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発達障がい・こころのやまい

専門外ながら相談を受けることがあり、その際に読んだ本や集めた情報を書き留めました(本棚9)。

「無意識の構造」(河合隼雄著)

2015-04-14 23:18:06 | 
 河合隼雄先生の著書は、一番共感できるお気に入り。
 読み始めたのは社会人になってから、と思い込んでいた私。
 しかし、今から30年以上前、高校生の時に読んだのこの本、最近になって河合先生の著書であることに気づいたのでした(笑)。
 う~ん、運命的な繋がりを感じる。

 確か「深層心理」を扱った内容で、当時の頭でっかちの私ははまりました。
 しかし、大学は文系では無く理系へ進み、一旦縁が切れてしまい、社会人になってから再会することに。

 やはり、私は文系の人間なんだなあ、とつくづく思います。
 でも、文系のファジーさに耐えられなくなることもあり、しかし理系の理詰めの論理も息苦しい。
 中途半端だなあ…よく言えば「中庸」ということになるのかな。

 アラフィフの私は、もう自分を変えるエネルギーが残っていない。
 マイペースで、理系の仕事をしながら、文系の本を読み続けましょう。
 もう、一生かかっても読み切れないほど蔵書があるのですから。

精神科領域で用いられる漢方(座談会)

2015-03-12 07:37:37 | 
 漢方製薬会社ツムラ制作の小冊子「漢方と診療」Vol.5 No.1(2014年4月発行)に漢方薬を診療に導入している精神科医の座談会の記事を見つけました。
 参考になった部分を抜粋してみます(あくまでも一般論としてお読みいただき、実際の処方は診察が必要なことをご理解ください);

<座談会:精神科領域で漢方をどう使っていくか>
 三村  將 先生(慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室)<司会>
 田上 真次 先生(大阪大学大学院医学研究科精神医学教室)
 川茂 聖哉 先生(大阪医科大学神経精神医学教室)



□ 精神科領域で漢方が適応となる場合
・症状が比較的軽く、緊急性がない。
・同じ症状やいわゆる不定愁訴が長期間続く。
・患者が西洋薬を飲みたがらない。
・向精神薬の副作用(口渇・便秘・ふらつき・高プロラクチン血症など)が強く、継続が難しい。
・西洋薬を減量したい。

□ 麻黄含有製剤の応用
統合失調症の患者さんで、眠気を嫌がって抗精神病薬を全く飲みたがらないようなときには、覚醒作用がある葛根湯や麻黄附子細辛湯など、麻黄が入っている漢方薬を朝に飲んでもらうと、眠気が改善することをよく経験する。さらに抑うつ状態の患者さんで抗うつ薬で副作用が出やすかったり、眠気やふらつきを強く訴えたりする方にも、漢方薬を処方すると有効なことが多い。

□ 向精神薬の副作用対策としての漢方
向精神薬の副作用として性機能障害があり、特にリスペリドンなどはプロラクチンの値を上昇させるといわれているが、それに対して何か効く漢方薬はないかと思っていろいろ試してみたところ、八味地黄丸・六味丸・牛車腎気丸などの補腎剤がよさそう。

□ ベンゾジアゼピン系薬依存対策としての抑肝散
不安をベースにした身体症状である痛みやめまい、咽の詰まり、肩こりなどにベンゾジアゼピン系の薬を使う際、薬剤依存を作らないために、早めに漢方薬を出すとよいと感じている。最初から抗不安薬のように抑肝散を処方しておくと、ベンゾジ アゼピン系の薬の量をあまり増やさなくてよいという印象がある。

□ 緊急時は西洋薬を優先すべし
大うつ病性障害で希死念慮があったり、躁状態や幻覚妄想状態をすみやかに鎮静する必要があったりする場合には、当然西洋薬から始める。そういう緊急性を要するケースでは漢方の出番は少なく、あくまで補佐的に使うことになる。

□ 柴胡剤は副作用(間質性肺炎、肝機能障害)に注意
精神科では、緊張や不安感を和らげるために, 柴胡加竜骨牡蛎湯などの柴胡剤をよく使う。軽い抗うつ作用もあるので使いやすいが、柴胡を含むエキス製剤の多くには黄黄岑も配合されている。黄岑�を含む処方では他の処方に比べて間質性肺炎や肝機能障害の報告が多い。長く飲んでもらう場合は2~3カ月に1回くらいは採血して肝機能障害がないかどうかチェックするようにしている。不安に対してよく使う女神散や黄連解毒湯も黄岑を含んでいるので、同様に検査している。

□ 抑肝散と黄連解毒湯の使い分け
患者さんがイライラを訴えれば、まず抑肝散を使うようにしていたが、空振りも多く経験した。同じイライラでも顔を真っ赤にして熱をもっているような人には黄連解毒湯の方がよい。
黄連解毒湯はイライラが強い高齢者や、脳血管障害の後遺症などによく使われる。抑肝散より黄連解毒湯の方がより症状が強い攻撃的な方に使う印象 がある。抑肝散は、全体的に弱っていて、漢方医学の五臓の1つである「肝」が高ぶっているような方に使い、黄連解毒湯はより強いイライラの方に使う。黄連解毒湯は主に熱を冷やす性質の処方であり、冷えの強い人にはあまり向かない。

□ 緊張・不安・焦燥感が強い方には柴胡加竜骨牡蛎湯
竜骨と牡蛎の作用のベクトルが下向きで、緊張が強い患者さんを落ち着かせる作用があるのでよく使う。柴胡加竜骨牡蛎湯は、不安や焦燥がかなり強い うつ病の場合に使うと鎮静させることができるという印象がある。柴胡加竜骨牡蛎湯は中途覚醒や入眠障害などを訴える患者さんにはよいが、それだけでは効果が不十分な場合には酸棗仁湯を足している。

□ 「のどの詰まり」や「メモ魔」には半夏厚朴湯
半夏厚朴湯の使用目標として有名なのは咽の詰まり感だが、この他に「メモの証」というのがあり、几帳面な性格傾向の方によく効くといわれている。半夏厚朴湯が適応するような方は、子育ても仕事もきちんとしないと気がすまず、それでストレスがあったりする。そういう方に「咽は詰まりませんか?」と聞くと、高い確率で「咽が詰まる」とか「肩がこって咽が詰まる」と答える。
半夏厚朴湯は咽の詰まりなど上焦(咽喉から胸膈に至る部分)に効く処方。半夏には鎮静作用がある。胸のあたりの圧迫感や動悸などにもよい。また,いわゆる心臓神経症があって安定剤が手放せないような人にもよい。それから、中途覚醒の訴えがある患者さんには、途中で目が覚めたときに半夏厚朴湯を飲むよう勧めたりしている。

□ うつ病や神経症圏の患者さんで、虚弱で活気がなく意欲低下もあるときには補中益気湯、香蘇散
補中益気湯は下垂したものを上方向へ動かす作用のある方剤なので、倦怠感が強くて元気がなく、いつも下を向いているような感じの方には合うことが多い。また、香蘇散は香附子・蘇葉・陳皮が入っている代表的な理気剤なので、弱って気が落ち込んでいる方にはよい薬。


★ 精神科領域でよく使われる漢方薬(本鼎談を中心に)
(症状) →  (方剤名)
・イライラ → 抑肝散・抑肝散加陳皮半夏(胃腸症状)・黄連解毒湯(熱証)
・不穏   → 抑肝散・黄連解毒湯(熱証)
・緊張   → 柴胡加竜骨牡蛎湯
・不安   → 抑肝散・抑肝散加陳皮半夏・柴胡加竜骨牡蛎湯・女神散
・抑うつ  → 半夏厚朴湯(咽の詰まり)・加味帰脾湯(不安)・柴胡加竜骨牡蛎湯
・向精神薬の副作用
  眠気  → 葛根湯・麻黄附子細辛湯
  便秘  → 麻子仁丸・大建中湯・大黄甘草湯・大承気湯
  口渇  → 白虎加人参湯・麦門冬湯
  性機能障害 → 八味地黄丸・六味丸・牛車腎気丸・柴胡加竜骨牡蛎湯
・咽の詰まり → 半夏厚朴湯
・不眠   → 抑肝散(イライラ)・酸棗仁湯(不安)・加味帰脾湯(不安)・柴胡加竜骨牡蛎湯・ 半夏厚朴湯(咽の詰まり)・黄連解毒湯(強いイライラ)
・動悸   → 半夏厚朴湯
・めまい(うつ病) → 当帰芍薬散(冷え・水毒)
・パニック発作 → 半夏厚朴湯
・意欲低下 → 補中益気湯・香蘇散


「心の怒りに火をつけない」(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2015-03-03 07:36:25 | 
副題:ブッダの言葉〈法句経〉(ダンマパダ)で知る慈悲の教え
角川文庫、2011年発行



 「こころの病」ではありませんが、パニックの対処法として役立ちそうなので、この項目に入れました。

 著者は“スリランカ上座仏教長老”とのこと。
 私自身が最近、怒りを覚えることが何回かあり、この気持ちをうまく処理できないものかと自問自答しているときに見つけた本です。

 はじめの方は「怒ってはいけない」「怒るとその対象と同じレベルになってしまう」など、「そんなことわかってます」と言いたくなるようなあまり役に立たない文言が続き、読むのをやめたくなった頃に「怒りを解消するヒント」が出てきました。

 それは、自分の行為・所作をゆっくり確認しながら過ごすこと。
 歩く、止まる、座る、食べる、噛む、・・・などの動作を、心の中で確認しながら過ごす。
 怒っている自分の心を見つめ、体を見つめ、呼吸に集中すると、怒りが消え失せていくというのです。

 フムフム・・・“怒り”だけでなく“不安”にも有効かもしれませんね。
 これをマスターすると、瞑想に繋がっていくのかな?

 ただ、怒りが発生しやすい心理状態というものがあるはずですが、それに触れていないのが残念。
 底辺に横たわる現代社会の“不寛容さ”を変えない限り、世界にはびこる“怒り”が消えることはありません。

 ほかに気になった文言。
 自分の存在価値を認めることを「自我」と呼んでいます。
 人間の成長には乳幼児期に大切にされて「自己肯定感」が育つことが「自我の確立」に重要であることが児童心理学で云われています。
 しかしこの本では、「自我」の度が過ぎると「私は偉い」=「傲慢」になるという危険性を指摘しています。
 それが傷つけられると「怒り」が発生し、戦争を含めた人間が起こすあらゆるトラブルの原因になると記されています。

 私の中でちょっと混乱しています・・・。

 通読すると、仏教の本質がチラチラ見え隠れしてくる感覚もありました。
 ほんの1時間程度で読み終わりましたが、内容は濃いと思います。


<メモ>
 自分自身のための備忘録。

・腹を立てて、誰が不幸に舏るかというと、憎しみに満ちている自分自身なのです。自分が錨で汚れてしまえば、自分も悪人も、もうすでにどこか似ているのです。

・何を言われても、なにをされても、自分の心に錨の火をつけないことです(そんなこと云われてもなあ・・・)。

・生きると言うことは、他の命を奪うことでもあります。これまで生きてきたのは、多くの命を奪ってきた証なのです。

・罪を犯した者だけが悪いのではありません。殺人犯は、殺人を犯すところまで孤立していたのでしょう。彼が怒りで凝り固まっているとき、なぜ周囲の人が彼の気持ちを理解してあげられなかったのでしょうか。私たちの社会も、同じように罪があると云えるのではないでしょうか。
 ましてや未成年が罪を犯したのなら、大人の社会にも責任があります。少年は、犯罪者であって、同時に被害者でもあります。

・「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。
 相手のどうでもいいことや、不完全なことを探し出して争うのではなく、「どこか仲良くできることはないか。どこか共通点はないか」と必死で探した方がいいのです。

・闘って勝つことが、幸福への道ではありません。戦いに挑んでも、勝つ人は一人もいないのです。負けた人は、負けて悔しい思いをします。勝った人は、負けた人に恨まれます。さらに敵が増える結果になります。

・運動会の競争で云えば、勝ち負けを争うのではなく、それぞれが悔いなく自分の力を出し切るのです。自分の能力を発揮することが大事なのです。一等になった人は、勝ったのではありません。自分の能力を発揮したのです。最下位の人も負けたのではありません。自分の能力を発揮したのです。

・過酷な仕事をしていても、生きがいを持ってやっていれば疲れないものです。

・お釈迦様は「心をおさめたら、安楽をもたらす」と云われました。心が清らかになるように向上することが仏道なのです。

・心というものを具体的に捉えなければなりません。
 例えば「怒り」という感情があるとき、それを心の中に探しても見つかりません。しかし怒りの心は、荒々しい呼吸や、こわばった顔の表情、激しい心臓の鼓動、力の入った肩などとなって、具体的に体に表れます。その体の変化ー自分の体の動き、呼吸、歩き方、動作、そして感情などの具体的な動きから、心を捉えていくのです。今、起きている心の動きをつかまえたとき、はじめて心をおさめることができるのです。そのように心をおさめる方法を、誰でも具体的に実践できる道として説いたのが、仏教なのです。
(訓練法の一例)
 食事をするプロセス一つ一つの動作を、丁寧に確認します。「座ります、食べます、見ます、箸を取ります、運びます、口に入れます、噛みます、味わいます、飲み込みます」と。ゆっくり時間をかけて食べると、体に必要なものが入っただけで満足感が得られるようになります。痩せすぎの人も太りすぎの人も、ちょうど良い状態になっていきます。こうして体自体が必要としているものがわかってくると、不必要なものは自然に食べたくなくなります。
 この食事の瞑想をしてみると、今まで発見できなかった味がわかってきます。ご飯だけでも、噛むたびに味が変わっていきます。
 ゆっくり丁寧に食事をしていると、最初はいらだちが出てくるかもしれません。しかしそれでも実践してみるのです。それができるようになれば、人生のいらだちまでもが解消されてゆきます。

心をおさめる方法 ~今の瞬間の自分の体と心を見つめる
1.すぐに自分の心を見る
 腹が立っているときこそ、怒りをぶつけるのではなくて、自分の心を見つめるのです。「私は今、腹が立っている、怒っている」と二、三回くらい心の中で云うだけでも、サッと怒りは消えてしまいます。
2.呼吸を見つめる
 ただただ呼吸に意識を向けるのです。「吸う、吐く。体が膨らむ、縮む。」と、呼吸しながら言葉で確認してください。これだけでとてもリラックスすることができます。
3.歩く
 歩く際に、足の動きに気を向けます。左、右と足の動きを確認し、足の動きを感じるのです。こうすると、1キロも歩け別枯れてしまう人でも、四キロの道のりを歩いても疲れを感じなくなるでしょう。ただ歩くことに徹して、歩くことをよく味わうだけで、健康になります。
4.体の動きを確認する
 ゆっくりとした動作に意識を向けると、心が落ち着きます。悔やんでいる無駄な時間がなくなって、心が清らかになります。

・「執着」とは
 他の無常は認めても、「わたし」自身の無常を認めたがらないこと。「わたし」の変化を受け入れられないこと。
 ですから、やすらぎを得る道は、この「わたし」という思いを捨てることにあります。

・自我を捨てる
 自我の働きは「自分が最も大切で偉いのだ」という思い込みです。自我が消えてしまえば、相手が自分より劣るとか、立派だとか区別して争うことはなくなり、心は穏やかになるのです。
 出家の世界では「自分のもの」ということは一切認められません。自分の椅子さえ持ってはいけません。出家社会は自我のない世界の生きたモデルなのです。

・ヴィパッサナー(いつも目覚めて心をよく見る)
 何をしていても、どんなときでも、今の自分に気づいていくこと。
 息を吸う、吐くという呼吸の動きを一つ一つ味わい、楽しむことができれば、それは人生を楽しむことにも通じます。

・「しっかりしなさい」「がんばりなさい」という前に、まず自分をととのえる
 親は親としての役割をキチンと果たせば、子どももキチンとするのです。
 お釈迦様の教えは「他人の過失を見るのではなく、自分を見なさい」ということです。

・仏教は「得る道」ではなく「捨てる道」を教える
 「すべてを捨てる」ということは「何ものにも依存しない」ということです。それが真の自由と云うことです。

・「死を瞑想して観察しなさい」
 死の瞑想とは、さまざまな死に接したとき「自分もこのように死ぬのだ」と念ずることです。この瞑想を深めていくと、やがて「死ぬのが怖い、どうしよう」という不安や恐れはなくなってきます。すると、人とも争わなくなります。「どうせいつか死ぬんだから、争うなんてばかばかしい」というようになります。

・たれもが結局は死ぬのですから、そんなにびくびくしなくても、そんなに緊張してストレスを感じなくてもいいのです。

「僕のこころを病名で呼ばないで」(青木省三著)

2015-01-26 13:16:34 | 
ちくま文庫、2012年(単行本は2005年)発行
副題:思春期外来から見えるもの

近年、私の周囲では発達障害を早期に診断しようという流れがあります。
早期診断が療育につながるので本人のため、という理屈なのですが、療育サポートが不十分のため果たして本人のためになっているのか、いやむしろ周囲の安心のためになっているだけではないのか、という声も聞こえてきてなかなか単純ではありません。

そんな中、この本に出会い題名に引かれて読んでみました。

上記のことも含め、示唆に富む文言がたくさんありました。
診断は本人のためにされるものであり、周囲のためだけになってはいけない、と著者もコメントしています。
とくに学校では「その子がどういう子か、というより診断名の方が重要なんです」と教師に言われてショックを受けたと記しています。

また、時代によりその時の社会情勢が病名診断に影響するという文言を興味深く読みました。
人間のこころは正常と異常の間に連続的に分布し、グレーゾーンが基本である、現在はグレーゾーンに病名をつけて仕分けする動きが強い印象があり、これは現代社会に個性を認める寛容性が欠けていることに起因する、という下りに頷きました。

精神科外来の現場は、人間の内なるものを病的かどうか判断して治療対象にするという難しい分野なんだな、と改めて気づかされました。

<メモ>
 自分自身のための備忘録。

■ 居眠りをしない子どもたち
Q. 少しでも気持ちよく生きて健康を維持しようとするには何に注意したらよいか?
A. 気持ちよく眠れることと、おいしく食事を食べられること。
 気持ちよく眠れて、美味しくご飯が食べられるときに、突然、こころの病になることはない。それは、晴れた空から突然大雨が降り出すようなものである。
 なかなか寝付けない、気持ちよく眠れない、食べても美味しいと感じられない、食欲が落ちるなど、両方あるいはどちらかに何かあると、それはこころの危険信号であることが多い。また、睡眠・食欲の回復は、こころの病気などがどのくらいよくなったかを判断する大切な材料である。よくなってくる患者さんのお話を伺うと、昼寝や居眠りが気持ちよくできるようになっている人が多い。
 そして思春期外来で出会う子どもたちは、授業中に居眠りしたことがないと云うことが少なくない。そう言う子どもたちの多くが、みんなの中にいると緊張する子どもたちであることがわかった。居眠りというものは、その場にいる友人や学校の教師などの中で安心できて初めてできるものだと思う。
 
■ 休み上手になる~スイッチ・バックで行こう
 人間が健康であるためには精神の活動にリズムがあることが大切である。集中したり、緩んだり、緊張したりというリズムがあるので健康でいられるし、いろいろな状況に耐えられるのだと思う。リズムはしなやかさと粘り強さを作る。
 不登校や引きこもりの一部の青年には、休むことが下手な人たちがいる。とにかくやり始めたらやり続けてしまい、緩急のリズムがない。ずっと集中し続け緊張していて、ある時ポキンと折れるように疲れが出てしまう。
 何もかも完全にやらないといけないと思い、ずっとやっていくというのは大きな負担を強いるもので、緩急・強弱のリズムを作るとか、物事の優先順位、大事なものと置いておけるものとの区別と順番を自分でつけられるようになると随分楽になってくる。

■ 時代が求める「子ども像」
 時代が落ち着いた子どもを求めるとき、活発な子どもは「問題児」として現れてくる可能性があるし、時代が活動的な子どもを求めていれば、落ち着いた子どもは「落伍者」になる可能性がある。例えば戦国時代であれば、「乱暴な子ども」な「勇敢な武士」となったかもしれないのである。

■ 「個性」と「人格障害」はどのように違うのだろうか?
 明瞭な基準はないと思うが、強いて云えば、本人が自分の行動によって悩んでいるか、周囲の人がその人の行動によって悩んでいるかどうか・・・かもしれない。そう仮定した場合、拡大してみると時代と文化、絞って見るとその人の周りの環境が、個性か人格障害かを決めていくのではないだろうか。
 人格障害を声高に云う時代は、変わった人や人から人への迷惑への許容量が小さい、いろいろな人を社会の中に抱えておくことのできない懐の狭い時代であるという一面を表している。人格障害が協調される時代とは、多様な生き方が認められにくい時代ではないかと思う。
 人格障害と呼ばれると、それは精神医療の対象となる。これは本当によい方向への変化なのだろうか。一時期荒れていたが、いろいろな人や出来事に揉まれ、角が取れて丸くなると云うような、成長や成熟による穏やかな変化の可能性を閉ざしてしまうように思う。それだけでなく、若者が自身を病人と捉え、周囲の大人も若者を病人と捉えていくことによって、若者が病人というアイデンティティを獲得していき、自らが脱皮し成熟しにくくなるのではないか、と私は危惧している。
 最近、人格障害(Personality Disorder)を原語に準じてパーソナリティ障害と言い換えようという動きがある。パーソナリティは、人格と比べてよりその人全体という雰囲気がなく、人格よりも変わるという可能性を感じさせる。

■ 思春期という危機~「みんな悩んで大きくなった」では済まなくなった?
・クレッチマー(1949年)身体的成熟と精神的成熟のズレから生じるもので、「けっして疾病でも神経症でもなく、むしろ限局された体質的な時間経過である」
・エリク・エリクソン(1959年)同一性の危機(青年期の自我同一性の獲得が困難・・・自分らしさが作り出せない危機?)
 思春期危機という用語には「思春期とは誰にとっても大なり小なり危機的である」という健康との連続性、「思春期に悩むことは精神的な成長に不可欠である」という肯定的位置づけ、「嵐のように過ぎ去る」という一過性のイメージが内包され、「みんな悩んで大きくなった」という共通の感覚が臨床家にあった。
 しかし、1980年に改定された米国精神医学会による精神障害の分類・第三版(DSM-Ⅲ)は我が国の臨床にも強い影響を与え、「思春期危機」という診断は使われなくなり、適応障害や人格障害などに分類されるようになった。
 「適応障害」という用語には、どこか社会適応に失敗した適応力の低い青年というイメージが、人格障害という用語にも否定的なイメージがあり、また障害という用語は一過性でなく持続的なものを感じさせてしまう。一方の「思春期危機」は、しんどいけれど病気ではない、大人になるのを援助しようとした概念である。危機とは云っても、明瞭な生存の危機のようなものではなく、人生の不確かさの中で生きる意味を探すという哲学的とも云えるものであった。

■ 時代が生んだ「境界性人格障害」
 青年を不安定にさせ、境界性人格障害的な特徴を表出させやすくしているものとして、自分の将来が見えない、ということがあるのではないかと考えている。親の仕事を継ぐのが当たり前であった時代では、青年はそれほど不安定にはならなかったと思う。自分の将来を自分で選択する可能性が出てきて、将来の選択肢が増え、さらにたとえ選ばなくても当面の生活には困らない時代へと移りゆく中で、青年は選択の自由を手に入れると共に、選択することの責任の重みに耐えなければならなくなってきている。

■ ADHDは学校というシステムがあぶり出した病気
 学校がなかった時代、ADHDは病気と考えられることはなく、問題とすら考えられることもなかったのではないだろうか。しかし学校というシステムに自分を合わせていかねばならなくなり、その時初めて「元気で活発な子」がADHDという病名で呼ばれるようになったとは考えられないだろうか。
 気分障害(躁うつ病)の躁状態、軽躁状態は創造性や活動性を発揮し時代を切り開いていく一翼を担ってきたし、また統合失調症の繊細な感受性は時代の動きを先取りしたり、美しい音楽や芸術を作り出してきたりしたが、多くの場合、病気とは呼ばれなかった。
 こころの病気は時代と文化によって浮き上がってきたり、背景に退いたりするものであることにこころを留めておきたい。

■ 挫折しそれを乗り越える実体験が大切
 外来で出会う子どもたちの一部には、ある程度の年齢になって初めて負けを経験したという人がいる。勉強でも運動でも小学生/中学生の時に優秀であったことが、競争をして負けるという体験を持てなくしてしまう。それが、中学生や高校生になったときの負けるという体験を耐え難いものにするのである。
 思春期や青年期に挫折を体験したとき、よし、もう一度がんばってみよう、もう一度やり直そうという気持ちになるには、小学生や中学生の時、遊びの中で勝ち負けを体験し負けるという悔しさを味わうことによって、打たれ強さや粘り強さを獲得しておかなければならない。
 最近の学校の運動会では、順番をつけ競争する競技が減り、マス・ゲームなどが増えてきている。また文化祭の劇では、主役や脇役がハッキリせず、何となくみんなが主役のようになって、子どもに差をつけないよう配慮していると聞く。確かにその時点では差はつかないけれども、長い目でみて、これは子どもにとって本当によいことなのだろうかと改めて疑問に思う。

■ テレビゲームの弊害
 ファミコンの格闘技では、直接の人間関係においてどこでブレーキをかけたらよいかが学べない。ゲームのキャラクターは絶えずパワーアップできるようになっているし、戦いに敗れてもリセットで復活する。これでは、これ以上やっては危ないというような現実のケンカの限度を覚えることはできない。
 痛みという感覚を伴った体験、直接的な体験から、子どもたちはこれくらいで止めておこうという限度を知る。体を通したやり取りの中で限度という感覚は育まれる。

■ 精神疾患の診断は誰のため?
 診断をあまりに早く伝えることによって、混乱だけを生じさせることもあるように思う。病気の診断を早期に説明することがよい医療という雰囲気があるが、診断を伝えることが本人と家族にどのような影響を与えるかについての予測なしに、診断を伝えることには慎重でありたい。
 「学校の先生から病院に行ってみなさいと言われてやってきました」という子どもと親に出会ったとき、ふと教師の仕事を免除するために、診断が求められているのではないかと感じることがある。生徒の「問題」であるならば学校の責任、「病気」であれば医療の責任とでもいうような雰囲気を感じる場合がある。

■ “完璧な親”という幻想
 「完全」ではなく「不完全」を認められるようになることが、親子ともに大切。
 子どもたちは、親に「完璧な親」という「無いものねだり」をする。それに完璧に応えようとするのではなく、かといって、あっさり投げてしまうのでもなく、自分のできることをするということで、ある種の不完全さと限界を粘り強く伝えていくことが大切なのである。

■ “受容”とは“子どもが求めることを何でも受け入れる”ことではない
 “受容”は要求や乱暴な行動を受け入れるということではなく、子どもの気持ちや考えと自分の気持ちや考えとは異なってはいるが、子どもの気持ちや考えを理解しようとし、子どもという存在そのものをそのままで認め受け入れていく、というものではないだろうか。それは、子どもを自分とは異なった個人として認め、子どもの側に立ってものを見るということであって、どちらが正しいかという問題ではない。まして子どもの要求や行動を無条件に認めるということではない。

■ 青年の居場所3つ
 青年は以下の3つの場を、行き来しながら成長していく;
1.家族を感じる場:青年が家族とともに過ごす時と場
2.自分を感じる場:青年が安心して一人になれる時と場
3.仲間を感じる場:同年配の人が安心して集える時と場

■ 「かくれんぼ」の意義
 「身を隠す」ことは、影響力の強い人(特に親)に対して心理的距離を持つことであり、人に対してこころを隠し、自分を持つことにつながるのではないか。
 本来、子どもの発達や成長というものは、幼児期における「かくれんぼ」に始まり、思春期で秘密や隠し事が持てるようになるまで、こころの中に当の本人にさえ見えない領域が広がってゆく過程ということができる。
 それは、大人の側から見れば“子どものこころが見えなくなる、子どもがわからなくなる”過程でもある。ただ、わからなくても、大人になりつつある子どもを対等な存在として認め、その意見を聞くことはできるし、子どもの考えを尊重することはできる。

■ ひきこもりは“のんびり”していない
 数年間ひきこもっていても、のんびりとした時間が少しも持てていない人が少なくない。「毎日毎日が、攻められるように、これじゃあいけない、明日こそ何かしなくちゃいけないと思いながら過ぎていき、気持ちだけ焦って時間が経ってしまった」という人が多い。
 周りから見るとひきこもりの期間は長く、何もしないでのんびりしているように見えるが、本人からすると、ハラハラ、ドキドキしたなんとなく落ち着かない日の連続であることが多い。

■ 引きこもっている子どもの親へのアドバイス
 子どもを心配することはあくまでも家庭生活の一部であって、決して家庭生活の全部にならないように。家庭の風通しをよくして、ご両親もほどほどに自分の好きなことをしてください。
 ご両親が子どものために自分や生活を犠牲にすることは、子どもにあまりプラスでないことが多い。子どもは自分のためにお父さんお母さんが何かを犠牲にしていると思うと、親に二重の迷惑や負担をかけているという気持ちになる。ご両親が比較的自由に振る舞うことの方が、子どもは気持ちが和らぎ、迷惑をかけているという気持ちにならずに済むことが多い。
 子どもが引きこもっているところに土足でずかずかと入っていくのは避けなければならない。しかし、いくらか控えめに、定期的に、息長く「心配しているよ」というサインを送り続ける事は大切である。子どもは、あるとき、ふとそのサインに気づき、自分は決して一人ではないということを知る。誰も心配してくれていない状況の中で、子どもだけが元気になることは難しい。押しつけがましくないサインこそが、実は子どもがふと考えや気持ちを変える契機となるのではないかと思う。
 大人は即効性のある援助を考えやすいが、数年先に向けて種を蒔くような援助が、実は大切なのではないだろうか。

■ “見られている恐怖”を感じる人は“見る立場”に替わってみてください
 外に出ると人に見られているような気がするという青年には、「デパートかスーパーに行って、自分が人から見られにくいベンチでも探し、そこから買い物をしている人をよく見てごらん」と話す。「見られている」と気にしているが、それはあくまで、漠然とした「感じ」であり、自分の方からしっかり見てみると、意外に人はそれぞれが別々の方向を見ているのに気づくことがある。
 自分の方から見ようとすることは、見られているという受動的な姿勢から、少し積極的な能動的な姿勢に変わることであり、しんどい状況から抜け出すきっかけになり得る。

■ 人間関係が難しいのは社会より学校かもしれない
 家から学校に行きそして社会に出る。家より学校が、学校より社会がより人間関係が難しいと一般的に考えられているが、果たしてそうだろうか。学校は、実は人生で一番に人間関係が難しいところかもしれない。だって、40人の人が朝から夕方まで一緒にいる職場なんてあまりないでしょう。だから、人間関係で一番苦しむところは、実は学校かもしれない。
 教室でよい対人関係をもてず、その上に授業も十分に理解できないとしたら、教室は子どもにとって苦痛な時間をただ絶えるだけの場所になってしまう。
 そのような学校を変えてきたのが、実は不登校やADHDなどと呼ばれる子どもたちではないだろうか。
 単位制の学校やスクールカウンセラー制度などをはじめとして、学校は従来の画一的なものから、より多様なものへ、子どものニーズに合わせたものへと形を少しずつ変えてきているように思う。既成の学校には子どもたちが納まりきらないことを身をもって示したのではないだろうか。

■ 精神疾患はその時代を反映する
 フロイトのヒステリー論は、経済的に裕福な市民層ができ近代個人主義が発達する中で、集団中心的な生き方と個人主義的な生き方の矛盾に苦しむ人たちが出現してきたのを背景としているように思うし、境界性人格障害や摂食障害には、第二次世界大戦後にアメリカを中心とした西欧諸国が豊かになった結果、青年が生きる道筋や目標が見えなくなったことが背景にあるように思われる。
 その時代・社会で注目されている病気は、実はその社会がある必然性をもって浮かび上がらせた産物であり、治療や援助は、その時代の、その社会に足りなくなったものを補完するという側面があるようにも思うのである。

■ 診断すると子どもを“病名”で見てしまいがち
 学校の教師からある子どもにアスペルガー症候群の可能性はないかという相談を受け、面談・診察した後「その可能性はあると思うが、病名がどうかというよりもこの子どもの得意なものと苦手なものをよく見て対応することが大切だと思う」と話すと、教師に「学校では病気であるかどうかが大事なのです。それにより学校の子どもへの対応が違ってくるのです」といわれて驚いたことがある。
 正確に診断することは大切だが、多くの子どもの問題が病気とみなされると、医師の診断や治療の対象としてみられ、周囲の大人の目に子どもそのものが入らなくなることを私は危惧する。


「NIRS波形の臨床判読」(福田正人監修)

2014-04-15 20:13:56 | 
副題:先進医療「うつ症状の光トポグラフィー検査」ガイドブック
編集:心の健康に光トポグラフィー検査を応用する会

昨今話題の「光トポグラフィー」。
一言で表現すると「自然な状態の被験者の大脳皮質の賦活反応性の時間経過を、非侵襲的で簡便に全体として捉えることができる検査」となります(本文より)。
それは、代表的な精神疾患である「統合失調症」「うつ病」「双極性障害」を画像診断で鑑別しようという画期的なもの。
研究の結果、与えられた簡単な発語性課題をこなす際の前頭部・側頭部の活性化パターンが各疾患により異なることが判明しました。
それを元に、症状と問診が中心だった従来の診断法に、客観的な指標がようやく適用される時代になり得たのです。

この本では、光トポグラフィーの検査結果をどう読み取るかをわかりやすく解説されています。
検査をする医師向けという設定ですが、検査を受けた患者さんも自分の検査結果と見比べて参考になるレベルだと思います。

専門外ながら一通り読んだ後、診断名を隠して波形だけ見るブラインドテストにトライしましたが、なかなか当たりません(苦笑)。微妙というかオーバーラップする例もたくさんあるんだろうな、と感じました。
まあ、病気の本質を捉えた検査ではなく、「脳血流の変化」という一つのパラメーターで判断・鑑別する方法ですから、自ずと限界がありそうです。

「診断の感度は約70%」と記されています。
この数字は高いのか低いのか?
私にとって「70%」のイメージは・・・例えて云うなら「発熱当日のインフルエンザ迅速検査の感度」ですね。
熱が出てすぐ検査しても感度が低いので、インフルエンザに罹っていても30%は見逃してしまう。
希望が強ければ検査しますが、陰性という結果であっても「明日再検査が必要です」と説明してお帰りいただいています。
そのくらいの感覚です。過信は禁物。

実際の診療現場では、うつ病と双極性障害の型は躁状態が目立たないので鑑別が初期は困難とされています。この二つの疾患は治療法が異なるのでやっかいです。
うつ病と診断されて治療を長年受けているものの思うように改善しないという患者さんは、光トポグラフィー検査を受けてうつ病パターンなのか、双極性障害が疑わしいのか、一度確認する価値が十分あると思いました。


メモ
 自分自身のための備忘録。

診断精度
・うつ病と統合失調症・・・感度69%、特異度69%
・うつ病と双極性障害・・・感度69%、特異度81%

基本知識
一般に、脳の神経細胞が活動すると、その活動に比例して脳局所の血液量が増加する。PETを用いた研究により、神経活動時には局所脳血流量は50%程度上昇するが、脳酸素代謝の上昇は5%程度にとどまることが明らかにされており、脳が必要とする以上の酸素が神経活動部位に送り込まれるため、ふつう、課題遂行中の酸化ヘモグロビンは増加する。
この検査は、脳血液中の酸化ヘモグロビン量の変化を近赤外光で捉えて評価するもの。

長所と短所
長所
①光を用いるため、完全に非侵襲で幼児を含めて繰り返し測定しても声帯への有害な影響がない。
②市販の装置でも0.1秒毎に測定でき、時間分解能が高い。
③装置が小型で移動可能である。
④坐位や立位などの自然な姿勢で、発声野運動を行いながら検査可能である。

短所
①空間分解能が1-3cm程度と低く、脳構造との対応は脳回程度。
②主に大脳皮質を測定対象とし、深部の脳構造は測定できない。
③ヘモグロビン濃度のベースラインからの相対的な変化である。
④頭皮や筋肉、頭蓋骨の関与も含まれるため、タスクデザインには必ず統制条件を作ってタスクによって引き起こされた変化を抽出する工夫が必要。

波形の解釈
初期賦活:課題開始5秒間の反応の速さ
・速やか・・・ ≧0.0009
・緩やか・・・ 0.0009> ≧0.0002
・なし・・・  0.0002>
積分値:課題中の反応の大きさ
・大きい・・・ ≧114
・中程度・・・ 114> ≧54
・小さい・・・ 54> ≧-13
・陰転・・・  -13>
重心値:検査全体を通してみた場合の反応タイミング
・中盤・・・ ≦54
・終盤・・・ >54
・なし・・・ 小さいor陰転
側頭部の積分値:前頭部より側頭部の反応の方が大きいことが多い。
・大きい・・・ ≧111
・中程度・・・ 111> ≧55
・小さい・・・ 55> ≧3
・陰転・・・  3>

健常者と疾患別波形パターン
健常者
・前頭部の課題中の積分値は大きく、重心値は課題前半~中盤。初期賦活は速やか。
・左右側頭部の積分値は大きい。
大うつ病
・前頭部の課題中の積分値は小さく、重心値は課題前半~中盤。初期賦活は速やか。
・左右側頭部の積分値は小さい。
双極性障害
・前頭部の課題中の積分値は中程度で、重心値は課題終盤。初期賦活は緩やか。
・左右側頭部の積分値は小さい~中程度。
統合失調症
・前頭部の課題中の積分値は小さく、重心値は課題終盤。課題中に不規則な変化を伴うと共に、課題終了後に反応が増加することがある(再上昇)。
・左右側頭部の積分値は小さい。

多施設共同研究データによる鑑別アルゴリズム
前頭部チャンネル平均波形
・大うつ病障害においては前頭葉皮質の賦活の量が減少
・双極性障害においては賦活の潜時が遅延
・統合失調症においては賦活のタイミング不良
側頭部チャンネル平均波形
・健常者と精神疾患患者を全体として捉えると健常者との間に大きさの差異を認めたが、それぞれの疾患ごとには特異的な変化パターンの差異は認めなかった。