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北京の55日(55 DAYS AT PEKING)

2008年05月20日 10時50分36秒 | インポート

北京の55日 デジタルニューマスター版


55 TAGE IN PEKING(ドイツ語吹き替えの予告編)

LES 55 JOURS DE PÉKIN - 55 DAYS AT PEKING(フランス語吹き替え)

55 días en Pekín(スペイン語吹き替え)

55 Days At Peking(英語版冒頭部)
55 Days At Peking(英語版結末部)

北京五輪の17日
(108年後の北京の55日)


ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ
時は弐千八年 北京五輪の17日 肉弾相撃つ 警護団事件
連合軍を 向こうにまわし 決戦挑む 暴徒の族
フランス イギリス イタリア ロシア 更に加えて 精鋭日本
華の北京 今や死の街

ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ
胡錦濤の 号令一下 連合軍に 突撃かける
死に物狂いの 支那国兵士 喚声市街に 轟き渡り
ドラム ラッパもまた勇ましい
華の北京 今や火の海

ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ

北清事変(義和団の乱)
明治33(1900)年04月05日~明治34(1901)年09月07日


 わずか108年前(煩悩の数)、支那は清朝末期の阿片、賄賂、汚職、賭博、乱脈政治など宦官による堕落腐敗の極にあった。19世紀後半からの欧米列強の侵略により、清朝の威信は失墜し、人心は動揺し、守旧、進歩の二派に分かれ抗争していた。
 列強、とりわけ、耶蘇教の横暴に対する反感と生活不安から、「仇教滅洋」「扶清滅洋」を掲げ、孫悟空や諸葛亮、趙雲といった「西遊記」、「三国志演義」の登場人物を神と祀る義和団が野火のように勢力を拡大し、外国勢力と耶蘇教教徒を襲撃し始めた。清国政府は鎮圧の約束を履行せず、さらに06月11日には日本公使館書記生杉山彬、06月20日にはドイツ公使ケットレルが殺害され、もはや軍事行動による解決しか術はなくなった。ここにおいて、西太后がこの暴乱を支持し、欧米列国に宣戦布告したため、国家間戦争となった。
 当初、日本は、列強の共同軍事作戦には消極的だったが、度重なる英国等の出兵要請を受けたため、司法省通訳から選抜され軍職に就き、単騎シベリア横断の壮挙をもって知られる福島安正少将を司令官として派遣した。英・独・仏・露・支那語を自在に駆使し、指揮官会議を終始リードした。福島少将の語学の堪能さに各国指揮官は唖然としたという。第5師団(山口素臣中将)8000名を主力とする日本軍は、北京攻撃時、英・米・日・露・独・仏・伊・墺の8ケ国連合軍1万9千名の主力戦力(1万3千名)であった。

北京籠城 明治33(1900)年06月20日~08月14日

 映画「北京の55日」は、アメリカ軍将校チャールトン・ヘストンが主役で活躍する、文明(西欧)と野蛮(支那)という西欧中華思想に基づいたB級映画である。同じ、チャールトン・ヘストン主演の猿の惑星もよく似かよっている。全米ライフル協会の会長でもあったチャールトン・ヘストンは先月05日に死んだばかりだが、主演作品に共通するのは、脂ぎった毛唐が大活躍で、画面から体臭が漂ってきそうだ。

 ところが、北清事変の真の主役は、映画「北京の55日」の中では、伊丹十三が演じている、コロネル・シバこと、柴五郎中佐である。籠城組の全体的な指揮官はイギリス公使クロード・マクドナルドだが、籠城戦に当たり実質上の総指揮を取ったのは最先任佐官の柴五郎である。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付陸軍武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英・仏・支那語に精通する柴中佐は、間に立って相互理解に大きな役割を果たした。また、柴中佐は参謀本部の命により北京城とその周辺の兵要地誌を調べ上げており、陸軍屈指の支那通の将校であった。清国についての広範な知識を持ち、多くの清国人諜者を使っての情報収集など柴中佐なしには籠城作戦は不可能であった。この活躍は世界各国から賞賛され、事変後は各国政府から勲章を授与された。コロネル・シバの名は世界的に知られることになった。柴五郎は、明治期の政治小説『佳人之奇遇』で有名な東海散士こと柴四郎の弟にあたる。

 激戦となった粛親王府には連日連夜、数百倍の清国軍が猛攻を繰り返すのに対して、日本軍は義勇兵を入れて50数名しか居なかった。(他に清国難民の義勇兵30 名)。柴中佐は、多国籍軍の指揮官として55日間を勇猛に戦い抜き規律正しく行動した。柴中佐の武士道精神に籠城した欧米人がいかに感嘆し絶賛し、中佐に限りない畏敬と信頼の念を抱いた。英国公使館で婦女子が囚われたときも100名の敵兵に10名で斬りこみ救出した。婦女子が尊敬する本物の武士である。

 もし、粛親王府の防御が敗れたなら公使館区域は死命を制され、各国守備隊は全滅。婦女は陵辱を受け、居留民は残らず惨殺されたのは間違いない。柴中佐と日本軍の奮戦がなければ、悲惨な運命が不可避だったからこそ、籠城中の欧米人は事実上の指揮官の柴中佐を賞賛したのである。

ピーターフレミング 「北京籠城」
戦略上の最重要地である王府で日本兵が守備の背骨であり頭脳だった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中どの仕官よりも優秀で経験も豊かであったばかりでなく誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人はほとんど居なかったがこの籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範としてみんなの目に映るようになった。日本人の勇気と信頼性そして明朗さは籠城者一同の賞賛の的になった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも、間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。


ロンドンタイムス社説
籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。


 柴五郎という名に聞き覚えがあるなと思ったら、ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書という自伝を読んだ事があった。少年時代の回想と怨み言ばかりで、赫々たる武勲など一切出てこない。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かれるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。

 俘虜として東京に送られ、会津藩は67万石は下北半島の恐山山麓に斗南藩3万石に移封される。「藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託」したのだが、新領地は実高7千石。柴五郎とその父、兄嫁は極寒の下北半島で極貧の冬を過ごした。
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の歳月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれなり。

 戊辰戦争で敗軍の惨たらしさを知り、官軍の略奪暴行を少年期に味わってきた柴中佐は、略奪暴行を許さなかった。北京落城後、現地の治安維持を担当し、略奪等違法行為をはたらいた連合国兵士は即座に逮捕して、それぞれの軍にどんどん突き出したという。その柴五郎の帰国が決まった時、北京市民はこぞって別れを惜しんだという。
 この事変中、混乱に乗じた略奪や暴行は目に余るものがあり、各国の軍が略奪行為を行ったという。特に酷かったのはロシア軍と清国軍の敗残兵で、混乱に乗じての略奪・残虐行為は手がつけられなかった。イギリスのタイムズ紙の記者は「ロシアは価値ある物は全て包装し、ラベルを貼りつけた。」と報告している。イギリス軍も略奪を行い、その品物を公使館の中でオークションにかけていた。
 紫禁城を略奪から防ぐため日本軍は東華門、神武門、西華門を米軍は南門の守備にあたり、規律厳正な日本軍管轄区域には、保護を求めて各地から大勢の支那人が集まった。略奪行為、残虐行為を行わなかった日本軍管轄区域は安全だという噂が広がり、大勢の北京市民が日本軍管轄区域に逃げ込んできたのだった。日本軍に接収されていれば他国の軍隊に略奪されないという事で、多くの民家やテントには日の丸が掲げられていた。日本軍にしてみれば接収などしていない民家に日の丸が掲げられては日本の信用に関わるという事で、日の丸を妄りに掲げないようにという通達を出したほどだった。
 海軍陸戦隊は太沽砲台奪還の戦闘で奮戦、陸軍部隊も北京公使館救援作戦で勇敢さと軍紀の厳正さを示し、列国のみならず敵側の清国からも賞賛を得た。東洋の一小国日本の強さを世界に認識させる結果となり、柴中佐と共に籠城していたマクドナルドイギリス公使が推薦し、日英同盟を結ぶに至った。柴中佐の率いる日本軍の規律正しく勇敢な姿と中佐の統率力に感銘したからだと言われる。
 北京籠城を余儀なくされた外国人は925名、戦死者は20名。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、連合国の中で最も死者率が高かった。この事変を通じても、最も多くの死傷者を出したのは日本で、死者349名、負傷者933名だった。
 8ケ国連合軍による北京占領後、団匪(義和団)の討伐作戦があったが、実際の軍事活動期間は短かったが、多数国による共議のため、各国の調整に長時間要し、辛丑条約として講和の成立を見たのは、翌明治34(1901)年09月07日であった。

アムール河の虐殺 明治33(1900)年06月01日

 清国兵がロシア領ブラゴエシチェンスクを襲撃した報復に、ロシアは同地の清国人を捕縛し、老若男女5000人あまりを黒竜江(アムール河)で虐殺した。この惨劇は清国人のみならず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行為を糾弾する声が高まった。
 義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは笑みを浮かべ、「満州を占領する口実ができた。満州を第二のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもりだ。」とウィッテ蔵相に語り、ロシアは東清鉄道の防衛を口実にして大軍を送り込み、ついには満州全土を占領した。皇帝ニコライ2世は、満州を占領後は更に朝鮮の占領を欲しており、ロシアの侵略的野心は止むことはなかった。これが、日露戦争に繋がっている。

元歌の殺人犯の克美しげるが歌った日本語版(エイトマンのB面)とThe Brothers Fourの原曲。
55 DAYS AT PEKING

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom-bom

The year was nineteen-hundred
T'is worth remembering
The men who lived through
Fifty-five days at Peking

T'was called the Boxer Insurrection
A bloody oriental war
Against all nations of the diplomatic corps

The flags of France and Britain
How they fluttered in the breeze
The Italian and the Russian
And the flag of the Japanese

Then came the sound of bugles
The rolling drums of fury
And the streets of Peking
Were as empty as a tomb

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom-bom

The Empress of all China
Gave the signal to begin
Let the foreign devils
Be driven from Peking

They stormed the French legation
They attacked with shot and shell
And they came in blood red blouses
Screaming Shashou as they fell

The drums have long been muffled
The bugles cease to ring
But through the ages
You can hear them echoing

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Fifty-five days at Peking

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Fifty-five days at Peking

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom.....


おフランス(aux France) その1

2008年05月13日 16時29分41秒 | インポート

4月19日、支那、武漢での反仏デモで見られたフランス国旗。同じ文言をプラカードなどでも使用。

Jeanne d'arc= prostitute ジャンヌ・ダルク=売春婦
Napoléon= pervert(綴りが間違い、正しくはpervers)
ナポレオン=性的異常者(変態)
France=Nazi フランス=ナチ
Free Corsica!!! コルシカに自由を(Corsicaはイタリア語、英語。コルシカ語としてなら、コルシガ)、フランス語で書くべきで、La Corse Libre!!!
 フランスに名を残した、ジャンヌ・ダルクとナポレオンを侮辱し、それも全く謂われもなく「お前の母ちゃんデベソ」という児戯にも劣る暴言を連ね、共産ファシズム支那が、フランスをナチ呼ばわりし、前に侮辱したナポレオンはコルシカ島出身なのに、コルシカに自由をと書き、チベットの自由を否定する2重基準。下劣にして愚劣すぎる。


 エアフランスの接客に腹を立て、フランス批判を始めたが、支那五輪の暴虐支那人の逆恨みの反仏デモが始まり、あまりの下劣さに、こんな輩と同類に見られるのは避けたいと、今まで順延してきた。
 ところが、9日、国連人権委員会に、南鮮、北鮮、オランダという悪名高いヤクザの国と並んで、フランスが、旧日本軍による戦時中の従軍慰安婦の問題(ただの売春婦)を提起するに及んで、西欧の中華主義国、フランスに対し、正当な批判を再開する。

 植民地(フランスは海外県と称している。)からの移民の暴動が絶えず、公務員が威張りストが頻発する社会主義国、ハンガリーからの移民2世がフランス第5共和政第6代大統領になれ、戦争に負けながら、他人の褌(米英)で、戦勝国になり、国連分担金が日本の3分の1~4分の1で、安保理常任理事国としてデカイ面をして南太平洋の海外県で現地人を弾圧し核実験を行う、文化も歴史もない国がフランスである。

 TGVに乗ればよくわかる。地平線まで畑の中の一本道を走る。山あり谷あり、トンネルに海岸線、地震対策、季節によっては積雪対策を施している新幹線とは出来が違う。切符を買うとき、英語を使ったら、「un billet」、「テージェヴェ」とフランス語に直してくれた。コンポステを忘れて、車掌に見つかって「パーハドン」とフランス語訛りで言ったら許してくれた。フランス語を喋るかどうかで文化水準を決める、西欧の中華主義国、それがフランス。

 パリというのは、路上の敷石の上に土民が糞尿を捨て、近くの農民が拾いに来るという凄まじい臭気がする都市で、糞を踏まないためハイヒールが、臭いを誤魔化すため香水が発明された。不衛生なため、ペストが蔓延。人口が何と3分の1に大激減。これを教訓にして、下水道が整備された。近代17世紀には、魔女狩り。ギロチンの公開処刑で有名なコンコルド広場には、エジプトから持ってきた(一応、贈られたことになっている)オベリスクが建っている。

<つい最近できたばかりのフランス(その2)>(2008.3.17公開)によれば、
 実は、フランスの風景の多くはエッフェル塔(1889年建立)より新しい。マラリア蚊だらけの沼が干拓されヒースが生い茂る土地や裸の山に木が植えられた。ピレネー山脈のスペイン側の風景こそ、かつてのフランスの風景で、フランスの絵のように美しい地名の多くは観光業者や地図制作者によって偽装されたものだ。

 カゴ(cagot)という、中世の癩病患者、サラセン侵略者の子孫とも言われる「呪われた人種」は、何世紀にもわたって南部フランス全域で迫害されてきた。20世紀になってからでさえ、その迫害は一部の地方で続いた。

 それはフランスが変わったということであって、フランスそのものは昔から存在していたのではないか、と思う者がいるかもしれないが、それはとんだ心得違いだ。ドゴール(Charles de Gaulle)は、246種類ものチーズがあるフランスを統治することの困難さを嘆いたが、これは大昔からのフランスの役人共通の嘆きなのだ。フランスはその歴史の大部分の間、各地方の寄せ木細工でしかなかった。19世紀の中頃までフランス全体を網羅するまともな地図は存在しなかったし、共通語に至っては全く存在しなかった。

 自転車が普及するまでは、フランスの大部分の人々にとって、半径15マイル以内の地域における、小さい納屋に収容できるくらいの数の人、が世界のすべて。ピレネー地方へ旅行した人が1837年に、「金星と土星が異なるように、一つ一つの谷が、隣の世界とは異なる小世界を形作っている。一つ一つの村が、一つの氏族(clan)、独自の形態の郷土愛を持つ一種の国家、の趣がある。それぞれが異なった様相を呈し、異なった意見、偏見、慣習を持っている。」と記している。

 フランス全土が、地図、道路、鉄道、電信によって結びつけられたのは、20世紀になってからだ。フランス人全体が同じ日に同じ出来事が起こったことを知るという経験をしたのは、1914年8月の第1次世界大戦勃発の時が初めて。19世紀にフランスで55の主要方言と数百の準方言が確認された。19世紀には兵士や役人は地方に行くとガイドや通訳が必要だった。1880年の段階で、標準フランス語が使えたのは全人口の約5分の1に過ぎなかった。この標準フランス語なるものは、昔パリのフランス語と呼ばれていた代物。1789年のフランス革命の頃は、全人口の11%にあたる300万人しか、このフランス語が喋れなかった。1863年に至っても、フランス軍の兵士の4分の1は地方語しかできなかった。第1次世界大戦の時、ブルターニュ人(Bretons= Brittany人。ケルト系の言語を用いていた)はフランス語ができなかったため、ドイツ兵と間違われてフランス兵によって射殺された。

 フランスなる国民国家が成立したのは、19世紀末の都市への人口流入、自転車の普及、第1次世界大戦の結果であって、それまでは、フランスという国家はあったが、内実は各地方の寄せ木細工でしかなかった。

 ドイツやイタリアは19世紀末に初めて統一国民国家になったが、この両国に比べてはるかに先行していたという印象のあるフランスは実質的に統一国民国家になったのは19世紀末から20世紀初頭。イギリスや日本にはるかに遅れている。


暴虐支那のチベット侵略

2008年04月15日 12時24分12秒 | インポート

中国はいかにチベットを侵略したか

「初めは友好的に振る舞い、そのうち暴力的になる」支那の侵略の実態、既成事実を周到に積み重ね、不条理を条理とする…。多くの民衆が死んでゆく中、不気味な力に果敢に立ち向かったチベットの戦士たちが伝える警告の書。

〔最も参考になったカスタマーレビュー〕
 支那政府により120万人以上のチベット人が殺戮され、女性は強姦され、6000もの仏教寺院のほとんどすべてが破壊され、僧と尼僧が衆目の中で交わることを強制され、幼児も赤児も容赦なく殺され、エトセトラ、エトセトラ、悪行をすべて語りつくすことはとてもできない。これがチベット「自治区」誕生の真相であることがわかる。
 支那は大量の支那人をチベットに送り込み、チベット人の土地をとりあげ、チベット語を禁じ、チベット民族の抹殺と文化の消滅を図っている。広大なチベットの領土は、資源の奪取と核兵器の実験場と化している。これは現在も進行中のホロコーストである。
 開国まもないインド首相ネールも、米国のインド大使で経済学者のガルブレイスも悪業を見てみぬふりした。日本のマスコミも含めて、世界はこのような侵略にいまもほとんど沈黙している。


 「英語女」以降、少しではあるが、毎日アクセスがあるので、続編「フランス語女」を予定していたのだが、支那五輪から正式種目の「チベット侵略抗議デモ障害隠し玉松明リレー」が始まってしまい、フランス語女の正当な批判が支那擁護と受け取られかねない事態となってしまった。そこで、とりあえずお蔵入りになっている。「暫定」税率復活までには、本来の軌道に戻る予定である。
 チベットは、古代から独立国家であったが、清の支配を受け、清の滅亡後、再び独立国家に戻った。1950年、支那人民解放軍による侵略を受け、チベットは軍事制圧された。その際、人民解放軍は、夥しい規模の破壊とともに、チベット族の大量虐殺を行った。支那では、「解放」と呼んでいる。【超入門 チベット問題】が、極めて端的に状況を説明しているようだ。
 実は、チペットについては以前より知ってはいたが、チベットに行きたいと思ったことがない。それは、チベットが現在支那領だからだ。朝鮮・支那・露西亜は、禁忌の地として踏み入れないようにしている。ただ、香港はストップオーバーで2度、パキスタン国境のクンジュラーブ峠から、支那が主張する国境を数mほど超えた事はある。インドでネパール国境近くまでは行ったが、ネパールにすら入ってはいない。
 儲かれば、チベットなどどうでも良いと、支那に媚びるJOC協賛企業北京五輪協賛企業の共産企業にご挨拶しておこう。個人的には、ここにある企業のうち、NTTが固定電話、VISAカードの会員という以外は潰れてしまってもらっても一向に構わない。

英語女

2008年04月04日 12時13分53秒 | インポート

女は愛でバカになる

 国際化、グローバル化とやらで、英語、特に英会話が突出して最重要視され、TOEIC(トーイック)やTOEFL(トーフル)の点数が、就職や昇進の足切りに使われている。これはこれで、全く意味がない訳ではないが、TOEFL(トーフル)は、北米が受け入れる留学生の英語力の試験に過ぎない。
 そもそも、他の専門科目の道具として英語があるだけで、英語力、それも会話が目的ではない。あの夏目漱石でさえ、イギリス文学を極めようとロンドンの地を踏んで、一生懸命に勉励して精神に異常を来してしまった。漱石でさえこういう状態なのだから、並みの英文科卒程度が、アングロ・サクソンの国で学部はともかく学位を取るというのは並大抵のことではない。日本語を学んだ外国人が源氏物語で学位を取るという状況に置き換えて考えてみればよくわかる。結局、語学の留学生は、語学学校に行ったり、外国人のための英語教育だとか、笑い噺のようだが、外国で日本文学や日本史だとかを専攻して日本に帰国する。あるいは、田嶋陽子のように、「女性学」とかに感染(それも生半可に)して帰国するのである。田嶋陽子は、イギリスを鼻にかけているが、大学の中でも低カーストの語学教員に過ぎない。その域にも達せず、語学学校にも行かず、ブラブラ滞在して形だけ「留学」の不良日本人が数多く米英に巣くっているのだが。
 逆に、毛唐(コーカソイド)が日本で語学教員になるのは、極めて簡単で、大卒程度で(あるいはそれ以下でも)、どっかの田舎英語(訛りだらけのオーストコリア語でも)を大学~英会話学校~中学高校のティーチング・アシスタント(TA)など簡単に職を得ることができる。
 留学して愛国心に目覚める語学教員もかなりいるのだが、こういった英語を鼻にかける英語被れは女に多い。売国奴・松井やよりも、外語大の英文科卒である。本稿では、こういった人種を「英語女」と呼んでいる。
英語が得意な日本人
その女性は別に変な人ではなかった。それほど親しいわけではない知り合いといった日本人男性と二人で入ってきたが、その瞬間から私はイヤーな感じがした。カウンターの私のすぐ隣にドシンと腰を下ろす。隣の人間との間で「自分の空間」を加減する気配が感じられない。そしてきわめて流暢な英語でカウンターの前にいる料理人に話し始めた。まず注文だが、それも一言や二言では終わらない。「ペラペラしゃべれる」というのはこういうことなのだろう。しかし私なら、仮に外国語がよくできても注文を出すだけにこれだけの単語は費やさない。日本語でならなおさら。
 しかしすでにその段階で料理人には通じていなかった。ここの料理人たちの多くは英語はそれほど話せないと思う。第一彼女の英語はこの辺で普通に使われる英語とは違う。アメリカの英語のようだった。次に、さらに流暢かつ高速の英語で料理人に向かって「ミスターササキ」(ロータスレストランのサウジ)について質問をし始めた。もちろん通じるわけがない。
 この女性は一緒に来た日本人男性とは普通の日本語で会話していた。英語はとてもよくできていたので、NOVAで仕込んだとかでなくて、アメリカに長く住んでいたかアメリカの学校に行った人なのだろう。しかし、自分の言葉がいくらすばらしく模範的であるとしても、現に通じていないということはすぐにわかるはずではないだろうか。どうして彼女はもう少し「別の英語」で話してみようとはしないのだろうか。
 もしも彼女が、(私が話すような)日本で普通に教わる学校英語でしゃべっていたら、彼らにも通じたかもしれない。本当を言うと、日本語と同じ順に単語を並べるだけでもここではよく通じるのだが・・・・。それに、通じていないとわかったなら、なぜシャベリの速度だけでも少し落とそうとしないのだろうか。立派な語法と発音を維持したままでも速度を落とすことはできるはずだろう。
 しばらくしてからこの女性は、ミルクティーを飲みながら本を読んでいた私の横で、私のすぐ脇のカウンターに叩きつけるように自分の荷物を「ドン」と置いた。怒っているわけでも嫌がらせをしているわけでもなく、それが彼女の「文化」でありごく自然な普通の振る舞いのようであった。
 私はその瞬間に店を出ることにした。「こうなっちゃうともう日本人とはいえないね」と思いながら。英語文化というのはわれわれにとって危険な文化だと思う。日本人を「得体の知れない東洋人」(=世界では三流四流の存在、もちろんネパール人以下)に変えてしまう力を持っているように見える。
 ネパール人やインド人は英語がいくらよくできてもネパール人たることまたはインド人たることをやめない。日本人は特にこの種の感化に弱いようである。

 文部科学省の失策は、初等中等教育の「ゆとりの教育」だけではない。大学の独法化と並び、1983年(昭和58年)、高等教育において、中曽根内閣の「留学生受入れ10万人計画」や外人教員、女性教員優先がある。留学生10万人は10年後の1993年(平成15年)に達成してしまった。その結果どうなったのか、8割が特定亜細亜(支那・北下朝鮮)で、犯罪が増加、治安が悪化、若年労働者の就職先がなくニートと呼ばれるカーストが出現、不法就労、不法滞在、伝統文化の衰退、日本の美学の破壊、そしてスパイや反日工作員の侵入などを惹き起こした。例えば、上海の俳優で、支那語の語学教員の葉千栄や上海の語学大学卒の莫邦富などを思い浮かべれば良い。田嶋陽子も葉千栄もNHKテレビの語学講師をしていたのは偶然ではない。
 支那はえげつないが、アメリカも負けてはいない。フルブライトで、左翼を留学させて慰撫し、逆にスパイや工作員として、日本に次々送り込んだ。留学生というのは、どの国も国益のために受け入れているのだが、文部科学省は違うようで、日本を破壊するために行っている。ゆとりの教育の責任者(戦犯)であり、最後の文部事務次官で、初代文部科学事務次官の小野元之は、毎日新聞に下の記事を載せている。
 大学では過激な学生運動をしていて、「権力を倒すには暴力が必要である」と本気で考え、デモもした。しかし、本当に世の中を変えるには「内部に入ってやらねば」と公務員になりました。

 文部科学省は、留学生30万人計画を先ほど打ち上げた。30万人の根拠は現在の高等教育機関の学生総数の10分の1。つまり、大学生の10人に1人は留学生にするというのだ。10分の1もなぜ引き受けるのかというと、ヨーロッパの水準に合わせたのだそうだ。特急列車で3時間で別の国のヨーロッパに数値だけを合わせる愚。天下り機関や省益のために、国を売る行為に他ならない。

小和田雅子 醜悪なるもの

2008年04月03日 16時32分27秒 | インポート

おめでとう皇太子さま・雅子さま―愛子さまお誕生記念写真集

 宮内庁の皇太子と雅子の日程を見てみると、雅子は、コーカソイド(ただし、アラブ系を除く)の大使や来賓とは会っているのに、他人種の大使や来賓とは会っていない。香淳皇后(昭和天皇妃)の葬儀は欠席し、自分の母方の祖父の江頭豊の葬儀には、皇太子に愛子ともども3日も参列した。事実だけを連ねるだけで、その醜悪さに反吐が出る。
 母方の祖父、江頭豊(えがしらゆたか)は、江頭安太郎海軍中将の3男で、長男は隆、その長男が、江藤淳こと江頭淳夫(えがしらあつお)で甥にあたる。その甥は、江頭家を佐賀藩主鍋島家の手明鑓(てあきやり)という身分の下級藩士と推測しているが、史料や系図が一切なく、賤しい出自であると考えられる。
 佐賀鍋島藩と言えば、藩校での成績で、家禄を減らすという歪な教育偏重を行った藩として知られる。「佐賀んもんの通った後はペンペン草も生えん。」と謂われ、平野しかないため、資源がなく、雑草1本でも拾って行って肥料にするほど吝嗇で、現在でも、車を合流させないなど、オランダ(インドネシアを徹底的に搾取し、それまで低かったオランダ人の身長が高くなった。独立にあたって金を取った。)に酷似している。この風土は、江藤新平(佐賀の乱)、牟田口廉也(盧溝橋事件独断専行、インパール作戦)など、試験の成績は良いかもしれないが、周囲や国家に百害をもたらした悪鬼を輩出している。詳細は調べていただければ良いが、独りよがりで意地汚く、とにかく、潔くない。出身者には「鬼畜」と呼ばれる人材が多い。
 母方の祖父、江頭豊は、日本興業銀行から、水俣病を引き起こしたチッソに専務として入った。社長時代、水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し続け、患者や家族に謝罪はしても補償に応じず、悪質なデマを流し、患者や家族を冒瀆し続けた。会長時代の1972年1月7日、千葉県市原市のチッソ石油化学五井工場で、警備員(を装った暴力団員)ら約200人に、自主交渉派の被害者ら15人を集団で襲わせた。「ライフ」誌などに水俣病の現実を発表し続け、「MINAMATA」を世界に知らしめた写真家、ユージン・スミス(53)と妻のアイリーン・美緒子・スミス(21)が同行していたが、この江頭豊の意を汲む暴力団にカメラを壊され脊椎を折られ、片目失明の重症を負い、アイリーン・美緒子・スミスは強姦された。ユージン・スミスは、時間とエネルギーを写真に向けるため告訴せず、アイリーン・美緒子・スミスと離婚後の1978年10月、アメリカで貧困生活の中、後遺症が元でスーパーマーケットで発作を起こし死亡。1999年、ユージン・スミスの娘も14歳で強姦されている。江頭豊は、その後も、相談役としてチッソに君臨した正しく鬼畜である。
 こんな鬼畜・江頭豊の孫娘達の幸せそうな写真「小和田姉妹」と、ユージン・スミスが撮影した、15歳の胎児性水俣病の悲惨な「入浴する智子と母」(21歳で死亡)を見比べて見るが良い。これだけでも、鬼畜の孫娘、雅子は幸せにはなってはならないと思う。
 江頭豊の地所(東京都目黒区南一丁目)に、雅子の実家はある。父小和田恆(ひさし)は、実質入り婿である。この小和田家の血筋もかなり怪しい。なりすまし説(朝鮮人疑惑)の根拠に、父方の祖父、毅夫と父、恆は、村上から新潟に墓を移した際、曽々祖父、曽々々祖父の墓も移さず、村上来訪の際も墓参もしなかったと言われる出来事がある。小和田恆は、優美子ともども創価学会(大鳳会)との繋がりがある売国奴で、雅子も同様であるそうだ。小和田恆は、収賄疑惑が多く、雅子を差し出さなければ、監獄に収監されていたのは間違いないそうだ。
 売国奴とすれば当然かも知れないが、下劣醜悪極まりない。
さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さないでは、
出張先で夜中「缶切りをもってこい。」と要求があり、持っていくと「その缶切りを試したかい。」と質問があり「試してない。」と答えると、そのままドアを閉めてしまった。

同じく、さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さないでは、
中途退職した二人の外務省OBの生きざま
 外務省を見限って課長を最後に退職したOBに、浅井基文と岡本行夫がいる。しかしこの二人の生きざまはあまりのも好対照である。
 私の六年先輩にあたる浅井基文は、日米安保条約を聖域視する対米従属外交に失望し、中国課長を最後に退職した。その後まもなく『日本外交』を出版し、安保条約に全面的に依存する日本外交の危うさを訴えた。その浅井を、外務省は組織をあげて潰しにかかった。直接、浅井から聞いた話だが、退職した当時の次官であった小和田恒は、「今後もし外務省に弓を引くような真似をすれば、省をあげて潰しにかかる。」と、面と向かって引導を渡したという。若い外務官僚たちもこれに迎合するように、「霞ヶ関に近づけば押し返してやる。」と悪態をついたという。ろくに勉強もせず経験もない駆け出しの若い官僚が、先輩に対しここまで品のない言動をとってしまうところに、外務省の質の低下を感じる。

防衛省OB太田述正ブログでは、
私は雅子さまとは面識がないのですが、防衛庁勤務時代の1981年に米国出張した折、外務省に本籍を置いたまま一時ハーバード大学の国際法の客員教授をされていた小和田恆氏に同大学の同氏の研究室でお目にかかったことがあります。
 当時防衛庁に出向していた私の部下の外務省キャリアを通じて、東京からアポイントをとったのです。
 その頃私は、日本の安全保障政策がいかに歪んだものであるかを訴える評論活動を匿名で行っており、「諸君」等に発表した拙稿のコピーを渡し、同趣旨の話をしました。
 しかし、小和田氏は、学者としてではなく、防衛庁キャリアを小バカにしている典型的な外務省キャリアとして、そして対米従属を当然視している典型的な外務省キャリアとして私にお接しになられた。
 それはとんだ誤解だと小和田氏はおっしゃるかもしれません。
 しかし、氏が日本の安全保障政策の現状と将来に深刻な危機意識を持っていた私とほんの少しでも共鳴しうるものを持っておられたとすれば、私がそんな印象を抱いたはずがありません。
 最初から露骨に私を小バカにしたような退屈そうな顔つきをされていた小和田氏は、20分ほど経ったか経たないうちに私に退去するよう促されたのですが、ニューヨークに国連から委嘱された仕事で赴く途中、(ボストンではもう一箇所某研究所を訪問しましたが、)わざわざ遠回りしてボストンに寄った私は、その程度で追い出されてたまるか、と氏に食い下がり、更に10分ほどねばってから部屋を退去した記憶があります。

渡辺亮次郎のエッセイ(リンク切れ) では、
国際司法裁判所の判事とやらに選出されたからである。皇太子妃の実父だから昔なら批判ご法度なのだが、最近の世相はだからと言って口さがない。数年前、現職の小田判事を「任期途中で辞めさせてでも、」と、就任工作(小田にとっては辞任工作である)をやらせたのはひどかった。」とか「あんな顔していて、実にカネに汚い。」とか「公私混同がひどい。」とか「嫁入りに持たすタンスをえらく値切られた。」という友人もいた。「そりゃお前、めでたいんだから、お前んちのほうで値切って差し上げたんだろうからいいことをしたな。」とはなったが、ケチで鳴る小和田さんも他人の国際紛争ではけちはしないだろう、で落ち着きかけた。皇室の親戚がケチで何が悪い。ところが「まだわからんぜ。」と付け加える仲間が言った。」何しろ誰も鈴を付けに来ないことをいいことに国連大使に5年も居座って、まだ降りようとはしなかった。後任の佐藤行雄が3年10ヶ月できちっと辞めて、もう東京にいるよ。そんなだから、小和田さん、判事の任期(7年)に果たして何期しがみつくか、興味津々だね。」と、これは後輩外交官だった。結構、口が悪い。

 その娘、雅子、父恆、母優美子の第1子として、昭和38年12月9日誕生。 11歳下に礼子(父恆のコネで国連難民高等弁務官事務所職員)、節子という2人の双子の妹がいる。父恆の赴任先モスクワとニューヨークで過ごし、7歳で帰国。小学校4年からは東京・世田谷区の私立田園調布雙葉学園小学校に編入。高校1年の1学期まで在籍。父恆がアメリカ公使の肩書で、ハーバード大学客員教授を兼任。ボストン郊外のベルモント高校、ハーバード大学(私立)に入った。アメリカの大学は、教員や有力者の子弟は無試験に近い状態で入学できる。パパブッシュの出たエール大学に押し込んだ馬鹿ブッシュを思い出せば良い。まして外国人。卒論も、糠沢和夫経団連理財部長と東京銀行の真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長(いずれも当時)への謝辞が綴られ、父恆のコネで錚々たる面々に代筆させた。
前年の夏休みに小生がご父君(小和田恒・現外務事務次官)からの紹介でお目にかかり。経団連の食堂で昼食を共にさせて頂きながら、石油ショックに対するマクロ・ミクロの対応などについてお話をした。

よほど学歴にコンプレックスがあってのだろう、易しい帰国子女枠で東京大学法学部(経済学部は不合格)に再入学している。在学中に外交官試験で外務省に入省。これは小和田恆のコネの縁故採用だろう。国費(税金)でオックスフォード大学大学院に留学し、修士号も取れずに帰国(税金の無駄使い)しているので、脳味噌の程度がわかる。大鳳会(創価学会)、世界遺産ともいえる皇室の伝統を破壊しているのも理解できてしまうのである。