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彰義隊

2016年09月14日 | 
彰義隊
悲運の皇族

皇族でありながら戊辰戦争で朝敵とされその生命を脅かされた人物がいた。運命の分かれ目は上野寛永寺山主・輪王寺宮久親親王は鳥羽伏見での敗戦後、上野寛永寺で謹慎する十五代将軍、徳川慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走する。しかし、彰義隊に守られた輪王寺宮は朝敵とされ、会津、米沢、仙台と諸国を落ち延びる。そんな中ついに江戸時代が終焉。明治期になってからも数奇な運命に翻弄されながら人生を全うする皇族の物語である。


上野山の戦い彰義隊というと何を思い浮かべますか。そもそも上野山の戦いって?と思う人も多いのではないでしょうか。現在の上野公園。御徒町の方から上野に向かうと上り坂ですよね。そうここは昔、上野山と呼ばれており、寛永寺が建立されていた。
 彰義隊はなぜ立ち上がったのか。それは鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北。江戸は薩長軍に対して無血開城を迫られていた。本来であれば鳥羽伏見の戦い後、江戸にいる幕臣八万騎は平和ボケしていたのか何だかんだ理由を付けて武力対決に踏み込まなかった。一部の武装勢力は勝海舟によって、甲州鎮部隊や伝習隊などは地方へ追いやられ江戸は武装していない「武士」の集まりだった。彼らは260年の間、先祖から受け継いだ録を子孫に残すことだけで『武』に生きてきたわけではない。完全な平和主義になってしまった。また大きな戦争も体験した事が無いため戦い方も分からず、体を動かすことも少なかった時代だったので、農民より体力がなく戦闘では一番の使えない存在にしかなっていなかったようだが、さすがに薩長が江戸城に入り、江戸の町を我物顔で闊歩する姿に最後の意地を見せた。それが上野山で蜂起した幕臣集団【彰義隊】である。
 上野山は行ったことありますか?国立博物館、上野動物園、西郷隆盛像など今でも訪れる人が多いですよね。そう、ここが彰義隊の籠る上野山での激戦地だった場所なんです。有名な「黒門」は現在、台東区南千住の『円通寺』に当時の弾痕を残したまま残っています。興味があるかたは一度あしを運んでみてはいかがでしょうか。

アームストロング砲この上野山の戦い。あっけなく彰義隊が負けてしまうんですよ。彰義隊は2000人とも言われていました。戦闘が始まった午前中こそ持ちこたえていましたが、午後になってから轟音と共に見た事の内容な破壊力の砲弾が飛んできます。これがアームストロング砲です。ここで使用されたのは佐賀藩が作ったもので、不忍池の加賀藩邸から砲撃を行ったと言われています。
 この時、この本の主人公である輪王寺宮はこの寛永寺の主として滞在していた。ここで将軍徳川慶喜の恭順を唱えていたのだ。しかし砲撃も近くなり、近くで薩長軍と彰義隊の白兵戦も始まった事により輪王寺宮も日暮里方面に脱出した。その後残党狩りから逃れながら北千住を経て宇都宮、会津へと逃れる。なぜ逃げる必要があったのか。それは、皇族でありながら徳川幕府の味方となり将軍恭順の意思を朝廷に伝えている間に、輪王寺宮も処罰の対象になってしまったのだ。

東北の神輿

輪王寺宮は仙台に赴き、奥羽越列藩同盟の盟主に担がれ、もう一つの朝廷を作ろうとした動きに巻き込まれたため、ますます処罰の対象になってしまう。輪王寺宮も利用されている事も感じながらも東北諸藩のために身を投げ打って協力していく。しかし…東北諸藩は少しずつ敗北。会津に続き、米沢藩、仙台藩も新政府軍に降伏恭順。ここに輪王寺宮の戦いも終焉。明治期の輪王寺宮の運命はいかに。その真相は本の中で。