daddy-kのいきあたりばったりⅡ

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バラを見て思い出す歌

2023-07-02 | 音楽つれづれ

小樽の某店にしか無いと思っていたダール・ラーメン、友人から厚別区でも食べられる店があるし、近くのバラ園も綺麗だから併せて見てきたら?と聞き、さっそく行って来ました。麺の話は別ブログで書くとして、バラ園はピークを過ぎた花もありますが全体はまだ見頃。

バラは世界中で改良されてすごい種類がありそう。我が家にはバラを植える予定は無いのですが、レッド・メイディランド(下の写真右)の説明に「四季咲き」とか、「全ての枝に花を付ける多花性強健種」なんて説明を読むと、ちょっとバラも良いかな~などと思うのですが。

こちらのような赤いバラを見ると少しばかり心がトキメキますが、今は真っ赤なバラを君に…なんてトシは過ぎたし、そんな年の頃(?)は人に花を贈る発想は無く、思えば花としてのバラとは、ほぼ無縁の生活だなぁ~と。

ですから私とバラの関わりと言えば、その年頃(?)に聞いていた歌の中のバラだけなのですが。

そこで真っ先に思い浮かぶのはリン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」 この曲は1970年のビルボード・ポップチャート3位、カントリーチャート1位の大ヒットで、日本のラジオでもよく流れていました。

曲を書いたのは「孤独の影」などを書いたジョー・サウス。ここに出て来るローズ・ガーデンとは、穏やかな生活という位の意味らしく、あなたとそんな暮しの約束は出来ないわ、良い事ばかりじゃないのよ、でも… と軽快なテンポで、ちょっと屈折した(?)愛を歌っています。

ちなみに筒美京平が作曲し、南沙織が歌ってヒットした「17才」は、この「ローズ・ガーデン」を下敷きにして書いたと言われ、確かに曲調もテンポも良く似ていました。

 

そんな日本では、少し遡って66年に "和製フォーク"の 「バラが咲いた」がヒットしました。

この曲は周到に準備されたヒットだったようですが、これで日本でも "フォーク" が受けるぞとばかり、この年は流れに乗ったフォーキー歌謡曲が発売され、歌詞の中に野ばらが出て来る西郷輝彦の「初恋によろしく」とか、歌詞にバラは無いけれど吉永小百合等の歌声が思い出されますが、私の一番お気に入り、は梓みちよの「赤いつるばら」でした。

またこのB面は弾 厚作 (=加山雄三) の作ったハワイアン調の曲で、いかにも加山雄三らしい曲でした。こうした素人っぽさが求められたのか、翌67年には若手歌舞伎役者が歌った自作・自演の「野ばら咲く路」が出るなど、フォーク風味付けの曲は人気でした。

その加山雄三と言えば「恋は紅いバラ」でしょう。これは66年に洋楽のCBSレーベルから発売されたエレキ・インスト中心のアルバムでしたが、A面の最初が英語で歌われたこの曲。

タイトルが「DEDICATED」となっていて、LPを通し「Words And Music By YUZO KAYAMA」と。英語で歌うのは、CBSの洋楽扱いで出すからだと思うのですが、当時の邦楽制作部門との軋轢?を避ける意味もあったのでしょうね。

東芝に移籍後のアルバムではこの曲を日本語で歌い、制作側からまたこんな感じの曲が欲しいと言われ、似た曲(ほぼ改作?)を書いたところ大ヒット。そのタイトルが「君といつまでも」と言う事になるのですが、コロムビアさん(当時のCBSレーベル発売元)、タレント発掘までは先見の明があったのに残念でした。

加山雄三と親交のあった加瀬邦彦さんが作ったのは、ザ・ワイルド・ワンズの「バラの恋人」

加瀬さんの書くポップス調の曲も、このグループも好きでしたが、新メンバーにリードVoをとらせたこの曲は、とうとう彼らもアイドル歌謡路線に追従か?と、当時はガッカリしたのですが、続く「花のヤングタウン」を聞いて納得。

リードVoは元に戻り、その分コーラスが厚くなり、大好きなフラワー・サウンドの要素を取り入れていたこの曲や、翌年に出した「昨日に会いたい」にも生かされていて良かったです。両方とも大きなヒットにはならなかったみたいですが、好きな曲でした。

 

最後に駄洒落ですが、67年にドイツのグループが出した「バラ・バラ」は、俺の彼女はバラ・バラの後は、単純にバラ・バラと繰り返すだけのノベルティ・ソングですが、当時は本国と日本で大ヒット。ばかばかしくも楽しい曲でした。

以上【聞きたい365日 第354話】でした。

 

この日食べた麺の話は別ブログで ⇒ まかない厨房 双葉/ダール―麺

 

【2023/07/27追記】

加山雄三の「君といつまでも」ですが、新聞でこの曲を「明るい表通りで」を下敷きにした話が載っていて、「恋は紅いバラ」の転用はナベプロの渡辺晋氏が、同じコードでもっと良い曲をとのオーダーに応えたもので、森岡賢一郎氏の編曲が凄く良く、こんなに良い曲だったかと思う位だったとの回想が載っていました。

当時は他の曲を真似ちゃいけない意識は無く、誰かを皆が真似しそれで繋がってゆくものだと思っていたとか、なるほど、1965年頃の音楽事情が知れて面白く読ませてもらいました。 ※2023/07/23 朝日新聞 語る-人生の贈り物- 加山雄三⑩を参照しました。



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