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過去ログ

犯罪者と売国奴養成大学 東京大学法学部・工学部

2010年11月19日 19時14分09秒 | インポート
 数多くの国立公立大学があるが、犯罪者が突出して多いのは東京大学であり、その中でも東大法学部が最も多い。産業資本家の犬、工学部も急追している。伝統的に犯罪者と売国奴の厚い岩盤の上に新たな層が大量に加わり続けている。


東京大学法学部出身者
http://d.hatena.ne.jp/ut-tlounge/20071112/p1
東京大学法学部中退(最終学歴:徳島県立城南高等学校卒業) 仙谷由人(64) 
 支那に敬語を使い、「柳腰」で利敵行為を繰り返す侵略の手先の売国奴。「仙谷」が正しいが、通常、「仙石」にしか変換できないのでしばしば誤記に出くわす。
 2010(平成22)年09月13日、尖閣諸島沖の支那船衝突事件で船長以外の船員と漁船を中国に戻す際、「14人と船がお帰りになれば、違った状況が開けてくるのではないか。」、09月28日には、東シナ海白樺ガス田付近を航行中の支那工作船について「周辺にいらっしゃることは確認している。」と述べた。 09月29日の記者会見では、「中国人民解放軍が日本を侵略なさいました。」と、気違い染みた敬語を使っている。
 10月18日午後に行われた参院決算委員会で、尖閣諸島支那漁船衝突事件について、自民党参議院議員丸山和也と電話でやりとりについての問いに、「最近、健忘症にかかっているのか分からないが、そういう電話で暴露されたような会話をした記憶は全くない。」と答えた。これについて「健忘長官」と揶揄されている。その後、マスコミのインタビューで仙谷が丸山の発言を「いい加減な人のいい加減な発言だから」と語っていることに関して丸山は「健忘症と言いその場で反論をせず逃げた男が、後になってけしからん。これについてはけじめをつけようと思っている。」と反論。
 11月09日、読売新聞夕刊にインターネット上に流出した沖縄尖閣諸島沖の支那漁船衝突事件映像の一般公開の可否を検討する「厳秘」とされる資料の写真が掲載された。写真は同日の衆院予算委員会で仙谷が持っていた資料を読売新聞が撮影したものだったが、仙谷はこれを「盗撮だ。」と批判。翌11月10日に在京8社写真部長会が「通常取材の範囲内で撮影している。」と盗撮発言の撤回と謝罪を求めたが、仙谷は「(盗撮と表現したことを)釈然としないが、撤回する。」としたが、謝罪には応じなかった。
 11月18日の参院予算委員会で「暴力装置でもある自衛隊」と発言。また、防衛省が自衛隊行事に政治的発言をする者を呼ばないよう事務次官通達を出した問題に関し、「民間人であろうとも自衛隊施設の中では、表現の自由は制限される。」と明言。


東京大学法学部卒 ハーバード大学大学院修士課程修了 松崎哲久(60) 
 2010(平成22)年07月27日に行われた航空自衛隊入間基地の納涼祭に来賓として出席した際、松崎は駐車場からおよそ30m離れた場所から自分の車を呼ぶように指示。歩行者の安全確保を目的として一方通行としていた道路を逆走する形になるため進入出来ない事を駐車場係の隊員が伝えたところ、「俺を誰だと思っているのか。」と恫喝。たて続けに「お前では話にならない。上官を呼べ。」と凄んだ。結局別の隊員が松崎の秘書が運転する車を逆走させる形で寄せ、十字路でUターンして停止。松崎は「やればできるじゃないか。」という趣旨の発言を行った。隊員の腕をつかみ「ほら危なくないだろう。」と言いながら、持っていた団扇で数回たたき、車に乗った。車に乗り込もうとした松崎に対し誘導係の隊員が「二度と来るな。」と呟いたことが松崎の耳に入り、「もう一回同じことを言ってみろ!」と松崎が当該隊員の胸を鷲摑みにしたことが、防衛省幹部及び航友会関係者より明かされた。松崎のこの所業が、入間基地で11月03日に行われた入間基地航空祭で、航友会の会長自らが「民主党政権は早く潰れてほしい。」と発言するに至る遠因となった。


東京大学法学部卒 横粂勝仁(29)
 支那漁船衝突の映像流出事件で関与を認めた海上保安官が起訴された場合、「弁護人になる。」と名乗り出た自民党の丸山和也参院議員(64)は、「今回の件は国家公務員法の守秘義務違反に当たらない。100%無罪。」と語った。これに対し、横粂は「有罪です。海保職員全員が映像を見られたとしても、機密性はある。」と反論し、保安官が一部で「英雄扱い」されていることに「主観でなく、法に基づいた客観的な判断が必要。無罪となれば、今後の国家の運営ができなくなる。」と言い切った。


東京大学法学部卒 谷垣禎一(65)
 週刊文春(2005年12月8日号)で1988(昭和63)年訪支時に女性を買春し、支那公安当局に尋問されたと報じられた。ハニートラップと支那利権にどっぷりで、 「ハニ垣」と呼ばれ、支那など特亜の手先である。
 2010(平成22)年11月14日午後、さいたま市で講演し、支那漁船衝突の映像流出事件で神戸海上保安部の海上保安官(43)が関与を認めたことについて、青年将校らがクーデターを企てた二・二六事件を引き合いに出し、「映像流出を擁護する人もいるが、国家の規律を守れないのは間違っている。」と批判。同時に「二・二六事件でも『将校の若い純粋な気持ちを大事にしないと。』という声があり、最後はコントロールできなくなった。」と述べた。


東京大学法学部政治学科卒 法学部法学科公法コースに内部学士入学し、東京大学法学部公法学科卒 国立台湾大学大学院修士課程修了 ハーバード大学大学院修士課程修了 加藤紘一(71)
 支那・朝鮮の利権の代弁者であり、日本に対し売国奴。
 2008(平成20)年07月07日、日本BS放送の番組において、「拉致被害者は北朝鮮に戻すべきだった。」と発言。今日の日朝交渉停滞の原因を、当時の福田官房長官案から、途中で安倍官房副長官案に切り替えた日本が彼らを北朝鮮に返さなかったことによるとした。また、金正日のことを「あの国では、一種、天皇陛下みたいなポジションの人物ですよね。」と述べた。
 1991(平成03)年01月、宮澤内閣の官房長官として「細部は論じたくないが、(慰安婦側が)強制連行されたと主張するならその通りなのだろう。」と日本側の非を認め、「お詫びと反省の気持ち」を表明。 また、南京大虐殺について「物の見方だと思います。南京大虐殺も(犠牲者は)30万人という人と3000人という人と。僕はこう思う。3000人でも一般市民を虐殺したら、された方は虐殺と思う。(慰安婦問題も)それに近いんじゃないか。だからそこをあんまりとやかく、細かく論じたくありませんね。」と語った。
 1994(平成06)年08月、当時自民党政調会長だった加藤は支那人民抗日戦争記念館を訪れ、「ここに来るのは長年の願望だった」、「来年は終戦から50年。日本では、どう50年を迎えれば良いか議論しており、日中戦争が本格的に始まるきっかけとなった盧溝橋を訪れることができたことは意義深い。」とした。また、外務官僚時代にハーバード大学に留学した際に「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得したことを述べ、「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して抗日記念館の館長に献じた。


東京大学法学部卒 岡田克也(57)
 実家のジャスコ・イオングループの支那での商売のために暗躍する親支派の政治家。靖国問題では、支那などからの批判に対して説明不足であることを理由に、当時の小泉首相に重ねて参拝中止を要求。「支那などを説得出来ないのなら参拝すべきではない。」とした。
 「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」の会長として永住外国人に地方参政権を持たせることを主張。国民固有の権利を著しく阻害・逆差別している。


東京大学法学部卒 福島瑞穂(54)
 趙春花という朝鮮人。1986(昭和61)年02月15日に帰化。北朝鮮の工作員で中核派。弁護士時代から従軍慰安婦問題に積極的に取り組む当然といえば当然の売国奴。政治献金を北朝鮮から受け取り、北朝鮮を訪問しても、拉致問題を追求せず被害者の家族の悲痛な叫びを無視し、日本国民の生命を危機的状況に追いやり、拉致問題など単なる疑惑にすぎないとの主張し続け、北朝鮮を擁護してきた、売国政党「社会民主党」の党首でもある。
 2002(平成14)年02月15日東京都千代田区朝鮮会館で開催された金正日総書記誕生60周年祝賀会に社民党幹事長として出席。



東京大学工部出身者

東京大学工学部応用物理・計数工学科卒 スタンフォード大学大学院博士課程オペレーションズ・リサーチ専攻修了 鳩山由紀夫(57)
 無知・無能・無責任・恥知らず・恩知らず・嘘吐き‥‥と、人としてほとんど全ての悪徳を兼ね備える。もはや人間ではないので、「ルーピー」や「宇宙人」と呼ばれる。カメムシやゾウムシ以下。一々論うのもおぞましい。
 2002(平成14)年03月14日、加藤紘一の秘書による脱税容疑について」「言うまでもなく、秘書の罪は国会議員の罪である。」と発言していたが、母の安子からブリジストンの資金を月1500万円のおこずかいを貰い、民主党を作った。故人の名まで使った偽装献金の犯罪行為の責任を取らず、2010(平成22)年02月12日の衆議院予算委員会において、与謝野馨は鳩山に「平成の脱税王」という新たな称号を与えた。
 南朝鮮、支那、ロシアなどにいわゆる「友愛外交」を展開し、非現実的なアメリカ依存からの脱却を模索した。
 2009(平成21)年04月17日、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない。」、「出生率の問題を考えてみても、もっと海外に心を開くということを行わないと、世界に向けても尊敬される日本にならないし、日本の国土を守ることもできなくなる。ですから、私は定住外国人の参政権は、当然付与されるべきだと、そう思っています。」などとニコニコ動画で国民の主権を否定。04月24日の民主党本部での記者会見では改めて確認した。
 2009(平成21)年10月09日、鳩山由紀夫内閣の岡田克也外相は、「東アジア共同体」構想で、米国を排除する考えを表明。10月10日、北京に朝貢し、温家宝首相と東シナ海のガス田問題で会談。鳩山首相は、「共同開発し東シナ海を『友愛の海』にしていこう。」という妄言。2009年(平成21)09月22日、国連気候変動首脳会合で、日本の2020(平成32)年までの温室効果ガスの削減目標(中期目標)について、「1990(平成2)年比25%削減を目指す。」(鳩山イニシアチブ)ことを国際社会に公約。支那などに税金を垂れ流す亡国政策を今も踏襲している。
 2009(平成21)年09月22日にオバマ大統領と初会談。普天間基地代替施設移設問題で、非現実的な約束を繰り返し、自ら勝手に締切設定。年内、年度内、05月末と先送りを繰り返し、2010(平成22)04月13日、米国における核セキュリティサミットにおいて、オバマ大統領と意見交換したが、全く進展はなく米国側は不信感を抱いた。米紙「ワシントン・ポスト」はコラムで、「オバマ政権高官が鳩山首相を『loopy(ルーピー)』と評している。」と伝えた。 在日米軍再編交渉の責任者を務めていたリチャード・ローレス元国防副次官が安倍晋三元首相に対し、「アメリカ政府高官の間では鳩山を『日本の盧武鉉』と評している。」と述べた。ローレスは理由として、同盟国の指導者としては扱えない・戦略的な話をすることが出来ない・情報を共有することができないの3点を挙げた。対米外交に軋みが生じ、対特亜やロシアの誹りが尖閣諸島での領海侵犯や北方領土へのメドベージェフの領土侵犯を招いている。
 2009(平成21)年07月26日新発田市での講演、2010(平成22)年06月02日首相退陣時など、何度か「総理大臣を経験した者は政界に影響力を残すべきでない。」、「総理大臣を終えた後、政界に残っちゃいけない。政治家たるもの影響力を残したい、という方が結構おられる。総理大臣まで極めた人がその後、影響力を行使することが政治の混乱を招いているんじゃないでしょうか。」と明言していたが、舌の根も乾かぬうちに、南朝鮮、支那、ロシアなどを歴訪し、日本外交に混乱を招き、国益を損なう利敵破壊工作を続けている。
 2010(平成22)年07月19日に次期衆院選について「来年の統一地方選のころを目安に結論を見つけたい。」と述べ、来春に進退を判断する考えを示した。そして10月28日午前、国会内で開いた自身のグループ「政権公約を実現する会」の会合で、「私の役割があるとするならば、国益に資する立場で、今しばらく頑張っていきたい。」と述べた。任期限りで引退せずに議員として活動していく考えを示し、前言をまたもやひっくり返した。
 2010(平成22)年11月21日、東京大学の「駒場祭」で、「友愛革命の灯は消さず」と題して講演。「新しい公共」、「地域主権」、「東アジア共同体」という3語を板書。この3つを「友愛の三種の神器」と呼び、「これがないと、どうなるか。菅内閣批判はいけませんね‥」と 述べた。
 2011(平成23)年02月13日付の琉球新報、沖縄タイムスのインタビュー記事で、「徳之島もダメで辺野古となったとき理屈付けをしなければならなかった。抑止力は方便といわれれば方便だが、広い意味で使えると思った。」と語った。気違いが総理大臣をやっていた。
 不倫の略奪婚で得た鳩山幸(みゆき)(67)との間に東京大学工学部都市工学科卒 東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学専攻博士課程修了 鳩山紀一郎(34)がおり、モスクワ大学客員講師。鳩山由紀夫は首相辞任後にモスクワを訪れている。対米外交に軋みが生じ、対特亜や尖閣諸島での領海侵犯や北方領土へのメドベージェフの領土侵犯を招いていた。



東京大学工学部船舶工学科卒 柳田稔(56)
 2010(平成22)年11月14日、広島市での国政報告会で、大阪地検特捜部主任検事証拠改竄事件などに言及。「皆さんも、何で柳田さんが法相と理解に苦しんでいるんじゃないかと思うが、一番理解できなかったのは私です。私は、この20年近い間、実は法務関係は一回も触れたことはない。」、「法務大臣とは良いですね。二つ覚えときゃ良いんですから。 個別の事案についてはお答えを差し控えますと、これが良いんです。 わからなかったらこれを言う。で、後は法と証拠に基づいて適切にやっております。この二つなんです。まあ、何回使ったことか。」などと得意顔で講演。さらに「法相が法を犯して話すことはできない。『政治家だからもっとしゃべれ。』といわれてもしゃべれない。」、「(菅内閣について)大変評判が悪く、私もそう感じざるを得ない。」などと述べた。


 ニセメイル事件で自殺した永田寿康(没39)も、東京大学工学部物理工学科卒である。


おまけ

東京工業大学卒 菅直人(64)
 岡山県東部(美作と備前北部)は、菅直人、江田五月、津山30人殺しの都井睦雄や牟田口廉也と並ぶ花谷正など数多くの売国奴、鬼畜を排出(輩出)している。
 父寿雄(ひさお)が朝鮮娼婦に産ませた子との噂もある。妻伸子(65、旧姓:姫井)は菅の父親と伸子の母親が兄妹の従姉弟同士の近親婚。伸子は津田塾大英文科に進学し、当初大学の寮に入っていたが、3年生から菅直人の三鷹の家で下宿を始めた。伸子が引っ越すと、ちょうど仕事の都合で菅さんの両親が三重に転勤になり、直人と姉、伸子の3人が一つ屋根の下で生活しているうちにできてしまった。伸子が津田塾大学の学芸学部英文学科を卒業。卒業後も直人とともに東京に残るため早稲田大学文学部の仏文科に学士入学し、1970(昭和45)年に卒業。同年冬に、菅直人と結婚する。いとこ婚となることから、姫井家や菅家の親族らから反対された。
 カメムシやゾウムシ以下の売国奴。ルーピー同様、一々論うのもおぞましい。北朝鮮による日本人拉致の実行犯の辛光洙を始めとする北朝鮮のスパイの釈放を嘆願。22歳も下の不倫相手の戸野本優子から、「あれほど薄汚い男だとは思わなかった。」と罵られる人間性の欠如し、癇癪持ちで短気な性格で知られ、厚生大臣時代は大臣室から怒鳴り声が漏れることもしばしばで「イラ菅」と呼ばれた。指示に対して「できません。」と答えた官僚に灰皿を投げ付けたり、自分が書類をなくしたのに秘書を怒鳴り散らした。地方に選挙応援に行った際同行していた民主党の職員が菅と同じ車に頑として乗ろうとしなかったこともある。「ここに来るまでも散々やられた。勘弁してほしい」と別の車に逃げ込んでしまった。ルーピー鳩山由紀夫と双璧。
 民社党委員長の塚本三郎の言では、「菅は、人を踏み台にして生きてきた男だ。ただ自分のためだけに人を利用してきた。このような者の誘いに乗っては身を滅ぼす。」菅が、その名を100パーセント使ってのし上がった市川房枝は、親しい後輩に「菅だけには気をつけて」と言った。菅直人は学生時代、「第4列の男」と呼ばれた。市民運動家、菅、第4列の男とは、学生時代の集会で、デモを煽るときには率先して先頭に立って演説して目立っているが、デモが始まると前列が機動隊と衝突しても、傷ついたり捕まったりする心配のないデモの第4列に付いた。

子供達にランドセルを背負わせたいのが伊達直人 子供達に借金を背負わせたいのが菅直人
必殺技を決めるのが伊達直人 「俺に決めさせるな」が菅直人
虎のマスクで顔を隠すのが伊達直人 虎の威を借るのが菅直人
庶民を勇気づけるのが伊達直人 庶民を落胆させるのが菅直人
フェアープレーで闘うのが伊達直人 スタンドプレーで目立とうとするのが菅直人
施設にランドセル贈るのが伊達直人 中露にランド・セールするのが菅直人
贈与するのが伊達直人 増税するのが菅直人
子供たちに夢を与えるのが伊達直人 子供たちに弓を引くのが菅直人
リングで虎をかぶるのが伊達直人 選挙で猫をかぶるのが菅直人
仮面を被って戦うのが伊達直人 仮免で国を動かすのが菅直人
庶民の味方が伊達直人 庶民を偽装が菅直人
ヒーローなのが伊達直人 非道なのが菅直人
マスクを外すと一般の人が伊達直人 マスクを外すと欲望の人が菅直人
希望を与えるのが伊達直人 希望を奪うのが管直人
タイガーマスクなのが伊達直人 総理大臣なのが駄目直人


 以下のブログでも論証済。
あれほど薄汚い男だとは思わなかった近親相菅光洙 No,You KAN NO.Yes,Zuru KAN. 
http://cnxss.seesaa.net/article/152910661.html
 2010(平成22)年06月25日(日本時間26日)、主要国首脳会議(ムスコカ・サミット)での外交デビューの夕食会で、「時には中国をG8サミットに呼ぶことを考えても良いのではないか。」と、国際会議での首脳の発言の一言一句は国運を左右するほど重いという認識が全くない暴言を行った。G8が「価値観の共有」を前提とすることを知らない不勉強ぶりで、各首脳から完全に黙殺され、以後無視されている。これに懲り、国内外でほとんど発言をしなくなり、メモを読むだけになった。10月30日午前、支那工作船船長を国内法、国際法を無視し釈放したが、ハノイでの東南アジア諸国連合(ASEAN)での温家宝との立ち話はわずか10分。アジア太平洋経済協力会議(APEC)で、支那の胡錦濤国家首席、ロシアのメドベージェフ大統領と会談したが、ホスト国との首脳会談は無視されないという国際常識を知らず、やきもきした。これは外務省のサボタージュ。しかも、胡錦濤とのわずか22分の会談で、終始うつむいてメモを読み続けるという、いかなる小国の首脳でもやらない愚行を行い、呆れ返った胡錦濤の口を半開きにした。尖閣に迫る支那、自ら国後島に領土侵犯をしたメドベージェフに対し、弱さ・無知・低能ぶりを露呈し、著しく国益を損ねている。
 11月27日昼、民主党の鳩山由紀夫前首相と都内の支那料理屋「溜池山王 聘珍樓」で会談し、内閣支持率の低落を踏まえ「支持率1%でも辞めない。」と述べ、民主主義を否定した専制政治を行う強い決意を強調した。支那料理屋が支那の工作機関なのは世界の常識。

 外国人からの違法献金問題で前原誠司が外務大臣を辞任した3日後の2011(平成23)年03月09日、の資金管理団体「草志会」が、2006(平成18)年と2009(平成21)年に、現在パチンコ店を経営する南朝鮮系金融機関、旧横浜商銀信用組合(現中央商銀信用組合)の元理事の在日南朝鮮人K(58)から計104万円の献金を受け取っていたことが、東北関東大震災が 起こった03月11日当日の早朝(震災の前)、朝日新聞が一面トップで報道された。翌日の03月12日、菅直人はこのKに電話し「「過去も現在も未来も会ったことはなかったことにしてほしい。」と 念を押した。
 東北関東大震災、津波、東京電力福島第一原発の放射能漏れと、菅直人は「未曾有の国難」と呼んだが、非常事態宣言を出すことはなかった。地震発生翌日の12日午前、急遽「現場を視察したい。」と言い出し、第1原発を訪問。本来放射線漏れなどの対策に専念すべき東電幹部や現場担当者らは、菅直人首相への応対に追われた。これに懲りず、菅直人はその後も被災地視察を希望し、「かえって迷惑をかける。」と周囲に引き留められた。首相官邸で国民のために重大決断を下すことが首相の仕事であることを理解していない。
 首都圏などで大混乱を巻き起こした計画停電に関しても東京電力の勝俣恒久社長が13日午後06時過ぎに発表する予定だったが、菅直人は「私が発表したい。」と言いだし、国民への周知は2時間も遅れることになった。しかも事態が悪化すると相変わらず責任転嫁ばかり繰り返した。
 15日早朝、菅直人は「陣頭指揮に立ってやり抜きたい!」と言って、統合対策本部立ち上げのため東京電力本店に向かった。それまでは陣頭指揮を執る考えはなかった。しかも訪れた際に居並ぶめ東京電力幹部に「一体どうなっているんだ!」と怒鳴り、「あなたたちしかいないでしょ。撤退などあり得ない。覚悟を決めて下さい。撤退すれば東電は100%潰れます。」と言い放った。菅直人は東京電力に3時間11分も居座った。これでは業務妨害ではないか。しかも、この間首相官邸を空けており職場放棄でもある。
 15日午前11時に発表した「国民へのメッセージ」で、「何とかこれ以上の放射線漏洩の拡大を防ぐように、全力を挙げて取り組んでいる。」と強調し、福島第一原発から半径20~30㎞以内の住民に屋内退避するよう呼びかけたが、2、3号炉周辺で400ミリシーベルトという異常な放射線量が検出されたことには一切触れなかった。この放射線量がどれほどの危険性があり、今後どのような影響があるのか。これこそが国民にとってもっとも重要な情報だが、菅直人は記者団に問われても「一つ一つがどうだという話は東電から報告する。」と答えなかった。これでは国民の不安を解消するどころか、かえって煽った。地震発生当初から、菅直人は問題をいかに解決するかではなく、国民にいかに自らを政治演出するかを優先させている。


http://6501.teacup.com/cnx/bbs 2003年 8月 4日(月)
カメムシが嫌いである。ゾウムシが嫌いである。よって、カメゾウが嫌いである。


 カメムシやゾウムシ、ウィルスにだって、生物としての存在意義がある。東京大学法学部ないしは工学部ないしそれに準ずる学歴をもちながら、ここに記した犯罪者、売国奴は、存在する価値がない。九族誅殺すべき輩で、100万回生まれ変わっても許せない。


東京大学とは

 東京大学の起源は、1684(貞享元)年に江戸幕府が設立した「天文方」と、1858(安政5)年に伊藤玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って設立された「神田お玉ヶ池種痘所」、1797(寛政9年)年に創設された「昌平坂学問所(昌平黌)」である。天文方はその後、1857(安政4)年に「蕃書調所」、1862(文久2)年に「洋書調所」、1863(文久3)年に「開成所」と変わり、種痘所も1860(万延元)年に江戸幕府へ移管された後、1861(文久元)年に「西洋医学所」、1863(文久3)年に「医学所」と変わった。
 1869(明治2年)にはこれらを統合し、「昌平学校が大学校(本校)」となり、開成学校および医学校が「大学校分局」となり、同年のうちに大学校、開成学校、医学校は「大学」、「大学南校」、「大学東校」と改称。1870(明治3年)には学制改革により大学が閉鎖され、1871(明治4年)に大学は廃止され、大学南校、大学東校は「南校」、「東校」と改称。
 両校は1874(明治7年)にそれぞれ「東京開成学校」、「東京医学校」と改称。1877(明治10)年04月12日に東京開成学校と東京医学校が合併して「東京大学」となり、この日に入学式が行われている。
 1885(明治18)年09月、「東京法学校」*1を東京大学法学部に統合。統合に伴い、東京法学校在校生は東京大学法学部仏法科に移管された。また、理学部より工芸学部を分離。1886年(明治19年)03月、東京大学工芸学部と「工部大学校」*2を統合し、帝国大学令により「帝国大学」と改称。帝国大学工科大学となった。1890(明治23)年06月12日に帝国大学に従来の理学から分離を行い、「東京農林学校」*3を統合し、農科大学を設置。1897(明治30)年06月 京都帝国大学の設置に伴い「東京帝国大学」と改称。1949(昭和24)年05月 旧制第一高等学校・旧制東京高等学校高等科を併合し、新制の「東京大学」となった。2004(平成16)年04月、「国立大学法人東京大学」となった。

*1 「東京法学校」の起源は、1871(明治4)年09月フランス語とフランス法の研究教育を目的として、時の司法卿江藤新平の主導により創設した、司法省「明法寮」。衣食住のほか、授業料も無料で小遣いが支給されるという特別の待遇で全国からエリートを集め、入学試験は、フランス語と漢語と定められた。1875(明治8年)05月に司法省所管の「法学校」、1884(明治17)年12月に文部省に移管されて「東京法学校」となった。
*2 「工部大学校」は、1871(明治4)年、工部省「工学寮」として創設。1873(明治6)年に大学が置かれ、1877(明治10)年01月には「工部大学校」に改称。1885(明治18)年、工部省の廃止に伴い文部省に移管。
*3 「東京農林学校」の起源は、1874(明治7)年に内務省勧業寮内藤新宿出張所に設置した「農事修場」と1877(明治10)年に設置された内務「樹木試験場」。1878(明治11)年、農事修学場は駒場の地に移って「駒場農学校」と改称。1881(明治14)年に農商務省が設立されると、樹木試験場および駒場農学校は農商務省管轄教育機関となる。1882(明治15)年12月に農商務省山林局が所管の樹木試験場を「東京山林学校」と改称。1886(明治19)年、農商務省の財政難により所轄の駒場農学校と東京山林学校を合併して「東京農林学校」となった。


 元防衛庁長官官房防衛審議官の東京大学法学部卒 スタンフォード大学大学院経営学修士課程(MBA)修了及び政治学修士課程修了 太田述正(61)によると、中央官庁のキャリアの中心は法律職であり、その多くが東大法卒で、日本では法学部が高等教育機関の体をなしていないため、キャリアは一般教養も学問的素養も十分身につけないまま入省してきており、その後これらを身につける機会は意外に少なく、日本の知識人像は、キャリア官僚像を範例として形成されてきた面があり、日本の論壇が不毛で、法学部は短大相当である。このような低レベルの教育機関であるので、犯罪者や売国奴の濫觴となるのも当然と断じている。

on the job training・実学・学問(その4) 太田述正コラム#1062(2006.1.27)
http://blog.ohtan.net/archives/50954771.html
この関係で、更に問題であったのは、官学において法学部の優位が確立したことです。

明治時代の初期には行政機構(政府)が法律をつくる作業を独占的に行っていたわけですが、この状態は、立法府たる国会が開設されてからも基本的にはそのまま続きました。

行政機構の行うあらゆる施策は、この法律及び、法律を受けた政令・省令・規則等の法規に基づいて行われます。

この法規の立案・制定は、日本社会の実態を踏まえて行われたというより、日本の欧米化・近代化を推進すること、つまり日本社会の実態を変革することを目的として行われました。日本の法規を欧米の法規に倣って整備することは、日本が開国する際に欧米諸国との間で締結させられた不平等条約の撤廃を図るためにも不可欠でした。

このようなことから、日本の行政機構の中では、法規に係る作業を担当する官吏が幅をきかせるようになります。

そしてその結果として、官吏養成機関であった東大、ひいては官学において、中核たる官吏を養成するところの、法学部の優位が確立するのです。

 この官学における法学部は、いかなる学問を教えたのでしょうか。

 第一に、法学は、そもそも実学的性格を持っています。法は社会に適用されて初めて意味があるからです。法学部は実学たる法学を教えたのです。

 第二に、本来の法学は法を適用する対象たる社会の法慣習等の把握(=法社会学)が重要な柱であるところ、日本の官学の法学は、欧米、就中輸入の容易であった大陸法系(ドイツやフランス)の法規の輸入と翻案(日本の法規につくりかえること)が中心であり、現実と遊離している学問でした。やや誇張して言えば、法学部は空理空論を教えたのです。

 第三に、日本の官学では、官吏登用資格試験を受験し合格するために最低限必要なことだけを教えて、後は実際に官吏になってからオン・ザ・ジョッブ・トレーニングで習得すればよい、という「合理的な」考え方をとりました。それが証拠に、官学の法学部では(そして私学の法学部でも)、理科系の卒業実験に相当する文科系の卒論が課されません。文科系では本来学士号は、学術論文の体裁で少なくとも論文を一本書くことによって初めて授与されるべきところ、法学部の学生にはそれが免除されていた、というより、法学部の最終学年の学生は、法学という学問の基礎の習得が完了していないので学術論文を書く実力が備わっていない、というわけです。

 つまり、法学部は、上述したような「学問」である法学の基礎の初歩しか教えなかった、ということです。

 かかる法学部の優位が確立することによって、一体何が起こったでしょうか。

 学問とは実学である、という観念がより牢固となっただけではありません。学問、とりわけ文科系の学問は欧米の人文・社会科学の輸入でこと足りる、という観念が確立してしまいました。その結果として学問の空理空論性が当然視されるようになりました。

学問とは実学を標榜する役に立たないものである、という「誤解」がここから生まれます。それだけではありません。そんな「学問」ならあえて習得するまでもない。現にあの法学部ですら、「学問」を習得させずして卒業させているではないか、という「誤解」すら生まれるに至ったのです(注12)。

 (注12)しかし、これらの「誤解」はこと法学部に関しては決して誤解ではなかった、というのが私の考えだ。必修科目については、何百人もの学生相手に、一方通行の講義が行われる、というのが法学部の姿だったが、こんなことが許されたのは、法学教育が「学問」の「教育」でない証拠だ。ロースクール(法科大学院)制度への移行によって、どれだけ改善されるのかは知らないが、少なくとも従来の法学部卒業生は、ことごとく短大卒相当に過ぎない、と言ってよかろう。


 大学とは、学術研究および教育の最高機関であり、西欧では技術が低く見られており、技術者が大学に入ることについて抵抗があったので、工学部の設置は遅れた。日本でも江戸時代までは、士農工商の身分制でもわかるように技術を低く見ており、陽明学、国学や和算など金とは無縁の学術研究を尊んでいた。

 ところが、欧米列強の脅威により、開国・維新を強いられた日本は、実学偏重に傾き、教育としては学部教育のみ、しかも極めて弱い自治権しか持たないまま発足し、研究・教育分野もまずは実学からスタートし、しかも研究は外国の学問の輸入、教育は外国の学問の注入を目的とした。

 日本では工部省の工部大学校や帝国大学の理学部工芸学科などが存在した。世界で初めて大学に工学部をおいたのは、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)であった。

 同様のことは帝国大学農科大学(現東京大学農学部)設立では大問題となり、設立評議会では最高学府の分科大学としてふさわしくないといった意見や当時の先進国で総合大学に農学がないこと、農林学は専門学校程度とする旨などのという反対論が依然として興って評議官が総辞職した。世界で初めて大学に農学部をおいたのは、帝国大学農科大学(現東京大学農学部)であった。

 欧米では大学に工学部を設置する動きは、第二次大戦後に本格化した。欧米では大学のなかに設置せず、恥ずかしいので、応用研究所(インスティチュート、Institute)という名前で別組織に偽装した。現在でも、工業大学はインスティチュートである。大学内に工学部を設置しなかった理由としては、エンジニアリングが実際の工場現場に密着した技術であり、大学が取り組むべきアカデミックな学問と見做さなかったためである。

 この経緯を元東京大学工学部広報室特任研究員の東京大学工学部応用化学科卒 東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻修士課程修了 内田麻理香(36)は、引用先にあからさまに書いてあるものをわざわざ都合の良い所だけを抜き出すという笑止千万な偽装をしている。
http://d.hatena.ne.jp/ut-tlounge/20071112/p1

 「私立大学」に至っては、日本最初の私立大学である慶應義塾大学の設立において、福沢諭吉が「学問のすゝめ」にも見られるように、実業家のための実学の府を目指したものであり、創立からして、応用、現世利益しか念頭にない。「私立大学」を端的に言えば、実業専門学校に過ぎない。

 法学部、工学部、農学部、(当然のことながら、経済学部、商学部、医学部、歯学部、薬学部なども)に私立大学出身者というのは、基本的に実学専門学校であり、少なくとも、最も多感で学問の吸収力が高い大学時代にこういう実学専門学校を過ごしている。このような者は、独学か自発的に学問を求道しないがきり、理念も哲学も知識も身についていない。

 明治維新後の富国強兵の促成栽培の悪影響であり、技術者としては、それで良いかも知れないが、国の将来の舵取りを行う為政者としては著しく不的確である。そのような無能が国を動かしてきたのが、明治維新後の教育で育った世代が社会の中枢を占めた大正以降の日本の有り様なのである。とりわけ、米軍GHQ以降の偏向教育を受け、大学は学生紛争でロクに実学教育ですら受けていないいわゆる「団塊の世代」が、上記の売国奴どもである。また、「ゆとりの世代」の弊害が現れ始め、日本がもたなくなるのではと予測される。

 また、今の支那の首脳は、おぞましいほど、悉く工学部の出身である。ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ヨシフ・スターリン)は、誰を粛清するか考えるとき、父親が靴屋だったので靴を作りながら考えていた。アドルフ・ヒトラーは、実業学校中退、画家を目指しウィーン美術アカデミーの受験を失敗し、建築家を目指そうとも思った時期があった。

 胡錦濤(胡錦涛) 清華大学水利工程学部
 ?家寶(温家宝) 北京地質学院(現中国地質大学)卒
 習近平 清華大学化学工程部卒
 江澤民 上海交通大学(南京中央大学に入学したが合併)卒
 朱鎔基 清華大学電機製造学科卒
http://cnxss.seesaa.net/article/152910661.html
http://blogs.yahoo.co.jp/cnxgeo/8001262.html

 北朝鮮の金正恩はミサイル専攻、後見人の李英コウ(コウは金偏に高)は砲術の専門家。

 短大相当でしかない法学、工学や農学を大学の学部とするといった実学偏重の風潮は、その後の日本の高等教育にペーパーテストだけ得意な「秀才」を生産し、大学の基礎学問や自治を軽視するという凄まじい弊害をもたらした。また、旧制高校のGHQによる廃止、ゆとり教育や、国立大学独立法人化の際にも、目立った反対運動が起きていない。工業は産業資本家の犬としても、農科大学設立の際、設立委員会の評議官が総辞職し抗議したのに対し、それからわずか数十年(約2世代)でこの有り様の腑抜けぶりである。児孫の為に美田を買うべきでなかった。