COCCOLITH EARTH WATCH REPORT

限りある地球に住む一地球市民として、微力ながら持続可能な世界実現に向けて情報や意見の発信を試みています。

原子力平和利用はアメリカの世界戦略として、被爆国日本にこうして導入された

2015-01-04 21:42:33 | Weblog

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目 次
まえがき
1.プロローグ
2.フツイ氏の生い立ちと平和資料館展示物への姿勢
3.東西冷戦激化とビキニ事件
4.アメリカが仕掛けた原子力平和利用の導入
5.日本における原子力平和利用受容れに向けた動き
6.広島での平和利用博覧会開催にむけたフツイ氏の地ならし
7.平和利用博覧会開催と原爆資料館のその後
8.原子力平和利用に浸たされた日本
9.エピローグ
考 察

まえがき
 平成26年末のどさくさに紛れて強行された総選挙で、アベノミクスを唯一の選択肢と掲げた安倍政権は、低投票率と小選挙区制の弊害や野党の準備不足のすきをついて圧勝しました。それをよいことに選挙の争点に上げなかった原発依存への回帰も支持が得られたものとして原発再稼働はおろか輸出まで進めようとしています。広島、長崎での被曝に加えて、アメリカが太平洋で行った水爆実験で第五福竜丸などの漁船が被害を蒙った日本が、福島の原発事故までに54基もの原発を擁する世界第3の原発大国になったとは、にわかに信じがたいことです。何故かといえば、アメリカが世界で進めた原子力平和利用戦略にいとも容易く呑みこまれてしまったからにほかなりません。昨年10月18日のETV特集で放送された、「ヒロシマ 爆心地の平和利用博覧会」は、如何に巧妙に原子力平和利用が導入され、日本がそれを賞賛の眼を持って受容れたかを描いた番組でした。そこにはかつての日本人が煽られた戦争翼賛情報と見まがう、原子力平和利用の情報戦略がありました。人々の頭の中で、軍事利用と平和利用が全く別のものだという線引きを行ったようなものでした。アメリカにとって最も困難が予想された広島では、かつての敵国との間で文化交流の架け橋になることを目標に赴任した、アメリカ外交官の類まれな社交性で構築された幅広い人脈のネットワークによって、原子力広島原爆資料館の展示品が運び出され、原子力平和利用を礼賛する華やかな博覧会が開催されました。2011年3月の福島第一原発事故は、軍事・平和を問わず原子力の本質的危険性を露呈し、安全神話の虚構が露呈されました。番組を通じて原子力が導入された経緯を振り返り、平和利用という一面に惑わされて受容れてしまった反省の念を込めて、今後の原子力の扱いについて考察してみました。なお以下の1~9は、「ヒロシマ 爆心地の原子力平和利用博覧会」視聴記として2014年11月1日に掲載したものですが、考察にはかなりの加筆、改訂を行ってあります。

1.プロローグ
 1945年8月6日、広島で人類の頭上に初めて原子爆弾が投下され、その年のうちに14万人の命が失われた。爆心地に建てられた 原爆資料館(平和記念資料館)には、核兵器が人間の命や暮らしを一瞬のうちに破壊することを示す遺品や写真が展示され、今なお続く広島の悲劇を忘れてはならないというメッセージを伝えている。1949年、広島市中央公民館に「原爆参考資料陳列室」が設置され、原爆被災資料の公開展示が始まった。そして1955年に平和記念公園の中に、広島平和記念館(6月)と広島平和記念資料館(8月)が開設された。当時の工事現場は、掘れば遺骨が出る状態だったという。犠牲者の魂が込められた形見を展示品として集めるのに大変な努力があったが、少しずつ市民達の理解を得て資料館ができあがったという。開設の翌年、これらの展示品が一次的に近くの公民館に移設され、原子力平和利用博覧会が華やかに開催されたのである。(註:現在の原爆資料館は1994年に前記2館が一体化して建設されたものである)
 原子力平和利用博覧会は広島を含む全国11か所で開催された。原子力で飛ぶ未来の飛行機や、実物大の原子炉の模型など様々な展示品を使って描かれた原子力がもたらす明るい未来は、来館者たちを驚嘆させた。しかし原爆の傷あとが残る被爆後11年の広島での開催には、事前の周到な根回しがあった。博覧会開催を働きかけたアメリカの意図、実現に至る経緯の記録から、アメリカ国務省から広島に派遣されていたAbol・Fazl・Fotouhiという外交官が重要な役割を演じていたことがわかった(註:番組をナレートした石澤アナはフツイと呼んでいたが、このサイトにアクセスして所定の位置をクリックすると発音された音声を聞くことができる。どうやら「フォトォウイ」のように聞えるが、この稿では石澤アナにならってフツイを使うことにする。なお、フツイでネット検索しても情報が得られないが、Fazl Fotouhiなら沢山見つかる)。

2.フツイ氏の生い立ちと平和資料館展示物への姿勢
 フツイ氏はイランの裕福な家庭に生まれ17歳で渡米、ジョージワシントン大学で経済学を学び、大戦中は陸軍でニュージランド戦線に従軍、帰国途上に立ち寄った日本でその文化に惚れ込んだ。戦後国務省に就職、ソ連のプロパガンダに対抗してアメリカの広報活動を行うアメリカ広報文化交流局(USIS)に配属された。原爆投下から7年後の1952年、フツイ氏はアグネス夫人と6歳の娘ファリダちゃんを伴って、広島アメリカ文化センター館長に着任した。館内にはアメリカの様々な雑誌がおかれ、コンサートや映画上映などのイベントが催され、アグネス夫人の料理教室はアメリカに憧れる主婦たちに大人気であった。自宅の隣家の波田さん宅とは家族ぐるみの付き合いで、フツイ氏は尺八、夫人は琴、娘は日本舞踊を習い、日本文化の吸収に熱心だったという。


 上の動画にあるように、ロサンゼルス在住のファリダさんによれば、フツイ氏は最も困難な赴任地だから希望すると志願し、夫妻は日本社会の一員になり、まがいものではない本物の文化交流をする覚悟で、目標はかつての敵国とのあいだの文化交流の橋を架けることだったという。しかしフツイ氏は、原爆資料館の展示のあり方をめぐって日米両国の間に大きな隔たりがあることを痛感していた。フツイ氏の手記によれば、被害の実態を示す展示品にアメリカ人来館者は恐れおののき、祖国に恥をかかせるようなホラー展示の撤去を迫ったという。ファリダさんは、『実際に起きたことだから展示は残すべきだ。核戦争の真実を世界に伝える大切なメッセージだ。アメリカが撤去を求める筋合いはない』とフツイ氏が強い姿勢で対応したと証言している。



3.東西冷戦激化とビキニ事件
 東西冷戦の激化は、フツイ氏の任務に大きな影響を与えた。1953年8月に第一回水爆実験に成功した旧ソ連は、アメリカが核兵器を最初に使用した残虐性を強く非難する強力な宣伝戦を展開した。これに危機感を覚えたアメリカは、核政策の大転換に踏み切った。上の動画のように、1953年12月、国連総会に出席したアイゼンハワー大統領は、「アメリカは核エネルギーの平和利用は将来の夢ではないと考えている。その可能性は実証され、我々の手にある。原爆投下という暗い背景を持つ我が国は、力を誇示するだけでなく、平和への願望と期待を示したい」と原子力の平和利用を宣言した。
 しかしその提案の裏で、アメリカは強力な水爆の開発を進めていた。秘密だった筈の水爆実験は1954年の3月、日本のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員が死の灰を浴びたビキニ事件で世界中に知れ渡った。アメリカの核兵器による日本人3度目の被爆は、薄れかけていた広島と長崎の凄惨な記憶を呼び覚まし、核兵器と放射能汚染に対する強い反発は全国的な原水爆禁止運動に発展した。ファリダさんは「父は平和を愛する人で核実験を快く思っていなかったが、第五福竜丸事件で連日対応に迫られ、漁師の身に起きたことについて謝罪する一方、アメリカの政策(核実験)を擁護する苦境に立たされた」と証言している。

4.アメリカが仕掛けた原子力平和利用の導入
 アメリカは被爆地広島が反米プロパガンダの拠点になることを強く危惧していた。ビキニ事件直後の1954年3月、アメリカ政府内でやり取りされた文書には、危機感が現れた次のような文脈が含まれている。「共産主義者が長崎と広島に取り付いている。今回の被害を最小限にするのは原子力平和利用、すなわち原子エネルギーの非軍事的利用での力強い攻撃である」。具体的方策としてあげられたのは、日本での原子炉建設であった。一ヶ月後アメリカ政府は原子力平和利用博覧会の日本での開催に向けて動き出した。アメリカ政府の決定は広島にも伝えられ、フツイ氏の役割は大きく変わっていくことになった。
 1955年1月末、広島にとって衝撃的なニュースがもたらされた。米下院シドニー・イエーツ議員が、原爆を投下した償いとして、広島に原子力発電所を建設・提供しようという議案を提出したのである。この報道が伝わると、広島の被爆者を中心に反対の声が沸き起こった。その中心にいたのが、被爆者団体代表として広島から原水爆禁止運動を立ち上げた森瀧市郎氏だった。次女春子さんが大切の保管している森瀧氏の日記には、「・・・イエーツの議案に関して熱心な討議の結果、当時既に原子力には必ず廃棄物の問題があり、それが人間の体にも影響を与える、広島に原発を置くと攻撃のターゲットになり大変だとか、償いの気持があるならば、被害者への補償に力をいれるべきだ」とか記されていた。被爆後10年の広島ではケロイドに苦しむ人々が数多く、被爆して一命をとりとめたものの、白血病などを発症する人々が目立つようになっていた。救済制度がなく、差別を受けるなど被爆者は苦しい状況に置かれていた。イエーツ議員の決議案は結局立ち消えになった。当時の広島の情勢を分析したUSIS報告書「広島における原子力の平和利用」には、「原爆を投下された広島は、大統領の平和利用計画を進める上でおそらく最も困難な場所である」と記されている。その広島で原子力平和利用博覧会を開催するという困難な任務が、フツイ氏に課されることになった。

5.日本における原子力平和利用受容れに向けた動き
 時を同じくして東京では、アメリカが提唱した原子力の平和利用を積極的に受け入れようという動きができてきた。その先頭に立ったのは、当時改進党の代議士だった中曽根康弘氏を中心とする超党派の政治家たちであった。中曽根氏らはアイゼンハワー演説の3ヶ月後の1954年3月、原子力関連予算案を国会に提出し、翌1955年6月にアメリカからの濃縮ウラン受け入れなどを定めた日米原子力協定の仮調印を実現させた。同年11月、日本で初めての原子力平和利用博覧会が東京で開催された。主催は読売新聞社、2ヶ月後に原子力委員会の初代委員長に就任した社主正力松太郎氏のもと準備が勧められた。博覧会は東京を皮切りに、全国11箇所を巡回しながら開催され、広島は5番目の開催地であった。
 広島でも原子力を前向きに捉え、期待を寄せる被爆者も現れていた。原爆ドームの隣に生家があった田邊雅章さん(原爆投下当時8歳)は、疎開していて難を逃れたが、生家にいた両親と弟は亡くなった。中学生の頃の広島では、悲惨な体験をした被爆者に対する世間の目が決して暖かいものではなく、いじめ、蔑み、差別などが公然と行われていた。そのような時代背景の中で、社会科教科書に載っていた原子力の平和利用を見て、心が少し安らいだような気がして、次のような文脈を含む作文を書いていた。『・・・原子力は恐ろしい 悪いことに使えば人間は滅びてしまう。でも良いことに使えば使うほど人間が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう』。

6.広島での平和利用博覧会開催にむけたフツイ氏の地ならし
 フツイ氏は手記に「広島の友人、そして地域の一員として、私は広島の人々が原子エネルギーが人類にもたらす恩恵を学べる機会を用意したいと思う」と書き残している。映画撮影を趣味にしていたフツイ氏が残した広島滞在中のさまざまな記録の中には、彼が広島の要人達を会食に招き、類まれな社交性を発揮して幅広い人脈のネットワークを広島に張り巡らせていった様子がうかがわれる。フツイ氏の上司が作成した1956年10月のUSISの文書『広島における原子力平和博』には、「博覧会に対する地元の反対は、複数の共催者によって効果的に抑え込まれた。そのメンバーは広島県、広島市、地元新聞社そして広島大学だった」と記されている。当時の広島大学学長は森戸辰男元文部大臣であった。フツイ氏は多くの学生達のアメリカ留学のお膳立て、夫妻で行った英語の出前授業、森戸学長の呼びかけた平和文庫の創設への協力などを通じて、大学人達と良好な関係を構築していた。また、フツイ氏はマスコミの活用をはかり、博覧会開催推進派の政財界要人や大学教授陣が原子力の明るい未来を語る記事が次々と出版された。



 フツイ氏は、は映像資料を徹底的に活用した。彼の要請でUSIS制作の映画「原子力の恵」は完成時期が早められ、博覧会の10ヶ月前から広島で上映された。それは上の動画のように、「原始時代 人が火を発見し 欲究を満たす方法を学んだように、人類は今学んでいます 第二の火「原子」の膨大な力を 未来の世代のためにどう利用できるかを」のナレーション付きで、アメリカから運ばれてくるアイソトープ(放射性同位元素)が農業、医療、産業などに応用されている様子が描かれていた。フツイ氏の報告書によれば、博覧会の1年前から中国、四国地方の各地で1856回のフィルム上映会が開かれ、338,402人が見ていたという。原子力平和利用のメディア戦略を専門とする愛媛大学法文学部土屋由香教授は、こうした映画が原爆と強く結びついていた原子力のイメージを大きく変える役割を果たしたと分析し、「映画という媒体は人々の頭の中に、『原子力の軍事利用と平和利用が全く別のものだ』という、一つは悪くて一つは良いのだという単純な善悪二分法的な線引きを人々の頭の中で行ったという意味では、原子力平和利用映画は非常に効果的だったのではないか」語っている。
 広島での博覧会開幕の2ヶ月前、会場として原爆資料館を使うことに反対する人々も招いた公開討論会が開かれた。原爆で両親を亡くした子供たちに里親を探す活動を続けていた山口勇子氏(広島子供を守る会副会長)は、資料館にはご先祖様の魂が展示物とともに眠っており、それを外に運び出すことに納得できないと反対の声をあげた。これに対して藤原武夫広島大学理学部長を初め大学人達が、資料館は神社ではないのだから、人類の未来の繁栄を願う博覧会のために、展示物の置き場所を一時的に移すことに問題はないはずだと説得にあたった。一時間の会議が終わる頃には全員が博覧会を資料館で開くことに合意した。藤原理学部長は広島への研究用原子炉の設置を熱心に主張しており、その原子力に対する姿勢はアメリカ国務省に報告されていた。
 フツイ氏は博覧会開催の1カ月前、原水爆禁止運動のリーダー森瀧市郎氏と対面した。森瀧市郎著「核絶対否定の歩み」によれば、森瀧氏が語気強く「私があなただったらこんなことは絶対しない」と言ったのに対し、フツイ氏も開き直って「私は平和利用、平和利用、平和利用で広島を塗りつぶしてみせます」と応酬して、会談は物別れに終わった。

7.平和利用博覧会開催と原爆資料館のその後
 1956年5月27日、広島で原爆資料館を会場とする原子力平和利用博覧会が開幕した。開門前から100人の来場者が切符売り場に並ぶ盛況ぶりで、初日の午前中だけで3700人の見学者が訪れた。原爆による過酷な被害の実態を訴えていた空間が、原子力の明るい未来で満たされていた。当時最先端の科学技術だった原子力は、人々を魅了する強烈な力を持っていた。中国新聞に入社したばかりの駆け出し記者だった平岡敬元広島市長は、危険物を遠隔操作で扱うマジックハンドの動きに感動し、博覧会が日本人に原子力の夢をかき立て、核被害の恐ろしさを糊塗するのに役立ったのではないかと語っている。6月1日には日本での博覧会100万人目の入場者を迎える盛況で、多くの人が熱気の中で原子力の明るい未来に胸を躍らせた。フツイ氏との会談が物別れに終わった森瀧市郎氏は、博覧会の2ヶ月後に開かれた原水禁世界大会で、それまでの主張を大きく変え、日本被団協 結成宣言『世界へのあいさつ』の中で、「破壊と死滅の方向に行く恐れのある原子力を、人類の幸福と反映の方向に向かわせることこそが、私たちに生きる唯一の願いであります」と述べている。
 USISが各地の博覧会の前後に実施したアンケートをもとした分析によると。原子力の研究を大幅に進めるのが望ましいか答えた人の割合が広島では62%から76%に上昇、この14%もの上昇はこれまで調査した都市の中で最大であった(註:東京は76➝85%、大阪は78➝77%)。博覧会で一時的に姿を変えた原爆資料館へのアメリカの関与はその後も続いた。日本全国を巡回した原子力平和利用博覧会が全て終わった1957年、アメリカは原子力飛行機の模型やマジックハンドなどの展示品を広島市に寄贈、これらの品々は翌年の広島復興大博覧会で使われたあと、原爆資料館で常設展示されることになった。USISの文書には、その狙いが次のように記されていた。「来館者はまず資料館オリジナルの日本の展示品を見て回る。最後に平和利用の展示品を目にする。つまり最初に見た物の印象を、原子力についての前向きな見方で和らげるという配置にする」。こうした原爆による被害と原子力の平和利用が共存する状況は10年近く続いた。しかし資料館本来のあり方を問い直す声は広島市民のあいだからも上がり、1967年5月、平和利用の展示は取り除かれた。『同館はあくまでも広島の悲惨さを訴え、平和の尊さを学ぶ場という性格作りの一歩を踏み出す』、が被爆地広島の人々が打ち出した結論だった。

8.原子力平和利用に浸たされた日本
 アメリカは平和利用博覧会で使用した品々のもう一箇所の寄贈先を、1958年3月に落成した東海村のある茨城県立原子力館に決めていた。1957年8月、東海村の研究用原子炉の運用が始まった。NHK週刊ニュース『遂にともる原子の火』は、「成功です 原子炉に火がついて実験の段階に入り 新しい原子力時代を迎えたのであります」と放送した。USIS文書 『原子力平和利用展示物の寄贈』には、「アメリカ政府がこうした寄贈を茨城県に行うことは、日本における原子力の平和利用を長期的に促進すると思われる」と記されている。1967年1月、福島第一原発建設が開始され、日本での原発の受け入れが本格化して、世界初の被爆国は世界第三位の原発大国へと変貌して行った。原水禁世界大会で核の平和利用を支持すると宣言した森瀧市郎氏(1994没)はその後考えを改め、全ての核を否定する立場に立った。そして核の平和利用を一旦は認めてしまったことを生涯くやみ続けた。
 2011年3月11日の東日本大震災で引き起こされた原発事故をきっかけに、広島で開かれた原子力平和利用博覧会とは何だったのかを改めて問い直す人々がいる。原爆ドームの隣に生家のあった田邊雅章さん(76)「あの時は本気でやはり平和利用というものに期待し夢をかけ、自分の生きる希望に直接結びつけた。(中略)それが完全に裏切られた」。元広島市長平岡敬さん(86)「まあ福島で経験したらね、やっぱりもうこれは人間の能力を超えた事態ですね。(中略)私たちに平和利用という嘘を振りまいてそれの役割を結構果たしたな」。

9.エピローグ
 1957年4月、フツイ一家は任期を終えてワシントンに帰った。離任の直前に夫婦で行った琴と尺八の発表会には、多くの広島市民が来場し、別れを惜しんだ。フツイ氏は帰国後ブラジルやパキスタン、ナイジェリアなどに駐在、2000年に82歳でこの世を去った。彼が広島滞在中に残した記録の多くは、アメリカ政府に提出した公文書であったが、個人の記録として残した手記には博覧会の開催に至る経緯が詳細に記されていた。その手記に締めくくりに、原子力の平和利用を冷めた目で見つめた地元新聞のコラム(中国新聞「時評」1956年6月7日夕刊)が引用されていた。コラムのタイトルは『奴隷の手と現代戦』、博覧会で人気を集めたマジックハンドから見えてくる人間と原子力の関係について、以下のように考察したものであった。
 「広島の原子力利用博覧会でマジックハンドという機械が人気を集めている。この奴隷の手の動きを見ていると、様々なことが思い浮かぶ。広島に落とされた原爆の組立にもこのような奴隷の手が使われたことだろう。いま米ソが公然とまたは秘密にやっている水爆実験にも、このような奴隷の手がたくさん使われていることだろう。奴隷の手とはいかにもよく名づけた。奴隷の手自身は心を持たないから主人の手の命ずるままに原爆や水爆も作れば、放射性物質の平和利用の諸工作もする。奴隷の手は日本で実験用原子炉を造る時も必要だし、その原子炉で医学や農業や産業用に放射性同位元素を作りだすときもこれが必要である。人間は機械や物質を駆使しそれに対して誇らしくも奴隷の手と名づけたが、人間は果たして機械や物質を完全に奴隷化しているだろうか」。
 ファリダさんは、「マジックハンドではこちら側に主人の手があり、向こう側に奴隷の手がある。これと同じ考え方が誰かに核のボタンを押させています。まるで奴隷の手のようです。人類にこれ以上奴隷の手は必要ない。自分は直接手を下していないから無関係だという考えをなくすことが大事だ。これが父の最後のメッセージなのです」と語っている。

考 察
 番組を視聴して、広島、長崎、ビキニ環礁での3度の被爆を体験した日本が、なぜ赤子の手をひねるように原子力平和利用を受容れてしまったか分かるような気がした。絶対悪と信じていた原爆とは別に、原子力には平和利用という魅力的可能性があることを見せつけられて、それまでの絶望から救われるように受け止められたのではなかろうか。科学技術が生み出したものには二面性がある。大気中の窒素固定は窒素肥料の増産と同時に爆薬の大量生産を可能にした。。DDT、PCB、アスベスト、フロンなどは夢の物質と重宝がられた後から、重大な危険物であることが分かってきた。原子力は大量破壊兵器として開発されたものに、平和利用への道が後から開けた全く逆の展開であった。森瀧氏の残した日記に、当時原子力では廃棄物の問題があると示唆されているが、当時は殆ど問題にされなかったらしい。原子力平和利用を推進した人々は、そのことに気付いていなかったか、いずれ科学技術の進歩が解決してくれると将来に丸投げしていたのであろう。想定外の過酷事故など全く考慮されていなかったに違いない。原発から出る高レベル放射性廃棄物処分は未だに目途が立っておらず、日本は福島の事故による汚染の除染作業で出た指定廃棄物の処分でさえ四苦八苦の状況にある。そのような状況にありながら、川内原発をはじめ幾つかの原発の再稼働が進められようとしているのは由々しい事態である。過酷事故の当事国である日本が、目先の経済性を重視して原発依存を続けることは間違いである。
 おまけに日本は石油ショックの後から、使用済核燃料からプルトニウムを抽出する核燃料サイクルに取り掛かってきた。アメリカをはじめ多くの欧米諸国が、安全性と経済性の観点から断念したものである。表向きは国内調達が困難なウランの節約と廃棄物の再利用ながら、軍事転用な可能なプルトニウムを取り出す工程である。青森県六ケ所村の再処理工場やプルトニウムを燃料とする高速増殖炉「もんじゅ」はトラブル続きで稼働できていない。その間に茨城県東海村の小規模再処理施設や英仏への外注によって備蓄されたプルトニウムは長崎型原発5500発に相当する47トンに及んでいる。日本はNPT(核兵器不拡散条約)に参加し、当面核兵器を保有しない政策を取りながら、核兵器を何時でも製造できるポテンシャルを維持しているのは、国内に隠然とある日本の核武装の目論みに沿ったものである。原子力の平和利用に留まらず、軍事利用への道を開くことになりかねず、看過できない問題である。最近この問題に焦点を当てて取り組む、「非核の政府を求める会」という団体があることを知った。また、原子力を含めて地球上の様々な問題に倫理的に切り込む「地球システム倫理学会」という団体もある。御関心のある方はそれぞれのホームページにアクセスしていただきたい。
 広島での原子力平和利用容認は、日本国内のみならず世界中に原子力平和利用を広めようというアメリカの国家戦略の大きな成果であった。そこでフツイ氏が有能な外交官として果たした役割は大きなものであった。平和を愛し、日米間で文化交流の橋を架けることを願って着任したフツイ氏が、日本の原発大国化に加担してしまったのは皮肉なことである。番組の中で度々登場したファリダさんの証言には、父親に対する深い愛情と尊敬が感じられた。

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