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天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

日本人だからこそ騙される??? ②

2017-12-11 19:28:16 | Weblog

早速前回の続きに参ります。



さて、本当の仏教とは如何に?



というと仰々しいな、と思うでしょうが、本当の仏教の詳細はかなり煩雑で多岐にわたります。
だからそれを全て覚えて・・・となったら、それこそ学者にでもなれるでしょう。尚且つ難しい内容の物も有る。


そういうことを覚えろ、と私は言っているのではないし、尚且つ在家としてどうすればいいかが肝要だと思っています。
それをベースとして基本みたいなものを把握して置けば良い、と思っています。だから「簡単だ」というのです。


では、どういうものか、を挙げてみます。



【 本当の仏教の内容 在家簡易版 】


1)五戒を守る
2)煩悩解脱に努める
3)常識・良識・道徳・法律・憲法などを守り、悪業を作らない
4)世の中や他の人と和合し、自他共に利益を守り暮らしてゆく
5)善行を努めて行う
6)釈尊の正しい教えを覚え、その内容をできるだけ実行する


大体これらですね。この中でできることを多く実行することです。



機会が有ったらこの事項らを説明したいと思いますが、それは将来に譲るとして、今は本題の説明に参りましょう。




「日本人だから騙される」というのは私の見解です。必ず正しいとは言いません。

ですが、自分が40年程人生で経験してきたのと、阿含宗に携わり経験してきたこと。また巷を見て分かったことを総合すると、自分的にはそういう風に見えます。
つまり厳密に言うと「新興宗教や在来仏教などに慣れ親しんだ日本人は結構騙される」ということです。

そして将来的に誤解を招かないために先に言っておきますが、決して「阿含宗のようなものだけに騙されていることだけを指しているのではない」ということです。

つまり阿含宗などの新興宗教や新宗教などはもっともなことですが、それ以外にも在来仏教にも「軽度以降の騙しに遭っている」ということも含んでいます。
つまり人によっては在来仏教寺院であっても重度の騙しに遭っている人も居る、ということです。

つまり総じて言えば「詐欺宗教に居る人や偽仏教に居る人は大抵騙されているんだよ」ということです。



そういうと「ならば世の中の多くの人はほとん騙されている、ということにならないか?」という人がいると思いますが、それは「正解」です。
そしてこの事項に気が付いている人や警鐘を発している人は「ほとんどいない」ということです。

なので、如何に私ごときが叫ぼうとも、世の中は変わらず動き進んでいる有様です。

ただ、そういう中このブログに来て真摯に考えてくださる人がいて、その方々が何らかの対策を講じるとか、特に大事なのは「阿含宗の関係している人」が欺瞞に気づき詐欺から回避できることです。
それが一番願うところであります。


何で本当の仏教を、と訴えるかというと、本当に仏教はオカルト性がほとんどなく、尚且つ詐欺行為をしないからです。
一方、巷に多く存在する偽仏教や詐欺宗教は信者を食い物にし、信者を駄目にします。また信者も損失ばかり多く、意味のないことをやらされている。

こんな無駄であり、損失ばかりの行為をして何があるのでしょうか?



それよりも本当の仏教を知り。それを講じるにはさほどお金もかからないし、手間もかからない。
中には仏教の戒などが「煩わしい」という人もいるでしょう。だったらいっそのこと「本当の仏教をやらなくてもいい=無宗教になればいい」も提唱します。

だったら無駄金も使わず、別に詐欺に身を置きこき使われたりすることもない。



確かに死者(先祖など)を懇ろに供養したい、とか成仏を願う、というのはよろしいことです。
死んでしまった者を供養したい、と思う気持ちは何も悪くない。


ですが、そこにつけこんで詐欺を働くのは許せない、ということなのです。
そして詐欺の1つ1つを撲滅、をやろうとしても、それは実際的に無理がある。

だったらてっとり早く確実なのは「騙されない人が増えること」が一番ベストなわけです。


如何に詐欺師や詐欺教団があろうとも、それに引っかかる人がいなければ、いずれ詐欺師も教団も滅びます。
だから一番効果的なのは「詐欺に逢わない。騙されない」のが一番なんです。



そのためには「本当の先祖供養とは何か」または「本当の仏教の先祖供養と何か」を知ることです。
そして知ってしまえば、如何に嘘をついても嘘がわかる。その結果騙されない。

もしもそうであっても騙されるとしたら、その人が悪いのでそれは個人の責任ですから「どうしようもない」
だが、普通の常識や良識と正しい情報が有ったら、普通は騙されません。



本当の仏教の知識が無い人が多いから、私は騙されていると思います。
そして日本人ほど、間違った観念に絆されているのが非常に多い。



人の持つ「優しや」や「想う心」を利用して、詐欺を働く。とんでもないことです。
お前の先祖は何々だ。成仏してないぞ。色々言って信用させ、餌食にする。



そんなバカな行為よりも「本当の仏教の内容」を知れば、後は嘘ですから騙されない。
まあ、阿含宗は「わが教団こそが本当の仏教教団だ」と言っているのでタチが悪いですが、では本当の仏教の内容を知ったらどうなるか?

阿含宗の言っていることが99%ほど嘘だ、とわかるのですね。だからそこが肝心だから言うのです。



昔は「うちの教団こそ本当の仏教だ」とか「うちの教団は本当の真理を説いている」など言うのが多かったですね。
皆がそのように言うので、どの宗教が本当かわからないというのがありました。


でも、これらに惑わされるのは何度も言っているように「本当の仏教を知らないから」なんです。
だから騙される。


ぜひ、そのことを念頭に置き、仏教を講じたいのなら「本当の仏教を講じる」または「宗教なんて面倒くせえ」というのなら無宗教で良い。
変に宗教にかぶれたり、変な宗教に入って嫌な思いをするくらいなら、その方がいいです。


それでは、次回より違う章で話をしてゆきたいと思います。

日本人だからこそ騙される??? ①

2017-11-28 21:14:12 | Weblog
毎度このブログで言っていることですが、阿含宗の内容に絆されて騙されるには原因があります。
それはその入信する人々の動機如何や傾向などが阿含宗の呈するものに合致して居たり、何らかのものが一致する故に信じる。
そして入信してしまう、というわけです。

これはどの宗教もある傾向であり、入り口ではありますが、さてそのことに対し深く考えたり調べてから入信するのは遅くないと思います。
しかしながら多くの人は入る前に良く確認したり調べてから、というのはあまりしないで入る方が多いようにも見受けます。

なぜならそんなに宗教に詳しい人が世の中や自分の周りにいつでも居る、という環境を持つ人などいないからです。
次に多いのが、今は昔と違ってネットと言う物がありますが、それをどうも活かしきれてない。

聞く人が傍に居ない、というのがあっても、ネットを使える環境の人なら、割と本気で調べれば結構情報は得れる物です。
ただ、阿含宗のようにある程度大きく、また情報が出ている教団なら良いのですが、そこまで至らない教団、もしくは阿含宗よりも小さすぎて情報が入らない場合などは、騙される危険性は高いでしょう。

しかしながらそういう別な教団はともかくとしても、阿含宗に関しては良い情報も悪い情報も出ているわけですから、良く吟味してみれば分かるはずです。



さて、入信するにはいろいろと動機がある、と言いましたが、それらを全部上げると下手をすればその項目だけで半年は食いますので全部はやりません。
いわゆるきりがない、というやつになりますので、抜粋して話す程度に留めます。


まず、多いのがこれらだと自分は見ます。


1)先祖供養や死者成仏を願うための入信
2)因縁解脱をしたいがための入信
3)超能力獲得系をしたいがための入信
4)守護霊・守護神を得たいがための入信
5)本当の仏教を求めて、の入信


これらは項目分けですから細かく見てゆけば細分化されます。が、それはきりがないのでやりません。
ですから、皆さんはどの項目に当たるかを見て行ってさっと「ああ、これかもな」という風に把握してください。


この中で多いのが「1と2と5」が圧倒的です。「3と4」は昔はある程度多かったですが、今はかなり入信動機としては少ない傾向ですね。


そうなると当然着目すべきは「1と2と5」になります。そしてその中でもっと多いとなると「1と2」、となります。



何でそうなるかというと、これは私個人の見解ですが、どうも日本人の風習というか過去からも受け継いでいるであろう傾向にマッチしているものがあるからだと思います。


それは巷を見てもわかります。


例えばどこの家に居てもよほどの宗教嫌いな家とか親とかの影響を受けない限り、普通であれば生まれながらに「家の代々の奉じている宗派」というものがあり、そのお寺などに参ることがある。
または縁者の関係で葬式などを行う場合はほとんどが「仏教形式」が大半であり、その場に参加したり見ることがある。

後は自分個人は左程宗教に関心など無いが、結婚する関係で、特に女性などは男性の家に「嫁ぐ」というセオリーで結婚しますから、旦那になる人の家の宗派に沿うことになります。
婿に入る場合などは女性の家に「婿に入る」という形ですから、女性が男性の家に嫁ぐ、の逆になりますが、宗教云々のことをいえば今度は男性が女性の家の宗派に沿うことになりがちです。

そうなると個人的に例えですが女性が「キリスト教」を奉じていたとします。ですが、嫁げば相手の男性の宗派で仏教であれば、そこの別に宗派の人間になるわけでもないが、沿わねばならない。
男性が婿に入れば、女性の家の宗派に沿う形となる。

稀に「男女どちらが嫁いでも宗教は各々であり、別」という家や人も居ますが、それは本当に少数であり多くは私の言うような形になっていてどちらかの家の宗派に沿う場合が大半です。



そしてその宗派に沿う、となると多くの寺院や新興宗教のやっていることは、本当の仏教の内容は少なく、大半が「間違った内容」を講じています。
ですから、どうしてもその宗派の内容に沿う、となれば、間違った内容のまま講じさせられる、ということが起きてきます。



そしてその間違った内容のまま、というのはその宗派宗派によって違いがありますから、これも全てを述べきれない。
仮に述べたとしてもこれもまた半年ぐらいかかるような有様になる。書く方も大変だが、読む方も大変です。



それよりも正しい仏教の内容を把握して置けばその方が楽です。なぜならその正しい仏教の内容を基準として計れば、どこがおかしくてどこが間違いかがわかりますから判別しやすい。
またただし仏教の内容はそんなに多くないです。なので、覚える方もラク、というのがあります。


私はそこを推奨しています。



また本当の仏教を知れば、嘘がわかります。
仮にすぐにわかりかねるときでも、一旦保留して置いて後で調べてみれば、相手の言ったことが嘘か本当か確認することもできます。

つまり総じていつも私が言っている「本当の仏教を知れば詐欺に遭いづらくなる」「詐欺を回避できる」というのがあります。
私はせめて世界中の人が・・・というのは無理でしょうが、せめて日本の人。もしくは私のブログを見た人は「そのように成って欲しい」と思っています。



何でかというと、詐欺に遭う、と言うことは何もいいことが無いからです。
時間やお金、その他大切な物を奪われるからです。そして奪われるだけで得るものは、ほとんどない。
有るとしたら痛い目に遭うとか損をして「勉強させられる」ぐらいのものでしょうね。

人間という物は危険や被害を察知して、そういう物から回避することをするものですが、中々それがうまく行かない場合もある。
さすれば、回避できないのであれば良く聞く「痛い目に遭って分かる」「自ら体験をして分かる」ということになる。

出来ればそういう目に遭わず、危険やロスを回避できるのが一番なのですが、それができない場合がある。
ならばせめてその痛い目に遭う期間や時間、痛さの程度を少なく・軽くできれば良いでしょう。

そのために先人や経験者は色々言ったり、伝えたりしているのです。
それを活用すれば回避出来る人は回避したり、回避できなくても軽減したり、とあるはずです。


ただし、しがらみとかがある人はそれができないこともあります。
そういう場合は回避、というのは難しい、という人も居ます。

ですが、そういう特殊な人以外でしがらみがない人なら、回避しようと思えば大抵はできるものです。
ぜひ、できる人はやって欲しい物です。




さて、タイトルにあった「日本人だから騙される???」ですが、そこなのですよね。


実はこれは私の過去の経験も踏まえていまして、それで特に思ったことです。




阿含宗に在籍していた頃、当然自分は欺瞞を知りませんから自分の知り合いというか縁のある人に全部(全員)というわけには行きませんが、まあある程度の人に布教をしたわけです。
そして中には日本人で有りながらキリスト教を奉じている人。また外人さんにも果敢に(笑)布教をした時期も有ります。


そこで経験したことはこの両者は実は「非常に布教が通用しなかった相手」でもあったのです。



それは良く考えてみれば分かることですが、仏教とキリスト教では教えも考え方も大分違います。
特に大きく違うのは「先祖供養が有るか無いか」でしょうね。



そういうと「キリスト教を馬鹿にするな。キリスト教だって先祖供養に類すものがある」と言う風に言う人がいます。


私は当時は「はあ?何を言ってんの?」と思いましたが、厳密に言えば仏教のようなものでの「先祖供養」という物は確かにないんです。
ですが、本当の仏教と比較してみれば「近い物がある」んですね。


私にそのように息巻いた人が言うには


「まあ、仏教のような先祖供養という物は確かにキリスト教はやらないが、死者を懇ろに葬ったり墓を参ったり、などをするよ」ということでした。


それが彼の言う「先祖供養」という物でした。




当時は私も頭が阿含宗の欺瞞で一杯でしたから、彼の言った言い分は理解できなかった。
だが、後年本当の仏教を知ったら「ああ、なるほど」と理解したのです。




今回はここまで。また次回。

番外編 阿含宗の開祖亡き後の継承について

2017-11-15 01:34:22 | Weblog
本来は今回のようなものは書かずに別な話に普通は行くのですが、ちょっとネタにもなるかと振ってみることにします。



5ch「心と宗教」内「阿含宗という宗教287」に、久々に投稿しました。

アド https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1507206426/



ここの記事ナンバーの「720 729 730 732 734 735 736 737」は私の投稿です。




滅多に普段は投稿せずに「見るだけ」なんですが、準老人が阿呆なことを言っているので揶揄した次第。
まあ、揶揄といっても正論込めての揶揄ですが。


そこに反論してきた人がいたので、迷ったがやはり「言った方が良い」と思ったので5chに今回投稿した次第。



そこの該当記事を読んでもらうとわかりますが、阿含宗の嘘がダイジェストに記してあります。
キリが無いので全部書きませんでしたが、あれでも一部です。
有名なのを出していますが、まあ呆れること強し、です。



以前、開祖が亡くなってしばらくの間論議されたことが主ですが、それが時間が開祖が亡くなってから一年三ヶ月ほど経ったので、情報としては薄れてきたのでしょうかね。私の言っていることはここ一年弱に語られたことです。


ですが、やはり掲示板というのは流れも速いですから、前の記事を・・・と思っても探せない場合がある。
というか本当は厳密に言えば探せば出て来るものですが、探すのには難儀します。
だから探さない人が多いようではあります。



そこで過去の蒸し返しではないですが、触れるというのも勉強になるのと、また過去の記事を見てない人のために再度触れるというのも悪くないものです。なのでそれも含め、文句を言いたかったのも有って投稿しました。




皆さんには気づいて欲しい物があります。それは阿含宗が如何に偽仏教で詐欺宗教であるか、ということ。
開祖 桐山靖雄という人間が如何に嘘つきで詐欺師か、ということです。そして現阿含宗では相変わらずに「ヘンテコ運営」をしているというのも。



まあ、それの引き金になったのは開祖が原因です。
開祖がちゃんと後継者を選んで名指ししていれば、まだ良かった。

ところが、それをやらなかったんですね。
それについては諸説あります。

(本当はそれも全部5chに書こうかと思ったが一部に留め、止めた)




1つは「開祖は自分、及び自分の親族や血縁者だけに阿含宗の継承をしたかった」
1つは「自分以外を信じられない性格なので、他に継承したくなかった」
1つは「偽仏教であり、詐欺宗教、インチキ宗教ですから、継承がマトモな人にはできなかった」


本当は探せばまだあるのでしょうが、大体こんなものでしょう。
そしてこの3つは一番大きな理由であろうと思いますね。


1つめは「利己主義故の未継承」2つめは「懐疑心故の未継承」3つめは「欺瞞がバレルのを恐れての未継承」

その様に自分は考えています。




細かく言うとこういうのがあります。(5chに書かなかった桐山の心象背景)


和田は阿含宗に関わることを全部知っている。尚且つ桐山の嘘やインチキは当に承知している。
なのでそういった裏の裏まで分かっているので、敵に回すことができなかった。
それで和田を桐山も好きではなかったが、どうにもできなかった。


深田さんは若い頃から阿含宗に居て開祖の傍にいた人物です。
また私たちがヒクほど、開祖には従順だった。

かなりの叱咤や罵倒?のような事をしても、全然逆らうことなく、いつも従っていた。
それこそ自分ならキレテて開祖を殴ったかであろう位の仕打ちをやられても、怒るどころか笑って従っていたほどです。

だから信者内では「気持ち悪い」とか「マジMじゃねーの?」とか思っていた人がいたほどです。



まあ、でもそういう姿を見れば、如何にインチキ教団であろうとも、深田さんの献身度を見ていますから、

「ああ、次期管長は深田さんだな」と思うのは間違いないのがあった。



だけども、開祖はそれをしなかったんですね。次期管長には名指ししなかったんです。


それはおそらく「深田さんを開祖は嫌っていた」もしくは1つめの理由の「親族や血縁者以外に座を渡したくなかった」
つまり、開祖は深田さんを「使い捨て雑巾」と思っていたのかもしれませんね。



また和田を指名しなかったのは、やはり如何に裏を知っている人間とは言え、好きではなかった。
開祖はただ、和田を切り離さなかったのは「弱点を掴まれていから傍に置いた」だけなのです。
しかも教団の利権や高位の役職に就かせて置いていた。


下位に置いたら阿含宗の暴露をされますから、それはできない。
そういう事情があったわけです。



で、如何に高位といえどもまさか「次期管長」には名指しできなかった。
それは色々推測はできますが、一言で言えば「したくなかった」ということでしょう。

だから最後の最後まで和田に「次期管長を頼む」という言葉は発しなかったのです。




で、後は5chに書いた通りで、本当は開祖が名指しをすればまだよかったが、それはない。
ならば、次に来るのが「宗規則」です。


ですが、これも5chに書いた通りで、親族・血縁者が継承しなかった。



私はこれは当然と思います。
なぜなら昔は三女さんとかが阿含宗の副管長をされてた時期がありましたが、長くはやらなかった。
そして親族では奥さん以外は誰も後を継がなかったんです。


それこそ開祖の子供さんは三人いますが、皆女性です。だから直系男性というのはいない。
まあ、天皇制とは違いますから、必ず継承は男性だけ、としなくてもいいけど、できれば男性の方が良い。

だが、それが叶わないわけです。



そして今度は女性でもいいから、誰かやルカ?と言えば、あの過去の三女さんさえ手を挙げなかった。
というか、誰もやりたがらなかったのですね。


何故か?それは「阿含宗がインチキだらけ」というのを分かっているからです。
次には自分が言うように「宗教のしの字も知らない人」が出てきて、いきなり「今日から私が教祖です」と言って果たして教団が機能するか?です。



また信者もいくら規則だからと言ってそれで従うはずがない。
そうなると、教団は事実上、持たない。




尚且つ、今の推測を捨てても、ずぶの素人にある程度のでかい教団ですから、それを運営するとなれば大変な負荷です。
とても素人には負いきれない。




尚且つ宗教的行為が前もって教わってないので、一昼一夜にして「教祖でござい」とは無理がある。
後は真面目に運営に携われば、如何にインチキをやっていると知らなくても、後々分かることとなる。


そうなるとまともな人間なら、阿含宗をずっとやってゆこう、なんてできなくなる。





また、これは別な人の推測論ですが、阿含宗は借金が多いというのがあるようで、それを返すのに大変である、というのもある。



確かに資産としてはある程度物もあろうし、金も有るだろうが、借金もまた大きいだろうという推測です。



私はこれは推測でもかなりリアルな話だと信じています。





なぜなら阿含宗は色々行動をする上でお金は信者から入るものの、全てを借金無しで行うことは不可能であったと見ています。
それはやはり箱もの、と言われる阿含宗の関連施設の建設などにお金を使っているからです。



それらを全部信者の浄財で賄えたらいいのですが、そうは行きません。
先に建築物を建てたり土地を所有しているので、それらにお金が必要です。


ならば、銀行から相当の金額を借りている、となります。
そして返済をしているが、また何かしらの物を建てたり、活動したりなどでお金を使うことも有ります。



するととてもじゃないが、信者の浄財だけでは賄えないし、お金が貯まってから行動するのでは後手後手になる。
だから、推測でもあながち外れてはいない、というのが自分の読みです。




結局、借金はいづれ返さないといけない。返すのだが、その分信者から取らねばならない。
だから結局は如何様にして信者を騙したり、増やす必要があるわけです。

そういうノウハウや能力も教祖は必要とされます。
それに対してズブの素人がやれるかどうか?





となると誰も親族で「私、教祖やります」と言わないのは当然、となってきますね。




だが、全く放置もできない。放置すれば教団は無くなります。
そうなると今までせっせと「詐欺をしてきた輩」は飯が食えなくなる。




ならば、「親族や血縁者で誰もやらないのなら、私らが代わりにやりましょう」というのが、和田であり、深田さんらなのです。
つまり、開祖は亡くなったが今まで開祖の周りにいた人や、教団に関わっていた人は沢山いるわけです。
その人たちが「自分たちがやりますが、いいですか?」と言われたら、親族は「OK]をするのは当然となります。




なのでこの辺りの関係ができているので、宗規則である「桐山の親族か血縁者が継承する」というのは、本来ならば「宗規則違反」ながらも、和田や深田さんらが「後継者となって運営する」というのがまかり通るのはそこなのだ、というのがわかりますね。






さあ、いざそういうことで実際の継承は「和田と深田さんが2TOPで行い、他の所も今まで通り阿含宗に居た人たちで運営する」となりましたが、そこでまた問題です。


それは「誰が実質的TOPか」ということです。




すると本来ならば資格的や要素的には次期管長は「深田さん」なのですが、和田も入り込みたいために「2TOP体制」にした。
これを聞いて私も呆れました。




というか私の予想では「表向きは管長は深田さんだが、裏では和田が仕切る」そのように思っていました。
どこまで行ってもナンバー2で和田はいるが、それは形だけであって本当は裏から糸引きをやるぞ。そのように思っていた。



ところが、実際は「私もTOP」としてきたのだから、唖然です。





尚且つ肝心の法の面でなどで、しゃしゃり出てきた。
つまり深田さんをメインではなく、和田自身をナンバーワンにして各行動をして、深田は「法務部ナンバーワン」のままにした。
要は和田の実質的教祖立身、または開祖亡きあとは深田さんを「開祖同様よろしく飼い犬継続」という風にしたわけです。




これには私も呆れに呆れてしまいましたね。





この体制に対し、信者は?というとこれまた何も言わない。
それこそ深田さんじゃないんだから、何かあるか、と思ったら信者は不満に思っても「何も言わない」んですね。



それを見て「あー、終わったわ」と思いましたね。







仮に開祖が生きているときに和田に特別指導みたいなことをしていたら、今の行動はわかります。
もしも個人的に和田が好きではない、としても、如何に阿含宗が偽仏教であっても、法的な物を継承したり会得している人物ならば従うしかない。



しかし、和田はそういう物が開祖生前の時に無かったわけです。



確かに阿含宗内では「高位」の人で「財務局長」をやっていて、尚且つ関西では「ほぼ管長と同じくらい影響力と権威がある」なんて言われてましたし、何か行事があった際には壇上に上がって話をしていたこともある方ですから、全くの裏方であり、ただの金庫番ではない、とは思っていた。

だけど、実際は肩書きのとおり「財務局長」より上の地位ではなかったので、認めがたい物があるわけです。



それこそ開祖が生前嫌でも「副管長」にしていれば、管長亡きあとはやはり次期管長は「副管長が成るべきだよな」と成るものです。
しかし、前述でのべた通り「それは無かった」



つまりただの財務局長が開祖が死んでからいきなり「教団TOP」になるのですから、おかしなことです。
また深田さんをTOPにして、裏から操るのではなく、表に出て色々やっているんですよ。だから呆れた。



結局、和田は開祖が死んだことを良いことに、表へ出てきたわけです。そして実質教団を牛耳った。
だが、いきなりかなりの表だったことをすれば、さすがに全信者が反発しますから、ある程度に抑えて今のようにしている。

ある種、まだ我慢しているんですよ、和田は。



本当はもっと堂々と「開祖亡きあとは私が新管長です」としたかったでしょう。
しかし、それをやったらまずい。危ないわけです。


だから今のようなスタイルでやってゆき、後々支配する予定でしょう。
もしくは今のままでずっとやってゆくか。





でも、退会した私には、別に関係ないことです。
発展しようが衰退しようが「関係ない」

自分が望むのは「阿含宗の壊滅」です。






如何に人を騙して、その上がりで食っているのか。のさばっているのか、です。
詐欺で身を立ててそれでいいのか、です。




開祖はそれが目的だったから、そうなのでしょうが、何も知らない人たちはそれに沿わせて良いはずがない。



それこそ開祖宜しく「詐欺でも何でもやる」というのなら、許しません。
容赦なく攻撃(批判)します。




ただ、すぐにでも辞めたい。または足を洗うというのなら、歓迎します。





阿含宗は開祖桐山靖雄が作った偽仏教教団であり、詐欺宗教教団です。
そこで得れる物は「嘘と虚空と効果なし」です。




ぜひ、皆様も阿含宗の欺瞞について早く気が付いてください、と願うばかりです。

それでは。






天照 質問に答える⑥

2017-11-01 07:02:14 | Weblog
【 質問⑥ 】

先の質問⑤の中の「追記」に有った事項についてですが、その中の「自分の頭で考える」というのを推奨されていましたが、どうも疑問が立ちます。

確かに言っていることはある程度わかりますが、限度も程度も有るかと思うのです。

尚且つ難しい問題や内容に於いては答えを出せないこともあろうかと。そうなると「自分の頭で考える」の範疇を超えてしまってどうにもならないのではないか。

決して他人の言いなりになることを推奨するわけではありませんが、自分の頭で考えることにも賛同できかねない気持ちがあります。

天照さんの言いたかったことを詳しくご教授いただけたら幸いです。

_______________


うーん、やはりあれだけで「理解してね」というには無理がありましたか。
というか自分もあれだけでは書き足りないし、完璧に説明ができたとは思ってませんでしたし。

だから質問をされた方のような意見が出て来るだろうというのは予想してましたが、それが当たってしまった感じですね。



まず分けてみると把握しやすいかと思います。

肝心なのは2つあります。1つは「他人の言う事を真に受けないように注意する事」というのと「自分でも考えてみる。もしくは考察や検証をすること」この2つであろうかと思うのです。



まず最初の方の「他人の言う事を真に受けないように注意する事」を見てゆきましょうか。



これはある種捉え方によっては「人の言う事を信じるな」とか「疑って掛かれ」という教えにも繋がります。


実は私はこの考え方が嫌いでした。




よく世の中には子供の頃から人の事を疑って掛かる癖のある人がいたもので、その人をみて「うわ、嫌な性格」と思ったものでした。
あと、大人に良く見られた傾向ですが、何かあるごとに反対意見を言ったり、まるで逆らうのが好きな人が居ました。

とにかく「はい」とか「うん」というのが嫌いなのでしょうか。その人からそういう言葉を一回も聞いたことが無いんですね。
そして話を蒸し返すというか反論して場を濁したり嫌な雰囲気にさせたりしたものです。


私はそういうのを見て本当に毛嫌いするほど大嫌いでした。




前にも言いましたが自分はどちらかというと「人を信じてもしも騙されたとしてもそれの方を選ぶ」という変な信念を持っていました。
だからその真逆の「何でも疑って掛かる人」が大嫌いだったわけですね。



しかし人生を生きてゆくとやはり詐欺師ほどの人間に遭うことは少ないけれど、軽度の騙しに遭うのは何度か有るわけです。

するとやはりそういう経過を得てみると今までは「人を信じる方を選ぶ」としてたくせに、やはり面白くないわけです。




そして何度もそういう目に遭って考えるようになりました。
やはりどんなに人に騙されても腹が立たないお人よしならいいが、自分はそこまで至らない。やはり腹も立つし面白くない。

といって疑って掛かる人間にスイッチするのも嫌だ。


考えた結果出た答えは「まずは人を信じるのと並行して、その内容が正しいかなどを精査・判別する」これが大切でないか、と思いました。


ただ、中々そういう性格にすぐに成れないために上手く行けたことは少ないですけどね。
でも自分が持ちたいスタンスは「人を信じつつ内容を精査してから判別する」と騙されないで済むんですよね。
尚且つ疑って掛かるわけではないから、自分が嫌う「疑いだらけ」になるわけではない。
それこそ例えるならリサイクルで物を出すときに「査定してもらう」のと同じ感じで、自分が相手の提示したものを確認するだけなんです。

調べたうえで正しければ相手を信じれば良いし、正しくなければ相手を信じなければいい。
また調べが浅く自分の過失で騙されたとしたら、それは自分が悪いともなる。

何も確認しないで信じるから騙された時に腹が立つわけです。いわゆる「智慧が無い」から騙されるんです。



だから相手に悪意があろうが無かろうが、自分に入ってきたらそれをチェックする。
良いも悪いもそれは横に置いて、まずは確認をする。そこで善悪というか良い・悪いを判断し、自分にそれに関わっていいかどうか。
また遠慮すべきことなのかを判断して回答すればいいのです。


何でもかんでも相手の言い分を信じて応じたら、中には騙されるような事項に遭って損をしたり嫌な思いをするのは当然です。
相手の内容に何も悪い物が無ければいいが、皆必ずそういう物ばかりとは限らない。

相手を信じたばかりに嫌な思いや損をするのが嫌なら、ちゃんと精査するべきなのです。



これは特に阿含宗の事だけでなく、人生上で必要な物だと思っています。
ですが、こと阿含宗のような詐欺宗教はこの世に沢山存在します。

ですから、そういう魔の手から自分が被害に遭わないためには、そういう姿勢が必要だと言っているのがあるわけですね。





次にもう1つの「自分でも考えてみる。もしくは考察や検証をすること」です。


先の1つで答えが重複しているので答えてしまった形になるのですが、考察や検証が必要なのは先に言った通りです。
そこで必要になるのが「自分でも考えてみる」という形です。


なんでか、というと考えは他人まかせに出来ない面が多いからです。
また他人が言ったことをはなから全て重用するなら、これもまた「他人の言いなり」にもなるからです。


そりゃあ決して他人の意見やアドバイスなどを無視しろ、と言っているのではありません。
それこそ自分で何でも経験するに越した事には無いですが、人生でまさか全ての事項を経験することは至難の業です。

例えば男性にはお産の経験は無理です。また極端な事項の経験も多くの人ができるものでは無い。
やはり人生で自分が経験出来る事項には程度というものがあります。

そういう場合には経験をした人の内容や意見が役に立つ場合があります。それを活用するのも1つの手なんです。
ただ、あくまで参考というものもありますから100%活用せずに、活かす方向で活用すべきでしょう。

そしていろんな意見やデータが集まったら、今度は自分の意見なども加味し判断することになるのです。

これらを総称しての事を一言で言っているのが「自分でも考えてみる」ということなのです。





そういうと「色々意見やデータが集まると迷いが生じて選べなくなる」とか、逆に意見やデータが少ない事項の場合などは「選択が少なくて迷う」などもあるでしょう。

そういうときはではどうするか?というと、最終的な判断は「自分が選ぶしかない」んですよね。




それこそ、そういう迷いの際には「花占い」ではないが、そういう手法で選ぶ人も居ますでしょうし、適当にどれかを選ぶ人も居るでしょう。
または自分以外の誰かの選択に委ねて自分で考えるのを止める人も世の中には居ます。

これもこれはこれで選択は選択なんですよね。
ですが、決定的な違いがあります。それは「自分で判断したかどうか」です。

他人に任せる、という判断を自分は下したのだから、これも一種の自分で判断になる、という人も居るでしょうが厳密には違います。
私の言う「自分での判断」は本当に純然たる100%自分での判断だけを指します。だから他人に任せるのは「自分の判断」ではありません。



私の言う「自分でも考えてみる」というのは「自分で総合的に考えて自分で決断して判断したことを指す」のです。
ですからこれができない人は「自分で考えた」とは言わないのです。




世の中には人生で何度か大事な選択をしなければいけない時があります。
中には選択を間違ったので痛い思いをしたり嫌な思いをしたことがあります。損をしたことも有ります。

人に騙される・騙されないは別にしても、です。



なので、自分も過去を思い出して「あの時あっちの方を選べば良かったのかなあ」と思うことはしょっちゅうあります。
ですが、タイムマシンでもあってやり直しでもできるのならまだしも、それは不可能です。

選んでしまって進めたら、その選択に応じた結果が出るのですから、もう終わりです。




ただ、深く考えずにやった結果の選択で失敗に終わったものほど後悔の念は大きい。
やはりしっかりと考えて選択を間違わないようにするべきだと思います。




だからこのことから普通の人生でも色々あるわけですから、こと詐欺に関しては注意せねばならないと私は言っているわけです。
尚且つ宗教詐欺は余程の事が無い限り、命までは失うことは無い。

さするにちゃんと用心し考察し検証して行けば未然に防げるものが「宗教詐欺だ」と私は思っています。





そこで宗教詐欺で一番まずい物と言えば「ロクに考えもせずに無条件に信じる」ことと「深く精査しないこと」この2つが騙しに遭う要因だと自分は結論付けました。
なので、そこを強調しつつも端的に表現してきたわけです。




詳しくいうとこのように長くなるわけですが、どうでしょうか?




詐欺的なことで言うと、騙される方も悪いが騙す方が圧倒的に悪いと自分では思っています。
しかしながら騙される方に全く過失が無いことにはならない。


ならば騙されないようにどうすればいいのか、となります。そこについて言っているんだとご理解ください。



これだけ述べてもご理解いただけないなら、私にどうすることもできません。
後は「自己責任でご判断・ご選択ください」というしかないですね。

天照 質問に答える⑤

2017-10-15 04:22:56 | Weblog
【 質問⑤ 】


天照さんや批判側の方たちは日夜阿含宗の欺瞞を伝える活動を行っていますが、その効果があまり無いような気がします。
効果の無さ及び阿含宗の信者さんへの別な伝達の方法を考えてみてはいかがでしょうか。


_________________________


うーん、そういう風に見受けましたか。


確かに行動の結果、効果が絶大で目に見えていればこのような質問は出ないでしょうね。
そしておっしゃるとおり、自分らがやっている行動は外部から見れば「あまり効いてない」となる。



私も最初判りませんでしたが、深山さんやユビさん、また自分が掲示板に参入した当時のラシンさん、青柿さんなどの方が数名の方が居りましたが、その方々の投稿や行動が「どれだけ効いているか」はわかりませんでした。
つまり今回の質問者の方と同じような印象を自分も抱いたものでした。


確かに全国の阿含宗道場にいて事細やかに「批判の効果が出ている」と分かれば、そういう考えも払拭できるでしょう。
でも、仮に自分が阿含宗の関係者であって情報を得れても、本当に批判の効果だと明らかに判別できるのは難しいと思います。


むしろ、自分も行動して判りましたが、絶大な効果狙いや批判楽し、で行動をするのではなく、一番大事なのは何か、ということです。




それは自分としては2つあります。

1つは「いつでも情報を得れるようにすること」 もう1つは「できるだけ継続して情報を伝えること」です。




どっちもほとんど同じなので一緒にしても構いませんね。いつでも誰でも阿含宗の欺瞞を伝えてその情報を得れるようにすること。
こういう風に表現すれば理由は1つになるでしょう。




私が欺瞞を知って「そうなのか」と理解した時に思ったのは色々な想いでしたが、その中にこういうのがありました。



「どうしてこういう大事な情報を早く得れなかったか」です。





またこれは自分がいつも言う事ですが、これも非常に不遜に思う事項です。




人は、特に日本人は何かあったとしてもその事項を口にすることが少なく、黙って終わりが多い場合があります。




例えば会社で悪いことをしている人がいたとします。犯罪までは行かないまでも行動としてはよろしくない。


普通、そういう行動をしている人がいれば上司などが気づいて警告したり指導などをすると良いのですが、それに気づかない会社というのもあります。
すると結果悪い行動をしている人は悪いことをいつも「当たり前」に行って止めようとしません。



そういう場合は上司などに頼らず、直に本人に言って止めさせるとか行動を改善させるようにしたりするものですが、これも会社に依りますが誰もそれをしないところも有ります。
つまり「悪事を知っていながら何も言わずにいる」というのがあったりするんですね。



そこに新しい人が入って悪事を見たり受けたりしてその人に言おうとすると先輩たちが「やめとけ。かまうな」と制止します。



私はこういうのが許せないんですね。






これが「いち会社」として小さな世界ならその会社内だけのことですから、辞めるか我慢すればいいだけで社会的にはそんな影響はありませんが、これが「社会で行われたら」どうなるか?



そう。例えば犯罪者やよろしくない性格の者が何の制御も無かったら、とんでもないことになります。





こと桐山靖雄のような詐欺師がいるのに、何も言わない。
それこそ「ああいう馬鹿にかまうな」と誰も無視して過ごせ、でいたら詐欺の被害に遭う人は今後も出るし、止まないわけです。




そして実際的に世間で「阿含宗はこういうところですよ。桐山靖雄は詐欺師なんですよ」と誰もやらなかったら、自分はどうなっていたか、です。







確かに世の中には「馬鹿は構うな」があり、それを行う場合も多い。
人を批判したり攻撃するのではなく、自分がしっかりしていてそういうやつと関わらなければいいだけだ。そういう風に諭す人も居ます。



でも、犯罪者というか悪事を止めない人は周りが無視したり何も言わなければ「ああ、誰も言わないから良いんだ」と逆に悪い行動を継続したりするものです。

私はそれに対し、それでいいのか、と思うわけです。




確かに自分は警察でもないし裁判所(裁判官)でもありません。だから何か裁いたり懲罰を与えたりできるわけではない。
ただ、悪いことをしている人を知らせたり、悪行動の足かせはできると思う。



世に悪事を行っている人のことを知らせる、ということはそういうことですね。阿含宗の中身と桐山靖雄という人物のよくない所をお知らせする。
繰り返し、継続してお知らせする。





人はその人のタイミングや縁で情報に触れる・掴むときがまちまちですから、いつでも情報を得れるようでないといけないわけです。
ただ単に一時期だけ知らせて終わり、では駄目なのです。





長年そういう行動をやってもどれだけの人が気づくか、はわかりません。ただし、全く結果がゼロということも無いわけです。
ましてや今の時代はネットが当たり前の世界です。そして今後もそれは続いてゆく。




だからやってて無駄だということもないし、将来どのように効果が出るかも分からないわけです。





いつもある方が言われた内容に近いことですが、自分も賛同です。





自分たちがやっていることで一人でも気が付いてくれる。そこから考えて退会するもよし。何か考えて行動をする。
それでよし、としてないと活動なんてやってられるものでは無い。





ましてや自分が2chに参入したのは2008年の秋です。それまで阿含宗の欺瞞を伝えてきた人たちは当時は開始から7年とか8年とか続けられていたんですね。



もしもその行動が2・3年で終了していたら、私が欺瞞に気づけたかも分からないわけです。
つまり行動を続けていてくれた方々のおかげで、自分が後年に目を覚ます事ができたわけです。





なので自分の経験からも分かるのと同時に、目に見えて絶大な効果なんてのを欲して行動するのではなく、着実にコンスタントに行動する。
これこそが一番のベストな行動であると自負していますし、自分のできることの範疇だと思っています。




だから目に見えての絶大な効果は期待しないでくださいね(笑)



___________________



追記



あと「阿含宗の信者さんへの別な伝達の方法」ですが、自分も以前に考えてみたことがあります。
ですが、色々考えた結果「今のネットでの公示の方がベストだ」としていて、それ以外の行動は今のところしていません。




それこそ阿含宗の道場などの施設の前に行ってビラを撒くとか、リアルの世界で大々的に「欺瞞を知らせた」方が目立つし人も気づく上ではわかりやすいかもしれません。
しかし、目的は「如何に欺瞞に気づいてもらうか」なのですから、先に言ったようなリアルでの行動がいいか?というと甚だ疑問ですね。




実際そう言う行動をしたら阿含宗にも顧問弁護士もいますから、裁判沙汰になるでしょう。警察も来て私も拘束や逮捕もされるかもしれません。



そういう行動をして世に知らせることも有れば、ネットでも地道に知らせるのも方法ではないかと思うのです。




また、こういうのもあります。信者さんがリアル行動で本当にどこまで気づくか、です。






2chでも見受けますが、本当に人によって洗脳の度合いが違いますね。
特に狂信者という輩が強く阿含宗を擁護していますが、あの様相を見て仮に如何にリアルで私が何か行動しても「ああ、元信者の落ちこぼれが馬鹿をやってれら」で終わりです。
効果のほどなんて期待できないし、また狂信者でなくても道場ではリアル行動をした人を良く言うわけがありません。

阿含宗の中では教祖や教団が至上なのであって、それに反対する奴らは「皆悪」なのですからね。




だからリアルで身体を張って訴えても、さてどうか、というのはあります。
また拘束されたら、行動だってできやしない。犯罪歴を増やし危険人物になって終わりです。



自分に掛かるリスクを背負って、尚且つ効果のほどがわからないものに命を掛けてどうするか、と思ったんですよね。
だから地道なネットの方がボクシングで言う「1・2パンチ」のジャブか、じわじわ後から来る「ボディブロー」の方が地味だけど効くなと。そう考えたわけです。




信者さんは真面目な人が多いですよ。その分洗脳の餌食にもなりやすい。その経験を自分もしてきています。




そういう人たちの目を覚ますのは意外と大変なことです。ただ叫んだり強く訴えただけでは効果などあまりない。





また阿含宗では「自分で考えることをさせない傾向がある」んですね。いわゆる北朝鮮のようにTOPの言う事を強制的に聞かせて従わせるシステムに似ています。



もちろん阿含宗は宗教ですから北朝鮮のように逆らえば殺される、みたいなことは無いです。
ただ、やわらかな洗脳が敷かれている。それこそ子供の頃から「将軍様や国のために尽くす」というのを埋め込まれるように、信者が間違った教えを阿含宗では植え付けるんですね。
そしてその結果、正しい判断ができないで欺瞞に気づかないでいるのがあるわけです。




外の情報をあまり聞かず・信じず、阿含宗で教わることだけを信じて覚える。そういう傾向が強いと中々欺瞞に気づかないんですね。
だから私が20数年も阿含宗に居た、というのはそこが大きな原因なんですね。




そういうと「北朝鮮のように本当に管理されている環境に居るのならまだしも、いつでもネットを見たり本を読んだりとできるのに、そういうことをしないのか」と言われそうですね。
そうなんです。しないんですね。管長の言うことは絶対だと言って他の書物等を見ない。ネットも見たとしても阿含宗に関するものは見ないわけです。
だから私がいつも言う「阿含宗の信者は信じることは人一倍強い」と言っていますが、ここなんです。これが自分たちで騙されていることを自覚するきっかけを失っているんですね。

なので何か余程の事が無い限り気が付かないで、詐欺の手中に有るわけなんです。





だから「何かおかしい」と思う事さえない人も信者には居ます。こういう人は非常に厄介です。
私のように日々信仰をしていて「変だなあ」と思っても真実にたどり着くには時間が掛かったわけです。
だから「何かおかしい」とか信仰をしていて「不満を抱く」という物がなければ、おそらく一生騙されてゆくことでしょうね。




自分の経験ですけど欺瞞を知って得たものでこういうのがあります。
それは「自分の頭で考えること」の大切さです。



そういうと「私の頭なんて大したものじゃない。自分で考えて逆に悪い結果に遭ったことがある」なんて人も居ることでしょう。
ですが、そういうことも踏まえて私はやはり「考えること」を発端として「調べること」に発展してほしいと思うのです。



なぜなら分からないことが有ったら私は最近はよくネットを活用します。
昔あった事項やクイズ問題などよくTVなどで見たりしますが、中々思い出せないものが多くあります。

するとすぐにタブレットなどを起動させて調べることがあります。これって単純ですが大事なことです。


なぜならどうでもいいことならまだしも、大事なことを放置していたら後から後悔することも有るからです。
なので、調べることの大切さを学んだ私は、なるべく後からでも調べることにしています。



あとお釈迦さまも「自分で考えることの大切さ」を言っていたというのを知って大変驚きました。



普通偉い人というのは下位の者に対して良く言うのは

「お前らごとき脳みそが少ないやつらが考えても、大したことなどできない。だから考えるな」と言ったりします。

ところがお釈迦様は

「物を見たり人から何かを聞いたりあるが、その際にも自分の頭で考えることが大切だ」という風に言われたそうです。



実はこれ当たり前のようであたり前ではなく、大切なことだと自分は後年知らされたんですね。





確かに智慧の低いとか物事を浅くしか考えれない人もいて、そういう言う人は思慮が足りないので良い結果を出せなかったり失敗することもあります。
また深く考えても答えが出なくて時間だけを失う、なんてのも有るかもしれません。




ですが、何もかも人の言う事を聞きそれに従うならば「自分」というものは要らないことになります。
何も考えずに従うだけの人生の人も居ますが、それはある意味ロボットな人生ではないでしょうか。



それよりも自分で考えて行う癖や判断力を磨くということは人生で大事なことでもあり、そういう時に遭遇した際にいつも人の言う事に従ってばかりですといざな時に判断ができなくなります。



そして人には人を騙すことや操作することを望む人間もいます。そういう人の僕になるために自分たちは生きているわけではありませんから、やはり自分で考える力・姿勢というのは必要だと思います。

結果阿含宗のような「人を騙す事」の巣窟に居るとその被害を受けます。



嘘の教えを教えられ、その結果間違った道を歩まされる。自分たちが損をしていることさえ気づかない。
そう言う事のどこがいいのでしょうか。



だからお釈迦様は「必ず私の教えだからといってむやみに信じるのではなく、自分の中で考えてご覧なさい」と言っています。
嘘が無いか。間違いはないか。無条件で「誰々の事だから必ず正しい」と決めつけるのではなく、聞いたうえで自分でも考える。それを勧めているわけです。



自分も阿含宗に居てそういう姿勢になったわけです。管長の言う事だけを信じて他の言う事は聞くな。
尚且つ自分の頭で考えるのではなく、素直に聞いてそれを理解しなさい、とされる。そしてそのようにした結果、長年騙された。



もしも自分がちゃんと考えて尚且つ調べる、という行為をしてたら阿含宗の欺瞞に早く気づけたかと思います。



だから私もお釈迦様の言ったことに倣って


「天照の言う事は正しいかどうか。皆さん考えてみたり調べてみてください。
私は私の経験の元で色々話をしています。それを信じてくれることはありがたいことです。

ただ、そういう中「天照の言う事は本当かどうか信じられない」という人も居ることでしょう。
でしたら、ぜひ私の言う内容などを調べたり考察してみてください。または質問ください。」


そのように言っています。



ですから信じるも何もの前にやはり「自分の頭で考えたり調べたりすること」はとても重要だということです。

天照 質問に答える④

2017-10-01 06:54:56 | Weblog
さあ、今回は別な質問に参ります。

ショートなものなので、今回は2つ一気に投稿します。




【 質問③ 】

天照さんが言われる「仏陀」になるということは、とても大変だろうというのは何となくわかりました。
そこでその大変さに加えて、こうも思いました。

仏陀に成る人ってそういう素質みたいなものとか環境とか無いと成れないのではないか。
なので、普通の人がやはり仏陀に成るってのは高根の花ではないですが、所詮絵空事に近い物のような気がします。


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うーん、確かにそうですね。言葉で言うほど簡単に成れたら、どんなに楽かと自分でも思いますよ。

だけど、この資質やら環境が整って無かったら成れないのではないか、というのは違うような気がします。



2chでもよく出て来る話ですが、チューラパンダカの話がそれです。
私もその話に非常に同意であり、これがよく今回の質問への回答に適していると思います。



このチューラパンダカという人物はチューラパンダカのお兄さんと共にお釈迦様の弟子になり出家した人です。
お兄さんはそれ相当頭がよく、修行に励めておりましたが、チューラパンダカは頭が悪く呑み込みが悪く覚えも悪かったようです。
だからそのあまりの修行の駄目さに兄も呆れて「お前のような奴は弟子失格だ」となじったほどでした。


その兄のなじりを聞いてチューラパンダカは落ち込んでいました。その様をお釈迦様が後で知り、チューラパンダカに有る指導をされました。

「この布で道場を清掃し、塵払え汚れ払え、とやってごらん」と言われました。

チューラパンダカは確かに他の人より覚えが悪かったのですが、凄く純粋だったのでお釈迦様の教えを忠実に且つ素直に実行しました。
そして毎度毎日「塵払え汚れ払え」とやっていました。



それを見て周りの人はあからさまにしませんでしたが、少々馬鹿にしていました。



お釈迦様はチューラパンダカはあまりに覚えが悪いので、馬鹿でもやれることを指導された。
だけどあの所作で悟りなど開けるかね。そのように多くの弟子たちは思っていました。



ところがずっとその行動をしてゆくうちにチューラパンダカはお釈迦さまがなぜこの所作を授けてくれたかを理解しました。
そして理解してしばらくしてから悟りを開いて、皆がビックリしたそうです。




それは何か?それはお釈迦様は掃除をさせてそれが修行だ、とさせたのではなく、道場を清掃させるが如く、そこからの派生、つまり心の中の「塵や汚れを払う」ことを教えていたのでした。
それに気づきチューラパンダカは仏陀に成るための要である「煩悩を切る方法」を会得し、実際その方向へ進み悟りを開き仏陀に成ったそうです。



このことからわかるように、如何に頭が悪いとか人より劣っているとかがあろうが、それは関係ないということ。
つまりこのことから派生して考えれば環境が悪列なところに居ようが、人より劣っていようが、仏教の肝要な物は「煩悩解脱」なのです。

如何に煩悩から離れて悟りを得るか。それが大事なのですね。
だから頭の良し悪しは関係ないし、環境が恵まれても頭が良くても逆に悟りを得れなければ駄目だということです。




私はこの話を2009年以降に知りましたが、なるほどと納得しました。



なぜならお釈迦様の話を2009年以前に聞いていた際には、お釈迦様はこのように言っていたのを耳にしています。


「如何に貧しくとも、環境が悪くとも、身分が低いとかがあろうとも仏教にはそれは関係ない。
男女も身分の高貴も卑賤もない。老いも若きも無い。皆修行に励めば解脱できるのが仏教だ」


これを聞いていただけなので、確かに大筋で内容はわかってはいたのですが、チューラパンダカの話を聞いて尚も理解を深めた次第です。





だから確かに現実問題として頭が悪いとか環境が良くない人は何かを成すのには非常に困難を極めることでしょう。



ただ、こと煩悩を消す、という面に於いては煩悩にまみれていない人ほど仏教のような方向性はやり易いのかもしれませんね。






それこそいつも不平不満や飢餓感がある人は煩悩を断つのが大変かもしれません。

金や物、地位や立場、権力、食べ物や様々な欲に振り回されて、それらの獲得や維持に必死になっている人。
そういう人の方が多いのではないでしょうか。



仏教ではそういうのは解脱の何の役に立たないことを言っています。勘違いしないでほしいのは「仏教の中の解脱に於いて」ということです。


在家の修行者には欲と言えども必要な物がありますから、それらはお釈迦様と言えども否定していません。
ただ、そういったものも度を越したり執着すると煩悩になりますから、そこは在家の人が解脱する上で気を付けなければ行けない所ではあります。



出家はほとんど世俗の事からシャットアウトした環境に居ますからいいですが、在家はその面で大変です。
そして前にも言いましたが出家だって大変さはある。



毎度煩悩解脱の修行でそれに専念しなければいけないわけで、尚且つ托鉢は思し召しですから食事がまともにできない日も有る。
つまり死と隣り合わせの生活でもある、と言えます。


確かに働かなくてもいいし世俗の事から離れて生活してはいます。しかし、やはり仏教の道場は弟子たちが沢山いますから人間とのしがらみも完全にシャットアウトもできない。
無人島に一人で暮らしているのとはわけが違います。


またインドは熱い地域ですから暑さとの闘いも有るし、雨期になれば雨だらけの日々でもある。
いつも快適な温度の保たれた場所でぬくぬくと修行なんてできません。


またこれは人にもよりますが、世俗から離れれば離れるほど煩悩が増大する人も居ます。
または托鉢に出かけた際に在家から布施を貰うわけですが、その際に世俗にも触れるので煩悩が復活する場合だってあると思う。


つまりはどんな環境に居ようが、頭が悪かろうが仏教的な大事な要素~煩悩を滅する事が出来なければ駄目だ、ということです。




だからお釈迦様はそこを分かっているから、資質がある人や環境が恵まれた人でないと解脱できない、なんて言わないわけです。
本当に頑張って解脱に向かって道を歩める人だけが成れる。そのように分かっているわけです。


そしてそのことはどんな人にも通用する事であり、差別は一切していません。仏教に差別が無いのはここにもあるわけです。
年齢制限もないし人種のどうのこうの。また男女の云々も関係ない。要は如何に煩悩を滅して仏陀に成り修行を完成させられるか。
お釈迦様の教えを理解し実行できるか。それだけなのです。



ということで理解していただけたら幸いです。



_________________


【 質問④ 】

天照さんのブログや2chを見て勉強していますが、疑問に思っていることがありますので質問します。

桐山氏はなぜ沢山の嘘をつき、人を騙すことをしたのでしょうか。
ちゃんとした仕事しているか、もしくは教祖になってもいいから本当の仏教を教えていたら、詐欺師呼ばわりされることもなかったと思います。

どうして桐山氏は、かのように悪い行動を行ってしまったのでしょうか。


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良い質問ですね。私も過去そのように考えたことがありますね。
桐山氏が詐欺を働かないでいたら、死ぬまで・・・いや死んでも批判されることはなかったと思います。
また自分も阿含宗を辞めなかったと思います。



でも、これは2chなどにも出て来る情報を元に自分で分析したことではありますが、普通に考えるからそのように思ってしまうのだと思います。
つまりまともな考え方を持っていてそれを成せたら、桐山氏のようにはならないし生きない。
逆を言えば桐山氏は「マトモではなかった面が多かったから、悪事を成してしまったのだ」と思います。


そういうと「随分辛辣な言い方だなあ」と思われると思いますが、善意に思っても桐山氏のやったこと(やってきたこと)はかなり酷過ぎたからです。
善い面も有ったとは思います。ですが、悪い面が圧倒的に多いのでとても善意解釈はできかねるのでそういう言い方になってしまうのです。


人間は詐欺師にまでならないにしても、生きていれば過失の嘘や悪意が無いにしても嘘や間違いというのはするものです。
そしてそういう物は大抵はあまり大事に成らずに済んだり、迷惑の度も小さかったり狭かったりします。



ところが桐山氏のやったことは大きく広範囲でよろしくない事項が大半です。
つまり詐欺という物は、どこからどうみても犯罪だからです。



また生い立ちなどを見てゆくと、元来詐欺を働くのに「ふさわしい」性格と傾向があったようです。
それがますます人生に於いて輪を掛けてやってしまったようです。



人間というものは大きく分けて、性格がほぼ生涯に於いて変わらないというのと、時期はその人に依るが変わることの経緯があって性格が変わった、というのがあるようです。
そしてたかが知れている自分の人生上で見てきたことからどちらが多いのかというと前者の「ほぼ生涯に於いて変わらない」という人の方が多いのを自分は見てきています。


また個人的なことですが、自分も性格を変えようとしてその事項に挑んだことがあります。30代から40代の間にいろいろ試したことがありました。
しかし変わったのは一時的な期間だけで、まもなく性格の改善は失敗に終わりました。


なので、自分の体験としても経験していることから「性格を変えるのは中々至難の業だ」というのはわかります。
そして先ほど言ったように自分の人生上で他人を見てきて感じたのは自分同様「生まれつきの性格を変える事の出来ている人は中々いない」ということです。



桐山氏が小学校の時期に先生から言われた言葉が著著「現世成仏」の中に書かれています。それがよく桐山氏の傾向を表しています。


桐山氏が小学校を卒業する際に先生から母親に

「この子は注意して育てた方が良い。なぜならこの子はとんでもない悪党になるか、その逆の物凄い善者のどちらかになるでしょう」



私はこの言葉を善解釈していたのですが、後で桐山氏を考察した際に先生の言いたかった「本当の真意」をわかりました。
つまり先生は「この子は悪党になる」と言いたかったでしょうが、それを言ったら身も蓋もないし、やはり受け取る側から見れば印象が悪い。

だから両極端なところがある性格を持っているから、注意して育てた方が良い、という風に言ったのではないかと思いました。



学校の先生と言えば最近は「教育者」と言い難い。それこそ名称だけの「先生」も存在するのでピンと来ないかもしれませんが、昔の先生には子供の資質を見抜く先生もいたものでした、

子供の性格や傾向などをみて指導などをするのが教育です。昔はそういう物もあったものです。



また桐山氏の考察をしてゆくと、どうしても子供も頃はピュアだったが大人になって性格が悪い方向に逸れた、というのが見当たらない。
むしろ子供の頃から「危険な傾向がある」とあるので、先生がその様に言いたかったが先の理由で言い方を変えた。そういうのが私の見解です。



桐山氏の傾向で顕著なのが自己愛主義が異常に強いのと、嘘をつくのが平気かつ狡猾であるということです。





良く例えるなら男は元来嘘が下手、というのがよく言われています。そういう人が多い故そのように言われるのでしょう。

異性や妻に対して男が何か良くないことをしたのだが、その事項を隠すために嘘をつくが下手なためバレてしまう、というやつです。



普通はそういう感じが多いものですが、稀に元来「嘘が得意」というような人がいるのも現実です。


まあ、さすがにそういう資質のある人は皆詐欺師になるような世の中でもないでしょうから、そこまで至らなくてもよく職場や知り合いに

「ああ、あいつは嘘が上手いからなあ」とか「顔色を変えずに嘘をつくんで騙されることが多いな」という人が居たりすることも有るでしょう。

そう言う人が単なる罪もない「嘘」を超えて、何かをやらかすときには詐欺師になったりするんでしょうね。
そして桐山氏はまさにその通りになった、というのがあるわけです。




考察の決定的になったものがいくつかありますが、その中で顕著なのがこれです。桐山氏の犯罪歴です。



桐山氏は教団内・外で「自分が法に触れた事項は人生で一回だけ」と言っていたのでしたが、それが嘘だったということです。



桐山氏は実は生涯にこれらの犯罪を犯しているのです。



第1回目 昭和27年8月16日 詐欺、契約違反 (警視庁西新井署)
第2回目 昭和27年12月12日 手形詐欺 (千葉県松戸署)
第3回目 昭和28年8月16日 酒税法違反、私文書偽造 (警視庁防犯課)



生涯でムショに入ったのは三回目の時だけですが、それ以外の二件はムショには入っていません。
ですが、立派な犯罪であります。


またよく過去の犯罪を見てください。皆、詐欺に関わる事項ばかりです。
三回目の項目には詐欺とは書かれていませんが、偽ビールを製造したわけですから、世間を欺くには変わりはない。
また私文書偽造も立派な詐欺の範疇にあたります。



尚且つ教祖になって経典改ざん、他宗教のパクリと様々な嘘で繕ったものらが多数あるので、十分宗教詐欺にあたります。




つまりこのことから桐山氏は元来嘘つきであり、嘘をつくのが平気な人であった、というのが窺い知れます。




また宗教詐欺に至るには「如何にお縄にならないで人を騙して偉くなり儲けれるか」というのを考えた結果「宗教詐欺が適している」と察知したようです。
なので宗教詐欺を行うに至ったようです。




実際そのことに気づき行動を起こしたが、起こしたのが三回目の犯罪の後でしたから、阿含宗の前身である「観音慈恵会」の教祖にはなっていたのですが、ムショに入らなければいけなかった。
なので、その間は「山に篭って修行をしてくる」と言い、十か月服役した。



この事柄にもいわくがあります。つまりその観音慈恵会の運営最中に服役したのを「山に篭って修行をしてくる」と嘘をついたことです。
また、桐山氏としてもこの事項をバレたくなかったのもあった。



ところが観音慈恵会が段々時流に乗り流行ってくると、桐山氏の動向や過去を調べる人も居るわけです。そして過去の事がバレた。


さすがの大嘘つきの桐山氏も嘘を突き通すことができず、犯罪歴があることを告白した。
したにはしたのだが、内容を桐山氏の都合の良い方に変えて発表と、また犯罪歴は1つだけということで言い渡した。

過去の2つは公表せずにいたわけです。





しかし、過去の2つも調べ上げた人も居ました。それで私らがそれを知ることとなったのです。



ただ、その事項が表ざたになることは無く信者や世間で「犯罪歴は三回ある」というのを知らない人は結構多いです。




だから桐山氏は大嘘つきなのに輪を掛けて「運もいい」というのがあったようです。
普通ならみんな犯罪がバレて阿含宗の看板なども畳まなければいけなくなっていたでしょうからね。





あと桐山氏は妻が居ながら、ある女性信者とデキていた、というのも有りますが、それも得意のスカシで通過している。


何とも呆れるばかりの人生です。





信者を騙して儲けて教祖としてエラクなり、詐欺行為としては上々のものだったでしょう。

しかし、そんなことをして本当に楽しかったのでしょうか?




私には甚だ疑問であります。





そういうわけで桐山氏のことを色々調べて考察してゆくと、可哀そうだった面がある、なんてのは出てこないんです。
むしろ呆れてしまう状態になる。




だからマトモな人生を歩んでいたらどうだったか、と思ったけど、それは桐山氏には通用しない。
マトモな人生を避けて良くない方ばかり歩んだからです。



人を騙して犯罪に手を染める。尚且つ反省しないで何度も行う。その結果三回目に刑務所に入る目に遭うわけです。
それでも反省をせずに「宗教詐欺で身を立てる」ので突き進んでゆくわけです。




こういう人物に可哀そうなんて気持ちも起きないのはしょうがないと言えませんか?
嘘づくしの人生と嘘まみれの人生。そういう人生だったのです。





ですから、哀れというしかないのがあります。
以上です。

天照 質問に答える③

2017-09-24 03:46:50 | Weblog
それでは、次の質問に参ります。


【 質問② 】


天照さんは事あるたびに「仏陀」のことを出しますが、個人的には「仏陀」がそんなに良いものや凄いものだと感じません。
むしろ自分が感じるのは、世俗を離れて孤立しているか、世俗を嫌っている。そして厭世的になっている人の世界のような気がします。

天照さんが本当の仏教を強く推奨しているのはわかりますが、仏陀へのいざないをされているのはちょっと理解しがたいのがあります。
仏陀などに成らずとも生きていることが素晴らしいのですから、それでいいのではないでしょうか。


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なるほど。おっしゃることはある程度わかります。ただ、分かっていながらどうして天照は自分の思う事。
つまりずっとブログで同じことを提唱しているか、です。

確かに私は本当の仏教を皆が知り、宗教詐欺に遭わないようにというのを提唱しているのと同時に、本当の仏教ではどういうことを述べているのか。
本当の仏教の最終的目標、もしくは到達点はどこであり、どのようにそこまで至るのかを述べると同時に仏陀への誘いも説明しています。



ですが、今から少し前の記事にその辺りの事について詳しく書きましたが、そこをよく読まれているのでしょうか?



実は私はそこで「仏教の教えの終着点は涅槃である」ということ。そしてその涅槃へ至るまでの概略を述べています。
前回の質問①に於いてもそこを述べています。


ただ、少し前の記事では記事内に「仏陀に必ずなるのが必要かどうか」という点に於いて書いていますよね?
そこを読めば私の意図はもちろん、私の意図と反する方も理解できるであろうことを書いています。

つまり「皆が必ず仏陀に成らなくてもいいじゃない?」ということですね。



しかしながら、そういう気持ちや考えを抱いてそのままでもいいのですが、ずっと果てしない輪廻を繰り返しているうちに「輪廻も飽きたなあ」とか「イヤだなあ」と感じる方もでてくる。または存在するのではないでしょうか。

また過去に自分も仏教を学校の授業やにわかな知識で知った際に思ったことですが、「仏教って何か厭世的すぎるよね」と思ったものでした。


それこそ妻と過去に仏教について話をしたとき、妻はおもむろに私に言いました。



「仏陀に成って涅槃へ入ることより、輪廻する方が私は好き」



一瞬自分もピクリとしましたが、妻の意図がすぐに理解できたので強い反論はしませんでした。
そして意見だけ軽く述べました。それがいつも自分が言っていることですが、それは


「確かに輪廻も悪くない。何度も人生をやり直しもできるしこの世に生まれれば良いことだってある。それを体感できるのだからね。
だけど、生きては死に。死んでは生きて、を繰り返し、尚且つ生きていることは100%良いことばかりではない。
何度も繰り返していたら、そのうち飽きるまでは行かないけど「いつまで生死を繰り返すのだ?」とならないか。

いつまで経っても果てしない生死を繰り返す。もうそういうのに嫌気が指して「生まれ変わらない世界に行くか生まれ変わらない状態になりたい」と思うこともあろう。
そういう人たちが歩むというか進むべき道が仏教ではないかと思うんだよね。

確かにそれは輪廻が嫌、と思わない人には仏教を講じる人はある種厭世的であり、世からのひきこもりとも言えよう。
だけど、過去世の記憶が無いにしろ、果てしない輪廻は嫌だ、という考えを持つのは個人的自由だと言えないだろうか。

だからトコトン輪廻を楽しんでみるのも自由。仏教を理解して涅槃へ入ろうとするのも自由ではないだろうか。そのように思う。」



おおよそこのように言ったわけです。そしてこれは今も変わらない考えです。




ただ、これに付け加えるなら私は別に仏教に心酔して「みんな仏陀に成って涅槃へ入ろう」なんていう気はない、ということです。



何故かというと理由は3個あります。それは


①如何に本当の仏教を知り・理解しても、いざ仏陀に成ろうなんて簡単にはいかない~難しいから。
②仏陀に成るだけでも大変なのにそれから涅槃へ入るなんて、もっと難しい。
③トコトン輪廻が嫌だ、となって修行に励むようにならない限り、涅槃どころか仏陀にさえなれない(なろうとも考えない)。


というものです。



私は過去世の記憶が若干あるのでしょう。時折フラッシュバックのようなものに遭うことが「しばしば」あります。
最近は少ないですが、若い頃は結構ありました。人や家、物などもありました。


でもその事項に対して知識も無いので「何だ不思議な刹那的感覚か」としていました。
ところが霊感を自覚してからは、過去世との由来のモノだとわかりました。



ただ、如何せんそれがあったからと言って特別な何かがあったわけではありません。
ただ現世で過去世に縁があった人や物、そして記憶があった場所に似ているところに赴いた、というだけの事です。
だからフラッシュバックに遭ったからといって、何か特別なことがあったわけでは有りません。



そして言うならばそういう経験をしている人は私以外にもいるはずです。だから大したことではない。
ただ、過去世に於いて縁があり、それが現世でも繋がっていて縁起としての事項が起きている(遭遇している)んだなあ、とわかりました。


つまり因果応報をリアルで見せられている、体験させられてそれを自覚するに至っている、という感じでしょうかね。




そういう一方、時折これも薄い記憶なのか「輪廻も疲れるよなあ」と思う時があります。
嫌だ、とまでは行かないまでも、やはり果てしないループが輪廻ですから、いい加減虚しさを感じるという事のようです。


そういう中、お釈迦様の話を聞けばやはり「そうだ」と合点することも沢山あります。
だから仏教に惹かれたのでしょうね。



そしてそういう輪廻からの脱出は?というと、今まで説明してきたとおりですが、それを知って真っ先に思ったのが


「うわ、ちょー難しいじゃん」ということでした。(今の人風に言うと、です)





そりゃあ、そうです。因果の道理を超えて尚且つ輪廻の環から外れるには、それ相当のもの、というかそういう状態にならないと無理でしょう。
というか、お釈迦様以外にそういう理論や方法を説いた人は居ませんしね。




しかしながら、そういう理解は得れても「いざ実践」となれば、簡単には行きません。



それこそ一時期、本当の仏教を知り、その際に知った瞑想法をやってみました。
するとそのわずかな期間だけですが、煩悩が薄れたことがあります。

その状態をもっと進めて行ければよかったのですが、在家に居て高度の域に至るのは本当に難しいのを体験しました。
つまり、時間が経って元に戻ってしまった、ということですね。





だから前回の記事に書きましたが、在家で煩悩を切って仏陀に成れた人がいるというのは、本当稀で珍しいことなのです。
とてもじゃないが、自分が至れるとは思えない。


しかし至れないけれども、今後も何度も輪廻するでしょうから、何度もチャレンジしてゆくしかないのだろうなあ、と思っています。
つまり、如何に仏教を理解してもそれを成すというのはまた別問題でもあり、実行如何だということです。




そういうのも分かっているから、私自身は「涅槃入り目指す人は目指せばいいし、そうでない人は自由にすればいい」と言っているわけです。
だから質問者さんは私の考えの「仏陀への誘い」がお嫌いでしょうから、別に嫌って結構だしその道に進む必要も従う必要もないわけです。




しかし、そういう人とは違って自分のブログを見て「そうか。仏教の究極的な世界は涅槃入りであって、そこへ行きたい」という人が居たら講じても良いわけです。
つまり自分は本当の仏教の内容(概要)と阿含宗の欺瞞を世に出しているだけですから、後は読んだ人の判断は自由です。

だから居ないとは思いますが、涅槃を目ざす人が居てもいいし、ただ「ああ、ああいう記事があったか」で終ってもいい。それでいいんです。



ただ、望むのは「宗教詐欺に遭わないでね。阿含宗に騙されないでね」というのがある。それが叶えられればOKです。後は考えていない。そういうことです。



だから質問者さんは自由に生きていいし考えてOKです。貴方が「輪廻上等」で輪廻を謳歌されるのであれば、それでいいじゃないですか。
私もいつの世になるかわかりませんが、本気になって涅槃入りを目指すまでは輪廻を繰り返すしかないと思っています。



そういうことですので、ご理解いただけたら幸いです。


今回はここまでです。また次回をお楽しみに。

天照 質問に答える②

2017-09-18 11:05:28 | Weblog
それでは前回の続きと参ります。


まず出家は字の如く家を捨ててお釈迦様の寺院の中に入り弟子となり、修行に専念することです。



在家のように巷で暮らすと様々な誘惑や事項によって煩悩を断ちきれなくなります。だからその影響より離れて自分の生活自体を僧院似て暮らすことによって成り立たせる。
そのために家を捨てて僧院に入り僧となり死ぬまで修行を続けるわけですね。


どのようなことをするのか、と言えばひたすら煩悩を断つ修行をします。ほとんどが瞑想中心で煩悩を断つために専念します。
そして日々の生活は托鉢で得たもので食事を賄います。在家のように何か作物を作ったり商売や仕事をする、ということはほとんどありません。


こういうと一見楽そうに見えますが、とても過酷です。
なぜなら人は一時間・・・いや10分でも何かに集中して、というのはかなり大変だということがやってみると判ります。

しかも作業ではなく精神的な方のチャレンジですから、かなり難しい。


尚且つそれが寝ている以外はずっとやるわけですから、かなりきついです。




あと托鉢は知ってのとおり「思し召し」です。ですから在家の人が恵んでくれない時は「食べ物ゼロ」という日も有ります。
つまりいくらお坊さんだから食べ物は自動的に与えられる、と思ったら間違いです。食事なしの日さえあるのです。



食事なしになれば当然腹が減ります。すると腹が減って瞑想どころではなくなります。
そのために精神が乱れたら、これは修行になりません。だから寺院では何をするのか、というと


腹が減っても精神が乱れない。何かあっても精神が乱れない。煩悩が湧きおこらないという状態に自分を持って行く。
尚且つ寝ている以外はその状態を保つのですから、本当に大変だというのが判りますね。



ただ、出家は世から離れていますから煩悩が沸き起こる可能性が低いわけです。尚且つ仕事などをしないので在家のように人とのしがらみや衝突も少ない。
そういうメリットはあるが、生活自体が大変です。



とにかく修行というのは楽ではない、仏陀に成るというのは大変だ、というのがよくわかりますね。




次は在家の方です。



在家の方は出家と違い、家を捨てて寺院に入り僧となる、ということをしません。つまり私たちと同じように普通の生活をしながら仏教の修行を続ける、ということです。



そういうと「ええ?仏教の修行をするには出家しないと駄目なんじゃないの?」と思いますが、実は違います。



それこそ考えてみると判りますが、世の中の多くの人が仏教の考え方に賛同し皆が出家したとしたらどうなりますか?

そうこの世が成り立たなくなりますね。




在家があるから出家もできるわけで出家ばかりがこの世に存在しなかったら、たちまち皆餓死してしまいます。



在家が存在してこの世の成り立ちや存在が保たれるわけです。そしてその在家の布施のお蔭で出家者も命を長らえられるわけです。



そして出家しないと解脱できないような偏狭の教えなら仏教はとっくに廃れています。
つまり在家の成仏(解脱)というのは出家者よりハンデがあるが、決してできないわけではない。
行う人の努力や行動にもよるが、実際的にお釈迦様のいた時代に相当の人が在家のまま成仏したという記述があります。


それでは在家の方を見てゆきましょう。


在家は先ほど言ったように普段の生活をしながら修行を行います。
会社に勤める人も居れば農業・漁業・酪農何かをやったり商売や医者などもさまざまな職業に赴き生活をされています。
その中で仏教の修行をするのです。



出家は妻帯が許されてませんが、在家は妻帯及び子をもうけることもOKとなっています。
つまり在家は在家として普段の生活を基軸としながらも仏教の教えを日々行ってゆくことでOKとなっているのですね。



すると私もそうでしたがこのように思う人がいると思います。



在家にはいろんな事がありすぎる。
人間関係やしがらみなどもあるし、生活自体に追われて修行どころじゃない人だっている。

また仮に良い環境の人がいたとしても、周りには煩悩を発生させてしまうものが沢山ある。
とてもじゃないが、そういう中に居て仏教の修行なんてできるのだろうか?


本当にそう思います。




ですが、逆を言えば「そういう環境だからそういう環境の中で煩悩を断ちきれる人は凄いのだ」ということです。



これは阿含宗である人から教わったことですが、こういうのがあります。



「在家で解脱できる人はある意味出家者より凄い人だろうね」



私もそう思います。




何故かというと先に言ったように生活だけで一日が終わる人が世の中には多いでしょう。
また引きこもりやニートなどの環境に居る人は別としても、普通は仕事を持ち生活している人ならまず煩悩を切る、なんてのは中々できないことです。




それこそ出家の厳しさはわかっているが、出家者のような環境のように世間から離れたほうが煩悩を切りやすいでしょう。
下手をすれば出家者だって魔が差す事もあろう。ところが在家はほとんど隙間が無いほど日々生活の中に煩悩が漂っています。



お金や権威、権力や地位。酒や異性や食べ物や趣味・趣向(嗜好)・・・とにかくたくさんの誘惑からどうやって自分を隔絶できるか?です。



また在家ではそういう物らが巷にありふれています。だからせっかく煩悩を切ったと思っても、それらにリターンしないとも限らない。
色んな誘惑に負けて「ああ。仏陀に成るなんてどうでもいいや」となってしまうでしょう。そしてその確率は非常に高い。




そういう中、在家でも解脱できた人がいるんですから、凄いなんてものではないですね。




だから在家の修行法としては在家の生活をしながら、仏教つまりお釈迦様の説いた教えと戒を実行してゆく。これがベースになります。
後はいくら仏教のうんたらを説いても、本人が煩悩を断てるようにならねば意味が無いのです。



これは出家者も同じです。



例えば先ほど出家者は在家者より環境面では良さそうだ、という感じで自分は言いましたが、そういう中あまりにも厳しくて「在家に戻りたい」となる人だっていたと思います。
いわゆる脱落ですね。



自分はそういう人がいた、というようなものをお経などで見てはいませんが、おそらく少数ではあるがそういう人も居たのではないかと思います。




出家者は確かに世から隔絶した世界です。だが、在家の思い出や楽しさ。また寺院での修行の過酷さに耐えかねて「辞めよう」となっても私は変でないと思います。
結局煩悩を発生させるものからシャットアウトしたといえども、その当人がどこまで出来るかが問題だと思うのです。



お釈迦様自体もそういうことを言っていますしね。



ただ在家は出家の世界と違い、日々の生活を送る上で様々なことに出くわし、煩悩を断つ上で断て易いか、というとかなり難しい。
しかしそういう中に居ながら煩悩を絶てたならそれは出家するより難儀な中でやってのけているわけですから、凄いし確実に近いほど煩悩を断ちきれているかと思います。

だから「在家で解脱できる人はある意味出家者より凄い人だろうね」と思ったのはそこに有ります。


さて出家と在家との修行の違いをざっと見てみましたが、大きな違いは世から隔絶された環境に居て修行をするか、またはその逆で世に居ながら大変な環境に於いて修行をするかが大きな違いです。
仏教ではそのどちらかで修行を完成させると仏陀に成り、その後も続けてゆくと完全解脱に入ってゆくことが可能であるとなっています。





ここで再度おさらいというか振り返って欲しいのがあります。

それは修行ということについてと内容についてです。




こと仏教での修行というとお経を朗々と読み、真言やお題目・念仏などを唱える。
滝に打たれたり厳しい肉体面での行動も修行であるかのように映る。

大体一般的にはそういうのが浮かんできたりします。




しかし、自分が述べた本当の仏教の示唆の中にそういうのが入っているでしょうか?

答えはNOです。




出家にしても在家にしても何をメインにしているかと言えば、仏教的戒律を元に身をただし、やることと言えばひたすら煩悩を無くすことに専念していますよね。



なんでそっちなのか、というとそれがお釈迦様の説いた内容だからです。違うのは巷に認識された「間違った方」なのです。





仏教を学んでいくうちにわかってきますが、煩悩を無くすなんてそんなチンケなことをお釈迦様が説いた???
馬鹿言っているんじゃないよ、と私も最初は思いました。



修行の完成は厳しい修行を重ねてようやくたどり着けるかどうかの世界であり、そんな「煩悩を消す」なんて一種のインテリ染みたようなことをするのが修行じゃねーよ。そのように思っていた。




しかし、実際やってみればわかりますが、そのチンケだと馬鹿にした「煩悩を消す」という作業に挑んでみれば、一分たりともできないと云うのが体感でよくわかります。
つまり、何か苦行のようなものを行えばそれが修行である、という気持ちはわからないでもないですが、それで仏陀に成れるのであればお釈迦様は弟子たちにやらせているし修行に入れてあるはずです。



ところが実際にやっていることを見れば、ひたすら煩悩を消す(断つ)ことに専念している。
それは何故なのかを調べると、意味が分かってきます。




それは煩悩が殆どの苦を生じる原因になっているのと、無知・無明を作り出す元にもなっていること。
また果てには「輪廻する原因」にもなっていることがわかってきます。



つまり元の大元を突き止めればそれが「煩悩」であることがわかっているから、お釈迦様は煩悩から脱却する=煩悩を断つ=煩悩解脱することを目的にしているわけです。
そしてそのための行動が修行でもあり、その修行を行う上で必要な物は皆「修行」となるわけです。

決して偉ぶったりインテリ・エリートぶって「煩悩を断つのじゃ」なんてやっているわけでもないし、やらせているわけではないのです。




そして先ほど言ったように、本当の仏教には今巷の多くの人が認識しているような行動はしません。
ひたすら煩悩を断つということに専念させている。そして煩悩を断つことが出きて来ると、今度は智慧が生じてくる。

易しく言うと「頭がよくなってくる状態」という感じでしょうか。そういう風になってくるのです。
そしてその状態になってゆくことを続けていると、煩悩に左右されなくなってくる。こうなるとしめたものです。

そしてその状態が程よくなってきた頃に仏陀となるわけです。



ただ、仏陀に成ったからと言って前にも言いましたように、そこから陥落する人も居るわけです。
つまり仏陀というのは一旦会得(取得)したら死ぬまでOKな資格のようなものではなく、煩悩を切って智慧が生じ清らかな存在になった状態が仏陀というのです。
要は「状態」を表しているだけであって、ずっとそのままの状態でいるか居ないかは「その本人次第」なのです。




これは例えですが、有る人が困難甘苦の修行の末仏陀に成った、とします。
しかし、仏陀に成ったということで気を許したのか緩んだのかわかりませんが、ある時ある女性を見て煩悩が復活してしまったとします。

するとこれはたちまち仏陀陥落になってしまっています。またそういった異性を見て煩悩が起きないような状態にせねばなりません。


またある人も仏陀に成ったものの、あるところで戦争を見て怒りに駆られてしまった。これも仏陀陥落です。
怒りというのはむやみに起こしたり分別のない怒りを起こせば当然それはよろしくないものとなります。


ところが怒りを良い方向に変えれる、または怒りを起こさない方向に転嫁できるようになればそれは怒りではないのでOKでしょう。
だからある人は異性を見て煩悩が起きた。ある人は食べ物の臭いにやられて煩悩が起きた、とかそれぞれ個人差によって様々な物に影響を受けることがあります。

そういった物にも動じない。煩悩が起きないようにするのが修行であると言えるわけです。
だから非常に簡単そうに見えて大変なんですね。




話は戻りますが、そうやってひたすら煩悩を断つことをやるわけです。このことを知らずにいた自分を後で反省したものでした。




それこそむしろお経を覚えてそれを空読みできるようになる方がまだラクです。お経をたくさん覚えて唱えることで煩悩が起きないのならその方が楽というものです。


というか、煩悩はそうやって切るものでは無いというのは誰にも分かることです。またお釈迦様はそういう方法など説いてません。




なので、後世の人間が如何に間違った、または嘘の方法を教えてきたか、というのがわかるわけです。



なので阿含宗がもしも本当にお釈迦様の教えをレクチャーしてたなら、阿含宗でやらせている勤行とか様々な物は皆無になり、ひたすら煩悩を断ち切るための指導をしていることでしょう。
ところが実際は巷に有る間違った示唆しかしていないのが現状です。



阿含宗というのは阿含経の阿含の字を取って教団名にしたわけです。前身は観音慈恵会という教団でしたが、それが名称変更をしてできたのが阿含宗です。

また阿含宗は阿含経を依経として奉じているともしている。つまり阿含経は唯一沢山ある今日の中で最古の経典であり、またお釈迦様の言動録であると言われています。
他のお経、例えば大日経とか法華経、阿弥陀経など有名なお経がありますが、これらは後世の人間が作った創作経典であるというのが仏教の歴史や学的に調べられて言われているものです。


まあ厳密に言えば阿含経も後世の人間の要素が若干混じっているようだ、というのがありますが、やはり他の経典と違うのは調べてみるとやはり内容的にもお釈迦様が説かれた内容であろうというのがあります、
つまり仏教学的にも阿含経はお釈迦様の言動録である、というのがあるお経なのです。

そしてその中に書かれてある事項を見れば、決して巷に有るような行動でないことがわかります。
つまり巷で認識され行われているようなことは、どうみても後世の人間が作り上げた逸れた内容であることが判ります。

逆から言うと阿含宗が阿含経を元に修行法を信者さんらに行うのであれば、ちゃんとした修行法をレクチャーする必要があるわけです。
しかし検証してみれば、仏教自体に無い「因縁解脱」を始めキテレツな物ばかり。

こうなると阿含宗教祖の歴史や経緯を追うとわかってきますが、どうも人を騙そうとして宗教に身を置いたとしか言えない物が浮き上がってきます。
そして実際的に阿含経に基づく正しい内容でないことを行っている。



以上の事から阿含宗は十分「宗教詐欺」「偽仏教教団」であることを自分は言うわけです。





だからここまでわかるためにはいろいろな検証や考察が必要ですが、それらを行うことで「やっぱりそうか」となるわけです。
実際過去に自分は阿含宗の信仰をしているのでよくわかるわけです。


実際的に信仰をしていてもこれ、と言ったことが無い。またよく教祖の言動に矛盾があったりする。
それをよく調べないでいたので長年気づかなかったが、2chに居た元信者さんらのデータや誘いを元に検証をしたら合点が行ったのとその他の不整合な事項もたくさん出てきた。

結果、やはり阿含宗教祖は宗教(仏教)を元に詐欺を働いていたというのを認識したわけです。そして私は間もなく退会もした。





阿含宗を信じる側からすれば「何で阿含宗を目の敵にするのか」と思うかもしれないが、好きでやっているのではない。
むしろ阿含宗こそ本当の仏教でありそれを教える教団だと心酔したわけです。それを裏切ったのは誰か?ということです。



阿含宗教祖が最初から嘘などつかずに本当の仏教の内容を教え、レクチャーしてたら誰も批判などしないのです。




ですから、ざっとですが本当の仏教の内容と阿含宗の中身(概要)を見ただけでも、これだけわかるのです。
そしてそれらが違いであり、どちらが間違っているかもこれで概要ながらわかることと思います。




もちろん深くわかりたい方は良く調べてみることをお勧めしますが、仕事を持ち生活のある人でそこまで余裕のある人は居ないでしょう。
ですから、今回の質問は少々無礼に近い内容ではありましたが、聞きたくなるのも有りだと思い、答えることとしました。



検証したり調べたい方々の参考になればと願う次第です。



それでは次回も別な質問に回答をしてゆこうと思います。では。

天照 質問に答える①

2017-09-13 09:32:10 | Weblog
さて、以前にもやった「質疑応答」ですが、久しぶりに行ってみようと思います。

それでは知り合いの方の質問から参ります。


質問①


天照氏はよく「本当の仏教を知るべき」と言いますが、よくわかりかねます。
阿含宗の教えと本当の仏教の内容と、どのように違うのでしょうか。




なるほど。質問の意図は良く判りますが、回答する前に少々。


この方は「本当の仏教を学ぶ」ということを「どの程度成された」のでしょうか。
まさか、ほとんどその作業をしないでこの質問をされたのであれば、些か無礼です。


確かに厳密に深く言うならば本当の仏教を学び、その上で阿含宗の中身・内容を知り比較すれば両方の差と違いを分からない人は居ないはずです。

ですが、阿含宗の信者を経験してない、または縁が深く無い人に阿含宗の全ての内容を把握、というのは酷な事であります。


そういう中早く把握できるのは、阿含宗の教祖の本を読むとか2chなどで話されている内容を学べばある程度の理解は得れると思います。



まあ、そうは言ってもそこまですることは実際に大変なので、できるだけ手短に分かるように説明してゆきたいと思います。



私は阿含宗に居たので阿含宗に特化して話していますが、これが他の教団で仏教教団であっても共通して通用することでもありますので、もしも阿含宗以外の「仏教教団」でどこか間違いがないだろうか、などで調べる際にも活用してみてください。




まず、どこの教団でも自分たちの教団は「正しい教えを説いている」と主張します。
これは教団であるからそのように説くのでしょうからそうなのでしょうが、それぞれの教団の言い分だけを聞いていたら「どこが嘘でどこが本当か」がわかりません。
なので、まず最初に「本当の仏教の内容」を知って置くことをお勧めします。


また先に確認をある程度行っている、または調べている最中でも構いません。本当のお釈迦様の教えを基軸を先に置かないとマジで騙されます。
それはどこの教団も様々な方便で話しますから、それが本当か嘘か判断できなくなるのです。



本当の仏教を知るためには私が過去に示した書物らを参考にすると良いでしょう。


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岩波文庫


「ブッダのことば」(スッタニパータ)
「ブッダの真理のことば・感興のことば」(ダンマパダ、ウダーナヴァルガ)
「ブッダ最後の旅」(大パリニッバーナ経)
「ブッダ 神々との対話」
「ブッダ 悪魔との対話」
(いずれもサンユッタ・ニカーヤ)

「仏弟子の告白」(テーラガーター)
「尼僧の告白」(テーリーガーター)



岩波文庫とは別に読みやすい本もあります。それがこれ。


もう一度学びたいブッダの教え 田上 太秀著 西東社刊


廉価版は「図解ブッダの教え」という本名になっています。


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これらが本当の仏教の内容を示したものや解説している方々です。まずこれを基本にして様々な教団の言い分とを比較してゆくのです。




ただ、比較してゆく際にその教団の言い分に絆されてしまうようでは駄目です。
どこまでもお釈迦様の説いたものから逸れているのは、全てアウトとせねばなりません。


なぜなら、お釈迦様の説いた教え以外の物は後世の人間が作った方便だからです。




そういう方便らをふるいに掛けるようなことをしてゆくと、本当にお釈迦様の言ったことと合致するのは少数となるのが常です。
つまりそれだけ不純物が多い=嘘だらけ、ということなのですね。




では、お釈迦様の説いた本当の教えと、阿含宗で説いている内容とを見てみましょう。





■お釈迦様が一生を掛けて説いた教えとは



お釈迦様は死ぬまで道を説きました。何の道か?それは成道ということです。
成道とは何か?それは仏陀に成る道、しいては仏陀に成るだけではなく完全に解脱して涅槃へ至る道を説いた、というのが正解です。


つまり完全解脱(漏尽解脱と言います)する前に「仏陀」という存在になる必要がある。
その仏陀というのは悟りを得た人でお釈迦様の説いた教えをある程網羅して煩悩を滅して悟りを開いた存在になった人です。

しかし、この仏陀という存在になっても煩悩を抱き、発生させてしまったら仏陀陥落となります。つまり普通の人に戻ってしまうということです。
そうなるとまたこの仏陀に成るために修行を再スタートさせねばなりません。

そして仏陀に成ったらその清らかな状態を死ぬまで続けてゆかねばなりません。つまり仏陀というのは資格のように一回取ればOKというものではなく、非常に厳しい存在であるということですね。
修行者たるある一定の境涯と言いましょうか状態の様の人への名称を指すわけです。

そしてこの仏陀の状態を死ぬまで保持してゆき、自分の完全解脱を果たしてようやく死後に涅槃へ入り輪廻しなくなる。生まれ変わらなくなる、ということで完成なのです。

ただし、人によっては過去世での悪業が多かったり、現世で寿命を終えるまでに完全解脱できない人も居ます。
そういう人は死後また生まれ変わったのち修行を続けると解脱できる可能性があります。

なので必ず皆仏陀に成ったから現世で涅槃へ入る、とは限りませんが、涅槃へ入るためには仏陀に成らないといけない、ということですね。


これを図式にすると


普通の人間→仏陀→完全解脱→涅槃  となるわけです。



仏陀に成るだけでも大変なわけですが、まず完全解脱しようと思ったら「仏陀」に成らなくてはなりません。
煩悩を滅却し悟りを得て真理を知る。そして修行を重ねて様々なものから解脱してゆく。
そして生きている間に全て解脱できたら、死後は生まれ変わらない存在となって涅槃へ入る。



この教えを説いたのが仏教です。



▲阿含宗での教え


阿含宗は建前上同じことを言います。ただ、同じことを言った後に方便が入るのでそこが曲者です。


まず、阿含宗でも「涅槃入り」を説きます。ここが最終ゴールなわけですから当然説きます。
ただし、そこまで至るには大変な道のりであると説きます。

涅槃へ入るにはとてつもない苦労がある。その前にまず仏陀に成らないといけない。
しかしその仏陀に成ることさえ普通の人には至難の業である。

そこに至る前に良いものがある。
それが仏様の存在や神々の存在と成仏法である。

この力によって普通の人は中々解脱という道へ進めないものだが、密教の説く「現生成仏」が叶うという。
そしてまずは仏陀なんてものになる前に「因縁解脱」をしないと解脱どころではない。

この様に説くわけです。



また因縁解脱というのは正式には「悪因縁解脱」と言って悪い運命やその元を絶つものであって、この悪因縁を持っていたら如何に能力があり頭が良くてもお金持ちでも不幸な運命をたどることになる。
だから仏陀だの涅槃だの言う前にこの悪い運命を絶つ「悪因縁を解脱する」ということを在家はしなければいけない、という風に言うわけです。


そしてその悪い因縁を無くしてしまえば後は良い因縁だけが残るので修行が進み、仏陀に成れるであろうし涅槃へも入れる、としているのが阿含宗の売り、なわけです。


なので悪い因縁を無くしてしまうために阿含宗で修行し、まずは因縁解脱する。
そのために阿含宗で信仰をしましょう、がセオリーなのです。



●判別の仕方


確かに阿含宗の説明は一般の人たちにはわかりやすい内容です。
しかし、それがもしも嘘だとしたらこれは抜き差しならない問題です。



その判別をするためには、阿含宗の説明や内容をお釈迦様が本当に説いたかを確認すればいいのです。



さあ、確認してみると判りますが、お釈迦様はそういう教えを微塵とも説いてません。一切出てきません。
そして用語自体もおかしいと分かってきます。



まず「因縁解脱」という語は後世の人間の創作語です。仏教には確かに「因縁」という語も有り「解脱」という語も有ります。
しかし両者をくっつけた「因縁解脱」という語は一切ありません。


そして無理やりその後を解釈しようとすると矛盾が生じます。
因縁を解脱するという意味ですが、仏教にそういう解釈も内容も有りません。非常にチグハグです。


仏教では「因縁を解脱する」のではなく、悟りを開いて自分自体が輪廻の環から外れて涅槃へ至る究極の方法を説いています。それが解脱です。
因縁というのは道理を示しています。別称縁起の法と言いますが、縁があって物事が様々に起きるという法則を示しているものです。

だからそれから解脱する、というとさっぱり意味不明な事となってしまいます。



確かに「いや、悪因縁からの脱出(解脱)であって、そもそもの因縁の法則からの脱出ではないんだよ」というかもしれませんが、それは方便です。
それこそ詭弁と言ってもいいほどの大嘘です。



なぜならお釈迦様がそういう「悪因縁を無くす方法」もしくは「悪因縁からの脱出」という物を説いて無いからです。



何で無いのか?お釈迦様はもしかしてそういう方法が有ることを忘れていたのか?とか疑問が生じそうですね。
ですが、違います。お釈迦様は亡くなるまで「私は一切説かなかったことはない。すべて説いた」と言っています。
「隠し事も無く全て説き尽くした。後は私が説いたその道を各々が進むだけ(実行する・修行する)だけだ」と言っています。

だからお釈迦様が説き忘れたとか、ポカをやったことは無いんですね。



またその悪因縁に対してどうすればいいか、というのは既に説いています。消し方は説いてないがどうすればいいか、どうなるかは説いています。
だから唯一「お釈迦様が説いた悪因縁に対して自分らはどうすればいいか」というのは、これです。




「自分の蒔いた種は自分で刈り取る」=「自分の身で受けるしかない」




つまり悪因縁がその人にあるとしたら、それは過去世に於いて自分が作った罪障である。
それから逃れたり減らしたり相殺などすることはできない。だからその身で甘んじて受けるしか方法は無い。


その様に言われているのです。だからお釈迦様がもしも「悪因縁を無くすためにはどうすればいいですか」に対し答えたとしたら




「その身で受けなさい」ということになります。




だから阿含宗の言うように勤行をして霊障のある先祖を解脱供養して、道場に赴き教団の指示する修行法に於いて仏様に供養をすると因縁解脱できる、と言いますがそれは嘘です。
実際阿含宗の信者になり、色々教祖の指導に沿ったがその甲斐もなく悪因縁に通りに亡くなった人はごまんといます。



本当に教祖の言うように仮に仏教でなかったとしてもそういう力やお蔭があるのなら、その証があってしかるべきです。
ところがそれが無いのですね。


ましてや阿含宗は仏教教団であり、尚且つ「お釈迦様は一生を掛けて因縁解脱を説いた」と言っていますから、明らかな嘘です。




だから、こうやって内容や語を追っかけてゆけば、整合性が無いのが浮き出て「阿含宗は嘘をついている」と分かるのです。




しいては阿含宗だけでなく他の教団でも「因縁解脱」を説く教団は実はあります。そしてその他の教団も仏教にはないことを仏教が説いたとして行っている。
これは全く仏教からすれば言いがかりであり、ねつ造です。



また余談ですがなんで阿含宗は「因縁解脱」なんてのを持ち出したか。または提唱しているか、というと、この「因縁解脱」というのはだいぶ昔からあって尚且つ日本人になじみ深い物となっています。
だからその因縁解脱を上手く使えば人々を宗教詐欺で騙せる、と分かったから用いたのです。


ただし、単純に用いてなぞるだけだと他の教団と差がが無くなります。別に同じ因縁解脱を説くなら●●教団でも構わない、となりますからね。
だが、そうではなく「因縁解脱するなら阿含宗だ」とするには、やはり特色というか何かなければならない。
そこで色々考えたのが「阿含宗流の味付け」なのです。そしてそれはある程度うまく行った、ということで今も継続されているのです。


それは他の教団に無い理論で出しました。他の教団はあまり霊障の事を出してはいませんが、阿含宗では霊障の怖さを出しています。
またその霊障が如何に怖い物でも「必ず成仏させることができる」としています。

そしてそのことが実現できるのが教団の持つ「真正仏舎利」の力とお釈迦様の説いた「成仏法」、そして教祖の持つ成仏力(法力)だというのです。
これによりどんな悪因縁も解脱でき、霊障の仏も成仏させることができると打ち出したのです。




しかし、これは調べると判りますが、全くの嘘です。
阿含宗の教祖というのは人を騙すためなら巧妙にかつどのような嘘でもつく人間です。



だが、一般の人はこの阿含宗の教祖の言う事が本当は嘘かわかりませんから、信じるか信じないかどちらかになります。
そして仏教に疎い人や無条件で教祖の言う事を信じた人。または他の教団で色々やったが効果が無かったという人らがこの阿含宗の謳い文句に「やられた」わけです。




お釈迦様は最初から、というかそういう変な「悪因縁を解脱する」なんてのは説いて無いわけです。
また死者を成仏させることができるなんてのも説いていません。



だから今巷に有るような「仏教=お寺さん」「お坊さん=いろいろな儀式・法要を行う」というようなことはお釈迦様は説いて無いわけです。
このこと自体がかなりショッキングなことなのですが、多くの人はこのことも知りません。

つまりぶっちゃけて言えば「お坊さんらがお経を読んだり葬式や法要などを行うが、それらはお釈迦様が説いたものでは無い」ということです。



じゃあ、仏教って何をするのよ?といったら先に言ったように「仏陀に成って最終的には涅槃へ入るために修行をするところ」です。


実際どのようなことをするのか、というと在家と出家とで違いがあります。(在家と出家はネットや辞典で調べてください)


では、今日はここまでで次回は在家と出家の内容と詳しい話へ進んで行こうと思います。それでは。

目を覚ました自分が得たもの⑤ 終章

2017-09-07 05:48:31 | Weblog
何度も言いますが、自分は「本当の仏教は阿含宗にある」というからそれを信じて入信したわけです。
ですが、それが真っ赤な嘘だと気づくのが遅く、20数年も騙されたわけです。

私は元々本当の仏教を講じたかったわけです。だが、あまりにも無知識と人を簡単に信じすぎた性格がアダとなり、騙された。
つまり阿含宗という物を信じて騙されたわけだが、後々になって本当の仏教を2chの元信者さんらに教えてもらって目が覚めたわけです。

私の場合は根底に「本当の仏教を講じたい」という気持ち(意思)があるのでまだいいですが、阿含宗を信仰している人全てが私と同じではありません。


特に懸念するのが「お釈迦様も本当の仏教も関係ない」という思考・方向性がある人たちです。
こういう人は中々目を覚まさないし、たくさんの真実や情報を与えても訊きません。

その様な人は自分で痛い目に遭って気づくか、死んでから「阿含宗で習ったことと違う」というのを死後リアルに体験して分別を付けるしか方法は無いでしょう。



しかしそうではなく、私が話したことの内容が分かる人ならば、ぜひ目を覚まして退会してもらえれば幸いと思っています。
(しがらみのある人などで容易に退会できない人は別です)




本当の仏教には阿含宗のようなおかしげなものは有りません。


まず因縁解脱というものはない、ということ。
霊障もない。不成仏霊もない。

仮にそういう存在があったとしてもそれについての「何かをする」というのはお釈迦様は何も言われていません。
だから自分らも何もできないし、お坊さんでも何様でも何もできない。

人は死ねばその人の赴くところへ行くのですから、その人自身も赴くところへ行かねばならないし、周り(他人など)もその動きを止められない。
変えることも何もできないわけです。




生きて人生上で悪因縁の影響とするものに出くわすならば、それはその人が過去世に積んだ悪業の因果の巡りなのです。
だからその報いを受けなければいけないだけで、悪業を持って無ければ悪因果に悩み・泣くことも無い。

その悪果をどうにかすることができるのであれば、とっくの昔にお釈迦様が説いているはずです。
しかし、一切説かないということは「因縁解脱論のようなものは無いぞ」ということです。




先祖供養も供物を供え、念仏やお題目、お経や真言などを上げろ、とお釈迦様は指導されたことがありません。
死者は食べ物を食べれないし、第一赴くところに行っていていないのだから供えても意味がない。

死者には偲ぶべきが肝要としたのは、本当に合点が行きます。




勤行も要らない、解脱供養も要らない。仏舎利を祀ったり神仏を祀ったりも要らない。護摩も要らない。祈祷も不要。占いなども無用。
要るのはお釈迦様が説いた教えを実行することだけ。


そこにはほとんどお金もかからず、手間も無い。自分の体1つで事足ります。
これが本当の仏教の姿であり内容です。





だから、如何に嘘の教えと間違った方向に誘導されているか。絆されているか、です。
もうそれらは「毒されている」と言っても良いほどです。






なので、2chを見てみるとその逸れた傾向が伺えますが、例えばある人などは
「お不動だ」とか「観音だ」とか言っています。またその他諸尊を祀ったり仏舎利を祀ることも言う人も居ます。

しかし、本当の仏教にはそういう尊らを祀るという事項は無く、ひたすら仏陀に成るための行為(修行)が肝要だと説きます。
なので、巷の嘘の教えが遍満しているのに慣れ過ぎて、むしろ本当の仏教の内容を知るとか、行おう、という気が起きないのです。




それこそそういう嘘の事項に慣れているので、本当の仏教の内容の方が無味無臭に感じて「美味くない」と感じる。嫌気さえ感じる。
仏教という物がそんなつまらない内容であることだなんて受け入れたくないのです。





これも例えですが、日本人は世界中の人間の中で「塩分が高い物を食す傾向がある」というのが言われています。
もちろん、日本の中で地域差や個人差も有るので「皆そうだ」というわけではありませんが、平均してみると世界的に塩分を過剰に摂取していると統計ではあるそうです。


健康の事を考えるとやはり塩分は控えた方が良い。また脂肪の摂りすぎも良くない。運動不足も云々・・・とありますが、これが仏教の事に似ているなあと私は感じています。




かくいう自分も父親が過去肉体労働者であったため、過酷な労働に耐えるために塩分が多いものを食しておりました。
その影響を自分も受け、幼少から塩分強めの食事に馴らされてきたものでした。

それが顕著にわかったのが食品サービス業に従事した時と、妻と結婚してからでした。



食品サービス業は味付けは平均的な塩分濃度の状態で作らねばなりません。
なぜかというと、自分が塩分が濃いのが好きでその習慣で食べ物を作ったら、薄味が好きな人には地獄のような食べ物になります。

というか、売り物にならない、と言った方が良いでしょうね。だから、極端な薄味の人は別として、おおよそ「このくらいの味加減」というものを勉強させられ指導されます。



ところが自分が濃い味が好きなので、作るとどうしても濃い味になってしまい先輩や上司から何度か指導を受けるのです。




また家では食事をする際におかずにしょうゆをたっぷりかけたりします。味噌汁も薄いと駄目なので濃い味を希望します。
すると妻から「随分異常な程塩味を好むのね」と言われました。



妻の家では割と平均的な塩分摂取量の家のようで、自分から見るとかなり「薄味」の人間と感じました。
しかし、先ほど言った仕事で「お前の濃い味の性格や生活は仕事では治せ」と言われていますし、家でも妻からそのように言われているので自覚が出たというわけです。

だから習慣とか慣れって怖い物だなあ、と思いましたね。




嘘の仏教に慣れているのが「濃い味好み」のようなものです。嘘を「本当の事項」と聞かされ、そして馴らされる。
そして後年になって本当の仏教というのを知るが、濃い味の人間は薄味の食べものは「塩分50%以上カット」した食品のようで、物凄く味が薄くて食べられない。

それこそ納豆にしょうゆもたれも入れないで食べているようなものです。極端な表現と思うでしょうが、本当に薄味に慣れないとそのように異様に感じるものです。
だから薄味に慣れるまで「よくもこんな無味っぽい感じで食べれる物だ」と呆れたほどです。




いや、むしろ呆れられるのは自分の方で、世間ではやはり私のような濃い味が好きな人は本当に少なかったのを後で知ることになります。
だから世間を知らないというのは本当に恐ろしい物で、後で自分の家の傾向を知って愕然としたものです。
恨みはしないが、親に対して「何で薄味で生活してくれなかったのか」と思ったほどです。




でもそういうのを経験して薄味に慣れると不思議な物で、今度は自分のような人を見て愕然とするのも経験するわけです。
ソースやしょうゆをやたらかける人や、チーズやタバスコなども一杯掛ける人も見かけます。

タバスコなどはさほど塩分異常というわけにはなりませんが、チーズは大量だと塩分過剰になります。
もう、濃い味でないと食べた気がしないので、どうしてもそのように成ってしまうのです。

後は丁度いい塩分加減にしていても「塩を追加」したがる人もそうです。
味噌汁にも塩。ラーメンにも塩。とにかく塩分を強くしないと気が済まない。

過去の自分がそうでしたから、そういうのを見ると寒気がします。



なのでそういう様を見ると「ああ、間違った仏教を信じていた過去の自分と同じだなあ」と感じますね。






本当の仏教は桐山氏も言っているように、面白くないんです。
あの平気で嘘をつく桐山氏でさえ、嘘をつく方便の前に本当のことを言ったりするのですが、その表現は「正しい」のです。

だから阿含経が世に出るまでは「なんだこんなもの」と顧みられなかったというのが仏教の歴史で有るのですね。



ところが仏教を調べる人たち~学者さんなどが色々調べた結果、この「面白くない」と感じる方がどうも本当の仏教のようだ。
むしろそれ以外に山積する様々な教えを説く「仏教」を調べた結果、後世の人間が創作したり改ざんしたりした跡がある、と分かった。



だが、そういう事がわかったのはだいぶ後なので、世間を見たら「嘘の教え」が遍満していて、とても巷に有るものが「嘘ですよ」と出せなかった。
だから学術上「こうである」という物を残しながら、巷の流れを優先というか容認したと言うのがあるわけです。
そのお蔭で未だに「嘘の教え」が無くならない。続いている、というわけですね。





先に例えた「薄味・濃い味」のことのように、どちらを選ぶかは「個人の自由」としたように、仏教もそのようにしたわけです。




如何に健康上「薄味が良いんだぞ」と言うのが医学上分かってそれが望ましいと言っても強制することはできません。
個人の責任の上で塩分を多くとった結果、病気に成ろうが不調が起きようが「それは個人の判断と責任」ということでしかない。



それと同じように偽の仏教を講じようが、本当の仏教を知ってそれにシフトしようが、他宗教に行こうが、無宗教になろうが「個人の勝手」です。
だから基本的に何をしようが犯罪や法律に触れること以外では「個人の自由」が認められている。






ペットもそうですが、人間と同じように濃い味で馴らしたら寿命が短くなるのはデータで出ています。
だからペットフードはほとんど100%に近いですが、皆「薄味」になっています。

なんでそうなのかというと、愛するペットを飼い殺し&早死にさせないために、そのようにしているのです。





人間も所詮「動物の一種」ですから、やはり同じが望ましい。つまり長生きして不調を無くすためには「薄味」がいいわけです。
しかし、強制はできない。





そういうのがあるわけです。








だからある種私は仏教的には「薄味推奨」を言っているようなものでしょうね。








なので、慣れと言うのは怖いし、無知というのも怖いものです。
嘘の教えを頑なに信じて講じる。本当の教えがあるのにそれを「拒絶する」




それこそ前の記事で「仏教は別に講じなくても死ぬわけでもない」と言うように自分は言いましたが、そのとおりです。
ただ、分かっているのが



「嘘の教えを講じてそこに何が有るのか」ということです。




私から見れば詐欺師らを喜ばせ、自分らは彼らに貢いで損をしているだけだと思います。






それこそありえないですが、自分で勝手に自分教を作ってそこで自己満悦に浸っている人がいたとします。
他人に危害や迷惑を掛けない内容であって、が前提ですが。



そういうのなら仮にエセ宗教を講じているとしても、害は無いのだからまあいいでしょう。
ですが、巷に有る詐欺宗教はそうではないわけです。




個人が持つ財産や労力などを搾取し利得を得るのが目的ですから、そこに散財している。
またその詐欺宗教を人に勧めたりもするわけです。他人様にも影響や迷惑をかけることにもなる。

そういうロスなどを憂うわけです。





ところが本当の仏教はそういうのがありません。自分が講じたいと思う物をひたすら自己で行うだけですから。
他人を巻きこんだり騙すということがありません。




というか本当の仏教が騙したりするような内容だったら、信じたり講ずる意味も無いわけですが。








嘘と本物の違いはそれだけ違うということです。




さあ、この章はこれで一旦終わり、また次回からは違う感じのもので展開したいと思います。
それでは。