教伝地蔵は、教伝地獄として語り継がれている。
この話は鎌倉期とも江戸期ともいわれ定かではありませんが話はこうである。
白河の関の近くの古い山寺に教伝という乱暴者の小坊主がいた。
この小坊主村でも手がつけられなぬ悪童で、近所の農家で飼育している鶏や家畜に乱暴したり、
畑の作物は踏み荒らしたりで毎日暴れまわっていた。
このため両親も大変悩んでいた。事件があるたびに、いたずら先に詫びて歩いていた。
ある日のこと教伝が友達と一緒に薪を取りに行く約束をして帰ってきたことがある。
次の日の朝「明日は早く起こしてくれ」と約束したが母は寝坊してしまった。
教伝は母の寝室に跳んで行くと「飯はどうした」と側にあった薬缶を蹴った。
母はすぐに朝食の準備をし支度が終わろうとしているところに教伝がやってきて、何を思ったか
お膳を蹴り上げ教伝は謝りもせず薪取りに出かけた。
その日の昼、教伝と友達は那須山の賽の河原に辿り着き、山深く分け入ったところで空が急に
暗くなってきた。
二人は離れていたので教伝の名前を呼んだが全く返事がない。その時である、物凄い雷鳴がなり
篠つくような雨が降ってきた。何処からか「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえてくる。
友達は急いで声のする方に行き、丁度賽の河原まできた時である。
熱湯の噴出している湯壷に教伝が落ちてもがいておりすぐに駆け寄り助けようとしたが、急に湯煙が
立ち上り教伝の姿が見えなくなってしまった。
生前の悪事と親不孝にたいして仏罰が下ったのか、教伝は熱湯の中に命を絶ったのである。
この話が伝えられ何時の時代かは定かではないが、親不孝の教伝に対する哀れみからか、
不幸な子でもわが子を供養する親心の現れであろうか地蔵尊がいつしか建てられた。
長い歳月の風雪に頭部は欠け落ち、身体部は僅かに外観を残すのみとなってしまった。
このため昭和57年5月、那須観光協会事業として賽の河原に地蔵尊を建立した。
これが現在私達が知っている教伝地蔵である。
毎年5月の日曜日に供養祭が催され、その年に建立された千体地蔵尊の開眼供養も合わせて
行われています。
千体地蔵尊は昭和57年に一般公募によって31体が初めて寄進され、その後年々寄進者が増え
28年目を迎えている。
教伝が果たせなかった親孝行や供養することで災難から身を守ることへとつながり、現在に即した
交通安全への願いが込められております。
今年の「千体地蔵尊開眼供養」は 5月29日 日曜日
当宿は5/28(土)は「千体地蔵尊」を寄進(当宿から地蔵尊建立の申し込みがあった方)限定日と
させていただき、前日の御神火祭の観覧と合わせてくつろいでもらっております。