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ある幕臣の戊辰戦争 伊庭八郎の生涯

2016年09月13日 | 
ある幕臣の戊辰戦争  麒麟児伊庭八郎の生涯

江戸の名門道場「心形刀流」の嫡男はめちゃくちゃやんちゃな男だった。
伊庭八郎は天保十四年(1843)江戸の幕臣の家に生まれた。伊庭家の歴代はただの幕臣ではなく下谷御徒町にある心形刀流伊庭道場であった。
神田お玉が池の「北辰一刀流玄武館」九段坂上三番町(現靖国神社)の「神道無念流練兵館」南八丁堀浅蜊河岸の「鏡新明智流士学館」とともに『江戸の四大道場』の一つにかぞえられていた。八郎は八代目軍兵衛の嫡男であった。軍兵衛は1858年のコレラ大流行で急死してしまい幼年だった八郎は家を継げず、軍兵衛の一番弟子だった垪和想太郎が伊庭秀俊と改名し九代目を相続。八郎はその養子という形をとった。
八郎は養父を助け道場経営に力をいれ、門下生からは若先生と慕われていた。
身長は五尺二寸(158センチ)と小柄ながら『眉目秀麗、俳優の如き美男子』と言われ町娘たちの憧れの的であったという。 
 伊庭道場の門下生は1千人以上。門人たちは脛が出る短い袴を常用。高下駄をはき太刀を腰間に柄先下がりに横たえていつでも抜刀出来る姿勢で街中を闊歩したため、誰が見ても伊庭道場の門下生だと一目で知られる存在であった。

悪い遊び仲間は土方歳三
江戸の道場で土方と出会った八郎は8歳年上の歳三を兄のように慕い、しばしば二人で遊びにでかけたそうだ。しかし遊ぶにはお金が必要だ。いつもお小遣いをせびりに行く老人を近藤周斎といい近藤勇の養父だった。周斎は若い二人にそばを食べさせてから遊びに行くお金を渡していたそうだ。「勇には内緒だぞ。しかし悪い女に引っかかると病気をうつされて剣術どころではなくなる」と叱りながら財布ごと渡していたとの話が残っている。病気というのは当時流行った梅毒の事で彼らが遊びに行く所はいつも吉原だったようだ。
いつの時代も若い男性があぶく銭を持つと酒か女に使ってしまうようだ。もっとも土方歳三は京都でもそんな節があったのだが。

短い生涯
伊庭八郎はその卓越した剣の腕を買われ将軍徳川家茂の親衛隊に加わる。
その後新設された幕府遊撃隊に属し、鳥羽伏見の戦いを始めとする討幕軍と各地を転戦。江戸に迫る討幕軍を迎え撃った【箱根の戦闘】で左手首を失う重症を負う。しかし手首から下を切断する手術(麻酔もなしで切断したが痛いなどと言わず平静を保っていたそうだ)を行い隻腕剣士に。しかし彼は隻腕になっても戦闘をあきらめず、片腕で鉄砲を撃つ練習をしていたそうだ。そんな八郎、美男子な上に隻腕でも剣士として戦い続ける姿が江戸庶民に受け錦絵にもなったほどだ。少し療養してから蝦夷地箱館に渡り旧幕府軍に再合流。木古内など各地を転戦した。その死にはいくつかの説がある。戦闘中に被弾し戦死。またはモルヒネを飲む服毒死。事実はどちらであったのだろうか。
 そのことよりも彼の考えた事やその短い生涯の生きざまに興味があった。江戸の粋な旗本男子の一生がこの本の中に詰まっていますので手に取って読んでもらいたいです。