Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/竹富島

2021-01-10 21:38:09 | 旅行

2019年の記録

夕陽スポットの西桟橋、日没が近づくと続々人が集まる

 

真友が、なぜ、竹富島に通い詰めていたのかが、何となく解ってきた。僕の泊っていたゲストハウスに来る客は、2つに大別できる。日帰りでは見ることのできない夕景や満天の星空を見て、一泊して帰る観光客と、連泊して“命の洗濯”をして帰る客だ。真友は、紛れもなく後者だったのだろう。

 

竹富の集落を散歩しているだけで癒される。(と書きたいが、実際は日差しが強く、太陽は挑戦的だ) 気になることは、空き家が目立ち、子供も若者にも、まず会うことがない。

 

連泊客といっても、1週間、2週間と沈没するアジアの安宿にいるバックパッカーとは違って、3泊ほどするとキッチリ帰って行く。僕が泊まった時も、東京で介護職と兼業のキャバクラ嬢の女性が泊まっていた。実際に話してみるとチャラチャラした外見と違った真面目に人生を考えているところもあり、そんなギャップに疲れ、4ヶ月に1回のペースで竹富に来ると話していた。“命の洗濯”とは違うのかもしれないが、東京にある親の遺産のマンションの賃貸料と年金で石垣島の安宿に暮らし、八重山諸島の伝統行事を見て回っているというおじさんがいた。“賃貸収入で南の島のホテル暮らし”というと聞こえは良いが、実際は、東京と沖縄の賃料差で生活しているのである。(石垣島は賃貸料が高騰していて安宿に長期滞在する方が安いと話していた。)

 

真友は、僕と同じか、それ以上に脳天気だったのだけど、確かに嫁姑問題で、「家に帰りたくなくなる」とこぼしていることがあった。(真友は、それを理由にして、夜の街に繰りだしていたのだが・・・) 僕は、彼のお母さんも奥さんも良く知っていて、はっきりした性格の2人だったので、プラスとプラスが激しくぶつかるのは想像できたし、彼の家に遊びに行くと、それらしき事件が勃発した。

真っ赤に燃えあがった夕焼けに“完全燃焼”の激しさを感じ、残照には「1日お疲れさま、また、明日ね」と労いを感じる。

 

冒頭に記したように真友の竹富通いの理由も理解できたし、そもそも、今の僕は、“命の洗濯”を必要としている類の人間ではない。24時間テンションマックスで、むしろ“命の洗濯”をしに来た人には迷惑な存在になるかもしれない。何しろ、朝っぱらから木陰でPCをカシャカシャ叩いたり、携帯でギャアギャア話したりしているのだから。

 

僕は、明日の朝のフェリーで石垣に戻ることにした。僕のテンションが落ちはじめた時に竹富に来よう。僕のセーフガードが1つ増えた。

 

竹富島最後の晩餐は、石垣牛のハンバーグ2(デミ&チーズ)と竹富島産車海老フライ。自分史上No.1の絶品ハンバーグだった。

 

 

旅は続く

 


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/竹富島

2021-01-09 21:54:05 | 旅行

2019年の記録

毎日の食事でお世話になったカフェレストラン“かにふ”の門柱

 

綺麗な砂浜を求めて、島を一周、といっても小さな島なので、小一時間もあれば十分。(もちろん、徒歩でなく自転車) 結論を書くと、残念ながら目の覚めるような美しい砂浜は見つからなかった。

 

竹富島の集落は、ゴツゴツとしたままの石を積みあげた石垣、カラフルな花の咲く木々、屋根にあるシーサー、そして白い砂の道が、縦横に貫く。

 

カイジ浜の木陰で、ボーっとしていたときのことだ、突然、散歩に来ていた老人に声を掛けられた。70歳前後なのかもしれないが、よぼよぼ感はなく、しかもなまりのない綺麗な標準語を話す。どちらかと言うと一方的に自身の略歴を話してくれた。

 

中学を卒業した後、沖縄本島の米軍基地に就職した。仕事は、厨房の雑役。米兵から真っ当に扱われない、名前で呼ばれることさえないことが悔しくて、独学で英語を覚えた。(占領軍が占領されたところの少年の名前を覚えないなど、あたりまえと考えれば、その通りだが) 英語を覚えたことで、何でも自分に話がくるようになり、厨房でも一目置かれるようになった。しばらくすると、横須賀に行かないかと言われた。横須賀に行けば、正職員になれ、定時制高校にも通えると聞いて、二つ返事で横須賀に行った。その後は、トントン拍子で、大学の夜間部を卒業し、公務員になった。人脈にも恵まれ、順風満帆だったのだが、宝石の貿易が、儲かることを知り、貿易会社を始めた。会社経営は、色々と苦労もあったが、家族を養い、息子も大学を卒業させることができた。それまで、竹富のことなど、何とも思わなかったが、急に恋しくなってしまった。まだ、50代だったが、ヨボヨボになってからでは遅いと思い、会社を処分して、その金で竹富に土地を買い、家を建てて、見様見真似で自給自足の農業を始めた。竹富に戻って10年以上、毎日3時間ほど散歩をしているとか。

 

ひと通り話すと、老人は近くにいたフランス人男性カップル(いわゆるLGBT、2人ともフレディーマーキュリー似で、男の僕から見ても格好良い)に臆することなく話しかけていた。弟と言っていた方は、片言の日本語ができたが、老人は流暢な英語で話をしていた。話の詳細まで聞き取れなかったが、僕に話したのと似た内容のことを話していた。

 

南国の象徴である紺碧の空と白い積乱雲

 

フレディーマーキュリー’sと英語ドリーム老人、不思議な竹富島の午後だった。

 

昨日のゴーヤチャンプルに続き、今日は、ふーチャンプル定食。

 

 

旅は続く

 


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/竹富島

2021-01-02 23:15:43 | 旅行

2019年の記録

南国の強烈に青い空と透きとおった海

 

竹富には、以前から行かなくてはならなかった。というのも、若くして亡くなった真友が通い詰めていたところだからだ。彼を見舞う時には、「元気になって、竹富、案内してくれよ!」がお決まりのあいさつになっていた。僕は、車椅子に乗せても彼と本気で竹富に行くつもりでいた。しかし、彼は、回復することなく逝ってしまった。「オイ、コラ、順番守れ!」(年下だった彼を見送るなんて考えていなかった) 竹富へ行く目的は1つ、何が彼を惹きつけたのかを知りたい、それだけだ。

(新年早々、湿っぽい始まりですみません)

 

東京はもちろん、那覇よりも台湾に近い石垣島、竹富島

 

竹富島へは、石垣空港まで飛行機で行き、バスでフェリーターミナルへ。フェリーターミナルから高速船で僅か10分。地図を見ると果ての果て、といった位置にあるが、意外にアクセスは良い。直行便を使えば、東京を朝出発、昼過ぎには竹富島に着いてしまう。

 

港からバスでゲストハウスまで行き、荷物を置き、自転車を借りて島内散策。小さく平坦な島なので、自転車があれば楽勝!って思っていたが、ちょっとした落とし穴があった。メイン道路は、舗装されているものの路地は、砂にハンドルを取られる。(キャスター付きのキャリーバックは、使い物にならなかった・・・汗) 何だかんだ言っても、時間は十分にあるし、のんびりいこうか。

 

沖縄ならではのゴヤチャンプルが第一食、ボリュームがあって健康的、結局、毎日食べていた。

 

この島で、数日ダラダラする。時間を贅沢に浪費して、命の洗濯をする。と言っても、1つだけ時間を気にしなくてはならない。夏の観光シーズン前ってこともあり、島内の食堂は、休業も多く、また営業時間も短い。コンビニなんて、もちろんないし、よろず屋も早々と閉店する。食材を持参してくれば別だが、手ぶらで来ると結構ちゃんとしないと食事にあぶれて、ゲストハウスのカップラーメンで命を繋ぐことになってしまう。

 

琉球らしい赤い瓦とシーサー

 

亜熱帯なので、クーラーを終日つけていないと危険だと言われた、僕は暑さにめっぽう強いので、かなりアクティブに真っ昼間も散策したが、理想的な生活は、こんな感じか?

日の出に合わせて散歩、木陰で朝食、しばらくPCいじり(こんな離島でもWi-Fiがあって、リモートワークができてしまう)12時前に近くのレストランで食事。食後はクーラーの効いた部屋で昼寝。暗くなる前にビーチで水遊び、夕陽を見た帰りにレストランで夕食。

 

日中は、強烈の陽射しがふりそそぎ、真っ赤に焼けた夕陽、そして、明るく輝く月

 

夜の店仕舞は早く、軒数も少ないため予約していないと食事にありつけない。偶然、声を掛けた旅行者が予約していたので、便乗させていただいた。オリオンビールで乾杯し、ソーキそばで〆た。

 

 

旅は続く

 


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/上野界隈

2021-01-02 10:46:50 | 旅行

2019年の記録

 

メンテナンスの行き届いた現役近代建築。“はく製”のような博物館とは違う風格がある。

 

上野は丸之内にあるオフィスへの途中。御徒町駅からブラブラとアメ横を上野駅まで歩くことしばしば。

 

むかしのアメ横のことは知らないが、今のアメ横は、中国人を中心とした多国籍のカオスだ。中国人訪日客相手の土産物屋だけでなく、在住の中国人向けに食材を売る店もある。(中国の市場が再現されている感じ、もちろん中国語が飛び交っている) “もみじ” と呼ばれる鶏の足は、そのままを調理して食べる(ポピュラーで人気がある)中国と違って、日本では、ミンチにして飼料するしかないので、激安なのに中国から来た友人は目を丸くしていた。() 日本食に飽きた中国人訪日客と在住中国人向けの本場の中華料理(地方によって趣きが異なり、日本の中華料理とは別もの)を提供する店もある。もちろん、アメ横は、リトルチャイナとは違って、トルコ人のケバブ屋やアフリカ系の服飾雑貨の呼び込みなどなど。いずれベトナム人の店も増えるだろう。(コロナ以降のことは行っていないので不明)

 

アメ横で買い物するときに失敗しないコツは、①品質の良し悪し、価格の相場を知らないモノは買わない。②今、絶対に買わなくてはならないモノを買いに行かない。といったことが、プロバイヤー・Zhenの言葉です。()

アメ横のひと、ひと、ひとの雑踏は、復活するのか?

 

JRを挟んでアメ横の反対側には、朝鮮・韓国系の人が経営する食材店や焼肉屋街があり、道路を挟みその北側に小粋な近代建築がある。それがビルの谷間にひっそりと佇む比留間歯科医院である。近代建築物を散策していると、××医院、××歯科医院の類が、少なからずある。当時としては、先進的なしっかりとした建物を建てられる個人は、お金持ちのお医者様(と財閥経営者や貴族)ぐらいだったのだろう。

ビルの谷間であっても、目を惹く輝きを僕は感じる

 

旅は続く

 

) あけましておめでとうございます。

周回遅れながら日記を書き続けます、旧年と同様お読みいただければ、幸甚です。