大聖寺実業高校 学校日記

石川県立大聖寺実業高等学校の学校行事や学習活動等についてお伝えしています。

調べてみました。「清五郎八人衆」(3)

2014年11月04日 | その他

新潟市中央区の鳥屋野潟のすぐ横にある「清五郎地区」には現在、サッカーJ1

リーグのアルビレックス新潟の本拠地・デンカビッグスワンスタジアムをはじめ、

近代的なスポーツ施設が建ち並び、年間100万人以上の人びとが訪れる巨大な

運動公園になっています。

しかし江戸時代の初め、ここは人間の手ではどうしようもできない低湿地だった

といいます。そして未開の地だったこの場所を一から開墾したのが、今の加賀市細坪町

からやってきた清五郎八人衆」だったのです。

1584(天正12)年から15年間、大聖寺城主をつとめていた溝口秀勝は、

豊臣秀吉の命により、1598年4月に新発田6万石に移封されました。

その際、大聖寺に住んでいた多くの商人や僧侶、農民たちが溝口秀勝と一緒に

新潟へと移り住んだといわれています。またその後も、溝口氏を慕ってか、

はたまた加賀の一向一揆を鎮圧した前田氏の支配を嫌ってか、江沼郡の農民の

多くが新潟へと移り住んだようです。

そして1640年に、江沼郡細坪村の八人も新潟に向かったのです。

それが与五平・清蔵・伝助・仁兵衛・大次郎・古吉・加治・清五郎の八人衆です。

彼らは新天地を求め、細坪の鎮守春日大明神を奉じて舟に乗り、この地に到り、

開墾を始めたのでした。しかし、新天地・新潟での開墾は思うに任せませんでした。

なにしろ、日本一の長さと流水量を誇る大河・信濃川と日本で二番目に流水量の多い

阿賀野川の水が流れ込む低湿地帯です。

二つの大河は河口近くで、水が砂丘に阻まれ分流し、いくつもの湖沼を作り出すだけでなく、

毎年毎年洪水を繰り返しました。いくら江沼郡の低湿地で開墾した経験があったとしても、

水と闘いながら、新田を開発することは並大抵ではなかったはずです。

信濃川←『新潟文化物語ホームページ』より

そのような中で、細坪村の八人のうち、清五郎病に倒れました。仲間たちは薬を

富山まで求め親身に看病したといいますが、ついに清五郎は帰らぬ人となります。

そこで残りの七人は夢半ばにして世を去った清五郎をしのび、彼が愛したこの地を

清五郎』と呼ぶことにしたのでした。

今から7年前、地元の人びとによって、デンカビッグスワンスタジアムの近くに、

清五郎地区の伝承」という記念碑が建てられたそうです。その碑には幾多もの試練と

闘いながら、今の「清五郎地区」をつくった細坪村の人びとの記録が残されています。

「新潟市中央区だより(平成19年6月17日号)」

(↑クリックしてお読み下さい!)をリンクさせていただきました。ご参照下さい。

実高では、このような郷土の歴史を地歴公民科の授業で、生徒たちに伝えていきたいと

考えています。なお、レポート作成にあたり、『大聖寺町史』(大聖寺町史編纂委員会編)

54ページを参照させていただきました。


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