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おフランス(aux France) その6

2009年03月25日 16時49分52秒 | インポート
ニコラ・サルコジ、セシリア・サルコジ夫妻

ニコラ・サルコジ仏大統領の2番目の夫人だったセシリアは、サルコジが大統領になった直後の2007年10月に離婚。2008年03月、実業家のリシャール・アティアスと再婚。現在はアラブ首長国連邦(UAE)のドバイに住んでおり、夫の仕事の関係で米国にたびたび渡航。パリ郊外の高級住宅地にある住居にはほとんど戻っていない。2009年01月上旬、空き巣が入り、50万ユーロ(約5900万円)相当の宝石やネックレスなどが盗まれた。


 「おフランス(aux France) その2」の冒頭にも書いたが、
 フランスと言えば、フランスベッドフランス書院フランス被れだろう。
その6ということもあって、おフランスの下半身に切り込んでいく。

淫乱、淫靡、淫蕩が国是の国

 狂気王シャルル6世と淫乱王妃イザボー・ド・バヴィエールの例を挙げるまでもなく、歴代王・王妃は多くの愛妾・愛人を囲っていた。イザボー・ド・バヴィエールは、オルレアン公ルイの他、アルマニャック伯ベルナール、ジャン無怖公との関係が噂され、「フランスは女(イザボー)によって破滅し、娘(ジャンヌ・ダルク)によって救われた。」と後世言われている。
 ローマ・カトリックは離婚を禁じているので、婚姻無効を教皇に宣言させ、離婚していたが、時としてこじれて、ローマ教皇庁との争点となった。イングランドでは、ヘンリー8世の離婚のため、イングランド国教会を設立したほどである。
 有名な愛妾・愛人だけでも、アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ、それぞれがおおっぴらに幾多の愛人を抱えていたアンリ4世と妻マルグリット、愛妾ガブリエル・デストレ、ルイ14世の愛妾ルイーズ・ド・ラヴァリエール、モンテスパン侯爵夫人。ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人や、その後に続くデュ・バリー夫人、特に、ポンパドゥール夫人は、フォンテンブローの森に、ルイ15世専用の娼館(ハレムにあたる)「鹿の園」を開設までしている。
 ナポレオン1世の愛妾エレオノール・ドニュエル、マリア・ヴァレフスカ。王妃ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの方も、次々と愛人を作り、浮気を繰り返した。有名なのが、ナポレオンのエジプト遠征中に騎兵大尉イポリット・シャルルとの浮気である。

 これは、歴史上の話だけではない。親独のヴィシー政権下でも働いたフランソワ・ミッテラン(François Maurice Adrien Marie Mitterrand)大統領には愛妾アンヌ・パンジュがおり、隠し子マザリーヌをもうけた。岸恵子も招待を受けた天皇・皇后のフランス訪問のレセプションに、この愛人と隠し子が堂々と出席していた(岸恵子「30年の物語」)。また、葬儀では、自分の棺に最も近い席にマザリーヌとアンヌを座らせるように、ミッテランは遺言で指示した。夫人のダニエルにも、他に愛人がいたことが知られている。ジャック・シラク(Jacques René Chirac)に至っては、日本にも愛人と隠し子がいて、マダム・バタフライを地でやっていた。年に何度かお忍びで来日。公安が密かに護衛していたらしい。愛妾浅野ゆう子の名前が挙がっている。日本贔屓というのは、そういうことなのだ。

 冒頭にも書いたフランス被れというのが、画家とか文化人とかが、「フランスは素晴らしい。」、「パリは美しい。」とかいうのは、「フランスの娼婦は素晴らしい。」、東洋人でぱっとしないフランス被れでも、金さえ出せば、やらせてくれる「パリの女(あるいはジゴロ)は美しい。」と言っているのだ。売春はフランスでは事実上合法。EU各国の市民なら、フランスに住み、働く権利を持つ。
 モンマルトルの丘に<href="http://www.moulin-rouge-japon.com/">ムーラン・ルージュ(赤風車)というロートレックの絵で有名なキャバレーがある。ここ入るのに革靴とネクタイが必要だというので、パリで買って、夜の帳が降りる頃に、中入ると、美乳丸出しのショーが始まった。おっぱい丸出しの意味なんかない。本当にパリは素晴らしい。ところが実はこの後、近くのバーに入ったら、店の支配人とアメリカ人と揉めていた。やばいなと思っていたら、隣に女(娼婦)が座って来て、いきなりシャンパンを開けて、法外な値段を要求してきた。いわゆるボッタクリ・バーで、なけなしの金をふんだくられ(当然値切ったが)、手持ちの金は靴の底に隠してあった金だけ。近くのタクシーの運ちゃんがモンマルトルはこんなもんだと同情してくれ、その金だけでホテルまで送ってくれた。警察に電話を掛けたら、英語がわからないと言う始末で、本当にパリは素晴らしい(苦笑)。

Ma beurette(僕のかわいいアラブ娘ちゃん) 仏ダチ法務相の妊娠と私生児の出産

 ラチダ・ダチ(Rachida Dati、アラビア語:????? ????)
1965年11月27日生まれ、43歳。2007年の選挙でニコラス・サルコジの広報担当で、大統領選勝利後、2007年05月18日に法務大臣。フランスの政権でマグレブ諸国出身の出自で初の女性大臣。2008年03月29日にパリの7区の区長。

 ダチは、レンガ積み職人のモロッコ人の父親とアルジェリア人の母親との間にフランスのブルゴーニュ地方で12人兄弟の2番目として生まれ、カトリック系の学校を卒業。16歳でスーパーのレジや医療補助をして、大家族を支えながら苦学して経営学と法律学の学位を取得。サルコジ大統領候補の広報担当を務め、大統領となったサルコジによって、法相に任命された。フランスの少数民族出身の女性として、そしてアラブ人として、ダチは初めてフランスの大臣になった。

 2008年08月に、ダチ法務相の下の兄弟2人が前科のある麻薬取引で再び懲役刑の判決が出た。バカンス開けに閣議が開かれ、ダチの大きなお腹が注目された。独身のダチは、09月03日、長年子供が欲しいと思っていたところ、妊娠を認めた。2009年01月02日に女児ゾーラ(Zohra)を生み落とした。サルコジ大統領の要請で、出産後わずか5日で職務に復帰し議論を呼んだ。父親については沈黙を守ったため、様々な憶測がなされている。フランスでは、婚外子が50%を超え、このこと自体は珍しくもなく、フランスではダチを高価な衣服(クリスチャン・ディオール)で目立とうとする態度の方が皮肉られている。卑しい出自を有名ブランドて身を包むサルコジそっくりである。

 私生児に対する見方は、フランス以外はおおらかではないが、米国人の目は更に厳しい。米大統領選で共和党の副大統領候補となったペイリン(Sarah Palin)アラスカ州知事の10代の未婚の娘が妊娠して大騒ぎになっていることを想いだしてみよう。フランスでは、妻の不貞が離婚原因になることもまずない。

 父親の可能性のある男が、サルコジの友人で前スペイン首相のアズナール(Jose Maria Aznar)であり、彼はわざわざこの噂を根も葉もないことと打ち消す発表まで行った。もう1人、父親の可能性があるとされているのがサルコジ大統領である。ダチは、何年も前からサルコジとの関係を噂されてきたところ、サルコジの前妻のセシリアとは良い関係を維持し続けたという説と、最終的にダチとセシリアの関係は険悪化したとする説がある。サルコジは、セシリアと別れて以降、米ホワイトハウスでの晩餐会等の公式行事にダチを伴った時期があり、現在のサルコジの妻であるカーラはダチとの間でサルコジの奪い合いを演じたとされている。
 当時、サルコジはダチのことを「ma beurette(僕のかわいいアラブ娘ちゃん)」と呼んでいたとか。また、カーラはダティに激しく嫉妬し、2007年の大晦日の晩餐会では、エリゼ宮(大統領公邸)のダブルベッドを指さしてダチの方を振り向き、「あなた、ここに寝たいんでしょ。」と言ったとか。この2人の勝負は、2008年02月にカーラがサルコジと結婚することで決着が着いた。

女狂いのサルコジの生い立ち

レイバン・サルコジ

 西部警察の団長ではない。卑しい出自をレイバン、オメガ、グッチで身を包んだ「ナポレオンより背が低い」身長165cmの小人のユダヤ人。「ナポレオンより背が低い。」と言われるほど、平均的なフランス人(男性の平均身長 175.6cm)に比べて身長が低いため、フランスの有料チャンネルテレビ局Canal+の政治風刺人形劇「Les Guignols de l'info」の中では、シラク大統領(当時)人形がサルコジ人形を「スマーフ (Schtroumpf)」と呼んでいた。 共和制であるにもかかわらず国王のような尊大な態度で利益誘導の私利私欲、ニコラ1世、その人である。
 タバコ嫌いでワインを含め酒も飲まない。好物はオレンジ・ジュースとチョコレート。ジョギングと切手収集が趣味で、週に2度はジョギングする。暇な時はi-Podで音楽を聴く。好きな歌はフランス人歌手のフォーデル・ベルーアの「我が故郷」。好きな本はスイスの小説家・詩人アルベール・コーエン「寵姫」。大の女好きで、離婚・結婚を繰り返すこと3回。これも趣味といえる。悩みの種は偏頭痛。大の日本嫌い。改革に次ぐ改革はどれ1つ成功していない。外国を訪れてはセールスマンよろしく、フランス製の飛行機、原子力発電所、TGV、武器を売り歩く。常に金持ちの味方、強きを助け弱きを挫く。
西部警察スペシャル 豪華版 (写真集付) [DVD] 〔注意〕あの西部警察ではなく、2004年10月31日復活した駄作と評判の「西部警察スペシャル」 石原裕次郎の映像のソフトは本人の遺志を尊重し封印。
 2005年10月のパリ郊外の移民暴動の際、「社会のくず」、「ごろつき」と呼び、2008年02月23日、パリの国際農業見本市会場での視察し、「ユネスコにフランス料理を無形文化財として登録しよう。」と発言し、いそいそとサルコジを嫌いな男に握手を求めた際、「俺はお前なんか嫌いだ。押すなよ。」と返され、激怒。「馬鹿野郎。お前なんか、死ね!」と暴言を吐いた。フランス大統領のこの暴言は、翌日インターネットで放映されてしまった。正にチンピラ。生来の柄の悪さでレイバンが良く似合う。マスコミをしばしば恫喝している。


 ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ-ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)1955年01月28日生まれ。54歳。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ・シュル・セーヌで過ごす。カトリック教徒。父方はハンガリーのAlattyánの下級貴族の成れの果ての家系。父パル・ノジ-ボウチャ・イ・サルコジは、フランス外人部隊の傭兵となり、新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ-ボクサと改名。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラーと結婚。母方はテッサロニキ出身のギリシア系ユダヤ人。祖父の代にカトリックへ改宗。

 1959年、ニコラ・サルコジが4歳のとき、父ポールが母アンドレとニコラら3人の子供を見捨て家を出て離婚。母アンドレは、子供たちを育てるため、学業を再開し、ナンテールの法律事務所で弁護士となった。父ポールは、後に他の女性と2回再婚している。2度目の結婚において、カロリーヌ(Caroline)とオリヴィエ(Olivier)の2児をもうけている。
 ニコラは父なし子として貧しい少年時代を送り、しかも、身長が低いことも悩みの種だった。ニコラは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した。」と述べている。なお、ニコラの兄ギヨーム・サルコジは繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。また、弟フランソワ・サルコジは、小児科医を経て生物学者となっている。

 ニコラは公立シャプタル校6年生(日本の中1)の時に落第し留年。カトリック系の私立学校サン・ルイ-ド・モンソ校に転校し、ここでも成績が振るわなかったが、大学入学資格試験(baccalaureat B)には合格し、パリ大学ナンテール校に入学。1976年、在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合(RPR)へ入党する。1977年、パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選。1977年、共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。私法、ビジネス法の学位を得た。卒業後、いわゆるグランゼコール(grande ecole)の一つであるパリ政治研究学院(Institut d'Etudes Politiques de Paris)に入学するが、英語力不足により、卒業できなかった。1981年、弁護士資格証 (CAPA) を取得。ビジネス法と家族法を専門とする弁護士になり、パリで、不動産問題を専門とし、11人の弁護士を擁する「アルノー・クロードとニコラ・サルコジ法律事務所」を共同で開設。この事務所は、オー・ド・セーヌ(Hauts-de-Seine)県のピュトー(Puteaux)市やルヴァロワ・ペレ (Levallois-Perret)市のために、借地人の追い出しに一役買ったとされる。1983年、28歳でイル・ド・フランス地域圏議会議員、ヌイイ・シュル・セーヌ(通称ヌイイ)の市長に当選。フランスでは、富裕税(ISF)課税資産評価額が77万ユーロを超える世帯に課せられるが、ヌイイは人口約6万人にすぎないが、パリに次いで富裕税の総額が多い金持ちと有名人が住む町である。1988年、国民議会(下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職。1993年、バラデュール内閣の財務相。
 フランスのエリートはグランゼコールのどれかを出ており、グランゼコール落第のサルコジは大変な負い目を感じていた。1993年、ヌイイ幼稚園立て籠もり事件(幼稚園児を人質に立て籠もった犯人は射殺され、物議をかもした。)の際には、シャルル・パスクワ(Charles Pasqua)が内相であったが、政府権力との交渉を求める犯人と、市長として命を的に犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献した。「ちびっ子を渡したまえ。(Donnez moi le petit noir.)」と、ひとりのこどもを抱えて学校を出る姿が、テレビで放映され全国的に有名となった。ニコラの異常なまでの金銭欲・権力欲や女狂いは、不幸な生い立ちとが学力・学歴のなさが原因と考えられる。

サルコジの女#1 マリー・ドミニク・キュリオリ コルシガの寒村の出身

 1982年にコルシガ島の人口1000人程度の寒村、ヴィコの薬剤師の娘マリー・ドミニク・キュリオリ(Marie-Dominique Culioli)と結婚した。結婚式の立会人は、シャルル・パスクワであった。1983年、ヌイイ市長選挙でシラク派のパトロンを見つけ成功したが、当初は写真に見れるように、まだしおらしかった。ピエール(1985年生まれ)とジャン(1987年生まれ)の2男をもうける。
 1984年、サルコジはヌイイ市長として、当時26歳のセシリア・シガネル-アルベニズ(Cecilia Ciganer-Albeniz。父親は毛皮商人のジプシー。母方の曾祖父はスペインの作曲家のアルベニス。)の52歳の男性歌手でテレビ司会者のジャック・マルタン(Jacques Martin)とのできちゃった婚の結婚式を主宰し、結婚式後13日目に生まれた長女ジュディス(Judith)の名付け親になった。1987年にもセシリア夫婦は次女ジャン・マリー(Jeanne-Marie)を授かった。

サルコジの女#2 セシリア・マリア・サラ・イザベル・シガネル-アルベニズ 市長の売春婦と呼ばれたジプシーの娘

 セシリア・マリア・サラ・イザベル・シガネル-アルベニズ(Cécilia María Sara Isabel Ciganer-Albéniz)1957年11月12日、ブーローニュ・ビヤンクール生まれ。母方の曽祖父はスペインの音楽家イサック・アルベニス。母方の祖父は駐ベルギースペイン大使。父は毛皮商人のルーマニア系ジプシーで、セシリアは移民2世に当たる。 

 セシリアは小さいときはピアノがうまかったが、パリ大学法学部をすぐに中退。モデル、アンドル地方出身の元老院議員秘書などを勤めた。レストランで知り合った26歳年上のフランスでは有名だったテレビ司会者ジャック・マルタンと結婚。2人の娘ジュディスとジャン・マリーを設けた。

 ニコラ・サルコジの自叙伝によれば、ヌイイ市長として、できちゃった婚の結婚式を主宰した時、セシリアに一目惚れした。弁護士でもあるニコラは、セシリアを「俺のものにする。」と執拗に迫って口説き落とし、ニコラの元に走り、1988年になると同棲を始めた。

 ニコラの妻、マリー・ドミニクはセシリアの友人でもあり、ジャック・マルタンはニコラの友人で、その妻がセシリア。ニコラはマルタン夫妻の子供の名付け親であり、また、セシリアはサルコジ夫妻の子供の名付け親でもある。マリー・ドミニクもそこそこ美人だが、ニコラはセシリアに惹かれ、乗り換えたようだが、もっといい馬サルコジに乗り換えたのはセシリアである。W不倫の関係だが、あまりにも臭すぎて、大映テレビでも昼メロでもこんな筋のドラマはなかなか書けない。お互いの子供の名付け親になるほどの親密な友情も裏切るとは、まさに人倫に悖るフランスらしい不倫である。ニコラもそうだが、セシリアはなんとも非情な女である。

 1989年にセシリアの方は離婚をしたが、ニコラはなかなかマリー・ドミニクに離婚してもらえなかった。セシリアはニコラの公式行事等にも参加するようになり、ヌイイ市民は、セシリアのことを「市長の売春婦」と呼んだ。ニコラが出世して行くにつれて、セシリアはニコラの仕事の上での相談相手として活躍するようになり、「サルコジの航空管制官」と呼ばれた。

 ニコラを変えたのがセシリアである。このモデルとの派手な生活が、ニコラを変身させ、やがてバラドゥール派に乗り換え、既製服を注文服へ変えた。ニコラはグッチに好きなり、セシリアはプラダ好きだが、2人で現れるときは、グッチに合わせたものだった。どらもイタリアのブランド。セシリアと同棲生活に入ってから、その後正式に結婚してからはもちろんのこと、ニコラは出世を続け、最終的に大統領に登り詰めた。セシリアはニコラにとって、「あげまん」を絵に描いたような存在であり、セシリアの内助の功は絶大で「太閤記」か「功名が辻」だった。

 ニコラには無趣味で、趣味と言えるのは、女狂いと有力者の名刺を集めることだけだった。その名刺の中に億万長者のモエ・エ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン・グループ(LVMH)の総帥のベルナール・アルノー(Bernard Arnault)と軍需産業企業ダッソー・グループのオーナー、セルジュ・ダッソー(Serge Dassault)などがいた。シラク大統領は、成り上がったニコラにパリ市長の椅子を薦めたそうだが、それを蹴った。ニコラが予算担当相となった1993年、セシリアは勝手にセシリア・サルコジと名乗るようになった。

 ニコラは内相時代にはリッツ・ホテルに住んでいた。1980年代にニコラと親しかったスイスの銀行家エイヤーとの関係がある。ニコラは1986年にテニス場で、往年の名選手ルコントとともにエイヤーに会った。この銀行家はスポーツ選手の資金管理をしていた。1990年代末エイヤーは資金流用でスイス警察の捜査を受けている。その中でオート・セーヌ県の資金をスイスに流したことが判明している。

 1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いてバラデュールを支持する。しかし、決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。

 困難をきわめたニコラの離婚が成立した1996年に2人はようやく結婚し、立会人は、マルタン・ブイグ(Martin Bouygues)とベルナール・アルノー(Bernard Arnault)。ブイグは電話会社、ブイグ・テレコムや不動産会社、フランスのテレビ局TF1を所有する企業グループの総帥。アルノーは モエ・エ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン・グループ(LVMH)の総帥で、世界で7番目の金持ち。2人ともフランスを代表する企業家・資産家である。翌1997年にニコラとセシリアとの間に1997年にルイ(Louis)という息子が生まれている。

 2002年05月ラファラン内閣の内務・治安・地方自治相として入閣する。2004年、財務大臣に異動。11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合(UMP)の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出。サルコジの権力増大を恐れたシラクによって財務相を辞任する。2005年05月31日よりドミニク・ガルゾー・ド・ヴィルパン内閣の内相に就任。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。

 ニコラが内相であった2002年から2004年、そしてニコラが短期間財務相であった2004年、セシリアはニコラに隣接するオフィスで、省内の人事や政治に口を出した。経費で自宅の大型テレビを買ってマスコミに叩かれた。

 ところが、ニコラはセシリアに惚れ抜いていたというのに、浮気の虫が治まらない。有名なのは、当時の大統領のシラクの娘のクロード(Claude)との関係。それでいて、ニコラはセシリアを1日百回も呼び、「愛してる。」と伝えるような男だった。2006年には、選挙の際の公式自伝の中で、セシリアのことを、「最初の出会いから20年経った現在でも、彼女の名前を口にすると感動する。」と記している。そして、ニコラは、セシリアを傍らに置くために、自分も政治家になりたかったセシリアに政治家になることを禁じた。

 こんなニコラにセシリアが愛想を尽かした。2005年にセシリアは、モロッコ生まれのユダヤ人で、ニューヨークに本社をおくイベント会社、パブリシスのCEOのリシャール・アティアス(Richard Attias)と恋に落ち、セシリアはルイを連れて駆け落ちをする。ニコラはニコラで、フィガロ紙の政治記者である、2児の母の人妻、アンヌ・フュルダと愛人関係になった。これにセシリアが嫉妬したというのだから女心は複雑だ。

 女性ジャーナリストのバレリー・ドマンが2005年10月、セシリアのインタビューをもとにした伝記を出版したところ、サルコジ内相(当時)が出版社の社長を内務省に呼び出し、出版停止を命令。発売を停止した。2006年02月02日にドマンは小説の体裁で伝記を出版した。また、2007年03月01日に「サルコジの富裕税にかかわる疑惑」という記事を日刊紙「リベラシオン」が掲載したところ、大株主の1人を内務省に03月07日、呼び出し、「くそったれの左翼紙だ。」と罵倒。2007年04月16日にはラジオ局「RTL」に「週刊フィガロ」の前編集長が出演し、「サルコジの提灯記事を掲載するようフィガロの幹部から圧力をかけられ拒否し、辞職に追い込まれた。」と発言。前編集長は、「複数の政治ジャーナリストがこれまでにサルコジから恫喝された。」と証言した。

 2006年に入るとセシリアは一旦、ニコラの下に戻り、セシリア奪還に成功。しかし、これは、いよいよサルコジが大統領戦への出馬を決意したことから、セシリアは自分のせいでサルコジが大統領になれなかったと言われたくなかったので意地で戻った、というのが真相のようだ。

 2007年には、セシリアは、サルコジの大統領選選挙本部に一室を与えられたが、04月には、セシリアはサルコジとの離婚を密かに決意し、セシリアは妻としての最低限の体裁だけを維持することになった。そのせいか、大統領選挙中や当選後のセシリアの動向に不自然な点が目立つ。まずは選挙中に、セシリアがニコラの暴力を警察に届けたらしいという噂が警察関係の間で流れた。また、大統領選の2次投票の時には、セシリアは2週間の選挙運動期間中に全く姿を見せず、みかねたシラク大統領夫人がサルコジの応援演説を行い、投票にあたっては、セシリアの前夫との2人の娘がサルコジと一緒に投票したというのに、セシリアはフロリダに遊びに行ってしまい、結局投票しなかった。

 大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機とマルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない。」と反論。

 サルコジが大統領選に勝利し、就任式の日がやってきた時も、セシリアは出席を渋り、結局この2人の娘に促されて急遽ロンドンから帰国して出席したという噂であり、普段着のまま出席して物議をかもした。この日のニコラもセシリアもプラダだった。大統領になってから普通はエリゼ宮に家族共々引っ越すのが通例なのだが、セシリアはそれを拒否。大統領になってしまったので今更離婚もできず、とりあえず5年間はファーストレディをするという契約でも交わしたのだろう。

左から、ニコラとマリー・ドミニクとの息子ピエール(22)、セシリアとの子ルイ(10)、セシリア(49)、セシリアとジャック・マルタンとの娘ジュディス(23),ジャン・マリー(20)、ニコラとマリー・ドミニクとの息子ジャン(20)

 2007年05月16日、シラク大統領は2期12年の任期を終了。サルコジに核ボタンのコード番号などの国家機密を引き継ぎ、エリゼ宮から去っていった。そして、祝祭の間でドブレ憲法評議会議長から大統領選結果の報告を受けて就任式が行われ、フランス第5共和政第6代大統領(2007年05月16日~)及びアンドラ公国の共同大公が誕生した。。
 エリゼ宮(le palais de l'Élysée)とは、ファッション店が軒を連ねるフォブール・デュ・サントノレ通りに立つフランス大統領の官邸。エリゼとは、ギリシア神話に登場するエーリュシオン(神々に愛された英雄が暮らす死後の楽園)。エリゼ宮とは極楽宮。シャンゼリゼ(les Champs-Élysées)は極楽通り。ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人や、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌが住んだこともある。部屋数365を誇り、957人の使用人、61台の車などを配備。ルイ15世様式の家具とゴブラン織りのタペストリーで飾り立てられた複数の応接間、映画室、「4つ星レストラン級」ともいえる厨房と数千本の極上ワインを蔵するワインセラーがある。宮殿の庭では毎年、07月14日の革命記念日には大統領主催のパーティーが開催される。

 一方、大統領選に破れた初の女性候補の社会党のマリー・セゴレーヌ・ロワイヤル(Marie-Ségolène Royal)は、20年以上の同棲生活で4人の子供トマス♂(Thomas、1984年生まれ)、クレメンス♀(Clémence、1985年生まれ)、 ジュリアン♂(Julien、1987年生まれ) 、フローラ ♀(Flora、1992年生まれ)がいるフランソワ・オーランド(François Hollande)、フランス社会党の第1書記と別れた。

 さて、自由で奔放なセリシアは、06月の英国サミットの際には、セシリアは途中でフランスに帰国し、各国首脳中、ニコラ・サルコジだけが配偶者を欠いた状態になり、08月の訪米時には、ブッシュ大統領夫妻がサルコジ夫妻を招待した昼食会をセシリアだけが仮病でドタキャンし散歩に出掛け顰蹙を買った。
 07月には、ニコラが与えた大統領府のクレジットカードで昼食2回分、401ユーロ(約およそ7万円弱)を公費で使い、フランス議会で公私混同と叩かれ、ニコラがセシリアをリビアの元首のカダフィとのブルガリア看護婦等釈放交渉の根回しに使い、フランス外務省の面目を潰した。このジプシーの娘は、「カルメン」を地で行くニコラの地雷源だった。

 大統領府は10月18日、「2人の合意に基づき別居する。」、とニコラ(52)とセシリアの離婚(49)を正式に発表。大統領の離婚は第5共和政では初めてとか。
 ところが、低能な日本のマスゴミの電波芸人、佐々木恭子アナは、「大人の国ですね~。」とため息をつき、友近は「世間を気にしないいで、気持ちがいいですね。」と脳味噌のない発言。フランスの国益を害うのが「大人の国」のファーストレディーなのかい。
 セシリアは、恋人のアティアスの所に戻り、2008年03月、セシリア(50)は、アティアス(48)とニューヨーク市内のロックフェラー・センターのレインボー・ルームで3度目の結婚。ヴェルサーチがウェディングドレス受注を明らかにしたことで発覚した。このことに怒ったセシリアは直ちにドレスの発注先を変更した。

 「あまりにも美しい、あまりにも大柄で、あまりにも冷たい目つき。」大きく美しいという女の特質はある意味で利点である。ニコラはそれが気に入っていた。セシリアは派手なよそ行き。法務相のラチダ・ダチがセシリアを的確に表している。「あなたは馬鹿ではないのだけど、美しさと身体が邪魔しているのよ。あなたの恋人になる男はあなたが好きなのでしょうけど、それ以上に皆にあなたを見せたいだけよ。それだけよ。」ニコラのレイバンのサングラスやオメガの時計と同じというわけだ。

サルコジの女#3 カルラ・ブルーニ・テデスキ ヌードも晒した母親の浮気で出来たイタリア人の色魔がフランス大統領夫人

 2007年10月セシリアと別れたニコラ・サルコジはなぜこうも早く次の妻カルラ・ブルーニを見つけることができたのか。なにしろサルコジは女狂いの1人でいることのできない男で、毎晩好きなカラオケだけで我慢できるわけがない。2人の出会いは2007年11月23日(金)の国鉄のストの日で、フランスの巨大本・CD・DVD屋、FNACの社長で友人のドニ・オリヴィエンヌが、文化大臣アルバネルを訪ね、彼は歌手のカーラをサルコジに紹介し、彼女を16区の自宅に送り、翌朝彼女に電話し、恋が始まった。ディズニーランド・リゾート・パリでのデートが報じられた。セシリアとカルラはよく似ている。まず冷たいほどの美貌。背の高さ、神秘さ。大胆さ。スペイン人とイタリア人というラテンの女の匂い。ともに見栄えがする。

 カルラ・ブルーニ・テデスキ(Carla Bruni Tedeschi)1967年12月23日生まれ、トリノ郊外で育つ。母親はピアニストのマリサ・ボリーニ(Marysa Borini)。父親は表向き、イタリアの大実業家である以上に作曲家でもあり美術品収集家アルベルト・ブルーニ・テデスキ(Alberto Bruni Tedeschi)。表向きの祖父ヴィルジニオ・ブルーニ・テデスキは、トリノで自動車用の電線を作る会社を興した。やがて会社を売り、金利生活者となった。
 カルラが28歳の時に、この父親アルベルトから、カーラが自分の実の娘ではないと明かされた。本当の父親は、カルラの母親マリサより13歳年下の恋人、クラシック・ギター奏者だったマウリツィオ・レメルト(Maurizio Remmert)で、浮気でできた娘である。マウリツィオは、現在ブラジルのサンパウロ在住の実業家で、2人の関係は、カルラ・ブルーニが5歳になるまで6年間続いた。カルラ自身も、小さいときに、ピアノ、バイオリン、そしてギターを習わされた。カルラが特徴的なのは、10代の頃から、男漁りが大好きで、それが40歳でサルコジと結婚するまで続いた。
 1973年、当時、身代金目当ての極左組織、赤い旅団(Red Brigades)による誘拐が相次いでいたことから、安全のため一家でフランスに移住。スイスとフランスの私立の寄宿学校で勉強し、パリの建築学校に進学。 すぐに退学し、1987年、19歳でスカウトされモデル業。1988年にはトップモデルに。業界誌によれば、1990年代にモデルを引退する直前の年収は、700万ドル(約7億9000万円)を超えた。ドルチェ&ガッバーナ(Dolce&Gabbana)、シャネル、ディオール、セリーヌなどのモデルを務め、ファッション誌の表紙も飾っていた。後にカルラはモデル時代を振り返って、「鏡を見てはシワやシミを気にして生きていく生活を続けて、いつも何かに怯えていた。」と語っている。1990年に映画界に転身。

 欧州内の諸国を渡り歩き、数ケ国語を身につけ、男に生活資金を依存することなく男漁りを続けた。カルラが対象にしたのは一流の男達ばかりであり、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)のミック・ジャガー(Mick Jagger)や、エリック・クラプトン(Eric Clapton)、俳優のケヴィン・コスナー、哲学者のラファエル・エンドーエン、哲学者のジャン・ポール・エンドーエン、元フランス首相のローラン・ファビウス、元フランス教育大臣のリュック・フェリー、俳優のヴァンサン・ペレーズ、映画監督のレオス・カラックス。「単婚なんて退屈でばかげてるわ。一夫多妻や一妻多夫がいいわよ。」が(サルコジと結婚するまでの)カルラの口癖。しかもカルラは、もはや男と女の関係でなくなった過去の全ての男たち、そしてその男たちの妻たちや彼らの新たな愛人たちとさえ、友人関係を維持している。

 1993年には、俳優のヴァンサン・ペレーズと交際。ほかにも、エリック・クラプトンの彼女への思いは相当のものだったらしく、自伝で「狂ったように恋した。」と告白している。真偽は定かではないが、エリック・クラプトン、ミック・ジャガーとの関係も面白い。彼女はまずクラプトンに近づき愛人になり、やがてミック・ジャガーに会いたいと言って、クラプトンを捨てる。26歳の頃には、弁護士のアルノー・クラスフェルドと交際。さらには、大富豪ドナルド・トランプ、フランス元首相ローラン・ファビウスといった、政財界の大物とも浮き名を流した。すっかり恋多き女として知られるようになった彼女のことを、当時のフランスでは「男から男へと飛び回る蝶」と揶揄した。俗っぽい言葉でいえば、ニコラ、ミック・ジャガー、クラプトンは一人の女で結ばれる穴兄弟。フランス大統領の相姦図は獣姦図。

 1999年、29歳の時に、フランス人歌手ジュリアン・クレール(Julien Clerc)と出会ったのをきっかけに音楽の道へ進むことを決意し、10年間携わったモデル業にピリオドを打ち、作曲と歌でデビュー。この転身を、彼女の元愛人達がプロデューサーとして、あるいはビデオ作家として助けている。ジュリアン・クレールのアルバムに歌詞を提供し、3年後の2002年11月に、デビューアルバム「風のうわさ(Quelqu'un m'a dit)」を発表。カヴァー曲以外すべて彼女が作詞作曲を手掛けたこのアルバムは、フランスはもちろん世界的にも大ヒット。これまでに200万枚以上の売り上げを記録している。 2004年にフランスのグラミー賞といわれるヴィクトワール・ド・ラ・ミュージックの最優秀女性アーティストに選ばれる。その後も、数々のジャズミュージシャンの作品にゲストヴォーカルとして参加、映画『カンバセーションズ』のサントラには彼女の曲が全面的に使われるなど、押しも押されぬ人気アーティストに。「ノー・プロミセズ(No Promises)」と題されたセカンドアルバムは、2007年01月に発表された。英語で歌い、歌詞はアイルランドの詩人ウィリアム・イエーツ(William Butler Yeats)や米詩人エミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)の作品から引用しているが、前作ほどのヒットにはなっていない。米ビルボード誌ヨーロッパ・アルバム・チャート初登場1位を獲得。まぁ、それなりにヒット曲を出している。

 2000年にカルラは、10歳下の25歳のお茶の間の哲学者(哲学教授兼ラジオショー番組のホスト)のラファエル・エントヴェン(Raphaël Enthoven)を、社会党からサルコジに近づいた哲学者ベルナール・アンリ・レヴィ(Bernard-Henri Levy)の娘で小説家のジュスティーヌ・レヴィ(Justine Lévy)から奪い結婚。カルラ自身は否定しているが、実はカルラは最初ラファエルの父親の哲学者のジャン・ポール・エントヴェン(Jean-Paul Enthoven)の女だったのだが、いつの間にか息子に手を出した。俗っぽい言葉でいえば、親子どんぶり。2001年、33歳の時には男児オーレリン(Aurélien)を設けたが、2007年05月、7年近くの同棲生活の後、この男性は、「われわれの関係は友人関係のようになってしまった。そんなことでどうする。そんな関係になるにはわれわれは若すぎる。」と別れ話を切り出され、カルラは抵抗むなしく、この男性に捨てられた。傷心のカルラは、さっそく次の男捜しを開始し、ニコラ・サルコジを紹介された。

 ジュスティーヌ・レヴィは、夫ラファエルをカルラに盗られた一件を私小説的に綴った「Rien de grave」(直訳:たいしたことない)という小説の中で、カルラを「美しく、意地悪で、女帝のような女」と評し、教養豊かな哲学者の娘らしく、「臭いの効果を確かめるため換気扇に向かって糞をする女」と表現している。「彼女は男を誑かすのが好き、しかし愛は長く続かない。いつも燃えた跡には灰しか残らない。」

 サルコジもカルラと同じく、偉い奴を取っ換え引っ換え利用しながら上り詰めた。実はカルラが出現する2007年11月初め、かつてボンド・ガールであったの映画女優の娘と付き合っていた。11月初めまではまじめにこのブロンド女が次のお相手かという話も出ていた。リビアの独裁者カダフィ大佐のパリ訪問をマスコミに叩かれた直後の12月15日に、前妻と離婚したばかりのニコラ・サルコジは、カルラのディズニーランドでデートを報道させた。ほんの2ケ月前に2度目の離婚をしたばかりのサルコジ大統領に対し、「いくらなんでも、早すぎるのでは。」との批判も続出した。

 カルラの数多い男性遍歴も有名で、今回のことも当初はカルラの売名行為という見方もなされていた。イタリア国籍のため、昨年のフランス大統領選挙では投票していないが、もし可能だとすれば、「(サルコジに敗れた)社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル(Segolene Royal)に投票しただろう。」と発言している。カルラが左派だというのもロック歌手らしい、感情左派ということに過ぎない。

 12月23日はカルラの40歳の誕生日。サルコジは彼女に高価なCupidonという宝石を贈った。このいい加減男はセシリアにも同じものを贈っている。ドイツ人はまじめに怒り、南ドイツ新聞は「恥知らずで、神経質な、ナルシスト。前任者たちも豪華さが好きだったが、サルコジの場合は俗っぽさだけだ。」、ベルリナー・ツァイトゥンクは「フランス人もこの大統領がどれほど予見できない男かわかったはずだ。」と非難した。そんな外野の声などどこ吹く風、クリスマス休暇にはカルラの子供オーレリンも連れてエジプト旅行へ。あえてメディア規制することなく遺跡やビーチでのひとときを楽しみ、熱愛ぶりをアピールした。友人の自家用機とホテルでタダ乗り、タダ食いの旅行。これは彼にとって致命的な打撃になり、支持率が下がった。オランダの新聞、ハンデルス・ブラートは、「今大統領府で起こっていることは、ルイ・ド・ヒュネスのリメイク版である。」と皮肉った。ルイ・ド・ヒュネスは映画「ファントマ」などで活躍したフランスのドタバタ喜劇王である。フランスの元首は、ヴァチカンで教皇に会って、アンリ4世時代からの伝統で、「le chanoine d'honneur”de Saint-Jean-de-Latran」という称号を戴くそうなのだが、離婚を繰り返したニコラは、カルラを伴うと(結婚していようとしてまいと、カトリックでは離婚は認められないので)、姦通に当たるので伴えなかった。しかも青いシャツを着用し、ヴァチカンの白と黒の礼装を無視し、ニコラのお猿ぶりが失笑を買った。

 2008年02月02日午前、ニコラ・サルコジとカルラ・ブルニーが大統領官邸のエリゼ宮を使用して結婚式が行なわれた。「成り立ての大統領が権力に物を言わせて、公のものを利用している。」と国民の怒りをかった。因みに、カルラの花嫁衣装はエルメスの白のワンピースで、裾に青いパイピングが入ったもの。女、強い女なしでは生きていけないニコラではあるがカルラを愛人にせず、3番目の正式の妻にまでしたのはなぜか。セシリアとカルラはあらゆる点で生き写しなのである。ニコラより高い身長、容姿までそっくりで、カルラが唯一いやがるのは、この点を指摘されることである。一方、カルラとニコラの1番目の妻であるマリー・ドミニクとは奇妙な友情感覚が生まれているようだ。セシリアという共通の敵がいるからか。ニコラ自身、マリー・ドミニクとは良い関係を維持してきたという。

 2008年07月07日~09日のG8主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)にカルラは欠席。福田康夫首相の貴代子夫人にあて、主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)の際に訪日できないことをわびる書簡をサミット前に送っていた。書簡は、貴代子夫人から受け取っていた日本への招待状に答える形で、カルラは3枚目のアルバム「何もなかったかのように」の発売準備のために日本を訪問することができなくなったと説明した。

 このカルラのCDの発売のため、ニコラは、フランス共和国の歴史上初めて、エリゼ宮をカルラのCDの販売増進という商業目的の写真撮影に使用することを許した。ニコラはプロとは言えない。今度もまた彼の取り巻き達は彼を抑えることができなかった。エリゼ宮はフランス国家の象徴であって、貸し出されるべきものではない。彼はエリゼ宮に住むことを認められてはいるが、エリゼ宮の所有者ではないのだから。