大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋7

2010-04-01 09:18:18 | Weblog

この写真、龍馬の紋服とされているものなんです。着丈が145cmであること
から、龍馬の身長が172cm(身頃から体重80kg)であることを割り出した
のですが、最近の調査では龍馬の写真をも参考にして169cmであったとか。
でもね、身近で接していた海援隊士の関龍二(義臣)は五尺八寸(約176cm)と
語っていますし、龍馬と実際に柔術で組み合ったことのある幕臣の信太歌之助に
よると五尺九寸(約179cm)はあったと云います。
どうしてこんな食い違いが起きたのか、つらつら考えるに、やはりこの写真の紋
服に原因があるのではと・・・。

実はこれ、既製の黒羽二重の紋服に坂本家の紋所(違い桝桔梗紋)が縫い付けられ
たものなんです。
しかも近江屋(井口家)が昭和15年7月6日に書画貼交屏風(龍馬と慎太郎が刺客
に襲われた奥座敷に置かれてあったもの)とともに京都国立博物館に寄贈したもの
なんです。
龍馬の遺品であるならば、他のものがそうであったように、土佐の実家へ返され
ている筈ですから、そのようなものではなかったことになります。
よしんば近江屋が龍馬のために作ったものの、それを贈る前に龍馬が凶刃に斃れ、
手元に残ってしまったとしても、それなら誂えたものである筈です。

で、考えられることは、龍馬の着用した(する)ものでは無かった、ということです。
事件から暫く経った頃の近江屋主人井口新助の立ち姿の写真が遺っているのです
が、でっぷりと太っていて、六頭身半です。顔の大きさが26.5cm位だとぴったり
の身長、体重なんですね、これが。
で、自分の紋付に家紋だけを張替えて、それを衣桁に掛けて、龍馬の遺品・遺影
代わりにして弔い、龍馬を偲ぶ、というより、済まないと思う悔悟の情を幾許か
でも慰める縁(よすが)としたのではないか、と思うのです。
 孫娘の幸(明治32生まれ)の回想では、日露戦争の頃、祖母スミは幼稚園時代
  の幸を連れて龍馬の命日に霊山の墓を詣でた、とあります。
 龍馬が近江屋へ移ってきてから暗殺されるまでわずか10日足らずです。しかも
 外出して不在のときが多かった龍馬に対して随分と親愛の情が濃いですよね。
 龍馬の人柄に負うところもあるとは思いますが、それだけに自分たちの不注意
 で龍馬が落命する破目に陥ったことへの自責の念が強かったとも云えます。
 ですから(日露戦争と云えば、例の龍馬が美子皇后の夢枕に立った逸話ですが、
 それで)龍馬が衆目を集めるようになると、これ見よがしのパフォーマンスを
 行って自らの健気さを世間にアピールするといったように、常に傍目を気にせず
 にはおれないような負い目があったように思うのです。

昭和15年には、井口新助(明治43年歿)、その妻スミ(大正4年歿)、長男新之助
(昭和6年歿)は皆物故となっています。
 わずかに長女のきぬが昭和23年まで生存(享年84)していましたが、他家に
 嫁いでいたことだし、既に76歳という高齢でした。それに事件当時は2歳の
 乳幼児でしたので、そもそもの経緯を知らなかった(知らされなかった)可能性
 もあります。(仮に知っていたとしても、寄贈の意味するところを理解していな
 かった可能性もあります。)
そして孫の代ともなると、そんな経緯も曖昧模糊としたものになり、あやふやな
言伝えも都合よく解釈されて、龍馬の遺品ということになっていたのではないか
しらん。

この紋服が龍馬のもので無いならば、いくら龍馬の写真を参考にしたとしても、
前提に誤りがあるのですから、正しい身長を割り出すことなど出来やしません。
で、姉の乙女が五尺八寸(約176cm)もあったのですから、やはり身長は五尺
九寸(約179cm)近くあったように思います。

この紋服、身長や体重を誤らせただけでなく、龍馬の衣装の定番とまでなったの
ですから困ったものです。(実際に龍馬が着用したと確認されているのは、例の
明るい紺色のものです。白黒写真でしたので、この紋服の色だと思ってしまうの
は、刷り込みという心理作用のため詮無いことではありますが。)

以上は飽く迄も僕の推理・推測であって、真実は縫い付けてある紋所の下に顔を
隠しています。




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団塊の世代雑感(54-1) (4組の出石です(54-1))
2010-04-06 15:00:37
龍馬伝第14回「お尋ね者龍馬」(第二部)

文久2年(1862)は政治的にゴタゴタとした年なんですが、「龍馬伝」のよ
うに細々とした解説は端折ってしまえとも思いましたが、大雑把ながらもポイ
ントだけでもと思って以下にまとめてみました。

大老井伊直弼生存当時から話が進められていた皇女和宮(孝明天皇の異母妹)の
将軍家茂への降嫁が、すったもんだの末に決まり、昨年の10月20日に東下。
この年の2月に家茂と結婚します。
 いわゆる公武合体というやつで、幕府が外国の力に屈したような形で、しか
 も天皇の勅許も得ずに結んでしまった通商条約を何とか認めてもらえるよう
 にと孝明天皇を懐柔しようとしたのですが、逆に天皇に和宮降嫁の見返りと
 して攘夷の期限を7、8年から10年のうちに行うとの言質を取られる始末。
 (出来ないことは分かっていても、事態好転に期待して時間稼ぎを行うのは
 今も昔も駄目な政権の常套手段。)

折好く(というか、この動きを睨んで)、長州藩は「航海遠略策」を藩論として
公武周旋に乗り出してきます。
これは幕府にとっては外様大藩からの政治介入といっても、大変都合の良いも
のでもあり、献策という形を取っている上に、まず幕府に伺いを立ててから、
幕府からの依頼で朝廷へ周旋の労をとるという手順を踏んでいるので面子も立
つのです。
ところが同じ外様大藩ですが、薩摩藩の率兵上京による政治介入は幕府の面目
は丸つぶれになります。何せ、まず朝廷に働きかけてから、勅使を立てて江戸
へ下ってきて、軍事力を背景に幕府の人事に介入してきたのですから。
 その結果、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永(春嶽)が政事総裁職に就きます。
しかも島津久光の率兵上京は、本人の思惑とは全く違う、尊王攘夷派を一斉に
蜂起させることになったのです。陸続とそういった志士が京都に集まってきます。
そして寺田屋事件での同士討ちを招くことになるのですが、久光が江戸へ下っ
ている隙に、京に集まっていた尊王攘夷派の大勢に力を得た攘夷派公卿が、成
功しかけていた「航海遠略策」を頓挫させます。その中心となったのが桂小五郎
や久坂玄瑞でした。そして長州の藩論も尊王攘夷にひっくり返してしまいます。
そして長州藩世子毛利定広を入京させて薩摩藩と同様の宣旨を得て、江戸へ下っ
て攘夷を督促する、と・・・。こういった情報が半平太に知らされます。
団塊の世代雑感(54-2) (4組の出石です(54-2))
2010-04-06 15:03:59
そして土佐藩も動きます。
吉田東洋を暗殺し、反東洋派と結んで藩政の実権の一翼を担うようになった半平太
は、先の二藩(薩摩藩、長州藩)と同じく内勅を賜り、長州藩とともに幕府に攘夷を
迫ることを考えます。
連立政権にあっても守旧派の門閥家などは動きそうにありません。そこで半平太は
朝廷に働きかけます。それが三条実美でした。山内家とは姻戚関係としての縁が深
いだけでなく、安政の大獄に連座して失脚した父実万の恨みを晴らす気持ちも働い
てか、攘夷派公卿にあって急進的なひとりでした。
その甲斐あって三条実美から、入京し公武周旋の労を取るよう、内命が達せられます。
これで土佐藩全体として動かざるを得なくなったわけです。

半平太は勿論のこと、平井収二郎以下多数の土佐勤王党員を従えて藩主山内豊範は
土佐を後にします。6月28日、四百名もの供揃でした。
ただし半平太は一足先に出立します。それは未だに幕府に対して気兼ねして京都に
立ち寄らない(一部の家来を禁闕守衛の人数に出すだけはする)で江戸へ直行すると
いう藩の因循姑息な方針、それを覆すべく画策するためでした。
そして7月13日、大坂の藩邸へ一行が到着したとき、17歳の藩主豊範が流行し
ていた麻疹に罹って、療養のため暫く滞留することになります。それが本当の病で
あったかどうか、この間に京都や江戸の情勢を仕入れ、江戸に居る老公容堂へそれ
を伝えることで、難しいと思えていた容堂から京都へ入るべきとの言葉を引き出す
ことに成功しているのですから。
この容堂の一言で藩論は決定し、藩主一行は8月23日に大坂を出て、25日に入
京します。
 そして三条実美と姉小路公知を勅使として(土佐藩主山内豊範と長州藩世子毛利
 定広は勅使先駆として兵を率いて先発)江戸へに着いたのは10月末のこと。
 参覲交代で京都を通過することすら許されないほどに、幕府は大名が朝廷と接触
 することを禁じていたのですが、幕府権力が衰退してくると、薩・長・土のよう
 に朝廷からの要請という形をとって京都に入ることが出来るようになったばかり
 でなく、禁闕守衛という名目で京都に留まるための藩邸建設までが行われるよう
 になります。そしてそれは京都手入れと称して他の藩にまで及んで行きます。
団塊の世代雑感(54-3) (4組の出石です(54-3))
2010-04-06 15:12:57
そして龍馬の登場。

脱藩が吉田東洋の暗殺と時期が近かったせいもあって(何せ龍馬は行方知れずとして
届出が出されていますから、藩庁側では龍馬が何時出国したのか掴んでいないので、
止むを得ないところもあるのです)、「坂本良馬、大石団蔵、弘光銘之助、去(四月)
九日別枝口を出、同二十八日頃大坂へ来り候趣」なんて誤った情報ではありますが、
土佐藩の追及の手が大坂にまで及んでいることが分かります。
 東洋暗殺の下手人は那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助の3人ですから、正しいのは
 大石の一人だけです。龍馬も弘光明之助も土佐勤王党党員でしたし、弘光も同時
 期に藩庁の許可を得ずに出国したため、疑われたのだと思います。

九州(探索)から大坂へ行くには、日州赤江口から大坂への七、八百石積の和船が出
ていましたから、これを利用したものと思えます。(長州へ立ち寄った足跡が遺され
ていないからです。)

それで6月11日に大坂へ着いて、早速京都の公家河鰭公述(かわばたきんあきら)
に仕えていた沢村惣之丞を呼び出して上国の形勢を聞き、住吉陣営に居る望月清平
へ手紙を出して大坂へ着いたことを知らせたところ、清平は使いを遣って、寺田屋
事件に関わっていた吉村虎太郎や宮地宜蔵が身柄を拘束され土佐へ送還されたこと
や、龍馬自身にも東洋暗殺犯の嫌疑が掛かっていることを知らせた、ということに
なっています。
 東洋暗殺犯を執拗に探っていた下横目の井上佐市郎も藩主一行に加わっていまし
 た。東洋の門下生で、東洋に恩顧を感じていたので当然と云えば当然のことです
 が、それを鬱陶しいと思うのは土佐勤王党。大坂に滞留していた8月2日のこと、
 井上佐市郎は大坂の九郎右衛門町の河岸で絞殺されてしまいます。犯人は岡田以
 蔵、村田忠三郎、田内喜多治でした。岩崎弥太郎はこれを知ってすぐに土佐へ引
 き返したとあります。8月8日に土佐へ着いたとありますから一目散に逃げ帰っ
 て来たのでしょう。ということは、岩崎弥太郎は一行に加わっていなかったとい
 うことになりますが。(弥太郎は同役の下横目でしたから、佐市郎と一緒に探る
 目的でついて来ていたのかも。)

その警告を聞いて、直ぐに大坂を発って京都へ入ったということになっているので
すが、どうなんでしょうか。当時の京都は(寺田屋事件の一件もあって)浪人に対す
る幕府の詮議が厳しかったので、大坂以上に危険なところです。
団塊の世代雑感(54-4) (4組の出石です(54-4))
2010-04-06 15:17:46
もうひとつの話として、藩の徒目付として7月12日に大坂入りしていた樋口真吉
に23日に会って、1両を恵んで貰ったというのがあります。龍馬の刀の縁頭を売
るほどの困窮振りを見兼ねてのことだと云います。
 京都に入ったという説では、在京中の大石弥太郎が龍馬のこの有様を見て笑った
 となっていますが、その状態のままで1ヶ月以上も居たとはとても思えません。
 ですから、京都で云々の話は眉に唾する必要がありそうです。

樋口真吉が藩主豊範の一行に先んじて大坂へ遣ってきたことは確かなようです。
であるならば、ずっと大坂に潜んでいたのか、それとも7月23日の頃に大坂に着
いたと考えるのが自然です。(土佐勤王党同志から半平太の動きが知らされていたで
しょうから、やがて上京してくることは察しがつきます。)
「団塊の世代雑感52-7」では、上京したときに肥前忠広を手放したようなこと
 を書きましたが、大坂でのことのように思えてきました。(多分正しい。)
 脱藩してから約4ヶ月経過していますので、脱藩時に工面した10両はとうに底
 を突いていたでしょうし、そして樋口真吉から貰った1両では江戸まで行くのは
 厳しいでしょうから、やはり肥前忠広を手放して路銀の足しにしたと思うのです。
 
それにしても江戸に着いたのが閏8月22日。その間2ヶ月近くもあります。
ひょっとして8月23日に一行が大坂から京へ向かって出立するまで一緒に(当然
藩邸ではありません)大坂で留まって(刀の交換だけでなく)、意見や情報の交換を
していたのかも知れません。邪魔者は居なくなったことだし。
その間の生活費はおんぶに抱っこと云うことで・・・。

P.S.
毎度のおまけで、武市瑞山記念館にある半平太の「鏡心明智流皆伝全」という目録
が紹介されていましたね。よく見ていなかったのですが、安政4年とあったように
思いますので、そうであればやはり臨時御用で江戸へ出たときに授けられたことに
なります。
で、考えられることは、
半平太が小野派一刀流の皆伝を既に授かっていたこと、
そして士学館は土佐藩築地中屋敷から直ぐのところにあったので、自然土佐藩士の
修行者も多かったこと、
その中には島村衛吉も居て、皆伝を得ていること、
といった中にあって、年長者として、しかも国許で道場を構えている半平太が塾監
か塾頭かに推されて、彼らを束ねる都合上授けられたのでは・・・。
団塊の世代雑感(55-1) (4組の出石です(55-1))
2010-04-13 20:17:45
龍馬伝第15回「ふたりの京」

前回の「団塊の世代雑感(54-4)」(だけではなくて、あちこちでも)
で、龍馬が江戸に着いた日を、よく調べもせず閏8月22日としてしまいま
した。
閏8月22日としたのは、平尾道雄氏監修、宮地佐一郎氏編集・解説『坂本
龍馬全集』の巻末の年表をそのまま鵜呑みにして使用したためです。

龍馬の江戸到着日、曖昧であるにも関わらずなぜ年表にそのようにはっきり
した日付を記載することができたのか、気になって調べたところ、土佐勤王
党同志の間崎哲馬の『滄浪遺稿』にある「壬戌秋日、与門田為之助、坂本龍
馬、上田楠次、会飲。時新令始下」を参考にしたようなのです。
 「滄浪」は哲馬の号です。間崎と門田が江戸詰めであったことは土佐勤王
 党盟約書に龍馬の前に署名してあることから分かります。上田は文久元年
 9月25日(半平太が帰国した日)以降に江戸へ出たものと思われます。

「壬戌」は文久2年(1862)のことですから、その秋の日、門田、上田ととも
に龍馬と会って酒宴を張った、それは新令が始まったその日である、とある
からです。新令とは、幕府が参覲交代などの制度を改めたことを指しますの
で、閏8月22日(公布)に当たります。
それで江戸へ出てきた龍馬が直ぐに同志らと会ったのではないかとの憶測か
らこの日にしたのだろうと思われます。
それと、この頃に越前老公松平春嶽に謁見して勝麟太郎(海舟)、横井小楠へ
の紹介状を授かり、そして10月に勝海舟の許を千葉重太郎とともに訪れて
いるとしてありますので、紹介状を貰ってから会いに行くまでに余りに日を
置いてしまっては、との判断も働いたものと思えます。
団塊の世代雑感(55-2) (4組の出石です(55-2))
2010-04-13 20:23:21
でも本当のところは、龍馬は7月23日に樋口真吉に会って直ぐに江戸へ向
けて出立し、江戸へ着いたのは8月中頃だと。
なぜそのような判断が可能かと云いますと、明治19年の龍馬・慎太郎の二
十年祭への招待を受けた春嶽が、重度の脚気症で欠席の旨を伝えるときに、
玉串料に添えて龍馬を偲ぶ手紙(明治19年12月11日付)を土方久元へ宛
てているのですが、そこには

「(前略)老生初て面会せしは文久二年七月と存ずる。老生政事総裁職の命を
受くるは六月也。或日朝登城の前突然二人の士常盤橋邸に参入して春嶽侯に
面会を乞う。諾して面話す。登城前ゆえ中根雪江に命じて両士の談話を聞か
しむ。此二人は坂本龍馬、岡本健三郎なり。其後此両士を招き両士の談話を
聞くに、勤王攘夷を熱望する厚志を吐露す。其他懇篤の忠告を受く。感佩
(かんぱい、かたじけなく感じること)に堪へず。右両士の東下せるは勝安房、
横井小楠の両人暴論をなし、政事に妨害ありとの輿論を信じたるゆえなりと
聞く。坂本、岡本両士、余に言う。勝、横井に面晤(めんご、面会して話す
こと)仕度、侯の紹介を請求す。余諾して勝、横井への添書を両士に与えたり。
両士此添書を持参して勝の宅へ行く。両士勝に面会し議論を起して勝を斬殺
するの目的也と聞く。(後略)」

とあります。
文面からも分かるように、春嶽本人の手になるものではありません。側用人
であった中根雪江は既に亡くなっていますので、春嶽がおぼろげな記憶を手
繰ってお付のものに口述筆記させたものだと思います。
団塊の世代雑感(55-3) (4組の出石です(55-3))
2010-04-13 20:28:22
中根雪江は嘉永6年6月3日の黒船来航から始めて、春嶽が隠居・謹慎に処
せられる安政5年7月5日までの記録を『昨夢紀事』に遺していますが、そ
れを執筆したのは万延元年になってから、つまり回想録です。その後の記録
とされている『再夢紀事』に至っては明治の代になってから書かれたもので、
いずれも春嶽に関連する大名についての記述が中心で、龍馬のような志士に
ついてのものが漏れています。

そして当時、春嶽の側にあって記録(『続再夢紀事』)を取ったのが村田氏寿
ですが、それは文久2年8月20日から始まっています。
ですから、それ以前に龍馬が謁見したのだとすれば、記録として遺されてい
ないことになります。
それで先に挙げた(春嶽の)手紙、明らかな誤りや仄聞したことからの推量な
どが含まれているのですが、全てがそうであるわけではありませんので、貴
重な事柄も当然含まれて居ます。

まず面会日についてですが、記憶に一月のズレがあります。春嶽が政事総裁
職に就いたのは7月です。それなら龍馬と面会したのも8月となります。
つまり、龍馬が江戸へ着いた直後(19日以前)に春嶽に謁見したということ
になります。
 以前に述べましたように始めて面会したのは安政5年のこと。文久2年の
 このときは二度目の謁見になります。
 ただし、安政5年のときには中根雪江に会ったものの、春嶽には直接面会
 していない可能性もあるのですが。
団塊の世代雑感(55-4) (4組の出石です(55-4))
2010-04-13 20:38:33
次に龍馬の同伴者を岡本健三郎としていますが、これも記憶に混乱がありま
す。この日面会した二人が、紹介状を携えて、勝邸へ行ったとありますから、
それなら千葉重太郎以外には考えられません。
 勝海舟の回顧談では、龍馬と重太郎が訪ねてきたとあるからです。
 岡本健三郎は、慶応3年10月28日に龍馬が福井へ赴いたときに同行した
 土佐藩士(後藤象二郎が付けて寄越した下横目)です。当日村田氏寿に面会し
 たことが記録『丁卯日記』に遺されていますので、このときの同行者(岡本)
 とゴッチャになったのでしょう。ですから京都から福井へ遣って来たので、
 手紙でも「両士の東下せるは」と勘違いした記述になっているわけです。

安政5年のときは千葉定吉が同伴したのか、例の薙刀の初伝目録を持参して一
人で臨んだのか分かりませんが、今回は息子の重太郎。
なぜなら重太郎も万延元年(1860)に因州鳥取藩の江戸藩邸で父同様剣術師範と
して仕えるようになっていたからです。
鳥取藩主池田慶徳は水戸藩前藩主故徳川斉昭の五男で、七男の一橋慶喜の実兄
でもあり、春嶽とは極めて懇意な間柄であったのです。
ですから千葉重太郎を同伴者とすることで比較的容易に謁見の機会を得ること
ができたのだと思えます。(春嶽が前回のことを記憶していない可能性もあるの
ですから、確実な同伴者が必要です。)
団塊の世代雑感(55-5) (4組の出石です(55-5))
2010-04-13 20:44:36
村田氏寿の『続再夢紀事』は龍馬との会見を逐一記録しています。そして最初
に龍馬の名が出てくるのは12月5日です。それでこの日を龍馬が春嶽に初め
て謁見したとする説が語られてきたのですが、それだと海舟の回想による10
月に龍馬が訪ねてきたというのと矛盾してしまいます。(紹介状を携えて訪問
しているのですから、春嶽に会ってからでなければならないからです。)
それに龍馬のことです、グズグズせずに直ぐに江戸へ下ってきた目的を達成し
ようとした筈です。
ですから、8月中頃に謁見したというのはかなり信憑性が高いのです。

では、どのような会話が交わされたのでしょうか。
手紙にある「勝安房、横井小楠の両人暴論をなし、政事に妨害ありとの輿論を
信じたるゆえなりと聞く」は「両士勝に面会し議論を起して勝を斬殺するの目
的也と聞く」と対で考える必要があります。いずれもそのときに龍馬から聞い
た話では無くて、後で聞いた話として捉えなければなりません。
つまり勝海舟が吹聴した「龍馬は俺を斬りにきた奴さ」と云う法螺話が一人歩
きして、それを斟酌した潤色がなされてあることに留意して解釈しなければな
りません。

手紙にある「両士を招き両士の談話を聞くに、勤王攘夷を熱望する厚志を吐露
す。其他懇篤の忠告を受く。感佩に堪へず」というところが実際のその場の雰
囲気だったと思います。
団塊の世代雑感(55-6) (4組の出石です(55-6))
2010-04-13 20:49:28
「勤王攘夷を熱望する厚志を吐露す」だけでは分かり難いですが、春嶽の手記
『逸事史補』によると「天下の事情と形勢を陳述せり」となっていますので、
薩摩藩、長州藩、土佐藩の動向をつぶさに見聞してきた龍馬が、いずれも身分
の低い者が勤王攘夷のマグマとなっていつ噴出すか分からない状態にあること
、しかしそれだと内乱を惹起し、それにつけ込む列強の餌食となるだけである、
真に攘夷を行うのであれば、列強に太刀打ちできるだけの軍備が必要である、
そのためには日本国としての海軍を創るべきである、そしてその運営資金は云々
と持論を交えて力説したのでは。

それに応えて春嶽が、一大共有の海局(海軍)構想を持つ勝海舟の名を、加えて
軍艦を商用に転用して海軍費を捻出するという横井小楠の名を、口にしたのだ
と思うのです。
そして龍馬が「そりゃ同じじゃ」と(このときも手を拍って喜んだかどうかまで
は分かりませんが)大いに喜んで、二人に会って更に詳しい話を聞きたいと、紹
介状を求めたのだと思うのです。
春嶽だって、龍馬が事に依ると海舟を斬り殺すかも知れない、なんてことを聞か
されて、あっさりと紹介状を書く筈が有りません。
おそらく龍馬の心から喜ぶ姿を見て、それで春嶽自身も嬉しくなって、ホクホク
顔で紹介状を書いたように思うのです。