2001年の記録
上海火車站(上海駅)近くには、「××旅社」といった名前の木賃宿が軒を連ね、リヤカー付の自転車が走っていた。
漕宝路のホテルから地下鉄で北上した上海市中心街の反対側に上海火車站(上海駅)がある。高鉄(中国版新幹線)専用の上海虹橋站ができる以前は、上海の入り口だった。
なぜ上海火車站周辺を散策したのかの記憶がない。しかし、兄から聞いていた上海のカオスそのものが蠢いていた。知人にカメラをぶらさげて上海火車站周辺を散策したことを話すと、「エッ、危なくなかったの?」といった反応がふつうだった。ふつうの人ならば、わざわざ行くところではない、危険だと思われているところだ。(幸い危険な目にあうことはなかった)
今では上海の象徴にもなっている浦東新区の高層ビル群建設のために上海に行った兄は、労務の仕事をしていたので、出稼ぎ労働者のリアルを知っていたのだと思う。20世紀末の中国は、高度成長(1978~2012年)が始まっていたものの外国で考えるほど景気は良くなかったのかもしれない。「フォルクスワーゲンのモータープールは、売れないサンタナで溢れている。」と兄が吐き捨てるように話していたのを覚えている。
上海ではタクシーも、社有車もフォルクスワーゲン・サンタナ(日本でも、1980年代に日産がノックダウン生産していた)一色だった。トヨタが中国国営企業との不平等合資を回避したため、代わりに中国進出を果たしたフォルクスワーゲンは、広大な市場を占有し、莫大な利益を獲得した。
当時の中国では、携帯電話さえ特権階級の持ち物だったので、上海からの帰郷者の話が、地方に住む人の知る上海情報だった。上海の現実は、地方に伝わることなく、帰郷者に都合の良い虚像だけが伝わった。
地方の寒村から上海に出稼ぎに行くことは、海外に行くのと同じほどの時代である。(21世紀初頭まで、建前では出稼ぎは認められていなかったので、出稼ぎは不法就労だった。) 人一倍面子を大切にする中国、「上海で頑張ったけど、ダメだった」とは、口が裂けても言えない。どんなことをしてでも、つまり男ならギャング、女なら春を売っても、カネを作って帰らなくてはならない。しかし、帰郷して口外することは、「上海は稼げる」ということだけだ。真実は、親にも言えず、「私も上海に行く」と言いだす兄弟姉妹に告白できれば、良い方だ。そんな訳で、我も我もと地方から何十時間もかけて上京してくる人が後を絶たない。田舎から出てきた何の技術もない農民に仕事が行き渡る訳はなく、上海に来たものの職もなければ住むところもない出稼ぎ労働者は虚空を仰ぎ、上海火車站前広場に座り込むしかなかったのだろう。
一国一城の主志向が強い中国では、腕一本で商売を始められる露店の床屋は少なくない。
なぜだか中国では、家屋の表向きに洗濯物を堂々と干す。時には、目のやり場に困ってしまう洗濯物と店番のおばちゃんを見比べてしまうこともある。
建物に垂直に物干し竿を掛け、電線だろうが使えるものは使うのが中国流。
僕と同じようにカメラを首からぶらさげている若者2人組にあった。1人は日本人のような顔立ちをしていたが、2人ともイギリス籍の上海に住む英語教師だった。日本人と会うことはなかったし、僕自身も商店主から「韓国人か?」と声を掛けられた。日本人はいなくとも韓国人が商売しているところは多い。韓国人の進出力恐るべし!
【メモ】
次回は、現在の日記に戻るが、「人民中国の残像」シリーズは、今後も断続的に連載していく。
旅は続く