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北京の55日(55 DAYS AT PEKING)

2008年05月20日 10時50分36秒 | インポート

北京の55日 デジタルニューマスター版


55 TAGE IN PEKING(ドイツ語吹き替えの予告編)

LES 55 JOURS DE PÉKIN - 55 DAYS AT PEKING(フランス語吹き替え)

55 días en Pekín(スペイン語吹き替え)

55 Days At Peking(英語版冒頭部)
55 Days At Peking(英語版結末部)

北京五輪の17日
(108年後の北京の55日)


ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ
時は弐千八年 北京五輪の17日 肉弾相撃つ 警護団事件
連合軍を 向こうにまわし 決戦挑む 暴徒の族
フランス イギリス イタリア ロシア 更に加えて 精鋭日本
華の北京 今や死の街

ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ
胡錦濤の 号令一下 連合軍に 突撃かける
死に物狂いの 支那国兵士 喚声市街に 轟き渡り
ドラム ラッパもまた勇ましい
華の北京 今や火の海

ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ

北清事変(義和団の乱)
明治33(1900)年04月05日~明治34(1901)年09月07日


 わずか108年前(煩悩の数)、支那は清朝末期の阿片、賄賂、汚職、賭博、乱脈政治など宦官による堕落腐敗の極にあった。19世紀後半からの欧米列強の侵略により、清朝の威信は失墜し、人心は動揺し、守旧、進歩の二派に分かれ抗争していた。
 列強、とりわけ、耶蘇教の横暴に対する反感と生活不安から、「仇教滅洋」「扶清滅洋」を掲げ、孫悟空や諸葛亮、趙雲といった「西遊記」、「三国志演義」の登場人物を神と祀る義和団が野火のように勢力を拡大し、外国勢力と耶蘇教教徒を襲撃し始めた。清国政府は鎮圧の約束を履行せず、さらに06月11日には日本公使館書記生杉山彬、06月20日にはドイツ公使ケットレルが殺害され、もはや軍事行動による解決しか術はなくなった。ここにおいて、西太后がこの暴乱を支持し、欧米列国に宣戦布告したため、国家間戦争となった。
 当初、日本は、列強の共同軍事作戦には消極的だったが、度重なる英国等の出兵要請を受けたため、司法省通訳から選抜され軍職に就き、単騎シベリア横断の壮挙をもって知られる福島安正少将を司令官として派遣した。英・独・仏・露・支那語を自在に駆使し、指揮官会議を終始リードした。福島少将の語学の堪能さに各国指揮官は唖然としたという。第5師団(山口素臣中将)8000名を主力とする日本軍は、北京攻撃時、英・米・日・露・独・仏・伊・墺の8ケ国連合軍1万9千名の主力戦力(1万3千名)であった。

北京籠城 明治33(1900)年06月20日~08月14日

 映画「北京の55日」は、アメリカ軍将校チャールトン・ヘストンが主役で活躍する、文明(西欧)と野蛮(支那)という西欧中華思想に基づいたB級映画である。同じ、チャールトン・ヘストン主演の猿の惑星もよく似かよっている。全米ライフル協会の会長でもあったチャールトン・ヘストンは先月05日に死んだばかりだが、主演作品に共通するのは、脂ぎった毛唐が大活躍で、画面から体臭が漂ってきそうだ。

 ところが、北清事変の真の主役は、映画「北京の55日」の中では、伊丹十三が演じている、コロネル・シバこと、柴五郎中佐である。籠城組の全体的な指揮官はイギリス公使クロード・マクドナルドだが、籠城戦に当たり実質上の総指揮を取ったのは最先任佐官の柴五郎である。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付陸軍武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英・仏・支那語に精通する柴中佐は、間に立って相互理解に大きな役割を果たした。また、柴中佐は参謀本部の命により北京城とその周辺の兵要地誌を調べ上げており、陸軍屈指の支那通の将校であった。清国についての広範な知識を持ち、多くの清国人諜者を使っての情報収集など柴中佐なしには籠城作戦は不可能であった。この活躍は世界各国から賞賛され、事変後は各国政府から勲章を授与された。コロネル・シバの名は世界的に知られることになった。柴五郎は、明治期の政治小説『佳人之奇遇』で有名な東海散士こと柴四郎の弟にあたる。

 激戦となった粛親王府には連日連夜、数百倍の清国軍が猛攻を繰り返すのに対して、日本軍は義勇兵を入れて50数名しか居なかった。(他に清国難民の義勇兵30 名)。柴中佐は、多国籍軍の指揮官として55日間を勇猛に戦い抜き規律正しく行動した。柴中佐の武士道精神に籠城した欧米人がいかに感嘆し絶賛し、中佐に限りない畏敬と信頼の念を抱いた。英国公使館で婦女子が囚われたときも100名の敵兵に10名で斬りこみ救出した。婦女子が尊敬する本物の武士である。

 もし、粛親王府の防御が敗れたなら公使館区域は死命を制され、各国守備隊は全滅。婦女は陵辱を受け、居留民は残らず惨殺されたのは間違いない。柴中佐と日本軍の奮戦がなければ、悲惨な運命が不可避だったからこそ、籠城中の欧米人は事実上の指揮官の柴中佐を賞賛したのである。

ピーターフレミング 「北京籠城」
戦略上の最重要地である王府で日本兵が守備の背骨であり頭脳だった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中どの仕官よりも優秀で経験も豊かであったばかりでなく誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人はほとんど居なかったがこの籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範としてみんなの目に映るようになった。日本人の勇気と信頼性そして明朗さは籠城者一同の賞賛の的になった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも、間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。


ロンドンタイムス社説
籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。


 柴五郎という名に聞き覚えがあるなと思ったら、ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書という自伝を読んだ事があった。少年時代の回想と怨み言ばかりで、赫々たる武勲など一切出てこない。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かれるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。

 俘虜として東京に送られ、会津藩は67万石は下北半島の恐山山麓に斗南藩3万石に移封される。「藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託」したのだが、新領地は実高7千石。柴五郎とその父、兄嫁は極寒の下北半島で極貧の冬を過ごした。
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の歳月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれなり。

 戊辰戦争で敗軍の惨たらしさを知り、官軍の略奪暴行を少年期に味わってきた柴中佐は、略奪暴行を許さなかった。北京落城後、現地の治安維持を担当し、略奪等違法行為をはたらいた連合国兵士は即座に逮捕して、それぞれの軍にどんどん突き出したという。その柴五郎の帰国が決まった時、北京市民はこぞって別れを惜しんだという。
 この事変中、混乱に乗じた略奪や暴行は目に余るものがあり、各国の軍が略奪行為を行ったという。特に酷かったのはロシア軍と清国軍の敗残兵で、混乱に乗じての略奪・残虐行為は手がつけられなかった。イギリスのタイムズ紙の記者は「ロシアは価値ある物は全て包装し、ラベルを貼りつけた。」と報告している。イギリス軍も略奪を行い、その品物を公使館の中でオークションにかけていた。
 紫禁城を略奪から防ぐため日本軍は東華門、神武門、西華門を米軍は南門の守備にあたり、規律厳正な日本軍管轄区域には、保護を求めて各地から大勢の支那人が集まった。略奪行為、残虐行為を行わなかった日本軍管轄区域は安全だという噂が広がり、大勢の北京市民が日本軍管轄区域に逃げ込んできたのだった。日本軍に接収されていれば他国の軍隊に略奪されないという事で、多くの民家やテントには日の丸が掲げられていた。日本軍にしてみれば接収などしていない民家に日の丸が掲げられては日本の信用に関わるという事で、日の丸を妄りに掲げないようにという通達を出したほどだった。
 海軍陸戦隊は太沽砲台奪還の戦闘で奮戦、陸軍部隊も北京公使館救援作戦で勇敢さと軍紀の厳正さを示し、列国のみならず敵側の清国からも賞賛を得た。東洋の一小国日本の強さを世界に認識させる結果となり、柴中佐と共に籠城していたマクドナルドイギリス公使が推薦し、日英同盟を結ぶに至った。柴中佐の率いる日本軍の規律正しく勇敢な姿と中佐の統率力に感銘したからだと言われる。
 北京籠城を余儀なくされた外国人は925名、戦死者は20名。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、連合国の中で最も死者率が高かった。この事変を通じても、最も多くの死傷者を出したのは日本で、死者349名、負傷者933名だった。
 8ケ国連合軍による北京占領後、団匪(義和団)の討伐作戦があったが、実際の軍事活動期間は短かったが、多数国による共議のため、各国の調整に長時間要し、辛丑条約として講和の成立を見たのは、翌明治34(1901)年09月07日であった。

アムール河の虐殺 明治33(1900)年06月01日

 清国兵がロシア領ブラゴエシチェンスクを襲撃した報復に、ロシアは同地の清国人を捕縛し、老若男女5000人あまりを黒竜江(アムール河)で虐殺した。この惨劇は清国人のみならず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行為を糾弾する声が高まった。
 義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは笑みを浮かべ、「満州を占領する口実ができた。満州を第二のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもりだ。」とウィッテ蔵相に語り、ロシアは東清鉄道の防衛を口実にして大軍を送り込み、ついには満州全土を占領した。皇帝ニコライ2世は、満州を占領後は更に朝鮮の占領を欲しており、ロシアの侵略的野心は止むことはなかった。これが、日露戦争に繋がっている。

元歌の殺人犯の克美しげるが歌った日本語版(エイトマンのB面)とThe Brothers Fourの原曲。
55 DAYS AT PEKING

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom-bom

The year was nineteen-hundred
T'is worth remembering
The men who lived through
Fifty-five days at Peking

T'was called the Boxer Insurrection
A bloody oriental war
Against all nations of the diplomatic corps

The flags of France and Britain
How they fluttered in the breeze
The Italian and the Russian
And the flag of the Japanese

Then came the sound of bugles
The rolling drums of fury
And the streets of Peking
Were as empty as a tomb

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom-bom

The Empress of all China
Gave the signal to begin
Let the foreign devils
Be driven from Peking

They stormed the French legation
They attacked with shot and shell
And they came in blood red blouses
Screaming Shashou as they fell

The drums have long been muffled
The bugles cease to ring
But through the ages
You can hear them echoing

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Fifty-five days at Peking

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Fifty-five days at Peking

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom.....


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