天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

阿含宗在籍期間を振り返る①

2017-06-23 04:40:43 | Weblog
ふと思ったのですが、阿含宗初代教祖(開祖)桐山靖雄氏の当時を振り返ることで「どうしてそのような行動に至ったのか」が分かるかと思い、この章を進めて行こうと思います。


まず最初のものとしてこれを見てゆきましょう。それは「桐山氏がなぜ僧籍関連に躍起だったのか」についてです。




阿含宗の事を知らない、または古くから阿含宗に居ない人で桐山氏の行動に疎い人のためにざっとですが昔の事を掘り起こしてみます。




桐山氏は阿含宗を創設し運営していたわけですが、いきなり阿含宗という物を創設したわけではありません。
阿含宗の前には「観音慈恵会」という宗教団体でした。つまり「観音慈恵会」から阿含宗に名称を変えた、ということですね。

厳密に言えば私は古い時期は幼少、及びそれ以前だったことも有り関わっていませんでしたから、後から知ったのですが、観音慈恵会よりも古い形(宗教団体)があったそうです。

それは「皇大治教」というもので、観音慈恵会よりも前の時期、1948年に立ち上げたそうです。
しかし、その後1954年に「観音慈恵会」を立ち上げ「皇大治教」は辞めたようです。

そして1978年に観音慈恵会から阿含宗に変えて現在に至る、というわけです。



「皇大治教」はかなり古い時期ですから正確な中身は判りませんが、聞くところによればいかがわしい宗教団体だったと聞いています。
そういうままではさすがにまずいと思ったのでしょうね。なので巷的に認知度が深い「観音信仰」をベースにした団体である「観音慈恵会」を新たに立ち上げシフトしたようです。


そしてその流れがある程度うまく行き、信者も増えてきたことと阿含経に目を付けて居たことも有り、「阿含宗」へと名称も変えたというわけです。



これがおおよその宗教法人(団体)としての流れです。





流れは実は大した重要ではなく、説明と考察に必要だから述べただけです。
ここからが今回の本題というか大事なところですので、よくお読みください。




桐山氏は普通の僧侶のような「仏教大学」を出てどこかの宗派に身を置き得度した、という経歴がありません。
つまり一介の宗教法人(団体)の代表及び管長という立場ながらも、僧侶としての資格を持ってはいなかったのです。


これは普通であれば考えられない欠損部分でもあります。
しかし、桐山氏はその欠損部分を補うために色々苦心したのですね。


在来仏教教団であれば必ずどこかの宗派に身を置き僧侶の資格を得て僧籍を取得します。
ですが、こと新興宗教であれば「僧籍や僧侶としての資格がないものでも団体を持てる」のですね。
だから例えですが「○福の科学」というような団体の主催者も特段僧籍や僧侶としての資格を持っていません。
ですが、ちゃんと団体の主として君臨し活動しています。

そのことから新興宗教では特に僧籍が無く、特に僧侶の資格がなくても活動・運営ができるというわけです。



ただ、そうはいっても実際的に僧としてのプロとしての肩書を持つか持たないかでは世間での認知度やハクの面でも無いよりは有った方が良いわけです。


しかしながらその僧籍等を得ようとしても若い時分なら、一時どこかの寺院に身を置き、尚且つ仏教大学を出て資格を得ることもできましょうが、桐山氏は皇大治教の時点で33歳です。
そういう中年の年齢の時期に僧籍を取るための行動をしているような暇はありません。

確かに稀に年齢が上の人でも僧籍を取るために(または僧侶になるために)仏教大学を出て・・・という方も居ります。
ですが、僧侶になるということはどこかの宗派に就く、ということを意味していて、その宗派のお坊さんになることを意味します。


桐山氏のやりたかったことは「どこかの宗派の坊さんになることが目的」ではなくて、自分で興した宗派のTOPになることが目的ですから、如何に僧籍が欲しいとはいえ回り道をしてまでするつもりはなかったわけです。
このことから桐山氏が「何をやりたくて行動したか」が見えてきますね。




先ほど言いましたが新興宗教はぶっちゃけ、ある程度の物を用意して申請が通れば「誰でも団体が作れる」わけです。僧籍がなく僧侶としての資格が無くても宗教法人が持てるわけです。


ただ、そのままだと世間的に見られる目という物と、桐山氏個人としても「僧としての資格があれば言う事は無い」わけです。
だからそのために「色々と模索した」というのが経緯としてあるのです。




今まで述べた概要でわかる様に団体を興したのはできた。後は僧としての「ハク」が欲しいわけです。
そしてそれを得るために最初の段階として真言宗金剛院派の「北野氏」から得度を得たようなことで僧籍を得た感じにしたのです。


しかし、名称は伝統寺院のようにそれっぽく感じますが、実際的にさほど「資格ですよ」というほどのものがないわけです。
だから、その北野氏からの物では「こと足りない」ので、次を模索した。それが「真言宗」からの僧籍会得だったのです。


ところがその事項は途中で失敗に至ります。
なぜなら真言宗は新興宗教ではありませんから、とても厳しいわけです。
どこの馬の骨とわからない人間に「はいよ」と言う感じで僧籍など与えません。


色々な手を使って模索した結果得そうになった途中で企みがばれて、破門になります。
そこで桐山氏は考え方を変えたわけです。



「ハクは日本で得れないなら別なところで得ればいい」



そうです。つまり外国での宗派からの権威などを得ることでハクをつける、という方向にシフトしたのですね。


だから実際的に桐山氏の名誉やら権威的な物は皆「外国」ばかりなのがその証拠です。
日本で在来仏教寺院からの資格系統はゼロ、というのが明らかな証拠です。




本当は日本の在来仏教寺院からの僧籍や資格が一番なわけです。しかしそれが得れないのです。
だからと言って「ハクがゼロ」だと世間は「何それ」と言われる原因になります。



また、人を騙す上に置いて権威という物はあればあるだけ騙しの道具になり、効果が期待できます。
ですからハクを付けるためと騙しを効果的に出すために「必要」だったわけです。

ただ如何せん国内での僧籍は取れない。なので外国の宗派よりの権威・僧位。またいろんな名誉なども得れば僧籍に及ばないまでも「この人は凄いんだ」という示しになる。
またこれは別の観点ではありますが、桐山氏は創価学会の池田代表に対して対抗心を持っていたと言われています。

池田大作氏は知ってのとおり、いろんなところから名誉やらを沢山貰っています。つまりそれだけハクも多い、ということです。
桐山氏は池田さん以上の物を、と思っていたようですが中々そうはいかなかった。
しかしながらある程度のものを集めることはできましたから、それなりの数の物は集めた。
ですが、その集めたものを良く見てみると団体やらに寄付したりなどをすれば得れる物ばかりです。

つまり先ほどから言っていることですが、桐山氏は単なる一介の宗教法人の代表なわけです。
そのままでも運営はできるが、どこか物足りない。尚且つ本人もそれを感じてもいる。

できるだけ権威や名誉などが欲しいわけです。そしてそれらを手に入れることで自身に「ハク」をつけていた、ということです。
そして繰り返しになりますが、ハクがつく副産物として「人を騙すための道具」になっていた、ということもあるわけです。





さて、本題に振り返ってみると自分はその「ハク」を集めている最中に入信していました。
もちろんそういう教祖の姿を見て何も知らない自分は

「国内では在来仏教らに認められなかったが、諸外国の人たちは教祖の凄さという物を分かって様々な物を与えていたのだなあ」と思っていました。

まあ、いわゆる過去の自分は「物知らず」だったわけです。



別に私は権威だとか名誉だとかそういうのに憧れたり従ったりする人間ではありません。
むしろ何も持たなくても「結果で見せる人間」の方を認めます。



というか桐山氏はそういうニュアンスの事も発していました。
自分は誰もやらないことをしているし、できないことをしている。
そういう人間の価値を誰も国内では理解できるものが居ない。

だが、外国の人ならそういうのがわかってくれている。
自分はこれから発展してゆく人間だから今後を見てもらうしかないが、外国の人は日本人よりそういうのがすぐわかる人がいる。
国内から日本を変えてゆくのではなく、世界から日本を変えてゆくようにするのだ。

そのような内容を当時言っていたわけです。
それをすっかり信じていたので、見事に騙されていたわけです。




今だからわかりますが、詐欺に引っかかるという人は信じることが優先されます。
良く調べてみるとか深く物事を掘り下げる。検証するということをしないことが多い。

なので騙されるようです。


今も横行しているオレオレ詐欺やら特殊詐欺もさほど凄い騙しではありません。
尚且つ良く確認さえすれば簡単に騙されない性質のものも多々あります。


ところが実際は騙される人が絶えず、尚且つ被害金額も毎年増えているという有様です。
そして騙された人の多くの方の言う言葉が


「自分は騙されないと思った」というのが非常に多い。



つまり、ニュースなどを聞いても「どこかの間抜けな人が騙されているんだろう」というような安易さと対岸の火事気分で居る人が結構騙されているのですね。
これには自分も「何てことだ」と感じます。




宗教詐欺はオレオレ詐欺などとは手法も中身も違いますから一緒くたにはできませんが、詐欺というジャンルには変わりはないわけです。

詐欺は巧妙な嘘をつき、騙すものも有れば、単純なすぐにバレるようなものまで多岐にわたります。



如何せん、騙しに遭う傾向を見れば、確認・検証をしっかりしていれば、防げたものが多いです。

だから人生を生きる上で「信じること」は必要ですが、何でも信じるのではなく疑って掛かることも必要です。
また疑うを抜きにしてもやはり深く調べてみる。即決で信じたり端的に応じることでの失敗が非常に多いので、物事が何かあったら良く調べる。

そして今の時代はネットという物があります。情報が昔より比較的得やすい時代でもあります。


そういうものを活用して騙されないようにする。また人の意見も活用するのも手です。
ぜひ、そのようにして安易に騙しに走らない。そのように努めていただきたいと願います。

閑話休題

2017-06-01 14:54:12 | Weblog
もう6月がスタートしました。早くも2017年も半分が来た、ということで時間の流れは早いものです。

さて、今回はちょっと阿含宗の話題オンリーから離れて、TVで見た「あるニュース」について語ります。



それはある新聞が載せた記事でその内容が

「ある人が喪服で飲食店に入り食事をしたのち、退店後店先で『塩をまかれた』という経緯」です。

もちろんその喪服の人にダイレクトに塩をまいたわけではありませんが、食事を終って清算後退店しますよね。
そうして店先から居なくなった後に塩をまかれたわけですが、その状況を知らなければいいですが、知ったならやられた方としては良い気分がしませんよね。

私が喪服を着て入店した人間で同じことをされたなら、やはり気分が悪いです。




飲食店ではやはり「ゲン」を担ぐというのもあってそういう行為をするところがあります。
ですが、私がここで言いたいのは「良く考えて行動してほしい」ということです。






これは自分のお寺さんが法要に来ていたときに「説教」で語られたことですが、これを引用します。
なぜなら、いつも自分が「在来仏教」を批判していますが、中にはとても良い物や正しいことを言う場合も有ります。
それは批判を超えて称賛するべきものだと自分は思っています。その中の1つであるものなのですが、非常に良い物なので引用し説明いたします。




お寺さんが法要の合間に説教をされました。
それは「どうして皆葬式が終わった後に家に入る前に『塩を掛ける』のか」という事について、でした。



お寺さんは説教を始めたばかりにこのことを言い、次いですぐさま答えも言いました。


「塩を掛けるという行為はナンセンス以外の何物でもない」


これには私も「へえ~」と感心したものでした。そしてお寺さんがどのように説明するのか注目して聴いていました。




お寺さんはこう言われました。




「葬式という物は人が亡くなった際に行う儀式です。故人の事を偲びつつ、冥福を祈る場でもありセレモニーなわけです。
 しかしその葬式が終わり、皆家に帰り玄関を入る前に真っ先に行うのが「塩で浄める」ということで体に塩を掛けるわけです。

 なんでそのようなことを行うのかというと、それは死というのもは不浄だという観念(概念)があるからです。
 その不浄を払うために塩を体にふりかけ、浄めてからでないと家に入ると良くない、と思うから行うわけです。

 ですが、その不浄という物=観念(概念)は、いったいどこから来たのでしょうか?


 そう問われると意外と誰も明確に答えられないのが現実です。
 せいぜいあるのは

 『昔からやっているから』とか『みんなやっている』もしくは『昔の人からの言い伝えのようなもので自然と行っている』というようなものです。

 
 確かにそれらはわかりますが、その「不浄」とやらは本当に不浄なのか。何が不浄なのかというのを良く捉えていません。



 結局、何が不浄なのかというのを追ってゆけば、不浄なのは「亡くなった人」のことを指しています。
 つまり亡くなった人が不浄な故、塩で浄める行為をしている、ということになります。


 それでは人は生きて居れば「不浄でなく」て、死んだ途端「不浄な存在」に変わるものなのでしょうか?



 亡くなられた人は葬儀に来られた方にとっては縁のある方です。特に親族などの身内の方から見れば非常に近しい存在です。





 例えば、自分の親が亡くなったとします。すると先ほどまで生きていた親が死んだ途端「不浄な存在」になってしまうというわけですが、これってそうなのでしょうか?
 生きていれば不浄では無くて、死んだ途端「不浄になる」のでは、これは非常に変な思考でおかしなものではありませんでしょうか。



 さっきまで「お父さん(お母さん)」と生きていた存在が、死んだ途端「不浄な存在」になる。
 これって亡くなった方にとって非常に失礼ではないでしょうか。


 逆を考えても分かります。例えば自分が死んだとしたら、ついさっきまで親しかった身内や家族、友人知人が皆一斉に自分を「不成な存在」として線を引かれる。
 または忌み嫌うような仕草をされたら、果たして気分が良いものでしょうか?


 また仏教に於いてもお釈迦様はそのような観念や概念を言われたことがありません。
 生きているときはもちろん、死んだら人間は不浄な存在になる、なんてことは言われていません。
 むしろ死んだって生きてたって「何もなし。普通のまま」で見るのが仏教です。死んだからどうの、ということは言いません。
 まして塩で浄めるという行為も仏教にはありません。



 そうするとやはり考えられることとすれば、どこかの誰かが考えた(作り出した)観念や概念であると言えます。
 そしてその物(行為)が未だに継承され、行われているということですね。


 ですから、葬式が終って家に入る前にせっせと塩を掛ける行為は私は「お止めなさい」と言っています。
 しかし、行うのは個人の勝手ですから、絶対にとめるということはしません。
 ただ、その観念(概念)は間違っていますよ。少なくとも仏教ではそのようには教えていません。
 そういうことをお伝えしているような感じですね。」



おおよそこのような内容でした。私は「あっぱれ」と思いましたね。





お寺さんの言う通りで、本当に有る種「馬鹿げた行為」だと思います。
塩で浄めてからでないと家にそのまま入ると災いが起きる(禍に遭う)というのを自分は聞いたことがあります。
または死んだ人が付いているなんてことを言う人の意見も聞いたことがあります。



でも、いづれにしても根拠のないことであり、信憑性もありません。



また塩ごときで浄められるのならこんな簡単なことはない。そんなに塩がいいなら、いっそ亡くなった人を塩で浄めたらいいではないか。
塩漬けにするほどの大量の塩でやったらいいのではないか、という愚問まで出てきそうな感じです。



そんな馬鹿な話はないわけで、尚且つ日本は火葬しますから不浄もクソも有りません。
なのに葬式が終れば「塩・塩」と走る。

非常におかしな風習ですね。










また仏教的にみてもお釈迦様はそういう物は説いていないという。お寺さんの言う通りで仏教では塩を浄めに使うことはありません。
せいぜい神道などで使うぐらいです。仏教にはありません。





ならばやはり根幹的にみても「仏教からそのような逸れた教えは説いて無い」というのがわかります。
なので、どう考えても後世の人間が勝手に考えて流行らせた「変な風習」だというのがわかります。
お寺さんが呆れながら「しょうがないなあ」とみているのも分かるという物です。






TVのニュースではここまで詳しくやっていませんでしたから、「皆さんはどう思いますか」で留まっていましたが、本当におかしなものです。
飲食店では「ゲン」を担ぐ、ということで喪服を着たお客さんが来た後「塩をまく」という行為をするところがあるとは言いますが、それもおかしなものです。

つまり気持ち的には分からなくはないが、おかしな行為であることは明白です。
やはりそういう「ゲン」も捨てて「別に何もやらず普通にしているべき」です。




よくあるのが変な客が来て店に迷惑をかけたとかそういうのがある場合はよく「塩をまいとけ」とやりますが、それならまだわかります。
だけど葬式に出た後そのままで飲食店に入るな、は酷です。


それこそ家に一旦帰って平服に着替えて行ける環境の人は良いですが、そういうのができない人も居ます。
そういう人は安易に喪服のまま飲食ができないことになります。または退店後に塩をまかれる存在になるのを覚悟で行くべき、を割り切るしかない。



そういうのってどういうのかと思いますけどね。





最後に私が言いたいのが「そろそろ日本人も気が付きなさい」ということです。
ほとんど意味がない「塩まき」というものに、つまり仏教さえ説かない風習に絆されている。

偽仏教に気が付かないのは根が大きいですから時間も掛かりしょうがない物がありますが、喪服の塩は私は意味がないと思う。
それよりも葬式に出て故人の冥福を祈った。哀しみも有ったがお別れができてよかった、と気持ちの面で整理が付けれてよかったと思うべきです。

故人に対して葬式に出て居ながら塩で浄めるとは非常に失礼な行為です。





以上、5月31日にTVで見たニュースに思うことでした。