握できるのが「お題目」です。
お題目というのは浄土で言うなら「南無阿弥陀仏」という念仏と近い意味合いに似ていてます。
そうです。あの有名な「南無妙法蓮華経」というやつです。

この2つに共通しているのは「南無」という言葉です。
サンスクリット語で言うところの「ナマス」(もしくは「ナモー」)という語の漢訳語が「南無」になっているので私たちは言語の発音せずに「ナム」と発音します。
そしてこの語の意味は「敬意・尊敬・敬崇を示し、宗教的には敬礼します、礼拝します」になります。一般的には帰依の同義語として使われます。

易しく言うと「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様に敬意・尊敬を表し崇拝します」であり、「阿弥陀様に帰依します」になり、もっと砕けると「命がけで阿弥陀様を慕い信奉します」という意味でもあります。

そして「南無妙法蓮華経」だと語を分解すると「南無」と「妙」と「法蓮華経」に分かれる。

意味を見てゆくと「妙」は「なんと不思議な」という意味合いになります。つまり「なんと不思議な力を持った」と言ってもいいでしょう。

ですから「妙法蓮華経」と1つで見ると「なんと不思議な力を持った法華経」ということになります。
そしてそのお経に帰依します。命がけで帰依し法華経を奉じ信仰いたします、という意味になるのです。

どうです?浄土のように阿弥陀様という存在を仰ぐのではなく、お経自体を仰いでいる、というのがわかりますでしょう?


また違う仏教宗派では「南無釈迦牟尼仏」というところもあります。また開祖を奉じているところもあります。
例えば真言宗なら「南無大師金剛遍照」という。

南無釈迦牟尼仏なら「お釈迦様に帰依します」で、仰ぐ対象がお釈迦様ですから架空の存在を仰ぐよりはまともではあります。

また「南無大師金剛遍照」は大師さまに帰依するという意味で、その大師というのは真言宗の開祖「空海さん」のことです。
「金剛遍照」というのは空海さんの別称(真言宗で言う別な名前のようなもの)です。

だから「南無大師金剛遍照」というのは空海さんを敬い信奉する、ということです。

あと法華系では「南無妙法蓮華経」と合わせてこういうのも言ったりします。

「南無日蓮大聖人」

これは文字で大体見当が付きますよね? そうです。法華経をしらしめ普及させたお方「日蓮さん」です。
その日蓮さんを敬い信奉する、という意味です。これもお題目と一緒に合わせて唱えられることがあります。

ですが開祖の信奉を除けば「南無妙法蓮華経」となりますから、これを見れば何かの尊を奉じるのではなく「お経自体を尊として奉じる」というのがわかります。

また私が阿含宗に入る前に仏教の勉強していたときのことですが、何の本かは忘れましたがその学んだ際に見た本にこう書かれていました。

「法華経というのはお経としての完成度が高く、お経を信仰の要とする体制が取られている」という内容でした。

最初は意味がよくわからなかったのですが、仏教の歴史やセオリーを見てゆけばそれがわかってきます。




お経というのは皆さん知ってのとおり、お釈迦様が生きていたころに説いた教え・真理や成仏の仕方、言動が記された記録であることがわかります。
まあ端的に言えば「お釈迦様が説いた教えの内容」が記録されたもの、ということです。

お釈迦様が生きていた時は現在のように紙やノートにメモする・記録する、ということがなかった。
また当然時代が時代ですからテープレコーダーもビデオもありませんからそういったものに記録はできなかった。
そして直に指導をされていたのでそれに従って弟子たちは修行をしたわけです。

お釈迦様が亡くなったあと、弟子たちは教わった尊い内容が風化したり後世に伝えられない恐れを懸念し書物に記録して残そうとした。
それがお経の作成された理由と原因です。

だからお経が尊まれるのはお釈迦様の説かれた内容が書かれてあるからというのと、その中には修行をしてゆくための内容があるからです。
つまり現代で言えば教科書のようなものです。ですからとても大事であるわけです。




しかしながら今までの前の章で述べたように法華経も創作経典です。本当のお釈迦様の教えを説いたお経ではありません。
なのになぜ多くの人にウケて信仰の対象として今に於いても奉じられているのか、です。

そこには歴史的なものもあります。

私が前に述べたようにお経がたくさん作成されたのは、方便を駆使した経緯により多くのお経が作られたというのがあります。
これは経緯としてはわかりますが、これだけではピンとこない。ですから私が過去に父から聞いた話をお教えしましょう。




ある日父がどなたかの葬儀に出ました。その際にお坊さんから説教を聞いてきたのを覚えてそれを帰宅した後私に話してくれたのです。

父はいいました。

「仏教には沢山のお経があるけどそれはどうしてかわかるか?」

そのことは学校で習っているのである程度わかりますが、子供ですから深くはわかりません。
また巷にあるお寺も「何々宗」と看板を掲げ存在する。数種あるのは知っていますからそれはわかる。
しかし深い意味など分かるはずがありませんから「わからない」と私は言いました。

すると父はそのお坊さんが言った説教の内容を教えてくれました。

お坊さん曰く「お釈迦様の説く教えというのは根幹があって本当は1つなのだが、それをストレートに説いてもすべての人が理解しかねるということがある。
例えば頭のいい人なら頭のいい人用に。頭がそうでない人にはその人用に。また世界は日本人ばかりではないというように様々な人がいる。
だからそういう人・人に応じて教えを説く必要があったから、教えを何種も説いた結果が「たくさんお経が存在する理由」になった。
いっぱいお経があるのはお釈迦様が必要に応じて説法を分けた結果なのだ」という説明でした。

なるほど、と思いその説明を自分も記憶しました。だから未だにその記憶があるわけですが、素人を騙すには最適な方便です。

そんなものは仏教の歴史を学べば嘘だというのがわかります。



確かにお釈迦様は対機説法・随機説法をされた方です。これは間違いではない。
意味は「人それぞれに応じ説法を変えた・された」ということです。

人に物を教えるということにはその人がわかるように教える必要があります。
ですから小さな子供に教えるのと大人に教えるのでは言葉も変えたりする必要がでてきます。

まさか大の大人に幼稚園生に物を教えるような方法のままで行ったら「お前馬鹿にしているのか」と言われかねない。
またある程度大人で知識のある人なら、深い内容や専門用語などを使っても大丈夫な場合もある。

確かに大人でも物の読解力や理解力が浅い人もいます。そういう人には難しい言葉や解説をしてはいけません。
ですからやはり人によって話し方を変えるというのは必要ではあります。

その事項を逆手にとって都合のいい話・解釈をそのお坊さんはしていた、ということです。
つまり最初から大乗仏教は偽物なんだと。嘘の教えが混ざっているんだというと非常に都合がよろしくない。
下手をすればお寺さんの存在さえ危うくなります。

だからそういう根本たる原因など言わず、方便でかます。通過できることを述べるわけです。
そして、見事に巷の人間はそれに騙されている、というわけです。




あとこういうのもありました。

私の叔父さん、つまり私の父の弟が23歳の若さで東京で亡くなった。
喘息もちの方だったのですが、ある日体調を恐し喘息の発作が強く出て病院で治療したが治せず、亡くなったのです。

東京は私のいる地域から遠いため東京で火葬したのですが、その際にお坊さんが法要の合間にする説教でこういうことを言ったそうです。

「実は今巷にある宗派は皆本当の仏教ではありません」と言ったというのです。

これは驚きました。学者さんや自分らのような一般人がその様なことをいうのならわかりますが、現役のお坊さんが自らそのように言う。
また火葬の際の法要で何人か人がいる前でそのように言う、というのはこれはかなりの勇気がいるわけです。

この方は本当にどういう人なのかと思いますね。

で、まだ話の続きがあります。



説教ではその本当の仏教ではない経緯の説明がある程度成されたとのことです。
そうなるとそのままではお寺さんの存在する意味や意義・価値が無くなってしまいます。
このお坊さんはよほどの正直者なのか、自らの首を絞める行為~在来仏教~本当の仏教ではない、ということを説教で暴露したのです。

ところがお坊さんも中々の物です。このように方便をかましたのです。

「では本当の仏教ではないと言って供養をしないとなると亡くなった方が路頭に迷うことになります。
ですから本当の仏教でないけれども、慰霊として供養をしている我々がいます。
先祖のご供養をするという意味でどうぞ今まで同様、各宗派のご供養を続けていただきたく存じます」

と締めたそうです。

なるほど、見事な説教です。こういう風に言えば素人はある程度納得しないながらも応じるしかない。もしくはお坊さんの説教に感嘆する。
先祖、つまり死者が路頭に迷う。生きている人が供養をしなくなると死者は困りますよ、と言っているわけです。

だったら仏教が偽物だ本物だ、は抜きにして先祖を供養する上で放置するんではなくて、在来仏教で行きましょうよと。
仏教を学んでいくと創作経典やら本当の仏教でないというのがわかるけれども、それで供養をしないとなれば非常によろしくない。
だからそういう現実があるにしろ、在来仏教しか供養ができないのだからしましょうよ、と述べているわけです。

これを述べられたらいつまでも偽物の仏教なんか講じてられるか、とそのままにはならないわけです。
つまりある意味正直でもあり、計算でもある説教です。

またこれは後でわかったことですが、この東京での事項は昭和48年の話です。
どこのお寺だというのは親は記憶してないというので調べようがありませんが、本当の話です。フィクションではない。

実は阿含宗の開祖がまだ前身の観音慈恵会ではあったが、仏教批判をしていた時期がこの頃の時期にあるのです。
なので巷の一部では「在来仏教のことと大乗仏教のこと」でタイムリーな話題として上がっていたのかもしれません。
そこをそのお坊さんが取り入れた。取り入れたがそのままではお寺さんの立場が危うくなる。だからかのように方便をかました。

巷の人で桐山靖雄が説いた「大乗偽仏教」を知っている人が葬儀社の中にいて訝しく思っているかもしれない。
または巷に広まった「大乗偽仏教」をそのままにしたくなかったのかもしれませんね。

いづれにしろお坊さんが正直に話した部分もありながらも、方便で締めくくった。こういう顛末があります。

ですから方便というのは中々手ごわいというか便利ではありますね。


今日は長くなったので以降はまた次回にします。それでは。

本尊について 2

2015-04-15 20:24:09 | Weblog
それでは続きに参ります。

前回の終わりは「仏教には救済や成仏を説きながら保証がない???」というものです。
厳密に言えばキリスト教でも神の存在や教えを説きます。
しかしそれの確証やもしも信仰をしたうえで得られない事項について「保証をせよ」という人も中々いませんが、いたとしてもその保証を宗教団体がしたというのはトンと聞きません。

こと宗教や信仰というものは「信じなければ講じるな」ですから、逆を言えば信じるのであれば信じとおす。
もしも信仰の途中で疑問に思い、それらが原因で信仰する気が失せる・辞めたい場合は辞めてもらうだけで信仰に費やした時間や金銭に対し、保証するなんてことはありません。

つまり「最初から保証云々がない」というわけです。保証云々を最初から求めるなら「うちではそういうのはやってないので信じられなかったら来なくていいですよ」と言われる。
そういうものだし現実的にはそのようになります。

つまり私のように信仰を始める前に「本尊は、教義は如何に」とやってから入るのが一番でしょう。
ですが大抵はそこまでやってから信仰をする、という人は少ない。

というかよく調べていけば浄土も法華も偽仏教ですから講じる気にならないのが落ちです。

つまり巷の多くを顧みれば

「よく調べないで信仰をしている」
「家の長年信仰している宗派だから、ということで必然的に継続(継承)している」
「あまり深く考えないで巷に倣って講じている」

というのが大半です。
だから騙されたも何も、ないままで信仰をしている、といった塩梅です。



しかしいざ信仰というものを深く掘り下げると色々なものがあるし、それを詳しく調べ把握するというのは中々皆がするということはありません。
だから「なんとなく」や自分が決意したり「よし」と思う物を講じてはいるが、それは本当の仏教か否か、といえば大概が偽物、嘘の仏教を講じさせられているということです。

そしてそういうことをいうと

「天照さんは阿含宗に入信した経緯で色々あったから考えたり学んで知ったからかもしれないが、一般の人には別にそんなのは関係ないし興味もない」というのが正直なところでしょう。
確かにその通りです。

ですが、では何も宗教に求めない、こだわらないのならなぜ講じるとか取り入れるのでしょうか?
それこそ私が行った公に多い「あまり深く考えないで巷に倣って講じている」のだからでしょうか。


そうだよ、というのなら私はとやかく言いませんし、このブログを見ても意味がないから見なくてもいいですよ、といいます。
というかこのブログを見た・見る、ということは宗教の何たるか、または阿含宗の関係する何かを知りたいからみているのでしょう?

だったら損はないから見ていってくださいとは言います。
そして端的ではありますが仏教の正しい教えの片りんを覚えてもらう。また阿含宗の嘘やインチキを覚えてもらう。
そしてそれらを役立ててもらえば幸い、と思っています。

どう活用するかは個人の自由ですから個人の選択については私は基本的にあれこれ言いません。
ですから興味があったり学びを得たいのなら「どうぞ見てください」とはいいます。
くだらない、役に立たないと思ったら、見なくて結構です。





話はそれたので元に戻りますが、なぜ私がこのように深く掘り下げるのかは、自分自身が得た情報を皆様へ届けるためです。
宗教や仏教に関係がある方々に考えてもらう機会を提唱しているのです。

宗教のしの字も知らない人でも、私の言うことは普通の理解力がある人ならわかるように解説していますし、さらには仏教の解説書や学者さんの書物などでも確認が取れる。
尚且つネットで簡単に調べることもできます。今はそういう便利な時代です。


提唱の事項を挙げると今回は「本尊について」を語っています。
なぜこの項目をテーマとして語っているかというと宗教には本尊が欠かせないからです。こと仏教(大乗仏教)に於いては尚更です。

そしてその本尊というものを考察してゆくとどうもきな臭いものがでてくる。いわゆる欺瞞です。
それを述べるためにテーマの1つとして掲げて語っているのです。




端的にいえば本尊は信仰の核でもあり要です。大乗仏教の説く成仏や救済の面で欠かせない存在です。
だからそれがまさかの「偽物」であったり嘘であったならどうなるか、です。






浄土で言えば阿弥陀如来が本尊です。しかしこの本尊が本当に存在するのか?というと浄土のお寺さんは「いる」といいます。
いないとは言わない。なぜなら「居ない」と言ったら今で説いた教えや体制が「詐欺」になってしまうからです。
だから嘘でも絶対にいる、といいます。

ただしこの世にいるとはいわない。浄土にいる、といいます。

しかし浄土というのはあの世、ということであり確かめようがない。死んだら本当に浄土があるのか、阿弥陀様がいるのか確かめられるが死んだら生き返れない。
だから死んで確かめようと思っても無理です。つまり確かめたくても確かめられない。

それを利用したのが宗教だよ、ということなのです。
そしてそのことに対して保証などしないよ、というのが私が一章の最後に言っていた事項です。



つまり浄土では阿弥陀様の存在や誓願の内容や信仰としての働きなどを説いてはいるわけです。
しかしそれが本当かなんてのはお経の内容の精査や経緯などでは暴けるが、阿弥陀様の存在の有無や浄土については「ある」のごり押しで通される。
そうしないと浄土信仰が崩壊するからです。


ですから阿含経をみて判断するしかない。お釈迦様が本当に浄土を説いたか。またお釈迦さまが浄土系のお経で阿弥陀様を推奨しているがそれが阿含経にもあるか。
またそういう内容があるのか、を調べれば一番です。

結果を言いますがありません。そんなものをお釈迦様は説いてはいません。ですから阿含経には阿弥陀様も浄土も出てきません。
また浄土の方のお経で説くような内容もほとんどありません。




そうなるとここからが私の強く提唱したいところなのですが、よく聞いてくださいね。

皆さんの親や親族・家族が寿命や人生上生きていれば必ずいつか亡くなります。すでに亡くなった方々を先祖といいますがその方々同様自分も含めいつか死ぬ。
そうしたらまずお世話になるのがどこかの宗旨・宗派です。そして日本人の大半でお世話になるのが「仏教のどこかの宗派」です。

するとそこで葬式はおろか回忌などでお寺さんのお世話になってゆくのが常です。
葬式や回忌は無料でやってはくれません。必ずお布施(お金)が必要となる。

またお金云々もあるが、一番訴えたいのが「人の死後の安心」つまり「成仏の有無」です。

生きていた人が憎たらしく「死んだら地獄に落ちればいい」という人物ならいいですが、大概は愛しい人だったり敬愛する人が多いでしょう。
だったらその方々が亡くなったらとても悲しいし、成仏してほしいと願いますよね。

そして葬式や回忌というのは死んだ人を供養する儀式であり行為なわけです。
それを大枚はたいて行うというのは、やはりその愛した方々を懇ろに葬りたい。ご供養したい。または成仏を願うから行うわけです。



ところがその供養や成仏に関わっているのが「本尊」です。
しかしその本尊が存在せず、また唱えるお経も何の意味もなく、効果もない。成仏云々とは関係ないとわかってたらあなたはそれでも金を払うのか?ということです。

巷の慣習に倣い行うから別にいいよ、というのなら私の言うことは無視していいです。
そういう人には私の訴えや内容は別に何の意味もない。

しかし自分の愛する人への供養や成仏が叶えられる、望めると思うから葬式や法要を行うのだ。
そういうことを目的に法要などをやっている人は欺瞞がわかったら「何?やっても無駄なものに自分らはお金を払い時間を費やして損じているのか」と憤りを感じませんか。



また先般の「供養について」でも述べましたが、阿含宗だけでなく新興宗教教団や在来宗教(仏教)にいて「個人でも供養したい」と思っている人は家の仏壇などにお花やろうそく、線香や仏飯、お水を供え、お経などを上げたりする。
その様に懇ろにご供養している人は沢山いるはずです。

ところがそういう供養はあまり意味をなさない、となったらどうなるか。
また信者が身捧げするほどの、または篤い信仰心を捧げる対象の本尊が「創作物」または「架空の存在で実在しない」となったらそれでも仰ぐのでしょうか。

それこそ極端な物言いですが、空中に向かって拝んでいるのと同じです、といってもあなたは喜んで行うのでしょうか、ということです。
掛け軸の絵に向かって拝んでいる。これはただの絵に拝んでいるだけに過ぎない。またはそこに本尊の魂があるとかという設定の中に騙されて拝まされているということです。

本当はそこには本尊の魂もなければ先祖の霊もいないのです。それでも喜んで拝み・供養行為をするというのでしょうか。




私にすればそれこそが異常行為です。




それがわかるからお釈迦様は先祖供養というのは「死者を偲ぶ」ということを説いたわけです。
そこには何か供えろ、とか供養のための存在(本尊)を拝め、などとは言わない。そんなことは絶対にお釈迦さまは提唱しないし、本当の供養ではないからです。

本尊についてもそうです。実在しない架空の存在を拝んでどうするのか。
また、なんでもできると思われたお釈迦様さえ「自分を拝んでも何もないぞ」と言われている。
如何にお釈迦様に自分たちの先祖の成仏を真摯に祈ったとしてもお釈迦様は「自分は死者をどうこうできない」と言われている。

生きている人さえ成仏へ導くのも「その当事者の努力と悟りの得方次第だ」というのですよ。
つまり生きている人さえ「どうこうできない。自分は道を示すのみである」と言われている。

つまりお釈迦様自らはっきりそのように言われているのに、大乗経典ではお釈迦様が阿弥陀さまを推奨したり成仏せしめる事項を挙げつらっている。

完全な矛盾ですね。



だから大乗経典はお釈迦様が亡くなった後の後世の人が勝手に作った経典だ、というのがよくわかりますね。



法華経にしても同じです。ただ違うのは法華経は講釈が多いのと諸尊がたくさん出てきます。

それだけでなく最たる主旨で見てゆくと完全に他とは違う特色が出てきます。
それは本尊云々というよりも「お経自体が本尊」になっている点です。

すごいでしょう?浄土のように何かの尊が本尊ではなくて「お経自体が本尊」なのです。



また法華系は系列の派によってそれ以外のものに尊を置くこともオプションさながらに存在します。

例えばある派は「法華経曼荼羅」も本尊であるという。
ある派は日蓮さんが本尊でもあるというのです。
または3つとも本尊であると言うところも。

こうなると本末転倒ではないか、と思うほどです。


今日はとりあえず、ここまでとし次回も続きます。それでは。

本尊について 1

2015-04-14 20:52:28 | Weblog
どうも天照です。

しばらくぶりに数日前から当ブログを更新したのもあって、知り合いの方よりご意見も頂戴しました。その意見は

「個人的要望になりますが、先祖供養の説明についてもっと詳しく解説をしてもらえたら幸いです」とありました。

リクエストにお応えはいたしますが、先般説いたばかりなのですぐに同じ項目を話すと興味のない方に迷惑になりますので、再度詳しい先祖供養の解説をする前にワンクッション置く。
つまり一度別な話をしてから要望の方は後日改めて行うこととします。

それで今回は 本尊 について語ってゆきたいと思います。

宗教ではほとんどのところが「本尊」が信仰の要・重要対象物となっています。
つまり易しい言い方で言えば「本尊がすべて」「本尊なしでは信仰する対象がなくなる」というくらい必須で重要な存在といえます。

一部の宗教ではそういう物から外れますが、大半の宗教、特に仏教に於いてはもっとも要たるものです。
ですから本尊がいない、もしくは役目を成さないとなれば途端に信仰心が失せる、または崩壊するというくらい影響力があります。

例えば法華系信仰であれば法華経および法華経曼荼羅が本尊ですし、浄土系なら阿弥陀如来が本尊です。
もしそれらの本尊が「意味をなさない」となったら、途端に信仰が止まる。または意味がほとんどなくなります。

なぜなら本尊は信仰を進める上で、信者に偉大な力を与えたり守護してくれる、というのもあります。
仏教では特に「成仏」ということに関わるわけですから、これは重要事項です。

つまり信仰自体をすることで得られる効果のようなものです。それが無くなるということですからどうしても要になる。

浄土なら死後浄土に於いて居らるのが本尊ですから、その御許に信者が死後行けると。
その浄土で安楽を得れる~来世成仏が果たせるという教え(仕組み)ですから、本尊が浄土にいない、となれば全く信仰の甲斐も意味も無くなります。

また死後の先祖らもその浄土に居られる、ということになっています。
わざわざ戒名をもらうのはそういう意味合いもあるのです。

ですからそういう物が保障されないとなれば、全く講じても意味がないということが発生します。
なので宗教や信仰を講じる上で教義の中に「本尊の重要性」があるわけですから、それが果たせない、では話にならないのです。





それではよく見てゆきましょう。

仏教の歴史を知る人にはすでに承知の事項ですが、法華経は大乗仏教のお経で創作経典です。
浄土の阿弥陀経も同様でどちらもお釈迦様の説かれた本当の内容からかけ離れた・逸れた内容を記したお経である故にお釈迦様の本当の教えは入っていません。
厳密に言えば、お釈迦様の説いた内容が全くゼロ、というわけではないが、ほんのわずかしか入ってません。
つまり大半の部分が創作であり別なものに変えられていて、それがお釈迦様が説いた教えである、という風に展開しているわけです。

仏教の歴史を見ればこのことは私が法螺を吹いてない。嘘の事項を述べてはいないというのがわかります。

大乗経典群というのは多岐にわたりかなりの数があります。それはどんどん方便を駆使してお経を作り上げたからです。
また仏教学の研究では「方便が通用しなくなるたびにお経を作った」という説もあります。

だから山のようにお経があるわけです。またそれに伴い宗派もできた、というわけです。

その山のような数あるお経はなぜ発生したのかというと、最初から歴史を追うとお釈迦様が亡くなられてから500年後の後、二大分裂が起きます。
つまり阿含経を元にお釈迦様の言った修行法を守り実行してゆこうという派と、お釈迦様が亡くなられてからかなりの年月がたち時代も変化している。
グローバルな考え方や教えでないとなかなか人は救われないという考えの派と意見が対立した。

そこで阿含経を持つ派は「そういう考えには賛同できない」ということで砕けた考えの派を追放した。
追放された派は追放されたのでお経を持ってないわけです。内容は勉強したのでわかってはいるが、阿含経と同じものを作っても「パクリだ」とわかるし言われる。
また阿含経に書かれている内容はそのグローバル化を目指すものたちにはあまり芳しくない内容だった。

なぜなら阿含経に書かれている内容の実践は当時の巷の人間が実行(実践)できるようなものではなかったからです。

現代や近代に於いてでは可能な面がありますが、昔は今ほど科学も民衆の学力も低かった。
字も書けない・読めないという人が多かったし、生きてゆくために働く、つまり労働に時間を費やすことも多かった。
余裕も生活の整備も整ってなかったということですね。

そういう人たちにお釈迦様が説いた教えは高根の花であり実行できる人は限られていたわけです。
そういう物を打開したくてグローバル化を考えたのですから、お釈迦様の説いた内容を変えるようにするしかなかった。
だから追放された人たちが教団を持つ上で必要なのはお経です。

そのお経を丸パクリでは意味がないし内容も変更できないではグローバル普及は無理です。
だからお経を自分らで「作り上げた」のです。

だから大乗経典は内容が方便だらけなのです。





そして現実的なものとしてお釈迦様の直説の阿含経を持つ派と自分たちでお経を作った派と対峙がなされた。

民衆にはなかなか内容を実行しがたい阿含経よりも、字も読めない・書けない輩でも救済してくれるというお経があったらどっちを選ぶでしょうか?

勝者は後者の方です。例えば大乗の方はお題目や念仏で誰でも成仏できるという非常にイージーなもの。
阿含経はひたすら煩悩解脱しないと成仏できないという厳しいものです。

字の読み書き云々よりもその中身の易しさに民衆は惹かれたわけです。そしてウケた。
一方阿含経を保持している方はだんだん廃れ、没落寸前までいった。ほとんど目も向けられない状態となったのです。

これがおおよその流れです。




こういった仏教の歴史だけでなく、お経の解説をしている方の文献や資料などから精査してもわかる事項があります。

例えば阿弥陀経や法華経を解説(訳した)したものと阿含経の訳したものとを比較してみてもわかります。

阿弥陀経や法華経に記されている成仏の定義や方法が全然違います。そして阿含経と比較しても違います。
お経からの定義分析だけでは昔は判別できかねたので、仏教の歴史というものを調べたわけです。
そしてその歴史からどのお経が本当の教えを説いているかというのが判別できたわけです。

また阿含経には他のお経に出てくるような諸尊が全く出てきません。
尚且つ本尊というものがない。そういう観念がないのです。

一方他のお経は必ず本尊が出てくる。この差はいったい何なのか、と学者さんたちは調べたわけです。
するとやはり歴史上でわかった事項、方便を説かずにいられなかった事情が分かるわけです。

だからジャッジとして大乗経典は「創作経典」と言われているわけです。




また本尊を追ってゆくとわかります。

阿弥陀経などの浄土の方ですと「阿弥陀様」が本尊です。お釈迦様はすっとばして、です。

厳密にはお釈迦様は一応一番上の立場にはなっています。しかしいざ信仰となると裏へ引っ込んでしまう。
阿弥陀様が前面(全面)に出てきてその浄土信仰の役割や要となっているからです。

これを易しい言い方をすると、阿弥陀様はお釈迦様と同じ「如来」ですから高位の位置にいるわけです。
ですが高位と言いながら真理を体得し法を説いたのは「お釈迦様」です。だから本当はお釈迦様が本尊でなければいけない。

ところが南無阿弥陀仏と唱えるのですよね。南無釈迦牟尼仏ではなくて、です。
また浄土の仏壇にかける掛け軸や葬式の時にかける掛け軸の絵は「阿弥陀様」です。お釈迦様ではない。

実は阿弥陀様はお釈迦様の推薦する「仏」なのです。だからお釈迦様は高位にいながら浄土では裏へ引っ込むのです。
そしてお釈迦様が推奨した「阿弥陀様」を拝む・信仰するわけなのです。

実はこれは方便以外の何物でもありません。そんなことをお釈迦様は実際してないし、言ってもいません。
完全な作りものです。

だからへんてこなことになるのです。

また教義も違います。浄土の世界では阿弥陀様への信仰心の表しである念仏を唱えればどんな人でも救われるという慈悲の力が教義です。
南無阿弥陀仏と一生のうちに10回唱えれば誰でも浄土に行ける、仏弟子となり阿弥陀様の救済力に預かられる、ということです。

これだと字が読めない・書けない人でもすぐに実行できますよね?だからウケたんです。


また浄土は作法などの面で煩くない。同じ仏教寺院でも宗派によっては「何々を所定のところに指定通り供えよ」というところがある。
そういったものが煩くないというのも浄土の魅力であり、普及した理由の1つです。

とにかく煩い事はないし、内容もイージーで簡単だ。尚且つ誰でも救われるとなればこれほどありがたいものはない。
方便恐るべし、です。




ところが方便というのはやはりどこまで行っても方便でありますから限界があります。
例えば如何にイージーであろうが、問題は成仏できるか、本当に救済されるか、です。

ところがここが宗教の恐ろしさなのですが、そんなものは保証がありません。



え?救済や成仏を説きながら保証がない???

そうです。保証などないのです。だって見えない触れない感じれない事項のどこに保証ができますか?

例えば物を買ってそれが腐ったとか壊れたなら保障や弁済・返金の保証の請求ができます。
しかし対象物は人の死後や見えない世界の事項です。
それに「和尚も補償」というダジャレが昔流行りましたが、その文言のようにお寺さんや宗派の代表がどのように保証をするのでしょうか。

そんなものは見たことがありませんよね。

つまりは説くだけ説きながら「保証が一切ない世界」なのです。
だから宗教はある種問題でもあり解決が付きにくいものなのです。

今日はここまでとします。次回をお楽しみに。












供養って何?5(ラスト)

2015-04-13 03:41:59 | Weblog
さて、次は3つの供養の効能のある最後の「自身供養」についてお話ししましょう。

「自身供養」と聞くと何を想像されますか。

文字で追ってゆくと「自分を供養する」となりますから何だか少々変な感じですね。
信仰の対象である本尊を供養すると言ったり、先祖を供養するというのならニュアンスでわかりそうなものですが、自身供養といわれるとさすがに馴染みがない。
ですが説明していくとわかってきますので、お読みください。

実はこの自身供養というのはその名のとおり「自分を供養する」で間違いないのです。
では自分の何を、または何に対して供養するのか?ということです。

それは自分自身が解脱するために自分を供養するということです。解脱を得るために自身を供養するということです。

阿含宗の定義(教学)ですと人は様々な因縁に縛られていると説きます。
その因縁というのは良い因縁もあれば悪い因縁もあります。良い因縁を善果と呼び、悪い因縁の方を「悪果」といいます。
(善果を善因果、(善因縁)悪果を悪因果(悪因縁)とみても同様です)

善果は過去世および現世での善い行いにより生じた良い結果です。
阿含宗ではこれを「徳」と呼びますが、この善果のお蔭で良いことに出会ったり良い影響を受けたりします。
ですから何か幸いごとに遭遇した際にはよくこういうことを聞くでしょう。

「それはあなたに徳があるからでしょう」

つまり善果のお蔭で良い果報を得られたが、それはあなたにそういうものがあるからでしょう、という意味です。
巷的なことばではありますが、たまに聞く言葉ですね。



一方善果の逆は悪果です。これはもう察しがつきますね。悪い・よくないことです。
ですからこれも巷で聞く言葉としては

「不徳の致すところです」とか「普段の行いの結果があらわれました」というようなことです。
徳が足りない、つまり善果が足りない、および悪果の影響で良くないことに出会ってしまった、ということですね。

この善果・悪果は大きく分けると2つのものがあります。
それは自分自身に依る物と、自分自身ではないもの、です。

自分自身はわかるのですが、自分自身でないものというのは「家系にある悪果」や「外的要素からの障害」を指します。
つまり自分が生まれた家系や先祖が作った悪果を自分が受け取るという様相を指します。

つまり自分自身が発生させた悪い行いではなく、すでに生まれた時から受ける、または生きている最中に受けなければいけない外的要素です。
例を示すなら親や親族が起こした失態のせいでその影響を受ける。

例えば親が事業に失敗し借金を抱える。そのせいで生活がエライ目に遭う、などもそうです。

借金は親が作ったものです。子供が作った因果ではない。だが同じ家に住む家族ですからその影響はあったりする。

また他人の保証人になったせいで借金を背負うなどのことを受ける場合などは「外的要素からの障害」を受けた、といえます。
ですからこういう場合は「自分に起こしたものではないが、縁故所以で被害をこうむるようになった」というのは自分が生前に過去世で作った悪果の報いを受けているという表れとみるわけです。

だから悪果は自分が悪い行為を起こしてその因果を受ける場合と、自分は何もしてなくても悪い人生を送る・影響を受けるという2つのものがあるというのが大きく分けるものです。





お釈迦様はこれに対しそのように説いてませんが、阿含宗では「この悪果相殺を修行で果たす」といったことを則します。
つまり滅罪消善、悪果を善果で相殺するという理論です。

単純に言うと悪いことをしたのだから良いことをして埋めればいい、という考えです。
借金をしたら働いて返せばいいというのに似ていますね。

お金などはそのようにも可能ですが、これが悪果となればなかなか容易にはいかないものです。
ですから信仰の力を以ってそれを成し遂げるというものです。

つまり本尊の加被力、釈迦の成仏法を以って過去の罪障や先祖の罪障を消すための作業を行うというわけです。
そのための行為が「勤行」と「梵行」となるわけです。

勤行はお勤めですいわゆる宗教儀式・行為です。所定の作法に従いお経や真言をあげる。これが勤行。
この勤行のお蔭で日々過去の罪障を和らげてゆく。または相殺のお力をいただくわけです。

また勤行だけでは当然駄目で善果を積まなければいけない。しかし世の中で良いことをして返す、といっても程度もあります。
如何に世のため人のためになる行為をしようとしても、なかなかそれが毎度や多く行動することはできない。

ここでまたもや本尊の登場です。

本尊は万徳円満と称され徳が甚大に所持されている存在とされています。
ですから本尊に供養を差し上げることで、その本尊の持つ徳を回向してもらう。
自分たちに徳を授けてもらうということです。

そしてその頂いた徳を悪果と相殺してもらう、ということなのです。




それを聞くとシステムとしてはわかりますが、本当にそれができるのか?というと本尊は人間ではない仏様という存在です。
ミラクルなパワーを持っているとされる存在です。ですからそれが可能だと言われたら従ってしまうのが信者さんです。

本当はこんなことは嘘っぱちですけどね。

だから信者さんは勤行を毎行い、梵行という積徳のための行動をするわけです。
そしてそのための積徳というのはご本尊様のために尽くす。つまり教団のためになる行為を行う。

教団の道場には仏様がおられます。仏様の御許で誠心誠意体を使ってご供養する。
道場の清掃やら様々な運営に関する行動がありますが、それに参加し奉仕する。
つまり仏様の手足になって身を尽くすことで仏様からお金をいただくのではなく「徳をいただく」ということなのです。

ですから信者さんはただ単に家でご宝塔を前に拝むだけでは駄目だよと説かれるわけです。
そしてそれに従い行動をするという仕組みです。


また中々生活の関係で道場に行ってそういった活動ができないという人は「財供養」というのがあります。
つまりお金をご本尊様に供養してそれを梵行の一環として役立ててもらうという考えです。

ですから物凄く忙しく遊ぶ暇もない方も信者さんにはおられます。
例えばお医者さんなどがいつ緊急で患者さんの手術や対処にあたらないといけない、というものがあったりします。
信仰の内容はわかっても中々おいそれと出向けない。

しかしお金ならある程度多く持っている。なのでお金を道場の運営などに充ててもらい梵行の一環としてご供養をする、というのもあります。
ですからお金による布施も徳積みの一環としてあるわけです。

なので体を使ってご本尊様に追善のための行為をする。これも「自分への供養」なのです。
そして過去の罪障滅罪を成すためにご本尊様にご供養し、そのお力をいただく。




そのためには勤行が必須であるというわけです。ただ道場に行き体を使って奉仕しただけでは徳はいただけない。
信者になってご宝塔をいただく。ご宝塔御前において勤行をする。そして梵行をするということによって因縁解脱が可能になるのだ、という教えです。

ですからこの3つの教えが一体化しているのがその理由です。

まずは本尊供養をする。そのお蔭で因縁解脱するためのお力をいただける。
次に勤行をすることで先祖への供養が適う。勤行を行うことにより生じる成仏力により先祖へ成仏力が届くからです。
そして自分の過去の罪障を減らす・相殺するためのパワーをもらうのも勤行にはある。

だからこの3つの効能が阿含宗にあるので最高の信仰であるというわけです。






効能だけ聞けば「はあ、なるほど」と思いますが、これらは観念であり創作された妄想です。
現実的にはこのような効能は「ありません」

なぜなら本尊は架空の存在だからです。
例えばウルトラマンとか仮面ライダーが実際にこの世の存在しますか?
あれは着ぐるみや服・マスクなどを人がかぶって行っている特撮、またはドラマでしょう?

本当に実在するといったら精神病院へ行け、となりますよね。




ならばそれと同様に各種の本尊らが本当にいるか、です。
お釈迦様はそのような諸尊の存在や敬いを説いてません。
ましてや阿含宗の言っているような内容など微塵も説いていません。

それは阿含宗の教義である内容は後世の人間が考えたものが入っていたり、教祖が考えた概念です。
ですからデタラメであるし本当の仏教の事項ではない。

もしも仏教自体がその様なことを唱えているとすれば、それはお釈迦様自体もエセということになります。
しかしそのようなことはお釈迦様は説いてません。お釈迦様以外の別人が考えた嘘の事項なのです。

だから効能の保証もないし、効果も現れない。
ただ信じた人が踊らされて終わり、なのです。




なので3つの効能もありません。何の効果もないと言っていいです。
せいぜいあってフラシーボ効果ぐらいでしょうね。

そんなものは宗教効果といえるでしょうか?
逆を言えばそんなものが仏教であり宗教でしょうか?

全くナンセンスです。





そういうわけで解説の中でたくさん「供養」という言葉が使われていましたが、非常にこの「供養」というのは使い勝手がよく多用されます。
ですが本当の正しい意味でどれだけ使われているか?となると、それを分かっている人は少ないです。

ですから詐欺宗教に騙されやすいのです。




また詐欺宗教だけではない。在来仏教もしかりです。
馴染みの深いお寺さんなどが多く存在し、また自分たちも何か縁があれば接する機会もあるでしょう。
修学旅行などにお寺などを今はどれほど歩くのかわかりませんが、昔は修学旅行と言えば寺院回りが多かった。

別にお寺さんに子供らは興味があるわけでもなく、学びたくて行っているわけではないが通例としてコースが組まれている。
なのでそこでお坊さんの説教やら、または巷で何か仏事に際してお坊さんと接することがあったりするわけです。

その際に供養の大切さを聞かされたり、または自分の見聞きしてきたように巷でご供養といえば供え物や読経、そしてお寺さんに法要を頼むなどがある。
墓参りも供養の一環です。本当に供養というのは多岐にわたり多く使われている。




そういう中で本当の供養とは、というのは正しい仏教を知ってこそ意味があると思います。
巷にある供養は本当の仏教の供養ではありません。




ということで供養についてざっと話してきましたが、一区切りとしてはここまでです。
以降は別な話などにも触れてゆきたいと思います。

それではまた。





供養とは何?4

2015-04-12 13:06:31 | Weblog
さて、次は3つの供養の効能のある2つめの「先祖供養」についてお話ししましょう。

皆さんは「先祖供養」と聞くと何を連想されますか。
以前、私が述べた巷にある「供物を供える」またはお経や真言を唱える、ということや墓参り、またお坊さんに法要をしてもらうことが浮かびますね。

自分が今から30数年前に高校を卒業して、ある専門学校に通っていた時期がありました。
学校は実家から離れた都市にありましたので下宿に住んでそこから徒歩で学校に通っていました。

その下宿の大家さんは年配の女性で一人で暮らしていました。
大家さんは下宿の下働きをしてくれる人を数人雇って経営していました。
そこに一年間お世話になっていたことがありました。

そして朝6時ころになるとどこからかお経をあげる声が聞こえてくるのでした。
それは大家さんの声でしたのですぐに大家さんと分かりました。

聞きますと旦那さんは数年前に他界されたのと子供たちは皆独立しているとのことで一人暮らしをしているのです。

そして大家さんは供養心が篤いので自分で毎朝お経をあげるだけでなく、毎月お坊さんを呼んで法要もしてもらっていました。
それを見て私は「かなりご供養をされている熱心な人だなあ」と感心したものでした。

その後阿含宗に縁を得て自分は入信するわけですが、自分もその大家さんのように毎日お勤めをする、というのは全然予測していませんでした。
でも先祖を懇ろにご供養する、となればそのくらいはあって当然だろう。

自分も長男ですからいづれ家の先祖を供養する時が来る。
だから阿含宗のお勤めをしているときは「面倒くさいなあ」と思う傍ら「全然供養心のない人と違って自分は若いうちから率先して供養をしているんだ」という自負を持っていました。

このブログを見ている方はお分かりと思いますが、自分は今は捨てましたが昔はにわかでしたが霊感がありました。
そして毎日供養して先祖がどのように反応するか非常に楽しみにしていたのです。

ところが肝心の先祖は何も言わないし見えもしません。反応がない、という感じです。

あれれ?どうしてだろう。
まあ自分のにわか霊感では察知できないのかもしれない、とそれから数年様子を見ました。
でも全然変わらず「何もなし」なのです。

そして20数年経って阿含宗の嘘に気づきます。そこでわかったのでした。
阿含宗の勧めている供養法など「デタラメだ」ということです。




これはかなりショックでした。
謳い文句は「釈尊直説の成仏法で様々な供養ができる」
「強い霊障を持たない先祖は勤行で成仏させることができる」などがあったからです。

まあ完全成仏は阿含宗で行っている「解脱供養」というものでなければ無理というのがわかっていましたから、日々の勤行は解脱供養をするまでの間の安息となる。
そのように思って毎日お勤めをするわけです。

ところが何の反応もないのですね。

当たり前です。お釈迦さまは阿含経のどこにも「死者を成仏させる」という記述はないからです。説いてないのです。
阿含経には「私は死者をどうこうできない」と言われているというではないですか。
(厳密には生きている人さえも自分はどうこうできない、とさえ言われています)


桐山靖雄はそういうことなど全然知らせてくれません。むしろ逆ばかり教えて信者を騙しているのです。
これには本当に憤りましたね。




自分は阿含宗の中にある様々な功徳や能力開発も魅力ではあったが、信仰をする最たる目的は「先祖供養」であり、先祖の完全成仏を望んでいたからです。
ところがそれが果たせないとなればなんで講じる必要がありますでしょうか。

教祖はさも自分だけが死者を成仏させることができるように言っています。それが全くの嘘だったのです。
また日々行う勤行は阿含宗より以前のよそ様の教団の祈祷法に使っていたものをパクりアレンジした代物だったのです。

ですから祈祷専用ならまだしも、やれ供養ができるだの功徳が授かるなどは真っ赤な嘘です。

つまり信者さんらは真っ赤なウソを教えられ、それをせっせとやっているのです。
効果の得られないやっても意味がないに等しいことをやっているのです。


だからいくら・長年拝んでも先祖の一人も成仏するはずなどありません。
自分のつたない霊感であっても感知しなかったのは当然だったのです。


それがわかって間もなく阿含宗を辞めた理由がその最たるものでしたね。
やっても効果がなければ意味がない。当然のことです。





また「供養って何?2」で書きましたが、お経や真言を唱えてもそれがどのように機能するか、です。

死んだ人はどこに行くかわからない。転生したら供養する実体(対象)がいないわけです。
そうなったら供養の意味がない。

また仮にあの世にいたとしても、供養を届けるすべがありません。
お経は何の意味もないし、ただの文字の羅列を生きている人間が唱えているだけに過ぎない。
それこそ歌を歌っているのと変わりがない。そんなものが供養になるか。

食べ物も生きていればこそです。死んだらどうやってあの世に届けるか?
できませんね。

だから極論ですが供養という行為は「生きている人間の満足」にしかならないのです。

そしてお釈迦様はそれがわかっているから死者の生前を偲ぶ以外は対象者は生きている人間。
つまり出家者や貧者・弱者に布施することなどを挙げたわけです。
供物を上げたり何かを供えてそれが供養だとか、お経や真言を唱えてもそれが供養だなんて微塵も言わない。

こういうことがわからないから阿含宗に騙されたのです。




阿含宗の教学には

「ご宝塔の前で勤行をするとご宝塔に込められた「成仏法」が成仏力になって発せられる。それが先祖へ届く力となり死者供養となる。」というのがありますが、これは真っ赤な嘘です。

つまり信者はその成仏する力を得るために勤行というものを用いて、お力を引き出す。
そんなものは想像や観念です、目に見えるものではないし実際効能も確かめようがない。

だからそういう確かめようもない事項を用いて商売をするのが宗教詐欺の手口なのです。


なんだかんだ言ってもお釈迦様がその様に言われたのならまだわかる。
しかしお釈迦様はそういう「宝塔を拝め」とか「宗教的儀式をして力を得よ」ということは言っていません。

全く馬鹿げたことをやらせているのが阿含宗なのです。



ですからいくらやっても、どのように篤い心を持ってご供養しても「本当の供養」ではないので無理です。
また釈尊の説いた先祖供養というのは巷にある供養ではないのだから、これまた至極当然先祖には届かないのです。


だから先祖供養といそしむのはよろしいが、本当の意味を分からなければ「ただの自己満足」か「徒労」になるということです。



それでは次回は「自身供養」の説明をします。