cnx うぇぶろぐ

現代日本語の「うぇぷろぐ」 古文の「ゑぶろぐ」の姉妹版
過去ログ

「暫定」税率と「恒久」減税

2008年03月31日 15時09分51秒 | インポート
 道路特定財源は、田中角栄が昭和28年、議員立法で成立させた。「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」法案は27年に提出され、衆院を通過したが、参院での審議中、吉田茂の「バカヤロー解散」で廃案。しかし、田中角栄は、28年に再び法案を提出し、7月に成立。33年には「道路整備緊急措置法」、平成15年に「道路整備費の財源等の特例に関する法律」と名を変えて現在に至る。そもそも、根拠法自体が、昭和28年から、55年間に渡って「臨時」→「緊急」→「特例」と名前は変わっても「暫定」立法だったのである。このうち、揮発油(ガソリン)税の暫定税率は、第1次オイルショック後の昭和49年度から2年間の暫定措置だった筈だったのだが、34年も続いている。
 田中角栄の子分の小渕恵三は、平成11年、所得税の恒久定率減税をぶち上げた。消費税の増税の批判を交わすためだったが、昨年(平成19年)廃止。わずか8年間が恒久減税の寿命だった。
 34年間、恐らく1ケ月の休止を挟んで半永久に続く「暫定」、8年で終ってしまった「恒久」。これは、言葉の概念を破壊している。言葉の重み、「武士の一言」、「商人道」といった美徳の喪失に繋がり、一連の(今から延々と続くであろう)偽装の連鎖を引き起こしている。
 しかし、こういった現象は日本だけではなく、第2次世界大戦後の緊急措置だったサマータイムを未だに続けているし、明らかな「犯人」を「容疑者」と呼んだり、「アングロ・サクソン世界」を「グローバル」、「気違い」を「脅迫神経症」と誤魔化したりしているのである。言霊としての言葉の重みを軽薄化している。最近、耳障りなのは、教育番組に出てくる牝芸人が「ヤツ」と言うのが何とも品がない。中身がないのなら、返って品性くらいは偽装してもらいたいものだ。

願わくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

2008年03月29日 21時10分18秒 | インポート
 西行には桜の歌が230首あるそうで、生前、自撰の「山家心中集」を藤原俊成に贈った。大好きな「花(櫻)」と「月」の歌ばかりだったので、俊成に、「山家心中集 花月集ともいふへし。」と皮肉られたほどだ。
 一番有名なのは、下の辞世の歌だろう。

願わくは花のもとにて春死なむ
                    その如月の望月のころ

http://tompei.way-nifty.com/diary/2004/05/post_28.html

広辞苑で「願わくは」を引いたところ、ネガフのク語法に助詞ハの付いたもの。江戸時代ごろからネガワクバともいうようになった。

にもあるように、「ねがわくは」が正しい、というより、西行法師の作品を江戸以降の読みで読んではいけないのである。
 釈尊入滅の如月十五日、大好きな桜の下で、大好きな満月のころに、死を迎えたいと祈願してこの歌を詠み、その通りになったそうで、「ねがわくは」、斯くありたいものである。さて、今年の太陰暦如月十五日は、一週間前の太陽暦三月廿二日だった。櫻は咲いていないかった(当日はベトナムなので見てはいないのだが)。

姉妹便のゑぶろぐでは、ゑぶろぐ(山家心中集風)を掲載。
http://blog.goo.ne.jp/cnx/

櫻の樹の下には

2008年03月28日 13時36分52秒 | インポート

今年の桜

 桜の季節になると、思い出す一文がある。短いので全文引用。桜ではないが、小学校の頃、川の土手の松の一本一本に筵で包んだ袋がぶら下がっていた。この中に犬や猫が死ぬと松の木に吊るして、そのうち、腐って落ちて松の養分になると聞かされたが、戯れ言かもしれない。とにかく、その当時はそれを信じていた。

櫻の樹の下には
梶井基次郎

 櫻の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。櫻の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
 おまえ、この爛漫と咲き乱れている櫻の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。櫻の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳のだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
 二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰わした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。
 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。
 ――おまえは腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。
 ああ、櫻の樹の下には屍体が埋まっている!
 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで櫻の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。