三春城は戦国時代の永正年間に田村義顕(よしあき)が守山城(現郡山市)より三春城に本拠を移し築城したのが始まりと伝えられています。以来、田村氏・松下氏・秋田氏などの大名の居城となり、明治維新後廃城となりました。現在城跡は公園として整備されており、一部に残る石垣が当時を忍ばせる位のようです。訪ねてみて頭に浮かんだのがあの「兵ども」の芭蕉の句でした。
↑江戸時代初期、秋田氏入府時の城郭想像図として全体が描かれている。
はじめに二の門から大門への南斜面を登る、
↑始めに二の門跡から大門跡へ通じる南斜面を登ります。
↑つづら折りの道へ入っていく。
↑眼下には堅堀に架けられた立派な橋が見える。
↑隣には堅堀跡の表示。
↑更に登ると揚土門跡の表示がある。
↑次に出てくるのは三の門跡の表示。
↑山は岩があちこち露出しており、自然の要塞となっている。
↑大門への登り坂。
↑本丸入り口の大門跡表示。
↑大門の礎の石が残っている。
↑大門跡から本丸をぬけ、裏門の二の門から望む。
↑二の門側に建つ舞鶴城址銘碑。
↑三春町教育委員会による三春城の説明書き。
↑いよいよ頂上、本丸跡、
↑奥跡表示。
↑秋田家の祖先を敬う碑が建つ。
↑奥へ通ずる石段。これは新しすぎるであろう。
↑大広間跡表示。
↑広間跡から御三階跡を望む。
次は、二の門から二の丸を抜け本丸へ向かう北側のルートを通ります。(つづく)
↑江戸時代初期、秋田氏入府時の城郭想像図として全体が描かれている。
はじめに二の門から大門への南斜面を登る、
↑始めに二の門跡から大門跡へ通じる南斜面を登ります。
↑つづら折りの道へ入っていく。
↑眼下には堅堀に架けられた立派な橋が見える。
↑隣には堅堀跡の表示。
↑更に登ると揚土門跡の表示がある。
↑次に出てくるのは三の門跡の表示。
↑山は岩があちこち露出しており、自然の要塞となっている。
↑大門への登り坂。
↑本丸入り口の大門跡表示。
↑大門の礎の石が残っている。
↑大門跡から本丸をぬけ、裏門の二の門から望む。
↑二の門側に建つ舞鶴城址銘碑。
↑三春町教育委員会による三春城の説明書き。
↑いよいよ頂上、本丸跡、
↑奥跡表示。
↑秋田家の祖先を敬う碑が建つ。
↑奥へ通ずる石段。これは新しすぎるであろう。
↑大広間跡表示。
↑広間跡から御三階跡を望む。
次は、二の門から二の丸を抜け本丸へ向かう北側のルートを通ります。(つづく)
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