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おフランス(aux France) その2

2008年05月22日 11時51分06秒 | インポート
調和広場(Place de la Concorde)からルーブル美術館を望む
ジャコバン派政権下、国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、質量保存の法則の発見者ラボアジェ、ギロチンの発明者ギヨチーヌ、マラー、ダントン、ロベスピエールらのジャコバン派も、コンコルド広場のギロチンで処刑され、10ケ月間に2800人とも言われる。

 フランスと言えば、フランスベッドフランス書院フランス被れだろう。この3つのうち、嫌いなのは、フランス被れだけで、残りの2つは嫌いではない。「おフランス(aux France) その1」を書いているので、読者に誤解があるかも知れないが、私はフランスが嫌いではない。嫌いなら4回も10時間も飛行機に乗るという苦行をしてまで行ってはいないし、フランス語を学習し続けてはいない。フランスで、ボラれたり、人種差別を受けたり、強盗に2回も遭いそうになったのだが、あの雰囲気が嫌いではない。泥棒に遭ったのは、唯一マレーシアだけで、それも2回だが、マレーシアが嫌いにはならないのと同じである。
 星広場のアーチ(Arc de triomphe de l'Etoile)から、ルーブル美術館(Musée du Louvre)に向け、親友とカフェやエール・フランスに立ち寄りながら歩いていた。これが、極楽通りにて(aux Champs-Elysées)である。フランス被れの悪口を話ながら歩いていたら、 見ず知らずのフランス被れの日本人の女が非難染みた口調で話しかけてきた。そこで、「ここはフランスだよ(C'est la France.)。」と返したら、黙ってしまった。

 現大統領のニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)は、父がハンガリー人、母がギリシアのユダヤ人の移民2世、去年の大統領選の社会党の対立候補のマリー・セゴレーヌ・ロワイヤル(Marie Ségolène Royal)は植民地のセネガルのダカール出身、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、イタリアのロンバルディアを出自の帰属がころころ変わったコルシガ人の移民で、コルシガ名はナブリオーネ・ブオナパルテ(コルシガ語: Nabulione Buonaparte)である。マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)こと、フランス名:マリー・キュリー(Marie Curie)はポーランド人の移民、イヴ・モンタン(Yves Montand)はイタリア人の移民、ジャン・レノ(Jean Reno、本名:Don Juan Moreno y Jederique Jimenez)は両親がスペインのアンダルシア人で植民地のモロッコのカサブランカ生れの移民2世、頭突きのジネディーヌ・ジダン(Zinedine Yazid Zidane)はアルジェリアのベルベル人の移民2世、日産を食い物にしたカルロス・ゴーンこと、カルロス・ゴーン・ビシャラ(Carlos Ghosn Bichara)は父はレバノン人、母はフランス人の間の子でブラジルのポルト・ベーリョで生まれで、レバノンのベイルートで育っている。ここに挙げた有名人は、生粋のパリッ子どころか、フランス本国者は1人もいない。

一体、フランスとは何なのだろうか? 歴史を振り返る。

 古代、地中海沿岸のギリシャ人都市を除くとケルト人が住む土地で、ローマ人はこの地をガリアと呼んでいた。カエサルは紀元前1世紀に遠征し、共和政ローマの属州とした。5世紀になると、民族大移動が起こり、ゲルマン系西ゴート族が移動。西ローマ帝国が滅び、ゲルマン系フランク族サリー支族がつくったフランク王国が勢力を伸ばした(カロリング朝カール大帝のとき最大版図)。カール大帝(フランス語読み:シャルルマーニュ大帝)の子のルートヴィヒ1世(フランス語読み:ルイ1世)の死後、王国は3つに分割され、そのうち、カール2世(フランス語読み:シャルル2世)が継承した、西フランク王国がフランスである。

 西フランク王国は弱体化し、各地の領主が勢力をもっていた。9世紀には、ヴァイキングとして海賊活動を行うゲルマン系のノルマン族を率いてフランス北岸に侵入したロロに、セーヌ川を遡りパリは攻略された。西フランク王シャルル3世は、慰撫策を取り、ロロにノルマンディーを与え、ノルマンディー公に叙した。10世紀、カロリング家は断絶。西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーが王として選ばれ、カペー朝が成立した。王権を拡大させた。後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝はカペー家の分族である。

 アンジュー伯アンリが、同時に、イングランドの初代国王ヘンリー2世となり、イングランド、ノルマンディ、アキテーヌ、アンジュー、ブルターニュを領有しアンジュー帝国(プランタジネット朝)が成立した。後のランカスター朝、ヨーク朝はプランタジネット朝の最末期に別れた分家である。ジャンヌ・ダルクなどが活躍した百年戦争に負けたイングランドでは、フランス側の領土を失い、イギリスでは薔薇戦争が続いて諸侯は疲弊し没落し、王権は著しく強化され。テューダー朝による絶対君主制が成立した。フランスでは血で血を洗うサン・バルテルミの虐殺(Massacre de la Saint-Barthélemy、聖バーソロミューの虐殺)や宗教戦争が起こったが、統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制が確立した。

 1789年の革命でアンシャン・レジーム(Ancien Regime)は否定されたが、ナポレオンは以前にも増して深く分裂した国家を後世に残した。ブルターニュ(ブルトン語:Breizh)とヴァンデー(Vendée) は歴史家が虐殺と呼ぶほど悲惨な目にあった。例えば、ニーム(Nimes)を中心とするガール(Gard)県は、フランスの北アイルランドとも言うべき場所だが、プロテスタントがカトリック教徒によって虐殺されている。フランスのかなりの地域は山賊によって支配されていたし、大都会のいくつかは事実上独立国家のようなものだった。

 1871年、皇帝であるナポレオン3世が捕虜となり、帝国は瓦解し、03月28日、パリで政府に代わるパリ・コミューンの設立が宣言された。だが、フランス軍はプロイセンの支援を得て05月28日にパリを鎮圧し、万を超える労働者や革命家の粛清が行われた。普仏戦争における屈辱的な敗北とアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorrain)の割譲について責任追及が行われ、第2帝政の廷臣が引き出された。「彼らこそフランスの男たちの、ひいてはフランスそのものの士気を低下させた。」と断罪された。普仏戦争から何十年も経ってもフランスは普仏戦争を引きずっていた。

 1914年に戦争が再び避けられないと考えられるようになると、フランスの人々はまた大破局が繰り返されるのではないかという恐怖にとらわれた。マルヌの戦いは09月の初めの数日間続き、25万人のフランス人が命を落としたが、フランス人は150万人の犠牲者を出すという代償を支払って、第1次世界大戦の間ずっと共和国を存続させた。フランス革命によって生まれた民族主義は、フランスの内外に大小の戦争を何度となく引き起こし、1世紀以上かけてフランスを統一した。

 民族主義は、第1次世界大戦後にオーストリア・ハンガリーという帝国を解体するために米国によって用いられ、結果として欧州の情勢を不安定化した。次いで欧州で共産主義というイデオロギーが生まれた。米国が期待したように民族主義が共産主義への対抗力として機能せず、共産主義は猛威をふるい、民族主義がファシズムへと変貌し、世界中に塗炭の苦しみをもたらした。全てはフランスが根源である。

 18世紀以降、フランスはアジアやアフリカ、南北アメリカに触手を伸ばし、多くの植民地を所有したが、20世紀に入り、日本の大東亜戦争などにより、多くが独立を果たしたが、今なおカリブ海や南太平洋地域に「海外県」と自称する植民地を保有し、原住民を弾圧している。

フランス民族というのは存在するのだろうか?

 歴史的な経緯から、フランスは、ケルト人・ラテン人・ゲルマン系のフランク人など混成民族を中核とする欧州最大の多民族国家である。ブルターニュではケルト系のブルトン人、スペインとの国境付近にはバスク人、アルザス・ロレーヌは元々ドイツ文化圏に属し、コルシガ島もイタリア人に近いコルシガ人が住む。東欧などから多くの移民・政治的難民を受け入れ、近年では、イスラム教徒のアフリカ・中近東からの移民が多い。

 言語は、公用語であるフランス語のほかに、オック語などの幾つものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語、アルザスではドイツ語の方言であるアレマン語の一つのアルザス語、コルシガではコルシガ語が併用されている。

 20世紀になるまで、フランス語はフランスにおいて少数派の言語であり、スタンダール(Stendhal)は1830年代に「フランスの文明化された部分はナント(Nantes)とディジョン(Dijon)を結ぶ線の北側だけであり、その他のすべては野蛮な地域である。」と書いている。「連中は魔女の存在を信じており、フランス語を読むことも喋ることもできない。」という有り様である。その後、人気の観光ガイドブックはどれも、都会以外を訪問しようとする観光客に、「地元住民に話しかけるな。」という警告文を記していた。ミシュランが1912年に、フランス全土に標識を立てるよう政府に求める請願を行ったのは、自動車を運転する人々が得体の知れない地域の種族と接触するのを避けるためであった。1830年の革命で復活した立憲君主制の時代、1839年から1848年の間、パリの街中での戦闘はなかったのだが、この程度でも、「羨むべきほど安定していた時代」と言われたほどであった。

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