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おフランス(aux France) その3

2008年05月23日 18時27分20秒 | インポート
← セーヌ川(La Seine)
 1961年10月17日にアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲撃し、パリ市内の至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われた。
 虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。


フランスの野蛮性の検証
~西欧の朝鮮・東北アジアのフランス~


 1961年10月17日、パリのど真ん中でアルジェリア戦争(1954~62年)に反対する3万人のアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲い、70~200人を虐殺し数百人が負傷、死体をゴミ箱やセーヌ川に投げ入れるという虐殺(Paris massacre of 1961)が発生した。
 10月06日に警官がアルジェリア民族解放戦線(FLN)に襲撃されると言う事件が起こり、パリ市警視総監のモーリス・パポンは「一発やられたら10倍にして返す。」と警官の葬儀の際に発言し、パリのアルジェリア人に対し、夜間外出禁止令を命じた。騒然とした緊張感が高まった17日の夕方、「アルジェリア人のアルジェリア」をスローガンに夜間外出禁止令への抗議デモを行ったところ、彼らに対する鎮圧は地獄絵となった。
 パリ市内の至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われた。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌ川の岸におびただしい数の死体が打ち上げられていったが、警察はこの死者の数を訂正しなかった。さらに酷いことには、この事件が起こったことは、1998年まで秘密にされてきた。
 アルジェリアが地中海を挟んだフランスに支配されたのは1834年。それ以来、フランスは130年近くに渡ってこの地を支配し、100万人以上のフランス人が入植し、アルジェリアを海外直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)と称していた。日本の大東亜戦争によって、世界秩序が変わり、白人の圧政に対し、独立の機運が高まり、1954年にアルジェリア独立戦争が始まる。1962年まで続いたこの戦争はアルジェリアに約100万人、フランスに約10万人の犠牲者を出した。
 フランスは、アルジェリアを海外県として、「フランスの秩序を乱す内乱」と捉えていた。フランスがこの戦争を「内乱ではなく独立戦争である。」と認めたのは、戦争が終結して40年近く経った1999年のことである。
 多くのアルジェリア人がフランス人として戦争(普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争など)に駈り出された。第一次大戦の激戦地ベルダンでは1万5000人のフランス軍兵士が命を落としたが、そのうちの600人はアルジェリア人であり、イスラム教徒である彼らの墓には十字架は存在しない。アルジェリア戦争でも多くのアルジェリア人がフランスのために祖国と戦い、アルジェリアで命を落とした。
 アルジェリア独立戦争にフランスは敗れ、現在でも、アルジェリア出身と聞いただけで、フランス人は、敵意をその移民に抱くようだ。インドシナ戦争やアルジェリア戦争でのフランスの残虐行為は、言うまでもない。

 2005年10月27日にフランス・パリの東にある郊外から全国に飛び火したパリ郊外暴動事件が発生した。北アフリカからの移民は、警官隊に向かって銃を撃ち、全く罪のない非移民を1人殺し、店舗を壊し、無数の車を燃やした。もっとも、フランスでは大晦日に毎年400台程度の車が燃やされるそうだから、それほど大したことではないらしい。
 ユダヤ系のサルコジ内相(当時)は、北アフリカからの移民を「社会のくず(Racaille)」、「ゴロツキ(Voyou)」などと品性のかけらもない暴言で罵倒し、フランス人の共感を呼んだ。この暴言により、大統領に選出されたとも言える。また、北アフリカからの移民の暴動の原因に、ラップをあげる新聞などが複数あり、「なんでもアメリカのせい」(アンチ・アメリカ主義 anti-americaine)という、フランス人の属性を曝け出し、とりわけ周辺諸国のメディアをはじめ、傍観者の失笑を買った。

 欧州諸国中イスラム教徒の人口が一番多く、「自由・平等・博愛」の共和国原理をもつはずのフランスだが、フランスにおける移民の分離・失業・社会的疎外状況は、西欧諸国の中で最悪な状況である。ところが、暴動が起こるまで、社会党のシラク大統領(当時)は、「フランスに移民問題は存在しない。」と、アメリカの移民問題を批判していた。ドイツやイギリスなどには移民の面倒をみたり、移民に非暴力を教えるクラブや組織のネットワークが存在するが、フランスにはなく、他の国では、2世以降の移民がスラムや分離された下層階層から抜け出て就職するのが可能だが、フランスでは極めて困難である。また、フランスだけには、抗議を暴力に訴える長い伝統がある。その意味では、移民はフランスの農民や組合員がやってきたことに倣ったに過ぎない。

 この伝統に則り、「南京虐殺」、「従軍慰安婦」、「靖国神社」など事実歪曲の反日批判を繰り返している。

 平気で嘘をつく、自分が優位に立てる行為には、落ち度のない相手でも怒鳴る、故意に物事を複雑にする、他人が熱意をもって説得しても、そっけないほどつっけんどんなくせに、自分が関心のあることだと厚かましいほど熱心。何かにつけて、Viva la France!(フランス万歳!) Viva la République française!(フランス共和国万歳!)。 これがフランス人である。 

 まとめると、無愛想で嘘つきで自分勝手で自己中心主義、世界中から嫌われている。どこかで目にしたような、・・・。と思ったら、朝鮮人だった。共和国万歳!(Viva la République!)。
 ユーラシアの西と東の端の半島と考えれば瓜二つだ。そういえば、ヴィエトナムもフランスなんかの植民地になったため宗主国に倣って、特に、ヴィエトナム戦争以降、品性劣悪な国に堕ちてしまった。以前は、性格の良い民族だったらしい。ラオ(これもフランス語の綴りが複数形のLaosでラオと読むが、英語では語尾の「s」を読むのでラオスになってしまった。)でも、久しぶりに最近訪れてみたら、ボッたくっられて、無性に腹が立った。また、行ったことはないし、内戦や伝染病が蔓延していて、大金を積まれても行きたくもない、西アフリカなんかも旅行記を読むと同じようだ。

フランス人の反日語録

シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール (Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle)大統領
池田勇人首相を「トランジスタ商人」呼ばわり。

ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)大統領
「率直に言うと、日本よりも支那の方が好きだ。香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所も有名な庭園も陰気だった。」、「ポマードを付けた太った男同士が戦うことが魅力的なのか。相撲は知的スポーツではない。」

エディット・クレッソン(Édith Cresson)首相(社会党)
「日本人はウサギ小屋に住み、2時間もかけて通勤するワーカホリック。」
人種差別発言に対し、抗議した日本政府に対し、「市場において我々に何の利益ももたらさない国からの抗議は受けられない。」
在仏日本国大使に対し、「日本人は蟻。何度殺しても出てくる蟻。」
「日本は規則も守らず世界征服を企む。」、「欧米を出し抜くことに懸命な黄色いチビ。」

ローラン・デュマ(Roland Dumas)外相(社会党)
1994年にカンボジアのポル・ポト派とフン・セン派の和平交渉が成立した際、「カンボジアは日本が侵略して以来混沌の極致にあったが、いまやっと平和の火が灯された。」

 フランスは、全世界に武器を輸出し、戦争を拡大させて血をすすっている死の商人の国なので、お得意様の支那には頭が上らないのだろう。三色旗にハーケンクロイツを書いてもらってはどうだろうか。ついでに、猿居士は変態、呉損は売春婦と書いてもらうのはどうだろうか。ナボレオンやジャンヌダルクと同等の扱いなら鼻が高いだろう。カールフールは毒餃子というのも忘れないように。
 他の言も酷いが、呉損という社会党の馬鹿女は気違いそのものだ。ロシアのプーチンなら刺客を送っている。大東亜戦争で、フランスの植民地支配を終焉に導いた日本に殺意を抱いているのである。デュマは、フランスの過酷な植民地支配からヴィエトナム、カンボジア、ラオを解放した日本を逆にフランスに置き換え、歴史の捏造、フランスがどの面してと、まさに「西欧の朝鮮」。当時の映像で、フランスの女がウィエトナムの子供にお菓子を地べたに投げ与えているのが残っている。人間扱いをしていないのがよくわかり、腸が煮えたぎった。
 そもそも、ディエンビエンフーの戦いとか、弱いくせに無益な戦闘を行い、ボロ負けを喫し、アメリカの介入を招いた。カンボジアでも、ポルポトの共産党をクメール・ルージュ(赤いクメール、フランス語)というように、フランスの左翼が援助し、フランスのお家芸の虐殺を叩き込み、120万人と呼ばれる大虐殺を行わせた。

 この人類に対する大罪を犯したフランスの責任回避と日本へのなすり付けは絶対に許してはいけない。

 補足すれば、フランスはこの時、シラク大統領だったか、カンボジアにコックを連れて入り、「本格的なフランス料理に飢えていただろう。」と、カンボジア政府要人をもてなしたが、自己中心の中華思想の馬鹿丸出しが周囲の失笑を買った。

つい最近できたばかりのフランス(その1)
 フランスは、欧州諸国中イスラム教徒の人口が一番多いというのに、現在の大統領が2005年11月に、暴動を起こしたイスラム教徒たる市民を「クズ」と呼ぶような国なのだ。
 このフランスの凋落ぶりは目を覆うばかりだ。
 英語圏で知られているフランスの作家は、今や余りばっとしない小説家のウェルベック(Michel Houellebecq、1958(1956?)~)くらいなものだし、フランスの哲学者に至っては皆無で、デリダ(Jacques Derrida、1930~2004)が嘲笑的に思い出されるくらいのものだ。
 フランス料理の人気は下がるばかりだし、パリが流行の中心をニューヨークとロンドンに譲ってから久しい。


おフランス(aux France) その2

2008年05月22日 11時51分06秒 | インポート
調和広場(Place de la Concorde)からルーブル美術館を望む
ジャコバン派政権下、国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、質量保存の法則の発見者ラボアジェ、ギロチンの発明者ギヨチーヌ、マラー、ダントン、ロベスピエールらのジャコバン派も、コンコルド広場のギロチンで処刑され、10ケ月間に2800人とも言われる。

 フランスと言えば、フランスベッドフランス書院フランス被れだろう。この3つのうち、嫌いなのは、フランス被れだけで、残りの2つは嫌いではない。「おフランス(aux France) その1」を書いているので、読者に誤解があるかも知れないが、私はフランスが嫌いではない。嫌いなら4回も10時間も飛行機に乗るという苦行をしてまで行ってはいないし、フランス語を学習し続けてはいない。フランスで、ボラれたり、人種差別を受けたり、強盗に2回も遭いそうになったのだが、あの雰囲気が嫌いではない。泥棒に遭ったのは、唯一マレーシアだけで、それも2回だが、マレーシアが嫌いにはならないのと同じである。
 星広場のアーチ(Arc de triomphe de l'Etoile)から、ルーブル美術館(Musée du Louvre)に向け、親友とカフェやエール・フランスに立ち寄りながら歩いていた。これが、極楽通りにて(aux Champs-Elysées)である。フランス被れの悪口を話ながら歩いていたら、 見ず知らずのフランス被れの日本人の女が非難染みた口調で話しかけてきた。そこで、「ここはフランスだよ(C'est la France.)。」と返したら、黙ってしまった。

 現大統領のニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)は、父がハンガリー人、母がギリシアのユダヤ人の移民2世、去年の大統領選の社会党の対立候補のマリー・セゴレーヌ・ロワイヤル(Marie Ségolène Royal)は植民地のセネガルのダカール出身、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、イタリアのロンバルディアを出自の帰属がころころ変わったコルシガ人の移民で、コルシガ名はナブリオーネ・ブオナパルテ(コルシガ語: Nabulione Buonaparte)である。マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)こと、フランス名:マリー・キュリー(Marie Curie)はポーランド人の移民、イヴ・モンタン(Yves Montand)はイタリア人の移民、ジャン・レノ(Jean Reno、本名:Don Juan Moreno y Jederique Jimenez)は両親がスペインのアンダルシア人で植民地のモロッコのカサブランカ生れの移民2世、頭突きのジネディーヌ・ジダン(Zinedine Yazid Zidane)はアルジェリアのベルベル人の移民2世、日産を食い物にしたカルロス・ゴーンこと、カルロス・ゴーン・ビシャラ(Carlos Ghosn Bichara)は父はレバノン人、母はフランス人の間の子でブラジルのポルト・ベーリョで生まれで、レバノンのベイルートで育っている。ここに挙げた有名人は、生粋のパリッ子どころか、フランス本国者は1人もいない。

一体、フランスとは何なのだろうか? 歴史を振り返る。

 古代、地中海沿岸のギリシャ人都市を除くとケルト人が住む土地で、ローマ人はこの地をガリアと呼んでいた。カエサルは紀元前1世紀に遠征し、共和政ローマの属州とした。5世紀になると、民族大移動が起こり、ゲルマン系西ゴート族が移動。西ローマ帝国が滅び、ゲルマン系フランク族サリー支族がつくったフランク王国が勢力を伸ばした(カロリング朝カール大帝のとき最大版図)。カール大帝(フランス語読み:シャルルマーニュ大帝)の子のルートヴィヒ1世(フランス語読み:ルイ1世)の死後、王国は3つに分割され、そのうち、カール2世(フランス語読み:シャルル2世)が継承した、西フランク王国がフランスである。

 西フランク王国は弱体化し、各地の領主が勢力をもっていた。9世紀には、ヴァイキングとして海賊活動を行うゲルマン系のノルマン族を率いてフランス北岸に侵入したロロに、セーヌ川を遡りパリは攻略された。西フランク王シャルル3世は、慰撫策を取り、ロロにノルマンディーを与え、ノルマンディー公に叙した。10世紀、カロリング家は断絶。西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーが王として選ばれ、カペー朝が成立した。王権を拡大させた。後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝はカペー家の分族である。

 アンジュー伯アンリが、同時に、イングランドの初代国王ヘンリー2世となり、イングランド、ノルマンディ、アキテーヌ、アンジュー、ブルターニュを領有しアンジュー帝国(プランタジネット朝)が成立した。後のランカスター朝、ヨーク朝はプランタジネット朝の最末期に別れた分家である。ジャンヌ・ダルクなどが活躍した百年戦争に負けたイングランドでは、フランス側の領土を失い、イギリスでは薔薇戦争が続いて諸侯は疲弊し没落し、王権は著しく強化され。テューダー朝による絶対君主制が成立した。フランスでは血で血を洗うサン・バルテルミの虐殺(Massacre de la Saint-Barthélemy、聖バーソロミューの虐殺)や宗教戦争が起こったが、統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制が確立した。

 1789年の革命でアンシャン・レジーム(Ancien Regime)は否定されたが、ナポレオンは以前にも増して深く分裂した国家を後世に残した。ブルターニュ(ブルトン語:Breizh)とヴァンデー(Vendée) は歴史家が虐殺と呼ぶほど悲惨な目にあった。例えば、ニーム(Nimes)を中心とするガール(Gard)県は、フランスの北アイルランドとも言うべき場所だが、プロテスタントがカトリック教徒によって虐殺されている。フランスのかなりの地域は山賊によって支配されていたし、大都会のいくつかは事実上独立国家のようなものだった。

 1871年、皇帝であるナポレオン3世が捕虜となり、帝国は瓦解し、03月28日、パリで政府に代わるパリ・コミューンの設立が宣言された。だが、フランス軍はプロイセンの支援を得て05月28日にパリを鎮圧し、万を超える労働者や革命家の粛清が行われた。普仏戦争における屈辱的な敗北とアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorrain)の割譲について責任追及が行われ、第2帝政の廷臣が引き出された。「彼らこそフランスの男たちの、ひいてはフランスそのものの士気を低下させた。」と断罪された。普仏戦争から何十年も経ってもフランスは普仏戦争を引きずっていた。

 1914年に戦争が再び避けられないと考えられるようになると、フランスの人々はまた大破局が繰り返されるのではないかという恐怖にとらわれた。マルヌの戦いは09月の初めの数日間続き、25万人のフランス人が命を落としたが、フランス人は150万人の犠牲者を出すという代償を支払って、第1次世界大戦の間ずっと共和国を存続させた。フランス革命によって生まれた民族主義は、フランスの内外に大小の戦争を何度となく引き起こし、1世紀以上かけてフランスを統一した。

 民族主義は、第1次世界大戦後にオーストリア・ハンガリーという帝国を解体するために米国によって用いられ、結果として欧州の情勢を不安定化した。次いで欧州で共産主義というイデオロギーが生まれた。米国が期待したように民族主義が共産主義への対抗力として機能せず、共産主義は猛威をふるい、民族主義がファシズムへと変貌し、世界中に塗炭の苦しみをもたらした。全てはフランスが根源である。

 18世紀以降、フランスはアジアやアフリカ、南北アメリカに触手を伸ばし、多くの植民地を所有したが、20世紀に入り、日本の大東亜戦争などにより、多くが独立を果たしたが、今なおカリブ海や南太平洋地域に「海外県」と自称する植民地を保有し、原住民を弾圧している。

フランス民族というのは存在するのだろうか?

 歴史的な経緯から、フランスは、ケルト人・ラテン人・ゲルマン系のフランク人など混成民族を中核とする欧州最大の多民族国家である。ブルターニュではケルト系のブルトン人、スペインとの国境付近にはバスク人、アルザス・ロレーヌは元々ドイツ文化圏に属し、コルシガ島もイタリア人に近いコルシガ人が住む。東欧などから多くの移民・政治的難民を受け入れ、近年では、イスラム教徒のアフリカ・中近東からの移民が多い。

 言語は、公用語であるフランス語のほかに、オック語などの幾つものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語、アルザスではドイツ語の方言であるアレマン語の一つのアルザス語、コルシガではコルシガ語が併用されている。

 20世紀になるまで、フランス語はフランスにおいて少数派の言語であり、スタンダール(Stendhal)は1830年代に「フランスの文明化された部分はナント(Nantes)とディジョン(Dijon)を結ぶ線の北側だけであり、その他のすべては野蛮な地域である。」と書いている。「連中は魔女の存在を信じており、フランス語を読むことも喋ることもできない。」という有り様である。その後、人気の観光ガイドブックはどれも、都会以外を訪問しようとする観光客に、「地元住民に話しかけるな。」という警告文を記していた。ミシュランが1912年に、フランス全土に標識を立てるよう政府に求める請願を行ったのは、自動車を運転する人々が得体の知れない地域の種族と接触するのを避けるためであった。1830年の革命で復活した立憲君主制の時代、1839年から1848年の間、パリの街中での戦闘はなかったのだが、この程度でも、「羨むべきほど安定していた時代」と言われたほどであった。

北京の55日(55 DAYS AT PEKING)

2008年05月20日 10時50分36秒 | インポート

北京の55日 デジタルニューマスター版


55 TAGE IN PEKING(ドイツ語吹き替えの予告編)

LES 55 JOURS DE PÉKIN - 55 DAYS AT PEKING(フランス語吹き替え)

55 días en Pekín(スペイン語吹き替え)

55 Days At Peking(英語版冒頭部)
55 Days At Peking(英語版結末部)

北京五輪の17日
(108年後の北京の55日)


ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ
時は弐千八年 北京五輪の17日 肉弾相撃つ 警護団事件
連合軍を 向こうにまわし 決戦挑む 暴徒の族
フランス イギリス イタリア ロシア 更に加えて 精鋭日本
華の北京 今や死の街

ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ
胡錦濤の 号令一下 連合軍に 突撃かける
死に物狂いの 支那国兵士 喚声市街に 轟き渡り
ドラム ラッパもまた勇ましい
華の北京 今や火の海

ぶむぶむぶむぶむぶむぶむ

北清事変(義和団の乱)
明治33(1900)年04月05日~明治34(1901)年09月07日


 わずか108年前(煩悩の数)、支那は清朝末期の阿片、賄賂、汚職、賭博、乱脈政治など宦官による堕落腐敗の極にあった。19世紀後半からの欧米列強の侵略により、清朝の威信は失墜し、人心は動揺し、守旧、進歩の二派に分かれ抗争していた。
 列強、とりわけ、耶蘇教の横暴に対する反感と生活不安から、「仇教滅洋」「扶清滅洋」を掲げ、孫悟空や諸葛亮、趙雲といった「西遊記」、「三国志演義」の登場人物を神と祀る義和団が野火のように勢力を拡大し、外国勢力と耶蘇教教徒を襲撃し始めた。清国政府は鎮圧の約束を履行せず、さらに06月11日には日本公使館書記生杉山彬、06月20日にはドイツ公使ケットレルが殺害され、もはや軍事行動による解決しか術はなくなった。ここにおいて、西太后がこの暴乱を支持し、欧米列国に宣戦布告したため、国家間戦争となった。
 当初、日本は、列強の共同軍事作戦には消極的だったが、度重なる英国等の出兵要請を受けたため、司法省通訳から選抜され軍職に就き、単騎シベリア横断の壮挙をもって知られる福島安正少将を司令官として派遣した。英・独・仏・露・支那語を自在に駆使し、指揮官会議を終始リードした。福島少将の語学の堪能さに各国指揮官は唖然としたという。第5師団(山口素臣中将)8000名を主力とする日本軍は、北京攻撃時、英・米・日・露・独・仏・伊・墺の8ケ国連合軍1万9千名の主力戦力(1万3千名)であった。

北京籠城 明治33(1900)年06月20日~08月14日

 映画「北京の55日」は、アメリカ軍将校チャールトン・ヘストンが主役で活躍する、文明(西欧)と野蛮(支那)という西欧中華思想に基づいたB級映画である。同じ、チャールトン・ヘストン主演の猿の惑星もよく似かよっている。全米ライフル協会の会長でもあったチャールトン・ヘストンは先月05日に死んだばかりだが、主演作品に共通するのは、脂ぎった毛唐が大活躍で、画面から体臭が漂ってきそうだ。

 ところが、北清事変の真の主役は、映画「北京の55日」の中では、伊丹十三が演じている、コロネル・シバこと、柴五郎中佐である。籠城組の全体的な指揮官はイギリス公使クロード・マクドナルドだが、籠城戦に当たり実質上の総指揮を取ったのは最先任佐官の柴五郎である。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付陸軍武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英・仏・支那語に精通する柴中佐は、間に立って相互理解に大きな役割を果たした。また、柴中佐は参謀本部の命により北京城とその周辺の兵要地誌を調べ上げており、陸軍屈指の支那通の将校であった。清国についての広範な知識を持ち、多くの清国人諜者を使っての情報収集など柴中佐なしには籠城作戦は不可能であった。この活躍は世界各国から賞賛され、事変後は各国政府から勲章を授与された。コロネル・シバの名は世界的に知られることになった。柴五郎は、明治期の政治小説『佳人之奇遇』で有名な東海散士こと柴四郎の弟にあたる。

 激戦となった粛親王府には連日連夜、数百倍の清国軍が猛攻を繰り返すのに対して、日本軍は義勇兵を入れて50数名しか居なかった。(他に清国難民の義勇兵30 名)。柴中佐は、多国籍軍の指揮官として55日間を勇猛に戦い抜き規律正しく行動した。柴中佐の武士道精神に籠城した欧米人がいかに感嘆し絶賛し、中佐に限りない畏敬と信頼の念を抱いた。英国公使館で婦女子が囚われたときも100名の敵兵に10名で斬りこみ救出した。婦女子が尊敬する本物の武士である。

 もし、粛親王府の防御が敗れたなら公使館区域は死命を制され、各国守備隊は全滅。婦女は陵辱を受け、居留民は残らず惨殺されたのは間違いない。柴中佐と日本軍の奮戦がなければ、悲惨な運命が不可避だったからこそ、籠城中の欧米人は事実上の指揮官の柴中佐を賞賛したのである。

ピーターフレミング 「北京籠城」
戦略上の最重要地である王府で日本兵が守備の背骨であり頭脳だった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中どの仕官よりも優秀で経験も豊かであったばかりでなく誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人はほとんど居なかったがこの籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範としてみんなの目に映るようになった。日本人の勇気と信頼性そして明朗さは籠城者一同の賞賛の的になった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも、間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。


ロンドンタイムス社説
籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。


 柴五郎という名に聞き覚えがあるなと思ったら、ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書という自伝を読んだ事があった。少年時代の回想と怨み言ばかりで、赫々たる武勲など一切出てこない。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かれるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。

 俘虜として東京に送られ、会津藩は67万石は下北半島の恐山山麓に斗南藩3万石に移封される。「藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託」したのだが、新領地は実高7千石。柴五郎とその父、兄嫁は極寒の下北半島で極貧の冬を過ごした。
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の歳月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれなり。

 戊辰戦争で敗軍の惨たらしさを知り、官軍の略奪暴行を少年期に味わってきた柴中佐は、略奪暴行を許さなかった。北京落城後、現地の治安維持を担当し、略奪等違法行為をはたらいた連合国兵士は即座に逮捕して、それぞれの軍にどんどん突き出したという。その柴五郎の帰国が決まった時、北京市民はこぞって別れを惜しんだという。
 この事変中、混乱に乗じた略奪や暴行は目に余るものがあり、各国の軍が略奪行為を行ったという。特に酷かったのはロシア軍と清国軍の敗残兵で、混乱に乗じての略奪・残虐行為は手がつけられなかった。イギリスのタイムズ紙の記者は「ロシアは価値ある物は全て包装し、ラベルを貼りつけた。」と報告している。イギリス軍も略奪を行い、その品物を公使館の中でオークションにかけていた。
 紫禁城を略奪から防ぐため日本軍は東華門、神武門、西華門を米軍は南門の守備にあたり、規律厳正な日本軍管轄区域には、保護を求めて各地から大勢の支那人が集まった。略奪行為、残虐行為を行わなかった日本軍管轄区域は安全だという噂が広がり、大勢の北京市民が日本軍管轄区域に逃げ込んできたのだった。日本軍に接収されていれば他国の軍隊に略奪されないという事で、多くの民家やテントには日の丸が掲げられていた。日本軍にしてみれば接収などしていない民家に日の丸が掲げられては日本の信用に関わるという事で、日の丸を妄りに掲げないようにという通達を出したほどだった。
 海軍陸戦隊は太沽砲台奪還の戦闘で奮戦、陸軍部隊も北京公使館救援作戦で勇敢さと軍紀の厳正さを示し、列国のみならず敵側の清国からも賞賛を得た。東洋の一小国日本の強さを世界に認識させる結果となり、柴中佐と共に籠城していたマクドナルドイギリス公使が推薦し、日英同盟を結ぶに至った。柴中佐の率いる日本軍の規律正しく勇敢な姿と中佐の統率力に感銘したからだと言われる。
 北京籠城を余儀なくされた外国人は925名、戦死者は20名。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、連合国の中で最も死者率が高かった。この事変を通じても、最も多くの死傷者を出したのは日本で、死者349名、負傷者933名だった。
 8ケ国連合軍による北京占領後、団匪(義和団)の討伐作戦があったが、実際の軍事活動期間は短かったが、多数国による共議のため、各国の調整に長時間要し、辛丑条約として講和の成立を見たのは、翌明治34(1901)年09月07日であった。

アムール河の虐殺 明治33(1900)年06月01日

 清国兵がロシア領ブラゴエシチェンスクを襲撃した報復に、ロシアは同地の清国人を捕縛し、老若男女5000人あまりを黒竜江(アムール河)で虐殺した。この惨劇は清国人のみならず多くの日本人に義憤を巻き起こし、ロシアの非人道的行為を糾弾する声が高まった。
 義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキンは笑みを浮かべ、「満州を占領する口実ができた。満州を第二のブハラ(1868年に征服した中央アジア)にするつもりだ。」とウィッテ蔵相に語り、ロシアは東清鉄道の防衛を口実にして大軍を送り込み、ついには満州全土を占領した。皇帝ニコライ2世は、満州を占領後は更に朝鮮の占領を欲しており、ロシアの侵略的野心は止むことはなかった。これが、日露戦争に繋がっている。

元歌の殺人犯の克美しげるが歌った日本語版(エイトマンのB面)とThe Brothers Fourの原曲。
55 DAYS AT PEKING

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom-bom

The year was nineteen-hundred
T'is worth remembering
The men who lived through
Fifty-five days at Peking

T'was called the Boxer Insurrection
A bloody oriental war
Against all nations of the diplomatic corps

The flags of France and Britain
How they fluttered in the breeze
The Italian and the Russian
And the flag of the Japanese

Then came the sound of bugles
The rolling drums of fury
And the streets of Peking
Were as empty as a tomb

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom-bom

The Empress of all China
Gave the signal to begin
Let the foreign devils
Be driven from Peking

They stormed the French legation
They attacked with shot and shell
And they came in blood red blouses
Screaming Shashou as they fell

The drums have long been muffled
The bugles cease to ring
But through the ages
You can hear them echoing

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Fifty-five days at Peking

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom, bom-bom-bom
Fifty-five days at Peking

Bom-bom-bom-bom-bom-bom
Bom-bom-bom.....


おフランス(aux France) その1

2008年05月13日 16時29分41秒 | インポート

4月19日、支那、武漢での反仏デモで見られたフランス国旗。同じ文言をプラカードなどでも使用。

Jeanne d'arc= prostitute ジャンヌ・ダルク=売春婦
Napoléon= pervert(綴りが間違い、正しくはpervers)
ナポレオン=性的異常者(変態)
France=Nazi フランス=ナチ
Free Corsica!!! コルシカに自由を(Corsicaはイタリア語、英語。コルシカ語としてなら、コルシガ)、フランス語で書くべきで、La Corse Libre!!!
 フランスに名を残した、ジャンヌ・ダルクとナポレオンを侮辱し、それも全く謂われもなく「お前の母ちゃんデベソ」という児戯にも劣る暴言を連ね、共産ファシズム支那が、フランスをナチ呼ばわりし、前に侮辱したナポレオンはコルシカ島出身なのに、コルシカに自由をと書き、チベットの自由を否定する2重基準。下劣にして愚劣すぎる。


 エアフランスの接客に腹を立て、フランス批判を始めたが、支那五輪の暴虐支那人の逆恨みの反仏デモが始まり、あまりの下劣さに、こんな輩と同類に見られるのは避けたいと、今まで順延してきた。
 ところが、9日、国連人権委員会に、南鮮、北鮮、オランダという悪名高いヤクザの国と並んで、フランスが、旧日本軍による戦時中の従軍慰安婦の問題(ただの売春婦)を提起するに及んで、西欧の中華主義国、フランスに対し、正当な批判を再開する。

 植民地(フランスは海外県と称している。)からの移民の暴動が絶えず、公務員が威張りストが頻発する社会主義国、ハンガリーからの移民2世がフランス第5共和政第6代大統領になれ、戦争に負けながら、他人の褌(米英)で、戦勝国になり、国連分担金が日本の3分の1~4分の1で、安保理常任理事国としてデカイ面をして南太平洋の海外県で現地人を弾圧し核実験を行う、文化も歴史もない国がフランスである。

 TGVに乗ればよくわかる。地平線まで畑の中の一本道を走る。山あり谷あり、トンネルに海岸線、地震対策、季節によっては積雪対策を施している新幹線とは出来が違う。切符を買うとき、英語を使ったら、「un billet」、「テージェヴェ」とフランス語に直してくれた。コンポステを忘れて、車掌に見つかって「パーハドン」とフランス語訛りで言ったら許してくれた。フランス語を喋るかどうかで文化水準を決める、西欧の中華主義国、それがフランス。

 パリというのは、路上の敷石の上に土民が糞尿を捨て、近くの農民が拾いに来るという凄まじい臭気がする都市で、糞を踏まないためハイヒールが、臭いを誤魔化すため香水が発明された。不衛生なため、ペストが蔓延。人口が何と3分の1に大激減。これを教訓にして、下水道が整備された。近代17世紀には、魔女狩り。ギロチンの公開処刑で有名なコンコルド広場には、エジプトから持ってきた(一応、贈られたことになっている)オベリスクが建っている。

<つい最近できたばかりのフランス(その2)>(2008.3.17公開)によれば、
 実は、フランスの風景の多くはエッフェル塔(1889年建立)より新しい。マラリア蚊だらけの沼が干拓されヒースが生い茂る土地や裸の山に木が植えられた。ピレネー山脈のスペイン側の風景こそ、かつてのフランスの風景で、フランスの絵のように美しい地名の多くは観光業者や地図制作者によって偽装されたものだ。

 カゴ(cagot)という、中世の癩病患者、サラセン侵略者の子孫とも言われる「呪われた人種」は、何世紀にもわたって南部フランス全域で迫害されてきた。20世紀になってからでさえ、その迫害は一部の地方で続いた。

 それはフランスが変わったということであって、フランスそのものは昔から存在していたのではないか、と思う者がいるかもしれないが、それはとんだ心得違いだ。ドゴール(Charles de Gaulle)は、246種類ものチーズがあるフランスを統治することの困難さを嘆いたが、これは大昔からのフランスの役人共通の嘆きなのだ。フランスはその歴史の大部分の間、各地方の寄せ木細工でしかなかった。19世紀の中頃までフランス全体を網羅するまともな地図は存在しなかったし、共通語に至っては全く存在しなかった。

 自転車が普及するまでは、フランスの大部分の人々にとって、半径15マイル以内の地域における、小さい納屋に収容できるくらいの数の人、が世界のすべて。ピレネー地方へ旅行した人が1837年に、「金星と土星が異なるように、一つ一つの谷が、隣の世界とは異なる小世界を形作っている。一つ一つの村が、一つの氏族(clan)、独自の形態の郷土愛を持つ一種の国家、の趣がある。それぞれが異なった様相を呈し、異なった意見、偏見、慣習を持っている。」と記している。

 フランス全土が、地図、道路、鉄道、電信によって結びつけられたのは、20世紀になってからだ。フランス人全体が同じ日に同じ出来事が起こったことを知るという経験をしたのは、1914年8月の第1次世界大戦勃発の時が初めて。19世紀にフランスで55の主要方言と数百の準方言が確認された。19世紀には兵士や役人は地方に行くとガイドや通訳が必要だった。1880年の段階で、標準フランス語が使えたのは全人口の約5分の1に過ぎなかった。この標準フランス語なるものは、昔パリのフランス語と呼ばれていた代物。1789年のフランス革命の頃は、全人口の11%にあたる300万人しか、このフランス語が喋れなかった。1863年に至っても、フランス軍の兵士の4分の1は地方語しかできなかった。第1次世界大戦の時、ブルターニュ人(Bretons= Brittany人。ケルト系の言語を用いていた)はフランス語ができなかったため、ドイツ兵と間違われてフランス兵によって射殺された。

 フランスなる国民国家が成立したのは、19世紀末の都市への人口流入、自転車の普及、第1次世界大戦の結果であって、それまでは、フランスという国家はあったが、内実は各地方の寄せ木細工でしかなかった。

 ドイツやイタリアは19世紀末に初めて統一国民国家になったが、この両国に比べてはるかに先行していたという印象のあるフランスは実質的に統一国民国家になったのは19世紀末から20世紀初頭。イギリスや日本にはるかに遅れている。