Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

東トルキスタンの夢と新彊の現実 第3回(グルジャイーニン)

2020-09-26 23:28:44 | 旅行

2019年4~5月の記録

 

毎日食べるほど大好きなシシ・カワプ(羊肉の串焼き)と柔らかいナン。これで結構お腹いっぱいになる。

前回紹介の「喀賛其民俗旅游区」とは別の少数民族居住区に行く。タクシーを捕まえ、「新華西路から阿合買提江路を入って・・・」と言ったものの、ウイグル族のドライバーに通じない。それでも彼は、「まぁ、乗りなよ!」と言うので素直に乗車したものの「どうしたものか?」である。前回の「喀賛其民俗旅游区」と違って、「地球の歩き方」に紹介されているものの有名観光地ではなく、ドライバーの想像範囲外なのだろう。まさに語学力が試されるところだが、難易度は高い。元々のウイグル語を強引に漢語であてたものを、僕が下手くそな発音をするのである。伝わるはずがない。日本語に例えると、元々アイヌ語である「サッ・ポロ・ペツ」を漢字で、「札幌」と表記し、「サツ・ホロ」ではなく「サッポロ」と発音させているのと同じだ。言い訳をグダグタと並べたが、僕の行きたい「阿合買提江路」が伝わらない。それでもタクシーは、ひとまず新華西路に向けて走っているのだろうか。信号で停止すると、ドライバーは「メモをもう一度見せてくれ」と言う。ウイグル族のドライバーの多くは、漢語を読めないので、日本人得意の「筆談」は使えないのに・・・・・・。 漢語の読めないドライバーは、僕のメモをスマホで撮影すると、漢語の読める友人に画像を送信し、友人に正しく発音してもらったのだ。「文明の利器・スマホ恐るべし!」と驚く以上に、僅かな信号の待ち時間で、それを成し遂げたドライバーの実行力と優しさに感激した。カシュガルでは、ウイグル族ドライバーに漢語のメモを見せると乗車拒否にあったことがある。ドライバーにとっては、トラブルの原因になる面倒な客とは、関わりたくないのが本音だろうから悪いのはこっちだ。

 

さて、ドライバーの誠意に感動したところで到着した「ウイグル民居一条街」は、だいぶ荒れていた。保存の対象から外れたためか、そこら中が瓦礫の山で、未舗装の道路は土埃でもうもうとしている。もうしばらくすると、すべて解体されて、中国の地方都市のありふれた街になってしまうのだろうか。残念なことだが、これが新彊の現実だ。

 


門前で日向ぼっこしていた親子の写真を撮っていると次々に家族が写真の中に入って来た。幸せな時間だ。

 

 

旅は続く

 


東トルキスタンの夢と新彊の現実 第2回(グルジャイーニン)

2020-09-22 15:17:17 | 旅行

201945月の記録

青い空、清々しい空気、カラフルな家屋、グルジャイーニンの素晴らしいひととき

 

さすがに昨晩は疲れてぐっすり眠って、朝と思しき時刻に起きた。「朝と思しき」といった回りくどい表現をしたのは、この街では、様々な時間で生活している人がいる。ホテルのチェックアウト時刻は、北京時間12時が標準 (交通機関の発着時刻の表示は北京時間)になっているが、ランチタイムのようにみんながいっせいに食事をする時間帯はなく、食堂ではお客が、バラバラというか、ダラダラとやってきて食事をする。どのような職に就いているかにもよるのだろうが、ゆったりとした時間が流れている。

 

幸いの晴天、清々しい空気の中、タクシーを拾い目的地の1つの政府が整備した少数民族居住区に向かう。「政府が整備した」=漢族好みに観光地化され、土産物屋が軒を連ねる街なのかと不安半分で訪問したが、良い意味で予想が外れ、小綺麗に整備されていたものの“見世物小屋”にはなっていなかったので、ホッとした。入り口にゲートがあるものの観光協会のツアー(馬車で回る)に参加しなければ無料。(中国では、整備保存された街に入るには、結構高額な入場料を払うことが通常) 観光客もほとんど目にすることもなく、のんびりとぶらぶらするには最高の街だ。

 

居住区を入ったところの木陰で、写生している人たち、穏やかな時の流れを感じる

 

写真を見て頂ければ一目瞭然なのだが、緑に恵まれたカラフルな街なみは、天山の南側のゴビ砂漠に隣接する街とは異なる。このような穏やかな風土が、緊張状態が続く南彊にない平安を生んだのかと思ったが、歴史を紐解くとちょっと違うようだ。

 

明らかに西洋(欧州)を感じる建物

 

木質やレンガに水色、ピンクといったパステルカラーが新鮮だ

 

1997年には、東トルキスタンの独立を目的とした暴動(グルジャ事件)が発生しているので、穏やかで暴動の起きない風土というのではないのかもしれない。好意的に解釈すれば、暴動(テロ)では、独立を獲得できないと人々が悟ったのだと考えたい。

 

少数民族居住区を散歩していて気がついたことは、ウイグル族以外の少数民族、ウズベク族、カザフ族と思しき人たちが多いことだ。(天山の南側は、ウイグル族か、漢族か) ウイグル族とウズベク族、カザフ族とで大きく異なることは、民族の国を持っているか、否かだ。ウズベク族、カザフ族は、ともにソ連からウズベキスタン共和国、カザフスタン共和国として独立している。つまり、大国であったソ連からの独立で、すべてがハッピーにはならない現実を知っているのではないだろうか。(地下資源があっても国民は貧しく、ロシアの経済支配を断ち切れない) 一方、ウイグル族は、民族の国を持たないので、独立の負の現実より明るい夢ばかりが膨らんでしまうのかもしれない。地下資源を搾取されたとしても、経済大国・中国の一部でいることの方が、経済的な豊かさを享受できることは間違いないだろう。もちろん、経済的な豊かさと引き換えに民族の尊厳を破壊する中国政府の同化政策が甘受できるものでないことは記すまでもないことだ。

 

いゃぁ、またまた、すっかりカチンカチンの堅いブログになってしまった。読者の皆さんは、堅い話は忘れて、グルジャイーニンの人たちの笑顔と美しい街なみをお楽しみいただければ、幸甚です。

 

子供を中心に3世代の団らん、幸せな日常

 

 

水色の壁の家から黄色とピンクの洋服を着た女の子が出てきて、カメラを向けるとはにかみながらも撮影に応じてくれた

 

屈託のない3人組

 

木製の電柱の陰からピースサイン

 

ヒジャブを被った女性を見ると、ここがイスラム圏であることをあらためて感じる

 

東トルキイタンのおばぁちゃんは、概してふくよかで、愛嬌いっぱい

 

ウイグルのナンは、安価で保存が効く、お腹の中で水分を含むと満腹を通り越して苦しくなる、食べすぎ注意だ

 

ナンは昼過ぎから焼くことが多く、午前中は窯の清掃だ

 

強烈なピンク色の壁、しかし、この街に溶け込み、自然に存在する

 

水色に塗られたレンガ、東トルキスタン共和国の国旗も水色、水色は、最も美しい色なのかもしれない

 

兄弟だろうか?色白で可愛い

 

黄色い壁、開け放たれた青い窓に差す穏やかな木漏れ日

 

立派な門構えの家がならび、「民居訪問旅游景点(観光訪問を受け入れる民間住宅)」の看板を見つけた

 

人工芝の敷かれた階段を登ろうとすると主に制止された。慌てて「お金?」と訊ねると、「違う、違う、靴を脱いでください。」と言われ、何とも恥ずかしくなった。室内には、土産物があったが、残念ながら欲しくなるようなものはなく、押し売りをされることもなく、主と談笑して、お茶をご馳走になり、チップを渡そうとしても固辞され、複雑な気持ちで後にした。

 

ビジターセンターだか、居民センターみたいなところに隣接した立派なモスク。政府が建設したものなのだろうか?ムスリムでもない僕が評するのは不遜かもしれないが、「心」を感じられない。(ちなみに僕はクリスチャンで、神社仏閣には興味がないが、キリスト教会、イスラムモスクに行くと、不思議な心の平安を感じる。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東トルキスタンの夢と新彊の現実 第1回(東京⇒上海⇒ウルムチ⇒グルジャイーニン)

2020-09-13 18:33:07 | 旅行

東トルキスタンは、何度も旅行したが、天山山脈は南側から眺めるだけだった。天山の北側に行くのは初めて。

【メモ】

東トルキスタン:中央アジアテュルク化英語版)とともに生まれた歴史的な地域名称であり「テュルク人の土地」を意味するペルシャ語表現に由来するトルキスタンの東部地域にあたり、主として現在の新疆ウイグル自治区一帯を指す歴史・地理的な概念。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新疆:「新しい土地」を意味する漢語。

東トルキスタンは、緯度的にはインドと変わらない。中国の西は、西洋の入り口である。

【旅程】

東京⇒上海⇒ウルムチ⇒グルジャイーニン⇒カシュガル⇔タシュクルガン、ヤルカンド⇒重慶⇒東京

広大な東トルキスタンのほんの一部を巡ったにすぎない。

羽田を深夜1時半に出発、上海浦東、ウルムチで2度のトランジット。目的地のグルジャイーニンに当日の19時半(北京時間、日本時間-1時間)に到着する。中国の最果てといったイメージの東トルキスタンだが、意外に近い。文明の利器・航空機恐るべし、といったところか。19時半と言うと、もう夜のようだが、あくまでも北京時間、新彊時間は、北京時間-2時間。加えて新彊時間はウルムチを標準にしているので、ウルムチより更に西のグルジャイーニンは、昼過ぎといった感覚である。

東トルキスタンと言うと、ゴビ砂漠の乾燥地帯のイメージであるが、北疆は雨も多く緑豊かでだ。

今、思い起こせば、ウルムチ空港のチェックインの際に「グルジャイーニンに行く目的は?」と訊ねられた。いわゆる「重点旅客」に該当していた訳であるが、グルジャイーニン空港に到着して“公安のお出迎え”を受けて初めてそのことを認識した。

新疆ウイグル自治区が、他の中国と違って緊張した地域であることは重々承知していた。しかし、グルジャイーニンのある北疆地域は、自治区の中では比較的穏やか、平和であると思っていただけに意表を突かれた感じだ。

 

“公安のお出迎え”と書くと、如何にも緊迫した事態を想像されるかもしれないが、いたってフレンドリー(と思ったのは、僕が脳天気なだけかも)だった。結果的には、“万事塞翁が馬”で、“公安のお出迎え”がなかったら、もっと厄介なことになっていた。

僕を迎えてくれたのは、若い女性公安で、本署からのパトカーが到着するまでの間、僕に付き添ってくれた1人は、ウイグル族だったので、ウイグル語の単語帳を見せると、丁寧に発音を教えてくれ、退屈ではなかった。

 

本署から迎えに来たのは、若い男性公安2人で、パトカーで予約していたホテルに向かった。ところが、ホテルをいくら探してもみつからない、「それでも、君たち公安か?」といった怒りは感じなかった。結果として、ホテルは改装工事中で閉店していた。実は、数日前に予約サイトのAgodaから「キャンセルが可能ならば、キャンセルして欲しい。」といった主旨のメールが届いた。あたりまえの話だが、宿泊を希望するから予約した訳で、今さら、ホテル探しなどしたくないので、「キャンセルしない」と返信した。

その後のAgodaとのやり取りは、別の機会に書くとして、ともかくホテルを探さなくてはならない。まさに“万事塞翁が馬”である。公安にホテルを紹介して欲しいと頼むと予算を聞かれた。約300元以内でクレジットカードが使えることを伝えると希望価格帯の三ツ星ホテルに連れて行ってくれた。タクシーの運ちゃんと右往左往するのとは、比較にならないほど楽ちんで安心感がある。

 

ホテルにチェックインしたあとに客室内で事情聴取が始まったが、フレンドリーで尋問というよりおしゃべりだった。(でも、尋問中はスマホで動画撮影される)聞かれることは、「旅行の目的、どこから来て、どこに行くか、グルジャイーニンに友人はいるか?」、空港で聞かれたことと同じである。「(観光地化された)2つの少数民族居住区と郊外のナラティ旅游風景区への観光・・・・・・・、この街に友人はいない。」と、淀みなく答えた。名刺を渡すと、とても喜ばれた。上官への報告のとき、体裁が良いのだろうか。2人は、漢族の上司とウイグル族の部下。たいてい漢族の上司は、威張っていて、横柄なのだが、彼はとても礼儀正しく、親切だったし、ウイグル族の部下もイケメンで優しかった。最後は、「良い旅行を!」と言って2人は部屋をあとにした。

 

さて、明日のツアーの予約もしなくてはならない。1階のフロントに行って、ナラティ旅游風景区へのツアーの予約をした。(夜になって支配人が、恐縮して部屋にデポジットを持って来た。要するにツアーキャンセルである。後から知ったことだが、前日では、国境近くの外国人旅行許可が取れないのである。) フロントの対応も公安の紹介客だからか悪くない。

 

夕食を食べに街に出て、色々探したもののホテルのすぐそばの小綺麗なウイグル料理店に入った。味もサービスも悪くなかったので、滞在期間中、ずっと、この店を利用した。

 

僕の好物のポロ(ウイグル風ピラフ)。元々は、日本の赤飯と同じくおめでたい時の御馳走だが、今では、日常的に食べられる。

 

ウイグル料理と言えば、シシ・カワプ(羊肉の串焼き)。日本のラム肉が苦手な人にも美味しい、肉の鮮度と魔法のスパイスのため?

 

 


プロローグ

2020-09-06 23:11:26 | 旅行

子供の頃から旅が好きだった。

1416インチの子供用の自転車で、家の前の道を知らないところまで走ったことが最初のひとり旅だったのかもしれない。

いつからか覚えていないが、ひとり旅の相棒は、カメラになった。

移動手段が、自転車からバス、鉄道、船、飛行機、バイク、乗用車と変わっても、カメラを携帯しない旅は、僕にとって、あり得ない。

 

僕は、友人のフォトグラファー(プロ)に自慢の旅写真を見せた。

その時、彼は、「これは、作品じゃないですね。旅の記念写真ってやつだね。」とサラリと言った。

確かに撮影者である僕の意思よりも被写体の意思が優っていた。

開き直る訳ではないが、僕にとって、1枚の写真を作品にする必要はなかった。

個人的な思いでとして、自分の中に留めるのでも良い。

しかし、あえて社会的な価値を見いだすとすれば、記録としての価値だ。

幕末や明治の記録写真の多くは、日本を旅した西洋人の物見遊山の1枚なのである。

記録写真が、日本人によって撮影されていないのは、高価な写真機を日本人が所有していなかったからではないと思う。

当時の日本人にとって、日常の風景を写真に収めるといったインセンティブはなかった。

それは、今も、日本人に限らず、写真に収めるのは非日常なのである。

ゆえに日常の記録は、古今東西、異邦人によって残される。

 

多くの人は、旅を日常からの脱出と言うが、それは違うかもしれない。

就職や転勤で転居するのも旅であり、毎日、オフィスに出勤するのも旅だ。

つまり、日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。

輪廻転生を信ずるなら、人生そのものが旅である。
大宇宙の中に小宇宙が存在するように、旅の中に旅があるのだ。

 

(次回からは、もっと軽く、柔らかくいきます!)

元々は、異国の街なみにカメラを向けていた。しかし、子供たちの笑顔に吸い寄せられるように街角スナップに傾斜していった。(東トルキスタン・クチャ)

 

街角でスナップを撮る、そしてプリントを渡すために再訪する。いつしか、それが僕の旅のスタイルになった。(インドネシア・ブカシ)

 

機材も写真と同じく引き算、使わない機材を捨ててゆく。仕事用にポケットマネーで10年以上も前に買ったクールピクスP5100。仕事用はスマホに置き換わったが、お散歩用は、P5100+WC-E67(約24mm)を超えるカメラには出会えていない。