COCCOLITH EARTH WATCH REPORT

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月面探査車ルノホートを開発したソビエト科学者達の業績

2008-05-31 00:25:59 | Weblog
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1.米ソ宇宙開発競争の幕開け
 5月28日(水)の地球ドラマチックで、「月に降りたロボット~ソビエト秘密計画~」が放送された。第二次世界大戦後に始まった米ソ冷戦時代に、宇宙開発でも両国はしのぎを削りあっていた。先行したのはソビエトで、スプートニク宇宙船による地球を回る軌道の周回(1957)、ユーリー・ガガーリンによる初めての有人宇宙飛行(1961)、アレクセイ・レオーノフによる初めての宇宙遊泳を成功させた。遅れを取ったアメリカの故ケネディ大統領は、1960年代終わりまでに人類を月に送ると宣言(1961)、米ソ両国の威信をかけた月への一番乗り競争が始まった。

2.ソビエトの月面探査車ルノホートの開発
 ソビエトが目指したことは、月に地球からの遠隔操作が可能な無人探査機を送り込むことで、その設計の中心人物は元戦車の設計者で、信じられないような装置を考え付く人物として知られるようになったアレクサンダー・ケマルジャンだった。コンピューター技術が初歩的段階にあり、ロボット工学の研究も進んでいなかった1963年当時、40万キロ離れた地球から遠隔操作したり、重力が地球の1/6の月面での動きを予測したりは不可能な挑戦に見えた。しかしケマルジャン達は、厳重な軍事機密のもとであらゆるアイデアを出して試行錯誤を繰り返し、1964年には試作機のテストに漕ぎ着けた。
 試作機は互いに独立したサスペンジョンを持つ8個のスパイク付き車輪(幅20センチ、直径50センチ)を持ち、搭載したビデオカメラから送られて来る映像をモニター画面で見ながら、操作レバーで遠隔操作するものであった。様々な改良が加えられて完成したルノホートは、重量756キロ、全長2.2メートル、幅1.5メートルであった。月の昼夜は2週間ずつで、昼はプラス160度、夜はマイナス170度に達する。昼は裏に太陽光電池を装着した蓋を開いて、太陽光発電でエネルギーを車体に供給した。夜は蓋を閉じて搭載した放射性物質ポロニウム210を熱源とした発電機を回して、寒さをしのぐ構造であった。40万キロ離れた地球からレバーを操作する時間のずれが大きな難問で、状況判断の速さなどを重視して軍から厳選された操縦士達が懸命に訓練を重ねた。[余談になるが2006年11月にイギリスで、何者かがポロニウム210を元KGB職員アレクサンドル・リトビネンコの暗殺に使ったと言われている。]

3.月面到達競争の帰結
 1966年2月にはソビエトの打ち上げた月探査機ルナ9号が世界で初めて、12月にはルナ13号がそれぞれ月面着陸に成功し、月面の写真が地球に送信された。アメリカの追い上げも急で、マーキュリー計画(1959-63)とジェミニ計画(1962-66))で有人宇宙飛行に成功し、1968年12月には3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ8号が初めて月の軌道周回に成功した。
 1969年2月19日、ソビエトが満を持して行ったルノホートの打ち上げは失敗に終わった。これに反してアメリカは1969年7月21日、アポロ11号の月着陸に成功し、ニール・アームストロングが月面に人類の第一歩の足跡を残した。
 1970年11月10日、ソビエトはルノホート再打ち上げに成功し、11月17日には月面着陸に成功した。ルノホートは予定の3ヶ月を越え、ポロニウム210の放射線エネルギーの尽きるまで11ヶ月間も活動を続けた。走行距離は11キロに及び、2万枚以上の写真を地球の送り、500箇所で土壌を分析、計画の全てを達成した。1973年1月には、ルナ21号に搭載されて改良型のルノホートが月面に到着、機能を停止するまでの4ヶ月で37キロを走行した。装着されたフランス製レーザー反射機を使って月と地球の距離を3メートル以内の精度で測定し、火山活動、地震の予測、大陸移動の研究に役立った。ケマルジャンはレーニン勲章を授与されたが、協力関係にあったフランスを除けば、閉ざされたソビエト圏にあっては西側には無名の存在だった。

4.チェルノブイリ原発事故への関わり
 1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所4号機の爆発事故の後、別の原子炉の屋上に吹き飛んだ汚染された瓦礫撤去のため、ソビエト指導部からケマルジャン達にルノホートの技術を応用した遠隔操作の車両を作製するよう緊急命令が下った。ルノホート計画終了後も惑星で使うロボット開発を続けていたケマルジャン達は、ルノホートの小型版ともいえるSTR1を作製して事故の3ヶ月後に現場に搬入した。製作チームも危険を承知で直接出向い操縦に当たり、撤去作業で目覚しい成果をあげた。[これも余談であるが、満足な防護服を付けずに汚染された瓦礫の撤去に当たった大勢の人々(リクビタートルと呼ばれる)の間に、放射線被爆によるがん発生の多発が危惧されている。]

5.ソビエト崩壊後の展開
 ソビエト崩壊後、ソビエト科学者達の存在と業績が明るみに出て、西側科学者達との交流が始まった。1992年、カリフォルニアのジェット推進研究所の研究者達は、ケマルジャンたちが15年前に製作した火星探索車マーズホートのテストに立ち会ってその性能に驚嘆し、専門家達が火星探査車の可能性について考える大きなきっかけとなった。

6.おわりに
 番組の終わり近くでケマルジャンはこう語った。「誰でも自分なりのやり方で素晴らしいことを成し遂げる力を持っています。単純な仕事に喜びを感じる人もいれば、複雑な仕事に興味を覚える人もいます。私たちは一人ひとり違う存在です。宇宙開発をするか、他の仕事をするかは問題ではありません。大切なのは自分が本当にやりたいことをやることです」と。冷戦下の米ソの国家的威信をかけた競争とはいえ、ケマルジャン達が目指したものは人を殺戮する技術ではなかった。チェルノブイリ原子力発電所爆発事故後の瓦礫撤去作業では、急遽製作されたSTR1が生身の人間に代わって危険な作業をこなし、多くの人々を被爆の危険から救った。素晴らしい技術開発を目指す科学者達の良心に期待したい。

なお、この放送の原番組はZED/CORONA FILMS(フランス/アメリカ 2007)であった。

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