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競馬コナンG ~1億円の道~
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「芦毛の怪物」オグリ死す…「お別れ会」開催へ/SP

1980年代後半に競馬ブームを巻き起こし、芦毛の怪物といわれたオグリキャップが3日午後、北海道・新冠の優駿スタリオンステーションで放牧中に脚部を骨折、三石の競走馬診療所に運ばれたが、治療もできないほどの重傷でそのまま息を引き取った。25歳だった07年に種牡馬を引退した後は、けい養先の優駿スタリオンステーションで余生を過ごしていた。

これほど愛された競走馬がいただろうか。競馬ファンだけでなく、日本全土を巻き込んだ希代のアイドルホースだったオグリキャップが天国に旅立った。3日午後。余生を過ごしていた北海道・新冠の優駿スタリオンステーションで放牧中に脚部を骨折。近隣の三石町の競走馬診療所に運ばれたが、手の施しようもない重傷で息を引き取った。

87年5月、岐阜県の公営・笠松競馬の2着デビューが“波瀾(はらん)万丈”の一生の始まりだった。5戦目から驚異の8連勝。笠松で12戦10勝の輝かしい実績で、JRAの栗東・瀬戸口勉厩舎にトレード。移籍初戦の88年3月ペガサスSでいきなり重賞制覇。続く毎日杯も連勝したが、クラシック登録をしていなかったため、皐月賞、ダービーに出走できず、京都4歳特別→ニュージーランドT→高松宮杯→毎日王冠と怒とうの6連勝。当初の購買額が250万円ともいわれた“安馬”がJRA勢のエリートをなぎ倒す姿に、公営出身の元祖アイドル馬ハイセイコーを重ね合わせ「怪物くんの再来」と人気は急上昇。同年秋、初めて挑んだG1の天皇賞・秋で同じ芦毛のタマモクロスに屈したが、同年暮れの有馬記念でリベンジしてG1初優勝。“芦毛の新怪物”として不動の地位を確立し、競馬ブームを巻き起こした。

一方で、その競走生活は苦難の連続だった。有馬記念優勝後に右前脚を痛め、4歳時のG1優勝はマイルCSのみ。5歳時、初戦の安田記念優勝後は3連敗。直線でズルズル後退したジャパンC11着後、JRAに「出走を取りやめなければ、競馬場に爆弾を仕掛ける」という旨の脅迫状も届いた引退戦の有馬記念で、奇跡の有終V。中山競馬場を埋め尽くしたファンから「オグリコール」が鳴りやまず、大観衆の感動と涙を誘った。

91年の種牡馬入り後、JRA重賞勝ち馬を輩出することはなかったが、優駿スタリオンステーションでは功労馬として悠々自適の老後を送っていた。08年11月の「アジア競馬会議記念デー」のメーンイベントとして東京競馬場で元気な姿を見せ、今年5月30日の東京で“最後の子供”となるミンナノアイドルがデビュー(14着)を飾ったばかり

有馬の奇跡は起きなかったが、オグリが刻んだ激動の四半世紀は多くのファンの記憶に刻まれている。優駿スタリオンステーションでは今月中旬、その功績を称えて「お別れ会」を開くという

◆オグリキャップ 父ダンシングキャップ、母ホワイトナルビー。85年3月27日に北海道三石町(現新ひだか町)の稲葉牧場で生まれた。87年に笠松競馬でデビューし、88年に中央競馬へ移った。中央での戦績はすべて重賞で20戦12勝、地方12戦10勝、獲得賞金は約9億1251万2000円(地方含む)。

[ 2010年07月04日 ]


【オグリ死す】「僕の宝物」…武豊ら関係者“感謝”/SP

武豊騎手(ラストランとなった90年有馬記念に騎乗して優勝)競馬の歴史に凄い名を残した馬に2度騎乗(安田記念、有馬記念ともに1着)させてもらって本当にありがたかったし、誇りに思います。僕の宝物です。今はオグリを知らない若い世代のファンの方もいるので、あのスーパーホースの凄さを伝えていきたい。

▼増沢末夫元調教師(現役時代に2回騎乗)ああいう名馬が亡くなるのは残念ですね。骨折ですか…。(騎乗した時は)結果は出なかったけど、それが勝負の世界ですから。

▼瀬戸口勉元調教師(オグリキャップを管理)オグリは私が管理した中でも本当に素晴らしい馬でした。どんどん勝っていくうちに、ファンの馬になった。たくさんの思い出があるけど、一番はやっぱり引退レースの有馬記念です。あのときは天皇賞・秋(6着)ジャパンカップ(11着)と負けて…。勝ってくれて涙が出るほどうれしかった。種牡馬としてはあまり恵まれなかったけど、ファンの皆さんにあれほど愛された馬を管理できて幸せでした。冥福を祈ってます。

▼河内洋調教師(中央移籍当時の主戦騎手)道中は無駄な動きをしないし、スピード、スタミナともにすぐれていた。距離もマイルから2500メートルまでこなした。ああいう特異なキャラクターはもう出ないだろう。時代の流れに乗った馬だった。

▼村田繁實・優駿代表取締役 芦毛馬としては大変長生きしてくれたので、そういう意味では感謝しています。競馬サークルを超えて多くの人に愛され、また地域にも多大なる貢献をしてくれた馬です。思い出はたくさんあるけど、東京競馬場をはじめ多くのファンに会いに行けたことが印象に残ってます。今はただ冥福を祈っています。
[ 2010年07月04日 ]



【オグリ死す】競馬バブル生んだ“伝説”の功労馬/SP

時はバブル景気の真っただ中、オグリキャップが出走したJRAの全20レース中、17レースで前年より売り上げが増加した。90年有馬記念、オグリキャップのラストランを見届けようと中山競馬場に詰めかけたファンの数は17万7779人この記録は今も破られていない。まさに“伝説のレース”だ。

「オグリギャル」と呼ばれる熱狂的な女性ファンが登場。当時はまだ珍しかった女性ファンを競馬場に集める原動力となった。競走馬のぬいぐるみが大ヒット商品となったのもオグリキャップがきっかけだった。60年代のシンザン、70年代のハイセイコーで弾みのついた日本の競馬の隆盛を決定的にした功労馬だ。

90年有馬記念の売り上げは480億3126万2100円だったが、翌年からうなぎ上り。ピークの96年には875億円を売り上げた。その後は減少の一途で昨年の有馬記念の売り上げは404億円と半分以下に。スターホース不在、売り上げ低迷に悩むJRAは第2のオグリキャップの登場を心待ちにしている。

[ 2010年07月04日 ]


「芦毛の怪物」オグリキャップが死亡

2010.7.3 20:24

多くファンから人気を博し、競馬ブームを支えたアイドルホースで「オグリ」「芦毛の怪物」などの愛称で呼ばれたオグリキャップ(牡25歳)が3日、余生を送っていた北海道・優駿スタリオンステーションで、脚部を骨折して死亡した。

オグリキャップは1987年に地方・笠松競馬でデビュー。12戦10勝と圧倒的な成績を残し、1988年に中央競馬(JRA)に移籍した。中央競馬では引退レースとなった1990年の有馬記念を含む重賞12勝(うちGI4勝)という偉大な記録を残した。通算成績は地方、中央を含め32戦22勝。

競走馬の引退後は種牡馬となったが、中央競馬での重賞勝ち馬を出すことはできなかった。主な活躍馬にクイーンS2着のアラマサキャップや小倉3歳S2着のオグリワンがいる。地方競馬ではアンドレアシェニエ(牡9歳、現役)が14勝を挙げている。2007年に種牡馬を引退し、余生を過ごしていた。

オグリキャップは父ダンシングキャップ、母ホワイトナルビー、母の父シルバーシャークという血統。笠松時代は鷲見昌勇厩舎、中央時代は瀬戸口勉厩舎に所属。1988年にJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年にはJRA最優秀5歳以上牡馬および、年度代表馬になった。

引退レースに騎乗した武豊騎手の話

「競馬の歴史にすごい名を残した馬に2度騎乗させてもらって本当にありがたかった。誇りに思う。オグリを知らない若い世代のファンもいらっしゃるので、あのスーパーホースのすごさを伝えていきたい」


オグリキャップを管理した瀬戸口勉元調教師の話

「大変残念です。ファンの馬だから、皆がっかりするでしょう。引退レースに勝ったのが忘れられない」

増沢末夫元騎手の話

「ああいう名馬だし、亡くなるというのは残念ですね。骨折ですか…」

笠松競馬時代の装蹄(そうてい)師の三輪勝さんの話

「長生きをしていたから、いずれはと思っていたが、悲しい。元気な時にもう一度会いたかった」



 さようならオグリ…語り継がれる数々の活躍 /SAN

2010.7.3 22:33
引退式で武豊騎手を乗せ、最後の雄姿を見せるオグリキャップ=91年1月、東京競馬場

あの引退レースになった有馬記念の衝撃は忘れられない。秋に入って勝てず、前走のジャパンカップは11着の惨敗。希代の名馬もここまでかとほとんどの人が思った。それが…。武豊を背にまさかの快勝。あの時のファンの熱狂、割れんばかりの大歓声が今でも生々しく耳に残っている。

血統は一流とはいえないのに、地方の笠松競馬から中央競馬入りして6連勝。マイルチャンピオンシップ、安田記念などGI4勝。シンザン、ハイセイコーで弾みのついた日本の競馬の隆盛を決定的にした功労馬だ。

種牡馬としての活躍を期待したが、産駒に恵まれず、寂しい晩年だったのが残念でならない。でもこれほど決め手があって勝負強い馬はもう出ないだろう。歴史的な名馬の活躍は長く語り継がれるに違いない。



武豊「オグリのすごさ伝えたい」  /SP

オグリキャップの引退レースに騎乗した武豊騎手は「競馬の歴史にすごい名を残した馬に度騎乗させてもらって本当にありがたかった。誇りに思う。オグリを知らない若い世代のファンもいらっしゃるので、あのスーパーホースのすごさを伝えていきたい」と語った。

また、増沢末夫元騎手は「ああいう名馬だし、亡くなるというのは残念ですね。骨折ですか…」。オグリキャップを管理した瀬戸口勉元調教師は「大変残念です。ファンの馬だから、皆がっかりするでしょう。引退レースに勝ったのが忘れられない」。笠松競馬時代からの装蹄師の三輪勝さんも「長生きをしていたから、いずれはと思っていたが、悲しい。元気な時にもう一度会いたかった」と亡き名馬をしのんだ。

[ 2010年07月03日 21:22 ]


「怪物」オグリキャップ死す…脚部を骨折  /SP

1980年代後半に競馬ブームを巻き起こして「怪物」の異名を取ったオグリキャップが3日、北海道新冠町の牧場で放牧中に右後ろ脚を骨折した影響で死んだ。25歳だった。地方の笠松競馬(岐阜)から中央競馬に移籍して、G14勝、年末の有馬記念を2度制するなど活躍した。限界をささやかれた90年12月23日、ラストランとなった有馬記念で劇的な勝利を飾ったことで知られる。今月半ばにお別れ会が行われる予定。

余生を送っていた優駿スタリオンステーションの関係者によると、一般公開中のパドックで転倒し、手の施しようがない状態だった。

85年3月27日に北海道三石町(現新ひだか町)の稲葉牧場で生まれた。父ダンシングキャップ、母ホワイトナルビー。87年に笠松競馬でデビューし、88年に中央競馬へ移った。芦毛の馬体で人気を評し、初戦のペガサスステークスを皮切りにして重賞を6連勝した。「オグリ伝説」が生まれ、有馬記念、マイルチャンピオンシップ、安田記念とG1を制した。

90年11月のジャパンカップは11着と不調だったが、1カ月後の有馬記念は武豊騎乗で奇跡の優勝を果たした。怪物の引退レースで中山競馬場に詰め掛けた17万人を超える観衆が「オグリコール」を送った。

引退後は種牡馬となった。中央での戦績はすべて重賞で20戦12勝、地方12戦10勝、獲得賞金は約9億1250万円(地方含む)。

[ 2010年07月03日 20:24 ]

/SAN


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